月誓歌

有須

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修道女、後宮とは異世界だと知る

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 メイラは真っ直ぐに前を見た。
 巨大な執務机。その向こうで顔も上げないのは、一応己の父親と呼ばれている老人。
 『公正明大』な我が父は、とうとう娘を切り売りすることにしたらしい。
 いや、切り売りというよりも、カードの札か。
―――しかも、明らかにクズカード扱いよね。
 お尻の下の椅子のクッションが、いやに気になる。
 フカフカのこの分厚さといい、手に触れたときの感じといい、これひとつでどれだけの子供たちが救われるのだろう……と、過ぎるのはお金のことばかり。
 お金がないと、人は生きていけない。
 食べるのにも、暖をとるにも、海が近く乾いたこの地方では飲む水を得るのにすら金がかかるのだ。
「出発は明日だ。支度はできているから、日の出と同時に出るがいい」
 書類の上を滑る視線は、ちらりともこちらを見ない。
 冷徹な男であっても、娘を犠牲にすることに対して、若干の負い目はあるのか。……いや、メイラへの興味そのものがないのかもしれない。
 彼女はこの老人の第八子で、しかも妾腹だった。母親は側室ですらない。
 偉大なる公爵閣下の種を身ごもったというのに、出産とほぼ同時に、僅かなはした金とともに追い払われた。男が寄り付かないほどに年増の酒場女だったそうだ。
 そんな母と公爵閣下ともあろう方がどうやって結ばれたのかは……実はあまり知りたくはない。
 既に七人もの、成人に近い年齢の子供たちがいたのに、酒場女の産んだ娘を実子だと認知したのは、この珍しい黒髪に黒目に負うところが多いだろう。
 この地方でその色の取り合わせは珍しい。公爵の祖父に嫁いだという、隣国の王族の色だからだ。
 そしてメイラは生後わずか半年で修道院へと預けられ、以後そこで十八歳になるまで暮らしてきた。
 父に会うのは、覚えているだけでわずか三度目。
 もはやメイラにとって、父と言うよりも『遠くの人』。いくらか複雑な感情は抱いていたが、憎むにも愛すにも遠い存在だった。
「……閣下、わたくしは神に仕えています」
 無駄だろうと思いつつ、メイラは静かに口を開いた。
「神への誓いを破れとおっしゃるのですか?」
 修道女の灰色の装束はゴワゴワとしていて、調度品のひとつとっても高級品な父の執務室にいるととてつもない違和感を覚える。
 メイラは感情的になるまいと気持ちを整えながら、白い手袋をした手をそっと胸の前で組んだ。
「……半年前にお迎えになられた第三妃に加え、十人以上の寵妃を抱えるお方に、今さらわたくしなどが」
「メルシェイラ」
 長らく誰も呼ぶことのなかった名前に遮られ、メイラはこぼれそうになった溜息を堪える。
 それでもなお書類から顔を上げようとしない父の、若干薄くなった頭部。
 やせたと思う。
 記憶の中にあるより年老い、男盛りとはいえない年齢に差し掛かっている。
「これは決まったことだ。ハーデス公爵家の娘としての責務を果たせ」
「一度も娘らしい扱いをしていただいた覚えはありませんが」
「……」
 その無関心そうな表情を崩してやりたくて、メイラは意図的におっとりとした口調で言った。
「今さら公爵家の娘だと言われましても、わたくしは単なる修道女ですわ」
 そして顔を上げた父と、初めてまともに視線が会った。
 黒い目だ。……自分と同じ。
「行かぬというのか?」
 鋭さを増した目の輝きは、とても若い娘に向けるようなものではない。
 そこに親子の情などというものは微塵も汲み取れず、他人と呼ばれるほうがまだマシだった。
「そんなことは申しておりません」
 頭の片隅で、この厳格な父が意に沿わぬものは容赦なく「排除する」のだという噂を思い出したが。
「育ててもらった覚えはありませんが、血のつながった父親の『頼み』であるなら無碍にも出来ませんわね」
 メイラはゆっくりと唇をほころばせた。
 おっとりとした口調に、若干のとげを交えて。
「どうしても、とおっしゃいますなら」
「……小賢しい口を利くものだ」
 ますます鋭さを増す父の視線に、恐怖を感じないと言えばウソになる。
「どうやら閣下の血を引いているようですので」
 しかし、この家に適齢期で婚約者のいない娘はメイラしかいない。
 どうしても後宮に娘を送り込む必要があるのなら、家と家の契約である婚約を破棄したり、代役を仕立てたりというような手段を取るよりは、メイラを行かせるほうがマシだと考えたのだろう。
「それで、わたくしは何をすればよろしいのですか? 念のために言っておきますが、武の心得も魔術の才覚もまったくありませんゆえ、皇帝陛下の寝首を掻くような大仕事は無理かと存じます」
「そこまでは望んでおらん」
 そこまでは、と言うのなら、そこまでではない何かは求めているということか。
「現在第二妃のミッシェル様が懐妊中だ。もし無事に男子が生まれてくれば、皇太子候補となる」
「……」
「ミッシェル様の生家はホーキンズ伯爵家。ラフォンス王国の王妹である第一妃エリザベスさまよりも格下故に、肩身の狭い思いをされているとか」
「確か、ホーキンズ家はハーデスの外戚でしたね」
「お前如き貧相な娘に陛下のご寵愛が向くとは思えぬが、エリザベスさまの気を逸らせる役ぐらいできよう」
「……つまりは当て馬ですか?」
「お前はハーデス公爵家の養女として後宮に上がる。名目上は妾妃だが、ミッシェル様の腹の御子を第一に考えよ」
 実子ではなく、養女として上がるのか。
 なるほどそれであれば、ハーデス公爵家の娘がホーキンズ伯爵家出の皇妃に仕えてもおかしくはない。
「これまで陛下は数多の妃と閨を共にしておられるが、十年間一度も御子に恵まれてこなかった」
「……それって種ナシというのでは」
「口を慎め」
「この度はご無事に懐妊したということですので、多少は役に立つ種もあったということですか」
「若い娘が口にする台詞か!」
「その若い娘、しかも己の実子を、捨て駒として後宮などという魑魅魍魎が生息している場所に放り込もうというのですから、閣下もいい性格をしていますね」
 恐らくは、安全など望めない。
 ひとつ挙動を間違えるだけで、ある日突然姿を消す、というような羽目に陥ってしまうのだろう。
 メイラは修道院育ちだが、世のお姫様ほど世間知らずでも、苦労知らずでもなかった。
 嫡出子ではないが、認知はされている。それゆえに、遡れば隣国の王族に連なるこの血筋を妬むものは多かったし、このろくでもない父を恨むものたちの敵意は容赦なかった。
 それらに長年さらされてきたので、危険に対する本能だけは鋭く研ぎ澄まされている。
 その本能が、逃げ出せ!と言っていた。こんな話は断れと。
「……わかりました」
 しかしメイラは、受け入れた。
 間違っても、父の為ではない。
「そのかわり、条件があります」
 己と同じ色の、しかし遥かに年経た父親の双眸をまっすぐに見据え、メイラは胸の前で神の御印を刻んだ。
「お金をください」
 にっこり、ミサや奉仕活動で鍛え上げられた鉄壁の微笑み。
「そうですね……持参金として2億ダラーほど」
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