月誓歌

有須

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修道女、手厳しい洗礼を受ける

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 この一件をどう扱うべきか迷ったが、相手が相手だということもあり、今回だけは黙っていることにした。
 もちろん腹は立っていたし、何か言ってやりたい気持ちはある。
 しかし、ここで声高に物申しても何も得るものはない。それどころか、更なる不興を買って面倒なことになりかねない。
 フランの頬の傷や、リコリスの短くなった髪を思い出すたび唇をかみしめる。
 あのあと結局彼女の髪を回収することはできなかった。可哀想に、長さを整えると首筋が見えるほどに短くなってしまった。
 たった一人の主人をめぐる、女たちの争いだ。苛烈を極め、下手をすると生き死ににもかかわる。上手にかわしていかなければ、メイラのために働いてくれている者たちを守れない。
 足元をすくわれないように、うまく立ち回っていかなければ……。
「そろそろ夜も更けてまいりました。お休みになられては?」
 パチリと刺繍糸を切ったメイラに向かって、ユリが声を掛ける。
 徹夜をしてでも早く仕上げようと思っていたが、主人がそうすれば侍女やメイドたちも当然徹夜なのだということに初めて気づいた。
 やはりこういう立場は難しいものだ。
 己ひとりではなく、多数の人間のことを常に念頭において動かなければならないのだから。
「そうね、そうしましょうか」
 メイラは針山に刺繍針を戻した。
 ユリが手早くそれを回収し、残った糸を丁寧に巻いていく。
「湯あみをなさいますか?」
「いいえ」
「何かお食べになりますか?」
「大丈夫よ」
 メイラは真っ白な布地を広げてみた。
 まずは裾に古典模様の蔦。その上に小さな木の葉と小動物。前身ごろの合わせで隠れる部分に安寧を願う神聖文様を、見える前面に皇室の紋章を。
 全体的に品よく小さめに、裾の方だけに刺繍を施している。まだ半分どころか四分の一もできていないが、良いものに仕上がる予感がする。
 メイラはそっと、張りのある白い布地を撫でた。先ほど縫い終えた小鹿に触れ、顔に近づけて出来栄えを確認する。
 糸の縒れや縫い目の飛びがないかなど、満足いくまで確認作業をすませてから、ようやく夜着から手を離した。
 シェリーメイがそれを恭しく両手で受け取り、丁寧に畳む。
 例の螺鈿細工の箱にしまわれるのを最後までじっと見守って、メイラはようやく肩から力を抜いた。
「……甘くないミルクティを少しだけもらえる?」
「はい、メルシェイラさま」
「着替えます」
「はい」
 ユリが手際よく夜着に着替えさせてくれる。
 陛下の閨に侍った時とは違い、色気も何もないシンプルなクリーム色のワンピースだ。
 ゆったりとしたデザインだが、首も手首もしっかりと隠され、裾丈も長い。その上にショールを掛けてもらい、窓際のカウチに移動した。
 メイドが持ってきたティーセットで、シェリーメイが紅茶を入れ始める。
 やがて漂ってきたいい香りに、ゆったりと目を細めた。
 考えなければならない事はたくさんあった。
 たとえばフランやリコリスの一件。子猫の一件。陛下とのこと。もちろん父親からの指示も忘れてはいけない。
 とりあえず、明日からはまた挨拶回りだ。
 第一皇妃には会えたが、肝心な第二皇妃には会えていない。もちろん、第三皇妃にも挨拶に伺わなければならないだろう。そのあとは側妃たち、もちろん妾妃たちにも。
 数が多すぎて一日で回り切れそうにもないが、この順番をたがえるわけにはいかない。
 たとえば皇妃への正式な挨拶をする前に、側妃のところへ行ってしまうと、後々面倒なことになりかねないのだ。
 こういう所だからこそ、挨拶は基本である。そして序列と面子には、可能な限り気を使わなければならない。
 そっと差し出されたティーカップを受け取り、「ありがとう」と礼を言う。
 きちんとお礼を言うと彼女たちは嬉しそうな顔をするから、それを見てメイラもまた微笑みを返す。
 外を見ると、もうすっかり夜更けだった。
 ここから見える東の庭園は、暗い夜の帳に包まれていた。月明かりが煌々と照り、木々の輪郭をより黒々とした闇色に染めている。
 びゅうと風の音がした。
 木の葉がざわざわと音を立て、庭園の植栽も揺れる。
「風が強いわね」
「はい、メルシェイラさま。明け方には雨になるようです」
「そう……」
 もうじき冬が来る。庭園の花たちも見ごろはあとわずかだろう。
 この国の冬はとても厳しい。飢えと寒さで死んでしまうものも少なくはない。
 乾燥した空気は身を切るように冷たく、特に老人や子供の命が容赦なく刈られていく。
 孤児院の子供たちは、きちんと冬支度を済ませただろうか。
 院長のバーラがいるから大丈夫かと思うが、メイラが最後に確認したときには薪の量が足りなかった。
 今年も一人もかけることなく冬を越してほしい。
 無意識のうちに、胸元に手をやっていた。
 十八年間、常にそこにあったロザリオは、修道院を出てくるときに置いてきた。神へつながる印がないことが、急に心細く寂しく感じる。
 月が照っている。
 美しい丸い月だった。
 メイラはカップを皿に置き、窓に手を伸ばした。
 もちろん月には手が届かず、ひんやりとしたガラスに指先が触れる。
―――神よ。どうか哀れな人々をお守りください。
 久々に祈りの言葉がこみあげてくる。 
―――そして、ついででいいので金運もください。
 子供たちが飢えないように。
 寒さに凍えることのないように。
 メイラは目を閉じた。
 陛下の夜着は売ればいくらになるのだろうと、そんなことを考えながら。
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