18 / 207
修道女、手厳しい洗礼を受ける
4
しおりを挟む
この一件をどう扱うべきか迷ったが、相手が相手だということもあり、今回だけは黙っていることにした。
もちろん腹は立っていたし、何か言ってやりたい気持ちはある。
しかし、ここで声高に物申しても何も得るものはない。それどころか、更なる不興を買って面倒なことになりかねない。
フランの頬の傷や、リコリスの短くなった髪を思い出すたび唇をかみしめる。
あのあと結局彼女の髪を回収することはできなかった。可哀想に、長さを整えると首筋が見えるほどに短くなってしまった。
たった一人の主人をめぐる、女たちの争いだ。苛烈を極め、下手をすると生き死ににもかかわる。上手にかわしていかなければ、メイラのために働いてくれている者たちを守れない。
足元をすくわれないように、うまく立ち回っていかなければ……。
「そろそろ夜も更けてまいりました。お休みになられては?」
パチリと刺繍糸を切ったメイラに向かって、ユリが声を掛ける。
徹夜をしてでも早く仕上げようと思っていたが、主人がそうすれば侍女やメイドたちも当然徹夜なのだということに初めて気づいた。
やはりこういう立場は難しいものだ。
己ひとりではなく、多数の人間のことを常に念頭において動かなければならないのだから。
「そうね、そうしましょうか」
メイラは針山に刺繍針を戻した。
ユリが手早くそれを回収し、残った糸を丁寧に巻いていく。
「湯あみをなさいますか?」
「いいえ」
「何かお食べになりますか?」
「大丈夫よ」
メイラは真っ白な布地を広げてみた。
まずは裾に古典模様の蔦。その上に小さな木の葉と小動物。前身ごろの合わせで隠れる部分に安寧を願う神聖文様を、見える前面に皇室の紋章を。
全体的に品よく小さめに、裾の方だけに刺繍を施している。まだ半分どころか四分の一もできていないが、良いものに仕上がる予感がする。
メイラはそっと、張りのある白い布地を撫でた。先ほど縫い終えた小鹿に触れ、顔に近づけて出来栄えを確認する。
糸の縒れや縫い目の飛びがないかなど、満足いくまで確認作業をすませてから、ようやく夜着から手を離した。
シェリーメイがそれを恭しく両手で受け取り、丁寧に畳む。
例の螺鈿細工の箱にしまわれるのを最後までじっと見守って、メイラはようやく肩から力を抜いた。
「……甘くないミルクティを少しだけもらえる?」
「はい、メルシェイラさま」
「着替えます」
「はい」
ユリが手際よく夜着に着替えさせてくれる。
陛下の閨に侍った時とは違い、色気も何もないシンプルなクリーム色のワンピースだ。
ゆったりとしたデザインだが、首も手首もしっかりと隠され、裾丈も長い。その上にショールを掛けてもらい、窓際のカウチに移動した。
メイドが持ってきたティーセットで、シェリーメイが紅茶を入れ始める。
やがて漂ってきたいい香りに、ゆったりと目を細めた。
考えなければならない事はたくさんあった。
たとえばフランやリコリスの一件。子猫の一件。陛下とのこと。もちろん父親からの指示も忘れてはいけない。
とりあえず、明日からはまた挨拶回りだ。
第一皇妃には会えたが、肝心な第二皇妃には会えていない。もちろん、第三皇妃にも挨拶に伺わなければならないだろう。そのあとは側妃たち、もちろん妾妃たちにも。
数が多すぎて一日で回り切れそうにもないが、この順番をたがえるわけにはいかない。
たとえば皇妃への正式な挨拶をする前に、側妃のところへ行ってしまうと、後々面倒なことになりかねないのだ。
こういう所だからこそ、挨拶は基本である。そして序列と面子には、可能な限り気を使わなければならない。
そっと差し出されたティーカップを受け取り、「ありがとう」と礼を言う。
きちんとお礼を言うと彼女たちは嬉しそうな顔をするから、それを見てメイラもまた微笑みを返す。
外を見ると、もうすっかり夜更けだった。
ここから見える東の庭園は、暗い夜の帳に包まれていた。月明かりが煌々と照り、木々の輪郭をより黒々とした闇色に染めている。
びゅうと風の音がした。
木の葉がざわざわと音を立て、庭園の植栽も揺れる。
「風が強いわね」
「はい、メルシェイラさま。明け方には雨になるようです」
「そう……」
もうじき冬が来る。庭園の花たちも見ごろはあとわずかだろう。
この国の冬はとても厳しい。飢えと寒さで死んでしまうものも少なくはない。
乾燥した空気は身を切るように冷たく、特に老人や子供の命が容赦なく刈られていく。
孤児院の子供たちは、きちんと冬支度を済ませただろうか。
院長のバーラがいるから大丈夫かと思うが、メイラが最後に確認したときには薪の量が足りなかった。
今年も一人もかけることなく冬を越してほしい。
無意識のうちに、胸元に手をやっていた。
十八年間、常にそこにあったロザリオは、修道院を出てくるときに置いてきた。神へつながる印がないことが、急に心細く寂しく感じる。
月が照っている。
美しい丸い月だった。
メイラはカップを皿に置き、窓に手を伸ばした。
もちろん月には手が届かず、ひんやりとしたガラスに指先が触れる。
―――神よ。どうか哀れな人々をお守りください。
久々に祈りの言葉がこみあげてくる。
―――そして、ついででいいので金運もください。
子供たちが飢えないように。
寒さに凍えることのないように。
メイラは目を閉じた。
陛下の夜着は売ればいくらになるのだろうと、そんなことを考えながら。
もちろん腹は立っていたし、何か言ってやりたい気持ちはある。
しかし、ここで声高に物申しても何も得るものはない。それどころか、更なる不興を買って面倒なことになりかねない。
フランの頬の傷や、リコリスの短くなった髪を思い出すたび唇をかみしめる。
あのあと結局彼女の髪を回収することはできなかった。可哀想に、長さを整えると首筋が見えるほどに短くなってしまった。
たった一人の主人をめぐる、女たちの争いだ。苛烈を極め、下手をすると生き死ににもかかわる。上手にかわしていかなければ、メイラのために働いてくれている者たちを守れない。
足元をすくわれないように、うまく立ち回っていかなければ……。
「そろそろ夜も更けてまいりました。お休みになられては?」
パチリと刺繍糸を切ったメイラに向かって、ユリが声を掛ける。
徹夜をしてでも早く仕上げようと思っていたが、主人がそうすれば侍女やメイドたちも当然徹夜なのだということに初めて気づいた。
やはりこういう立場は難しいものだ。
己ひとりではなく、多数の人間のことを常に念頭において動かなければならないのだから。
「そうね、そうしましょうか」
メイラは針山に刺繍針を戻した。
ユリが手早くそれを回収し、残った糸を丁寧に巻いていく。
「湯あみをなさいますか?」
「いいえ」
「何かお食べになりますか?」
「大丈夫よ」
メイラは真っ白な布地を広げてみた。
まずは裾に古典模様の蔦。その上に小さな木の葉と小動物。前身ごろの合わせで隠れる部分に安寧を願う神聖文様を、見える前面に皇室の紋章を。
全体的に品よく小さめに、裾の方だけに刺繍を施している。まだ半分どころか四分の一もできていないが、良いものに仕上がる予感がする。
メイラはそっと、張りのある白い布地を撫でた。先ほど縫い終えた小鹿に触れ、顔に近づけて出来栄えを確認する。
糸の縒れや縫い目の飛びがないかなど、満足いくまで確認作業をすませてから、ようやく夜着から手を離した。
シェリーメイがそれを恭しく両手で受け取り、丁寧に畳む。
例の螺鈿細工の箱にしまわれるのを最後までじっと見守って、メイラはようやく肩から力を抜いた。
「……甘くないミルクティを少しだけもらえる?」
「はい、メルシェイラさま」
「着替えます」
「はい」
ユリが手際よく夜着に着替えさせてくれる。
陛下の閨に侍った時とは違い、色気も何もないシンプルなクリーム色のワンピースだ。
ゆったりとしたデザインだが、首も手首もしっかりと隠され、裾丈も長い。その上にショールを掛けてもらい、窓際のカウチに移動した。
メイドが持ってきたティーセットで、シェリーメイが紅茶を入れ始める。
やがて漂ってきたいい香りに、ゆったりと目を細めた。
考えなければならない事はたくさんあった。
たとえばフランやリコリスの一件。子猫の一件。陛下とのこと。もちろん父親からの指示も忘れてはいけない。
とりあえず、明日からはまた挨拶回りだ。
第一皇妃には会えたが、肝心な第二皇妃には会えていない。もちろん、第三皇妃にも挨拶に伺わなければならないだろう。そのあとは側妃たち、もちろん妾妃たちにも。
数が多すぎて一日で回り切れそうにもないが、この順番をたがえるわけにはいかない。
たとえば皇妃への正式な挨拶をする前に、側妃のところへ行ってしまうと、後々面倒なことになりかねないのだ。
こういう所だからこそ、挨拶は基本である。そして序列と面子には、可能な限り気を使わなければならない。
そっと差し出されたティーカップを受け取り、「ありがとう」と礼を言う。
きちんとお礼を言うと彼女たちは嬉しそうな顔をするから、それを見てメイラもまた微笑みを返す。
外を見ると、もうすっかり夜更けだった。
ここから見える東の庭園は、暗い夜の帳に包まれていた。月明かりが煌々と照り、木々の輪郭をより黒々とした闇色に染めている。
びゅうと風の音がした。
木の葉がざわざわと音を立て、庭園の植栽も揺れる。
「風が強いわね」
「はい、メルシェイラさま。明け方には雨になるようです」
「そう……」
もうじき冬が来る。庭園の花たちも見ごろはあとわずかだろう。
この国の冬はとても厳しい。飢えと寒さで死んでしまうものも少なくはない。
乾燥した空気は身を切るように冷たく、特に老人や子供の命が容赦なく刈られていく。
孤児院の子供たちは、きちんと冬支度を済ませただろうか。
院長のバーラがいるから大丈夫かと思うが、メイラが最後に確認したときには薪の量が足りなかった。
今年も一人もかけることなく冬を越してほしい。
無意識のうちに、胸元に手をやっていた。
十八年間、常にそこにあったロザリオは、修道院を出てくるときに置いてきた。神へつながる印がないことが、急に心細く寂しく感じる。
月が照っている。
美しい丸い月だった。
メイラはカップを皿に置き、窓に手を伸ばした。
もちろん月には手が届かず、ひんやりとしたガラスに指先が触れる。
―――神よ。どうか哀れな人々をお守りください。
久々に祈りの言葉がこみあげてくる。
―――そして、ついででいいので金運もください。
子供たちが飢えないように。
寒さに凍えることのないように。
メイラは目を閉じた。
陛下の夜着は売ればいくらになるのだろうと、そんなことを考えながら。
10
お気に入りに追加
655
あなたにおすすめの小説

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

「君を愛するつもりはない」と言ったら、泣いて喜ばれた
菱田もな
恋愛
完璧令嬢と名高い公爵家の一人娘シャーロットとの婚約が決まった第二皇子オズワルド。しかし、これは政略結婚で、婚約にもシャーロット自身にも全く興味がない。初めての顔合わせの場で「悪いが、君を愛するつもりはない」とはっきり告げたオズワルドに、シャーロットはなぜか歓喜の涙を浮かべて…?
※他サイトでも掲載中しております。


義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました
さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。
私との約束なんかなかったかのように…
それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。
そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね…
分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

思い出してしまったのです
月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。
妹のルルだけが特別なのはどうして?
婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの?
でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。
愛されないのは当然です。
だって私は…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる