9 / 207
修道女、どの世界も世知辛いと知る
2
しおりを挟む
刺繍は得意だ。
修道院のバザーで売れば、そこそこの値が付くからだ。
元貴族の修道女たちから教わって、細やかで華やかな意匠をいくつも知っているが、平民向けのバザー用にはもっとシンプルなものが好まれ、簡素な花柄や小鳥柄、縁取りステッチなどの需要のほうが高い。
メイラは生成りの亜麻布にオフホワイトの刺繍糸で小さな花を刺す。
チクチクと、同じ小花柄を幾つも幾つも。
「本当にお上手ですね」
テーブルにカップを置きながら、ユリが手元を覗き込んで言った。
「練習に丁度いいのよ」
メイラは手の動きを止めず、刺繍糸で細かい花弁を形作りながら微笑んだ。
侍女たちには刺繍の練習のついでに孤児院へ寄付すると言ってあるが、実際はがっつりバザーでの売り物にするつもりだった。
平民向けに年三回、貴族のご婦人向けに年一回。修道院で開催するバザーで小物を売り、子供たちの為の生活費に充てている。メイラがいないからと言って、彼らに寒い思いも、ひもじい思いもさせたくはない。
「リネンではなく、絹は使われないのですか?」
普通貴族の女性は着なくなったドレスや使わなくなった小物類、あるいはドレスを作った時のあまり布などを寄付品にする。たいていは柔らかな絹、あるいは真っ白な綿。
しかし、平民が日常使いにするには亜麻布が丈夫でいいと思うのだ。枕カバーやテーブルクロス、エプロンや子供服など、少し大きめの布に仕上げると何にでも再利用が利き重宝する。
「前に孤児院の女の子に、リネンのブラウスに刺繍をしてとお願いされたの。それ以来大抵リネンに刺すようにしてるわ。長く大切に使ってもらえるようだから」
亜麻布は丈夫なので、繰り返し使える。ブラウスは古くなると肌着にリメイクされ、最後は雑巾になった。小さく刺繍を入れていたので、ボロボロになっても可愛く、女の子に人気だった。
「亜麻布は普段使いだから、小さくてもいいから綿がいいという子もいたけれど。彼女は草木やお花で布を染めて、色を付けたハンカチを見せてくれたわ」
刺繍が終わり、糸始末をする。ユリに糸切りばさみを返し、出来上がったものを広げてみた。
「可愛らしいですね」
「うふふ、ありがとう」
ふちに一周ぐるりと小花をあしらった、派手さはないが品のいいものに仕上がった。
ハンカチにするには大きく、枕カバーにするには小さい。丁度食事で使うナフキンにいいサイズだろう。
「もっと作りたいわ。リネンの布はある?」
「はい。掃除用に多めに用意してあります。ですがメルシェイラさまが刺繍なさるのでしたら、商人に申し付けましてもっと良い品を取り寄せます」
「わたくしはかまわないのだけれど……足りなくなるのなら困るわね」
後宮の備品なので、これまでメイラが手作業をしていたものより桁が一つ違うであろうほどの高級品だ。むしろこれ以上のものを持ってこられては、安価なリネン小物の域を超えてしまう。
「いえ、困るというようなことはございません」
「そう。ならこの布でかまわないわ。手触りもいいし、刺しやすい厚みだし」
メイラは出来上がった布を丁寧に折りたたんだ。
すでに水通しが住んでいる亜麻布は、ごわつきも少なく柔らかく手になじむ。できるならアイロンをかけて仕上げたいところだが、そこまでメイラがしようとすると、侍女たちに止められてしまうだろう。
「でも……そうね。もう少し刺繍糸が欲しいわね。白い木綿の布や、小さめの針も」
「かしこまりました。出入りの商人に面会に来るように申し伝えます」
「そうだわ。ミッシェル様にお見舞いの品をお贈りしようと思っていたの。丁度いいからエルブランのサスランに来るようにと伝えて?」
「はい、メルシェイラさま」
メイラが三年間の領主を務めることになったエルブランは、帝都から馬車で二日の距離である。サスランは帝都とエルブランとを往復して任務にあたっている。
メイラが何か入用なものがあったら、エルブランの商人が御用達としてやってくる。本来は役人であるサスランを呼びつけることはないのだが、ミッシェル皇妃への献上品ということで、相談しておきたかったのだ。
カップの紅茶を飲み切り、畳んだ亜麻布をさりげなく手元に寄せる。
ひそかに拭き掃除をしようとして見とがめられ、ごまかす為に刺繍という言い訳をしたのだが、思いのほか上手くいった。
掃除はできなかったが、これで懸念だった手仕事ができる。バザーが開かれる二か月後までに、少しでも多く作っておきたい。
「ユリは刺繍はするの?」
「心得はありますが、メルシェイラさまのお手には及びません」
万事にそつがない彼女のことだから、きっと上手いに違いない。うまく誘導すれば、バサー品の増援を頼めるかもしれない。
「今度一緒にやってみましょう」
ユリは刺繍道具を裁縫箱に片付けながら、小さく頬にえくぼを浮かべた。
「ほんとうに上手くはありませんよ。先ほどの小花柄、図案を教えて頂けるとうれしいです」
「見た目よりずっと簡単なのよ」
今度などと言わず、今すぐにでも……と再び裁縫道具を手に取ろうとしたのだが、不意に入り口の扉が高々とノックされて会話が途切れた。
「……何かしら」
「見てまいります」
先ほどの猫の一件があったせいか、ユリの表情は険しかった。
毅然と背筋を伸ばして扉の方へ向かうその姿を、嫌な予感を覚えながら見送る。
メイドの手で片方だけ開かれた扉が、数秒後に両側に全開にされた。
現れたのは萌黄色の上衣を身にまとった中年の男性と、一日前に後宮総支配だと紹介を受けた女官長イザベラ。
メイラは反射的に席を立った。
立ち姿の整った灰色の髪の男性が、まっすぐにメイラの方を向いて首を上下させた。
「妾妃メルシェイラ・ハーデス殿」
「……はい」
「今夜九時三十分、陛下が貴女様をお召しになられました」
どくり、と心臓の鼓動が高まる。
メイラは静かに息を飲み、口上を述べたその男性をじっと見つめた。
ここは皇帝陛下の為の後宮。
そしてメイラは妾妃。
いつかは召されるのだろうと覚悟していたが、こんなに早いとは思ってもいなかった。
修道院のバザーで売れば、そこそこの値が付くからだ。
元貴族の修道女たちから教わって、細やかで華やかな意匠をいくつも知っているが、平民向けのバザー用にはもっとシンプルなものが好まれ、簡素な花柄や小鳥柄、縁取りステッチなどの需要のほうが高い。
メイラは生成りの亜麻布にオフホワイトの刺繍糸で小さな花を刺す。
チクチクと、同じ小花柄を幾つも幾つも。
「本当にお上手ですね」
テーブルにカップを置きながら、ユリが手元を覗き込んで言った。
「練習に丁度いいのよ」
メイラは手の動きを止めず、刺繍糸で細かい花弁を形作りながら微笑んだ。
侍女たちには刺繍の練習のついでに孤児院へ寄付すると言ってあるが、実際はがっつりバザーでの売り物にするつもりだった。
平民向けに年三回、貴族のご婦人向けに年一回。修道院で開催するバザーで小物を売り、子供たちの為の生活費に充てている。メイラがいないからと言って、彼らに寒い思いも、ひもじい思いもさせたくはない。
「リネンではなく、絹は使われないのですか?」
普通貴族の女性は着なくなったドレスや使わなくなった小物類、あるいはドレスを作った時のあまり布などを寄付品にする。たいていは柔らかな絹、あるいは真っ白な綿。
しかし、平民が日常使いにするには亜麻布が丈夫でいいと思うのだ。枕カバーやテーブルクロス、エプロンや子供服など、少し大きめの布に仕上げると何にでも再利用が利き重宝する。
「前に孤児院の女の子に、リネンのブラウスに刺繍をしてとお願いされたの。それ以来大抵リネンに刺すようにしてるわ。長く大切に使ってもらえるようだから」
亜麻布は丈夫なので、繰り返し使える。ブラウスは古くなると肌着にリメイクされ、最後は雑巾になった。小さく刺繍を入れていたので、ボロボロになっても可愛く、女の子に人気だった。
「亜麻布は普段使いだから、小さくてもいいから綿がいいという子もいたけれど。彼女は草木やお花で布を染めて、色を付けたハンカチを見せてくれたわ」
刺繍が終わり、糸始末をする。ユリに糸切りばさみを返し、出来上がったものを広げてみた。
「可愛らしいですね」
「うふふ、ありがとう」
ふちに一周ぐるりと小花をあしらった、派手さはないが品のいいものに仕上がった。
ハンカチにするには大きく、枕カバーにするには小さい。丁度食事で使うナフキンにいいサイズだろう。
「もっと作りたいわ。リネンの布はある?」
「はい。掃除用に多めに用意してあります。ですがメルシェイラさまが刺繍なさるのでしたら、商人に申し付けましてもっと良い品を取り寄せます」
「わたくしはかまわないのだけれど……足りなくなるのなら困るわね」
後宮の備品なので、これまでメイラが手作業をしていたものより桁が一つ違うであろうほどの高級品だ。むしろこれ以上のものを持ってこられては、安価なリネン小物の域を超えてしまう。
「いえ、困るというようなことはございません」
「そう。ならこの布でかまわないわ。手触りもいいし、刺しやすい厚みだし」
メイラは出来上がった布を丁寧に折りたたんだ。
すでに水通しが住んでいる亜麻布は、ごわつきも少なく柔らかく手になじむ。できるならアイロンをかけて仕上げたいところだが、そこまでメイラがしようとすると、侍女たちに止められてしまうだろう。
「でも……そうね。もう少し刺繍糸が欲しいわね。白い木綿の布や、小さめの針も」
「かしこまりました。出入りの商人に面会に来るように申し伝えます」
「そうだわ。ミッシェル様にお見舞いの品をお贈りしようと思っていたの。丁度いいからエルブランのサスランに来るようにと伝えて?」
「はい、メルシェイラさま」
メイラが三年間の領主を務めることになったエルブランは、帝都から馬車で二日の距離である。サスランは帝都とエルブランとを往復して任務にあたっている。
メイラが何か入用なものがあったら、エルブランの商人が御用達としてやってくる。本来は役人であるサスランを呼びつけることはないのだが、ミッシェル皇妃への献上品ということで、相談しておきたかったのだ。
カップの紅茶を飲み切り、畳んだ亜麻布をさりげなく手元に寄せる。
ひそかに拭き掃除をしようとして見とがめられ、ごまかす為に刺繍という言い訳をしたのだが、思いのほか上手くいった。
掃除はできなかったが、これで懸念だった手仕事ができる。バザーが開かれる二か月後までに、少しでも多く作っておきたい。
「ユリは刺繍はするの?」
「心得はありますが、メルシェイラさまのお手には及びません」
万事にそつがない彼女のことだから、きっと上手いに違いない。うまく誘導すれば、バサー品の増援を頼めるかもしれない。
「今度一緒にやってみましょう」
ユリは刺繍道具を裁縫箱に片付けながら、小さく頬にえくぼを浮かべた。
「ほんとうに上手くはありませんよ。先ほどの小花柄、図案を教えて頂けるとうれしいです」
「見た目よりずっと簡単なのよ」
今度などと言わず、今すぐにでも……と再び裁縫道具を手に取ろうとしたのだが、不意に入り口の扉が高々とノックされて会話が途切れた。
「……何かしら」
「見てまいります」
先ほどの猫の一件があったせいか、ユリの表情は険しかった。
毅然と背筋を伸ばして扉の方へ向かうその姿を、嫌な予感を覚えながら見送る。
メイドの手で片方だけ開かれた扉が、数秒後に両側に全開にされた。
現れたのは萌黄色の上衣を身にまとった中年の男性と、一日前に後宮総支配だと紹介を受けた女官長イザベラ。
メイラは反射的に席を立った。
立ち姿の整った灰色の髪の男性が、まっすぐにメイラの方を向いて首を上下させた。
「妾妃メルシェイラ・ハーデス殿」
「……はい」
「今夜九時三十分、陛下が貴女様をお召しになられました」
どくり、と心臓の鼓動が高まる。
メイラは静かに息を飲み、口上を述べたその男性をじっと見つめた。
ここは皇帝陛下の為の後宮。
そしてメイラは妾妃。
いつかは召されるのだろうと覚悟していたが、こんなに早いとは思ってもいなかった。
0
お気に入りに追加
656
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
獣人の彼はつがいの彼女を逃がさない
たま
恋愛
気が付いたら異世界、深魔の森でした。
何にも思い出せないパニック中、恐ろしい生き物に襲われていた所を、年齢不詳な美人薬師の師匠に助けられた。そんな優しい師匠の側でのんびりこ生きて、いつか、い つ か、この世界を見て回れたらと思っていたのに。運命のつがいだと言う狼獣人に、強制的に広い世界に連れ出されちゃう話
転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる