月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
21 / 207
修道女、手厳しい洗礼を受ける

7

しおりを挟む
 部屋に戻ろうとしたとき、廊下の先の方から小走りに掛けてくる近衛騎士の姿に気づいた。
 何事かと見守っていたら、見知らぬ彼女はメイラの目の前で膝を折った。
 ユリがすかさず守るように立ちふさがる中、ほっそりとしたその騎士は荒い息を吐きながら肩を上下させている。
「妾妃メルシェイラさま。至急お部屋の方へお戻りを!!」
 柱の向こう側から、くすくすと笑う声が聞こえた。
 ちらりとそちらを見ると、同じ妾妃だろう女性たちが数人、扇子で口元を隠しながら笑っている。
「……テラスでこちらを見ていた方々です」
 あの子猫の一件か。
 小さく聞こえたユリの言葉に、メイラはひとつ頷く。
 おそらくは子猫と、例の黒いヤツ。あの質が悪い悪戯の数々は彼女たちの嫌がらせだろう。
 かまっていては切りがないと分かっているから、特にリアクションはとらない。
 子供のころ、街の子供たちによく虐められた。
 同年代の甥姪たちからも、しょっちゅう嫌な思いをさせられた。
 しかし所詮は子供のすること。思い返せばたわいのない悪戯の範疇を出ない。
 彼女たちのしていることは、それと似たようなものだ。
 メイラはパシリ、と扇子を閉じた。
 少し怯んだ相手をまっすぐに見て、にっこりと笑う。
「ごきげんよう」
 ポイントは、笑うことだ。朗らかに。
 メイラはユリを促して歩き始めた。
 少し戸惑った様子の近衛騎士が、その後ろからついてくる。
 部屋に戻る前から、尋常ではない出来事が起こったのだとわかった。
 すれ違う妾妃たちは皆、顔を隠して笑っている。時折はメイドや侍女までも。
 彼女たちは遠巻きにメイラの部屋の方を見ており、近づくにつれてその数が増えていく。
「メ、メルシェイラさま!!」
 シェリーメイの悲鳴に近い声が聞こえた。
「こちらへ来られてはなりません!!」
 一瞬足が止まる。
 ユリが先に行こうとしたがそれを制して。
 メイラはことさら優雅に見えるよう、ゆっくりと足を踏み出した。
 部屋は、無残なことになっていた。
 カーテンは切り裂かれ、ドレスは破かれ。
 絨毯や長椅子には生ごみ。ベッドには動物のものか人間のものか、糞尿が巻き散らかされている。
「……まあ」
 あまりにひどいので、かえって笑えてきた。
 ここまで部屋を荒らすのに、犯人が費やした労力は相当なものだ。
 生ごみはともかく、糞尿はどうやって運んできたのか。この量だと一人二人では無理だろうし、相当に臭ったはずだ。
「何事ですか!!」
 立ち尽くしていたメイラの後から、女官長がやってきた。
 彼女は呆然と部屋の様子を見回し、突っ立っているメイラを見下ろす。
「妾妃メルシェイラさま、これは一体」
「困りました」
 少し声に含み笑いが混じってしまったせいか、女官長の目つきが鋭くなる。
「メルシェイラさま」
 フランが三人のメイドを引き連れ近づいてきた。
 そのうちの一人、リコリスの腕に抱きしめられているものに、「あっ」と声が上がる。
 陛下の夜着を入れた螺鈿細工の箱だ。
 おずおずと差し出されたものを受け取って、感謝を込めて微笑みかけると、リコリスの大きな目がウルウルと潤む。
「何が起こったのかお話ししなさい」
 険しいフランの声に、彼女は大きく数回頷いた。
 リコリスの話は案の定、あまり要領がいいとは言えない。
 女官長が苛立ってきたのが分かったが、誰も途中で口をはさむことはなかった。
 要約するとこうだ。
 リコリスたちはメイラの不在中に部屋の掃除をしていた。
 食事の件でフランとシェリーメイが大膳所に出かけてしばらくした時、顔を隠した三人の女官が部屋に来て、マリアとレニーナを水回り部屋に押し込んだ。
 リコリスはちょうど、窓ふきをしていたのでテラスにいた。
 驚いて声も出せないで見守っているうちに、その覆面の女官たちは部屋を荒らしていく。
 隣の窓のカーテンを裂こうとしているのを見て、慌てて場所を移したのがメイラの寝室の外。
 テラスと行き来はできないが、換気の為に窓は開けていた。
 広間を散々散らかしている音を聞きながら怯えていた彼女だが、ベッド脇に置かれている螺鈿細工の箱に気づいて息を飲んだ。
 それが陛下からの拝領品と知っていたリコリスは、とっさに窓から侵入して箱を抱え、また脱出したのだ。
 窓は防犯上の都合で小さめの造りになっている。彼女ぐらい小柄でなければ出入りできなかっただろう。
 あまりにも小さな窓なので、箱を出すのに手間取って。
 その時に立てた音に気づかれ、女官が追いかけてきた。
 リコリスは箱を抱えたまま必死で庭園を走り、丁度お使いから戻ってきたポメラと合流。
 すぐにフランたちに報告が行ったという。
「……まあ」
 メイラはいまだ息も整わぬリコリスの腕に手を伸ばし、宥めるようにそっと撫でた。
「守ってくれたのね? ありがとう。怪我がまだ痛むでしょうに」
「……っ、いえっ」
「失礼いたしますメルシェイラさま」
 苛立たし気な声を上げたのはイザベラ女官長だ。
「私の配下の者にそのような不心得者はおりません! そのメイドの言うことは信用できるのですか?! まさかメルシェイラさま、陛下のお気を引くために」
「女官長」
 苛立ちつつも最後までリコリスの話を聞いてくれたことは評価する。
 しかしそもそも彼女はこちらの味方ではなく、リコリスはもとよりメイラに対しても懐疑的だった。
「貴方は部下の方々をそこまで信じておられるのですね。素晴らしい事です」
 己の部下が悪者にされるのを避けたいのは理解できる。
 女官はメイドや侍女とは違い、国家に直接雇用された官僚の一種である。知識人が多いと聞くし、男性並みな修練を積んでその職務についているのだから、相応のプライドもあるのだろう。
「ですが、わたくしのメイドが嘘をついているという根拠は?」
 だが、ただそれだけの理由で善人ばかりだとは言い切れない。
「貴方がご自身の部下を信じておられるように、わたくしもリコリスの言葉を信じます」
 必死で大切なものを守ってくれたリコリスを信じずして、誰を信じろというのか。
 きっぱりと言い切ったメイラの傍らで、ユリが立ち込める異臭に鼻頭に皺を寄せながら口を開いた。
「おそれながら女官長さま。第三者に公正な立場で調べて頂ければわかるでしょう。生ごみや糞尿をもって後宮内を歩いていたのでしょうから、相当目立っていたと思います」
 同意するように、フランも頷く。
「そうですね、あの分厚いカーテンを裂くには、果物ナイフやハサミでは難しいです。賊は剣か小刀か……鋭利な刃物を持ち込んだと思われます」
「まあ、大変」
 後宮内で刃物を持てるのは、近衛騎士だけという決まりがある。
 もし本当にそうなのであれば、女官長の責任問題以上に事は重大だ。
 己の配下を問いただし、カーテンを裂いた刃物を探し出すのは、彼女の進退を掛けた仕事になるだろう。
 顔色を青くさせたイザベラ女官長を見て、ほんの少しだけ気の毒に思う。
「とりあえずは……お掃除しましょう」
 メイラは足元に落ちているかんきつの皮を見下ろして、頷いた。
 そうだ、何はともあれこの惨状をなんとかしなければ。
 今夜の寝る場所はもとより、着替えすら無事かどうか怪しい。下手をすれば帰したばかりのサスランと商人たちを呼び戻す必要があるかもしれない。
 メイラのその言葉を聞いて、ユリだけではなくフランも、シェリーメイも、リコリスはもちろんイザベラでさえ、とんでもないとばかりの顔をした。
「メルシェイラさまはしばらく別の部屋に」
「いいのよ。少しぐらい手伝わせて」
「いけません、これは我々の仕事です」
「でもね、あなたたちがお掃除をしている間、一人で待つのは嫌よ」
「これは何事でしょうか」
 生ごみまみれの長椅子を見下ろして首を振っていたメイラは、聞き覚えのあるその声にはっと息を飲んだ。
「お取り込み中もうしわけございません、妾妃メルシェイラさま」
 後宮内で男性の声が聞かれることはほとんどないが、そうでなくとも、彼の涼し気な声色は女性たちの耳を引いただろう、
 部屋の入り口に立つのは、萌黄色の侍従服を着た中年の男性。白髪交じりのナイスミドルで、立ち姿が手本になりそうなほど美しい。
 一礼した彼は、無残な有様の部屋を見て眉を寄せた。
「エルネスト侍従長!」
「イザベラ女官長、いつまでこのようなところに妾妃さまを立たせておくおつもりでしょう」
「……っ」
「妾妃メルシェイラさま、良ければゲストルームの方へご案内します。ここはでは少々……」
 手にしていた黒い螺鈿細工の箱をユリに渡し、メイラは可能な限り優雅に見えるように膝を折った。
 この侍従長を前にすると、マナーの授業を思い出して背筋が伸びる。
「ごきげんよう、エルネストさま」
 何故ここにこの方がいるのか、考えるとものすごく嫌な予感しか抱けない。
 しかし聞かないわけにもいかず、拝聴する姿勢を取って目線を下げる。
 侍従長はしばらく黙り、やがて姿勢を改めた。
「妾妃メルシェイラさま」
 酷い惨状をあらわにした部屋。鼻が曲がりそうな臭い。
 足元には生ごみが転がっているし、破れたお仕着せを着たメイド、顔にあざを作った侍女、顔色がものすごいことになっている女官長、とにかく混沌たる有様だ。
「今夜十時。陛下が貴女様をお召しになられました」
 そんな中部屋に響いた侍従の美声に、女たちは皆、沈黙を選んだ。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

獣人の彼はつがいの彼女を逃がさない

たま
恋愛
気が付いたら異世界、深魔の森でした。 何にも思い出せないパニック中、恐ろしい生き物に襲われていた所を、年齢不詳な美人薬師の師匠に助けられた。そんな優しい師匠の側でのんびりこ生きて、いつか、い つ か、この世界を見て回れたらと思っていたのに。運命のつがいだと言う狼獣人に、強制的に広い世界に連れ出されちゃう話

キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。

新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、

【完結】夫の心がわからない

キムラましゅろう
恋愛
マリー・ルゥにはわからない。 夫の心がわからない。 初夜で意識を失い、当日の記憶も失っている自分を、体調がまだ万全ではないからと別邸に押しとどめる夫の心がわからない。 本邸には昔から側に置く女性と住んでいるらしいのに、マリー・ルゥに愛を告げる夫の心がサッパリわからない。 というかまず、昼夜逆転してしまっている自分の自堕落な(翻訳業のせいだけど)生活リズムを改善したいマリー・ルゥ18歳の春。 ※性描写はありませんが、ヒロインが職業柄とポンコツさ故にエチィワードを口にします。 下品が苦手な方はそっ閉じを推奨いたします。 いつもながらのご都合主義、誤字脱字パラダイスでございます。 (許してチョンマゲ←) 小説家になろうさんにも時差投稿します。

【完結】白い結婚成立まであと1カ月……なのに、急に家に帰ってきた旦那様の溺愛が止まりません!?

氷雨そら
恋愛
3年間放置された妻、カティリアは白い結婚を宣言し、この結婚を無効にしようと決意していた。 しかし白い結婚が認められる3年を目前にして戦地から帰ってきた夫は彼女を溺愛しはじめて……。 夫は妻が大好き。勘違いすれ違いからの溺愛物語。 小説家なろうにも投稿中

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

処理中です...