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皇帝、夜の帳を想う
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皇帝ハロルドは、ほのかな花の香りに包まれ、微睡んでいた。
起きているとも寝ているともつかぬ、穏やかに過ぎる時間をゆったり揺蕩う。
腕の中には小さな身体。
頬に触れる柔らかな髪。
次第に覚醒してくる意識が、この時を惜しんだ。
無意識のうちに、腕に力がこもる。
小さな吐息が、胸元に掛かる。
「お目覚めでしょうか」
ささやかな幸福感は、一瞬にして霧散した。
たとえ信頼する相手であろうと、気配を感じた瞬間に意識は明瞭になる。
「……エルネストか」
「おはようございます、陛下。本日は朝議の前に宰相との会談が予定されております」
目を開けると、広い寝台に彼女はいなかった。
―――夢か。
そう悟った瞬間、胸によぎったのは落胆だ。
義務のように夜伽をこなしても、明け方には一人寝の寝台に戻るのが常だった。
こんな風に、目覚めに誰かの存在を錯覚することはなかった。
エルネストが洗顔の用意をしている間、無意識のうちに己の手を見下ろす。
この手が梳いた髪の滑らかさを、小さな胸のふくらみを……一晩またぎ、また違う妃を抱いた後でも明瞭に思い出すことができる。
彼女は何もかも小さかった。
不安そうに震える肩も、小ぶりな唇も。手も足も胸も腰も、なにもかもが壊してしまいそうに華奢だった。
ほころぶ目元、甘い吐息。
記憶はますます明瞭に、一昨日の夜を思い起こさせる。
「……陛下?」
訝し気なエルネストに声を掛けられるまで、ハロルドは無骨な己の手のひらを見つめ続けていた。
「どうかされましたか? お加減でも?」
「いや」
低い声で否定する。
促されるままに顔を上げ、髭の処理を任せる。
数分後顔を洗い、着替えをして。
「陛下」
再びエルネストに声を掛けられるまで、己が上の空だということに気づいていなかった。
「……陛下のご意志は尊重されるべきだと思います」
「何のことだ?」
「今宵からの予定を調整します」
忠実な男に浮かぶあまり歓迎できない表情を目にして、ハロルドは顔をしかめた。
エルネストはおおむね理知的で常識的な男なのだが、時折こちらが引くような毒を吐く。
「……また増えるのか?」
「これ以上はもういいのではないでしょうか」
「そう言って増やしたがな」
妾妃の数が一人増えたのは、もちろんエルネストの責任ではない。
ねじ込んできたのがハーデス公爵でなければ、断っていただろう。その理由も納得できるものだったから、受け入れも仕方がない事ではあった。
「ですが、よかったでしょう?」
「よかった?」
無垢なあの娘を、もっと幸せな結婚ができたであろう娘を、こんな場所に行かざるを得ない状況に追い込んだ事実は、決して「よかった」とは言えない。
「そんなお顔をしてはあのお方に嫌われてしまいますよ」
無意識のうちに、眉間に皺が寄る。
同時に、小さな指がその場所に触れたことを思い出す。
「あれは……違う」
「そうですね。十も年上ですしね」
「違うと言ったぞ」
「三十人も女性を侍らせていますしね」
「エルネスト!」
「はい、陛下」
生まれたときから傍にいる男は、何もかもを見透かすような目でハロルドを見上げ、微笑んだ。
「少しぐらい我儘を言っても許されると思いますよ」
我儘なら、すでにもう通している。
皇帝としての重要な責務の一つを、拒否していることだ。
「……余計なことはするな」
「はい、陛下」
丈の長いマントを肩の留め具に固定し、エルネストは如才なく膝を折った。
「行ってらっしゃいませ」
優雅な礼を取っている侍従を尻目に、足音も荒く私室を出た。
近衛騎士たちが従うのに苦労しそうなほどの勢いで廊下を進み、しばらく険しい表情で前だけを見ていたが……。
不意に、その歩調が緩んだ。
―――目を閉じて、今日の事でも明日の事でもなく、生涯で一番幸せだったことを思い浮かべて。
優し気な声が、耳元で聞こえた気がした。
「陛下?」
「……」
「どうかなさいましたか? 陛下?」
「いや」
近衛騎士の声に我に返り、素早く首を振る。
このろくでもない生涯で、幸せだったことなど思い浮かびもしない。
人間は醜い生き物だ。そんな人間たちの権力の頂点にいるということは、その汚濁にまみれ穢れ切っているということでもある。
神が本当にご覧になっておられるのなら、こんな汚い男など見捨ててしまわれるだろう。
彼女もそう。
ハロルドのような男の傍になど、居たいとも思うまい。
もう一度頭を振って、前を向いた。
たとえ神に見捨てられようとも、己にはするべき責務がある。
その道のりは険しいが、立ち止まってしまうことも膝を折ってしまう事も許されはしない。
「おはようございます、陛下」
まだ早朝にもかかわらず、職務熱心な文官たちが働き始めている。
「おはようございます、陛下」
その手に握られているのは大量の書類。
彼らがこなす仕事量は、おそらくは眩暈がするほど多い。
「おはようございます、陛下」
繰り返される挨拶の言葉に、ひとつひとつ頷きを返して。
忙しそうにもかかわらず、律義に立ち止まってこちらに頭を下げてくる彼らとともに、今日も一日困難に取り組むのだ。
起きているとも寝ているともつかぬ、穏やかに過ぎる時間をゆったり揺蕩う。
腕の中には小さな身体。
頬に触れる柔らかな髪。
次第に覚醒してくる意識が、この時を惜しんだ。
無意識のうちに、腕に力がこもる。
小さな吐息が、胸元に掛かる。
「お目覚めでしょうか」
ささやかな幸福感は、一瞬にして霧散した。
たとえ信頼する相手であろうと、気配を感じた瞬間に意識は明瞭になる。
「……エルネストか」
「おはようございます、陛下。本日は朝議の前に宰相との会談が予定されております」
目を開けると、広い寝台に彼女はいなかった。
―――夢か。
そう悟った瞬間、胸によぎったのは落胆だ。
義務のように夜伽をこなしても、明け方には一人寝の寝台に戻るのが常だった。
こんな風に、目覚めに誰かの存在を錯覚することはなかった。
エルネストが洗顔の用意をしている間、無意識のうちに己の手を見下ろす。
この手が梳いた髪の滑らかさを、小さな胸のふくらみを……一晩またぎ、また違う妃を抱いた後でも明瞭に思い出すことができる。
彼女は何もかも小さかった。
不安そうに震える肩も、小ぶりな唇も。手も足も胸も腰も、なにもかもが壊してしまいそうに華奢だった。
ほころぶ目元、甘い吐息。
記憶はますます明瞭に、一昨日の夜を思い起こさせる。
「……陛下?」
訝し気なエルネストに声を掛けられるまで、ハロルドは無骨な己の手のひらを見つめ続けていた。
「どうかされましたか? お加減でも?」
「いや」
低い声で否定する。
促されるままに顔を上げ、髭の処理を任せる。
数分後顔を洗い、着替えをして。
「陛下」
再びエルネストに声を掛けられるまで、己が上の空だということに気づいていなかった。
「……陛下のご意志は尊重されるべきだと思います」
「何のことだ?」
「今宵からの予定を調整します」
忠実な男に浮かぶあまり歓迎できない表情を目にして、ハロルドは顔をしかめた。
エルネストはおおむね理知的で常識的な男なのだが、時折こちらが引くような毒を吐く。
「……また増えるのか?」
「これ以上はもういいのではないでしょうか」
「そう言って増やしたがな」
妾妃の数が一人増えたのは、もちろんエルネストの責任ではない。
ねじ込んできたのがハーデス公爵でなければ、断っていただろう。その理由も納得できるものだったから、受け入れも仕方がない事ではあった。
「ですが、よかったでしょう?」
「よかった?」
無垢なあの娘を、もっと幸せな結婚ができたであろう娘を、こんな場所に行かざるを得ない状況に追い込んだ事実は、決して「よかった」とは言えない。
「そんなお顔をしてはあのお方に嫌われてしまいますよ」
無意識のうちに、眉間に皺が寄る。
同時に、小さな指がその場所に触れたことを思い出す。
「あれは……違う」
「そうですね。十も年上ですしね」
「違うと言ったぞ」
「三十人も女性を侍らせていますしね」
「エルネスト!」
「はい、陛下」
生まれたときから傍にいる男は、何もかもを見透かすような目でハロルドを見上げ、微笑んだ。
「少しぐらい我儘を言っても許されると思いますよ」
我儘なら、すでにもう通している。
皇帝としての重要な責務の一つを、拒否していることだ。
「……余計なことはするな」
「はい、陛下」
丈の長いマントを肩の留め具に固定し、エルネストは如才なく膝を折った。
「行ってらっしゃいませ」
優雅な礼を取っている侍従を尻目に、足音も荒く私室を出た。
近衛騎士たちが従うのに苦労しそうなほどの勢いで廊下を進み、しばらく険しい表情で前だけを見ていたが……。
不意に、その歩調が緩んだ。
―――目を閉じて、今日の事でも明日の事でもなく、生涯で一番幸せだったことを思い浮かべて。
優し気な声が、耳元で聞こえた気がした。
「陛下?」
「……」
「どうかなさいましたか? 陛下?」
「いや」
近衛騎士の声に我に返り、素早く首を振る。
このろくでもない生涯で、幸せだったことなど思い浮かびもしない。
人間は醜い生き物だ。そんな人間たちの権力の頂点にいるということは、その汚濁にまみれ穢れ切っているということでもある。
神が本当にご覧になっておられるのなら、こんな汚い男など見捨ててしまわれるだろう。
彼女もそう。
ハロルドのような男の傍になど、居たいとも思うまい。
もう一度頭を振って、前を向いた。
たとえ神に見捨てられようとも、己にはするべき責務がある。
その道のりは険しいが、立ち止まってしまうことも膝を折ってしまう事も許されはしない。
「おはようございます、陛下」
まだ早朝にもかかわらず、職務熱心な文官たちが働き始めている。
「おはようございます、陛下」
その手に握られているのは大量の書類。
彼らがこなす仕事量は、おそらくは眩暈がするほど多い。
「おはようございます、陛下」
繰り返される挨拶の言葉に、ひとつひとつ頷きを返して。
忙しそうにもかかわらず、律義に立ち止まってこちらに頭を下げてくる彼らとともに、今日も一日困難に取り組むのだ。
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