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修道女、どの世界も世知辛いと知る
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その御方が来られた時、長時間待たされたメイラは長椅子にもたれ掛かったまま目を閉じていた。
扉が開く音には気付かなかった。
天井から吊るされた薄手の布が揺れて、房飾りがシャリンと硬質な音をたてる。
はっと閉じていた瞼を開いて、上半身を起こした。
顔を向けた先に居る人物がどういう方かなど、言われるまでもなくすぐにわかった。
目にも鮮やかな朱金色の髪。薄暗い室内の明かりに照らされて、そこだけ燃え上がるようにきらめいている。
目が合ったのは一瞬。
メイラは即座に立ち上がり、その場で両膝をついて頭を垂れた。
「メルシェイラ・ハーデスか」
「……はい、陛下」
伸びてきた手に顎を掴まれ、顔を上げる。
一秒より少し長い間視線が重なりあい、メイラはそっと目を伏せる。
エゼルバード帝国はこの大陸で最も広大な国土を有する国である。
大陸の大半は砂漠と山岳で占められていて農耕地は少ない。その数少ない水場を支配する一族が、古くからこの地を治めてきた。
あまたの血塗られた歴史の末に大陸の三分の二を支配下におさめ、今では精強な軍を率いて豊かな帝国を築き上げている。
皇帝ハロルドは、若くして帝位を継承した。
先代の皇帝は兄で、病弱だったと聞いている。ほかにも姉弟が何人かいるはずだが、メイラはあまり詳しくは知らない。
人間は富と権力がそばにあれば、おどろおどろしい寸劇を繰り広げるものだ。外聞をはばかる出来事がいろいろあったと聞くが、どれも噂の域を出ない。
ただハロルド帝が王冠を頂いてから、国はより豊かになり、軍は力をつけた。周辺諸国との度重なる武力衝突にはもはや小動もせず、民からの信望も厚い。
間違いなく、ここ数百年で最も国は安定していた。
その最高権力者。
在位はすでに十年を超え、年齢はもうすぐ三十に手が届くという。
「ハーデス公の養女か」
「はい、陛下」
目はそらしたままだ。礼儀だということもあるが、陛下の美しい青緑色の目は直視するにはあまりにも鋭い。
「薬草茶は飲まなかったのか?」
「……」
「飲んでいた方が楽だと思うが」
不意に、陛下の身体から漂ってくる匂いに気づいた。
濡れた水と、甘い香水の匂い。
―――ああ、先にどなたかと済ませてこられたのか。
メイラは目を閉じた。
己に触れているこの手が、少し前まで他の妃を抱いていたのだ。
おかしなことに、感じるのは嫌悪感でも恐怖でも、もちろん悋気でもなかった。
気配が近づいてきて、唇に柔らかいものが触れる。
軽く数度啄まれ、少し離れる。
「陛下」
「……なんだ」
メイラを長椅子に押し倒してくる身体は大きい。
「お勤めご苦労様です」
合わせから忍び込んきたごつごつとした手が、ささやかなふくらみを包んだところで止まった。
「……わたくしのようなものに、お手を煩わせて申し訳ございません」
瞼を開ける。
至近距離にある双眸は、薄暗い室内でも鮮やかに碧い。
「気が進まないのでしたら、かまいませんわ」
本音を言えば、気の毒になったのだ。
陛下の顔色は悪い。疲れているのか折角の美貌に隈ができている。
美しい妃たちを思うがままにできるというのは、世の男性たちにとって羨望の的なのかもしれない。
しかし実際は、メイラのように美しくも可愛らしくもない女を抱かなければならないのだ。
国内の貴族間のバランスや他国との兼ね合い、まあそれがいわゆる政略結婚なわけだが、言い換えれば好きでもない女の相手をし、毎晩毎晩励まなければならない。
きっと閨に招く順番も回数も決まっているのだろう。
おそらくは、子供を産ませる順でさえ。
「今夜はもうお休みになられては?」
ここ十年で国は安定した。
おそらくミッシェル皇妃が懐妊したのは、陛下が世継ぎを作ろうと思われたからだ。
ならばその種は孕ませる相手に集中させるべきで、イレギュラーにねじ込まれた妾妃など放っておけばよい。
絵姿で見た陛下は、近寄りがたいほどの美貌の主だった。
絵師が手心を加えているのだろうと思っていたが、実際は美貌もさることながら、その恵まれた体躯や眼差しの険しさのほうが際立つ。
生きて動いている閣下は、単に美しいだけの人形ではなく、その人生に疲れ切った表情をしたひとりの男だった。
そっと、湿り気を帯びた長い髪に触れる。
指先で、濃い隈の浮いた目元をたどる。
「……そなたは」
「さあ、ベッドへ参りましょう」
メイラは、寸前まで己がそんな台詞を言うとは思ってもいなかった。
緩い力で押しただけで、陛下の身体が離れる。
長椅子から立ち上がり、胸の合わせに入り込んだままの大きな手を掴んで引いた。
この位置から寝台は見えない。しかしおそらくこちらだろう、と思う方向に布を避けると、子供なら楽に十人は眠れそうな広さのベッドがあった。
メイラはそっと大きな手を引いた。
傍らに立つ陛下の背は高い。小柄な彼女の頭は胸のあたりまでしかなく、身体の分厚さも倍ほど違いそうだ。
それなのに、腕を引くとついてくる。
まるで、メイラが面倒をみている幼い子供たちのように従順に。
ベッドに腰を下ろした陛下は、促すと素直に横になった。
太く逞しい手が伸びてきて、「あれ?」と思ったのは一瞬。
あっという間に臥所に引き込まれ、抵抗する間もなく抱き込まれた。
扉が開く音には気付かなかった。
天井から吊るされた薄手の布が揺れて、房飾りがシャリンと硬質な音をたてる。
はっと閉じていた瞼を開いて、上半身を起こした。
顔を向けた先に居る人物がどういう方かなど、言われるまでもなくすぐにわかった。
目にも鮮やかな朱金色の髪。薄暗い室内の明かりに照らされて、そこだけ燃え上がるようにきらめいている。
目が合ったのは一瞬。
メイラは即座に立ち上がり、その場で両膝をついて頭を垂れた。
「メルシェイラ・ハーデスか」
「……はい、陛下」
伸びてきた手に顎を掴まれ、顔を上げる。
一秒より少し長い間視線が重なりあい、メイラはそっと目を伏せる。
エゼルバード帝国はこの大陸で最も広大な国土を有する国である。
大陸の大半は砂漠と山岳で占められていて農耕地は少ない。その数少ない水場を支配する一族が、古くからこの地を治めてきた。
あまたの血塗られた歴史の末に大陸の三分の二を支配下におさめ、今では精強な軍を率いて豊かな帝国を築き上げている。
皇帝ハロルドは、若くして帝位を継承した。
先代の皇帝は兄で、病弱だったと聞いている。ほかにも姉弟が何人かいるはずだが、メイラはあまり詳しくは知らない。
人間は富と権力がそばにあれば、おどろおどろしい寸劇を繰り広げるものだ。外聞をはばかる出来事がいろいろあったと聞くが、どれも噂の域を出ない。
ただハロルド帝が王冠を頂いてから、国はより豊かになり、軍は力をつけた。周辺諸国との度重なる武力衝突にはもはや小動もせず、民からの信望も厚い。
間違いなく、ここ数百年で最も国は安定していた。
その最高権力者。
在位はすでに十年を超え、年齢はもうすぐ三十に手が届くという。
「ハーデス公の養女か」
「はい、陛下」
目はそらしたままだ。礼儀だということもあるが、陛下の美しい青緑色の目は直視するにはあまりにも鋭い。
「薬草茶は飲まなかったのか?」
「……」
「飲んでいた方が楽だと思うが」
不意に、陛下の身体から漂ってくる匂いに気づいた。
濡れた水と、甘い香水の匂い。
―――ああ、先にどなたかと済ませてこられたのか。
メイラは目を閉じた。
己に触れているこの手が、少し前まで他の妃を抱いていたのだ。
おかしなことに、感じるのは嫌悪感でも恐怖でも、もちろん悋気でもなかった。
気配が近づいてきて、唇に柔らかいものが触れる。
軽く数度啄まれ、少し離れる。
「陛下」
「……なんだ」
メイラを長椅子に押し倒してくる身体は大きい。
「お勤めご苦労様です」
合わせから忍び込んきたごつごつとした手が、ささやかなふくらみを包んだところで止まった。
「……わたくしのようなものに、お手を煩わせて申し訳ございません」
瞼を開ける。
至近距離にある双眸は、薄暗い室内でも鮮やかに碧い。
「気が進まないのでしたら、かまいませんわ」
本音を言えば、気の毒になったのだ。
陛下の顔色は悪い。疲れているのか折角の美貌に隈ができている。
美しい妃たちを思うがままにできるというのは、世の男性たちにとって羨望の的なのかもしれない。
しかし実際は、メイラのように美しくも可愛らしくもない女を抱かなければならないのだ。
国内の貴族間のバランスや他国との兼ね合い、まあそれがいわゆる政略結婚なわけだが、言い換えれば好きでもない女の相手をし、毎晩毎晩励まなければならない。
きっと閨に招く順番も回数も決まっているのだろう。
おそらくは、子供を産ませる順でさえ。
「今夜はもうお休みになられては?」
ここ十年で国は安定した。
おそらくミッシェル皇妃が懐妊したのは、陛下が世継ぎを作ろうと思われたからだ。
ならばその種は孕ませる相手に集中させるべきで、イレギュラーにねじ込まれた妾妃など放っておけばよい。
絵姿で見た陛下は、近寄りがたいほどの美貌の主だった。
絵師が手心を加えているのだろうと思っていたが、実際は美貌もさることながら、その恵まれた体躯や眼差しの険しさのほうが際立つ。
生きて動いている閣下は、単に美しいだけの人形ではなく、その人生に疲れ切った表情をしたひとりの男だった。
そっと、湿り気を帯びた長い髪に触れる。
指先で、濃い隈の浮いた目元をたどる。
「……そなたは」
「さあ、ベッドへ参りましょう」
メイラは、寸前まで己がそんな台詞を言うとは思ってもいなかった。
緩い力で押しただけで、陛下の身体が離れる。
長椅子から立ち上がり、胸の合わせに入り込んだままの大きな手を掴んで引いた。
この位置から寝台は見えない。しかしおそらくこちらだろう、と思う方向に布を避けると、子供なら楽に十人は眠れそうな広さのベッドがあった。
メイラはそっと大きな手を引いた。
傍らに立つ陛下の背は高い。小柄な彼女の頭は胸のあたりまでしかなく、身体の分厚さも倍ほど違いそうだ。
それなのに、腕を引くとついてくる。
まるで、メイラが面倒をみている幼い子供たちのように従順に。
ベッドに腰を下ろした陛下は、促すと素直に横になった。
太く逞しい手が伸びてきて、「あれ?」と思ったのは一瞬。
あっという間に臥所に引き込まれ、抵抗する間もなく抱き込まれた。
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