月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
10 / 207
修道女、どの世界も世知辛いと知る

3

しおりを挟む
 ユリたちとの長くはない付き合いで、傅かれる、ということに慣れてきてはいた。
 しかし、左右に見知らぬ女性を跪かせ、素っ裸を遠慮もなく磨かれて。途方もない違和感を覚えるのは、己がまだまだ貴族というものに慣れ親しんでいないからか。
 ぱしゃり、湯を肩から掛けられ、無言のまま立つように促される。
 腰まである長い黒髪の水気を切られ、やっと終わるのかと思っていたら、今度は白い布を敷かれた寝台のある部屋にいざなわれた。
 そこで待っていた、湯殿で身体を洗ってくれた女性とはまた違う年かさの二人に、ひるんで立ちすくみそうになる。
 いや、ひるむなどという生易しいものではない。思いっきり足が止まり、震えあがった。
 湯殿に居たのは、湯女を務める白衣の女官だ。
 しかし寝台で待っていたのは、メイラの軽く三倍、もしかすると四倍も年を重ねているであろう老齢の女性たち。
 見るからに女官ではなく、薬師あるいは医師か。
「こちらへ横になって下さい」
 しわがれた声で促され、コクリと喉が鳴る。
「頭はこちらへ。足を折り曲げて膝を開いてください」
 幼いころから修道院で育ち、世の中の不条理を噛みしめて生きてきた。
 不幸な結婚をした貴族女性も、初潮を迎える前から春を売る娼婦も、夫から暴力を振るわれて身体に障害を負ってしまった女性や、性的暴力を受けて心を病んでしまった少年とも話したことがある。
 この世で生きていくのは、決して生易しいことではない。弱い立場であればあるほど、人間としての尊厳など紙屑のようなものだ。
 そう頭では理解していた。理解したと思っていた。
 しかしいざ己がその立場に立たされると、恐怖で全身が震えた。
 逃げ出しそうになる足を踏ん張り、奥歯を食いしばる。
 老女たちは、病気や妊娠の有無を調べるためにいるのだろう。純潔であるか否かということも問題にされるのかもしれない。
 事は皇室の血統にかかわることだから、確実を期す必要があるのだとわかってはいる。わかってはいても……メイラはまだ若い未婚の女なのだ。
 改めて、こんなところに放り込んだ父親を恨む。金に惹かれれて諾々と従った己を責める。
 だがしかし、もう後には引けない。
「どうぞ」
 有無を言わさず手を引かれ、ベッドの傍まで連れてこられた。
 覚悟を決めるには時間が必要だったが、待ってくれるはずもなく。
 足元のほうだけ煌々と明りが灯されたベッドへ腰を下ろす。
 そこから先の出来事は、思い出したくはない。
 老女たちは極めて事務的で、だからこそ遠慮もなにもなかった。ヴァギナだけではなくアナルのほうも調べられ、恐怖と羞恥心で気を失いそうになる。
「お疲れさまです」
 手桶の水が跳ねる音がして、ようやく終わったのだと分かった。
 かたく目を閉じたまま、こぼれそうになる嗚咽をこらえる。
「メルシェイラ・ハーデス妾妃さまは確かに純潔で、ご病気もなく、暗具の類を隠し持ってもおられませんでした」
「確認しました。……もう一度湯殿のほうへ」
 暗具、と耳慣れない言葉を聞いて、逃避しそうになっていた理性が戻ってきた。
 病気や妊娠の有無だけではなく、陛下を暗殺するための道具を持ち込んでいないか調べられたのか。
 陛下は名のある武人だ。メイラのような生娘が身体の内部に暗具を仕込んでも、何の役にも立たないだろう。いや武器ではなく毒か? 針などの小さなものを使って?
 それこそ不可能だ。取り出すだけで手間取って、あっという間に退けられてしまうに違いない。
 メイラはなんとか自力で歩いて風呂場に戻った。
 折れそうな心で崩れかけた矜持をかき集め、今だけはと倒れ伏すのを耐えた。
 先ほどの湯女が恭しく頭を下げ、再び湯船のほうへといざなう。
 陛下は定期的に皇妃や側妃を閨に召し、その合間に妾妃を呼ぶという。同日に複数召されることも多く、いつ声がかかってもいいよう準備しておくようにと女官長から聞かされていた。
 夢見るように陛下の話をしていた妾妃たちの顔を思い出す。彼女たちはこんな屈辱的な扱いを受けて平気なのだろうか。そこまでして、寵を得たいものなのだろうか。
 熱めの湯に下半身を浸しながら、メイラはようやっと噛みしめていた奥歯を緩めた。
 怒りは何も生み出さないと分かっている。
 わかっているが、ささやかな矜持を踏みにじったこの慣例に、モノ申したくてたまらない。
 もう二度と、こんな目にあうのは御免だ。
 つまりは二度と陛下の閨に召されないということだが、それでいい。むしろ多数の女を侍らせ、毎晩入れ代わり立ち代わり召す男との相性がいいわけがない。
 後宮とはそもそも皇帝の血を安定して残すために存在するもので、まだ子のない陛下が大勢の妃を抱えているのはおかしなことではないのだが、その中に自分が含まれる必要性はないだろう。
 メイラは今夜この先待っていることを可能な限り頭から消し去ろうと努めた。
 これ以上、恥ずかしく屈辱的な思いをするのは嫌だった。
 怒りが功を奏し、見知らぬ女官の前で素っ裸で立つという難事をかろうじて耐える。
「……っ」
 ぬるり、とした液体を肩から順に塗り込まれて、声をこぼしそうになったがそれも我慢する。
 有無を言わせずオイルマッサージを受け、恥ずかしい部分を含め全身くまなく蒸しタオルで拭われて。
 甘い花の香りのする白粉を、見たこともないサイズのパフではたかれ、これが最後でありますように、と願う。
 髪も、顔も、身体も、どこもかしこも物理的に重さを感じる何かに覆われた気がして辟易した。
「メルシェイラさま」
 聞き覚えのある声にはっと目を開ける。
 背後に湯女の白い服を着た女官を控えたユリが、手に薄絹を抱えて立っていた。
「お召し替えとお化粧を」
 たった十日の付き合いなのに、その声を聞いて泣きそうになった。
 怖い、嫌だ、もう帰りたい…‥。口から零れ落ちそうになった弱音を、ギリギリのところで堪える。
「……大丈夫ですよ」
 そんな不安が顔に描かれていたのだろう。ユリはいつもの優しい口調で言った。
「すべて陛下にお任せして、お心安らかにお過ごしください」
―――絶対無理。
 彼女が励まそうとしてくれているのはわかる。いうなれば初夜を迎える新妻なのだから。
 いや、『妻』ではない。
 豆粒ほどにしか見えない距離で、遠目に眺めたことがあるだけだった。補正が入っているのだろう肖像画の前で、わが国の皇帝陛下は美形だなと、他人事のように思ったことしかなかった。
 そんな、直接会ったことも話したこともない男に、いまから抱かれに行くのだ。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方

ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。 注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

「君を愛するつもりはない」と言ったら、泣いて喜ばれた

菱田もな
恋愛
完璧令嬢と名高い公爵家の一人娘シャーロットとの婚約が決まった第二皇子オズワルド。しかし、これは政略結婚で、婚約にもシャーロット自身にも全く興味がない。初めての顔合わせの場で「悪いが、君を愛するつもりはない」とはっきり告げたオズワルドに、シャーロットはなぜか歓喜の涙を浮かべて…? ※他サイトでも掲載中しております。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました

さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。 私との約束なんかなかったかのように… それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。 そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね… 分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

思い出してしまったのです

月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。 妹のルルだけが特別なのはどうして? 婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの? でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。 愛されないのは当然です。 だって私は…。

処理中です...