月誓歌

有須

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修道女、獣に噛みつく

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 大笑いされた。
 尖った喉ぼとけをむき出しにして、腹を抱えて爆笑された。
「貴様っ!!」
 メイラよりもぞんざいに、肩に担がれて崖を降りてきたマローが、なりふり構わず駆け寄ってこようとする。
 その襟首を、一回り巨漢の男が背後から掴んだ。
 彼女は騎士であり、腕利きの剣士だ。男顔負けの力量を誇り、常にメイラを守ってきた。
 しかしそんな彼女を、顔に真一文字の切り傷のある男は軽々とその場に引きとどめた。
 崖を落ちるときに剣を手放し、武装していなかったというのもあるだろう。いや、赤い服の男に背後から抱え込まれたメイラを見て、頭に血がのぼってしまったというのが正解か。
「……あっ」
 メイラの目の前で、マローの首筋に手刀が入った。
 いくら頑丈な彼女でも、急所への一撃は防ぎようがなかった。
 岩の上に崩れ落ちるマローに、両手を伸ばして駆け付けようとする。しかし所詮はメイラだ、一歩踏み出したところで躓き、派手に顔からこけそうになった。
「おっと」
 背後から、腹部に腕を回された。ぶらりと足が宙に浮き、同時に煙草の匂いが鼻をつく。
「あぶねぇなぁ」
「お、降ろしてください!」
「うーん、ちょっとまずいことになってるから、お前人質。おとなしくしてなよ」
 そして、ひょいと身体の向きを変えられて、膝の裏にも腕を差し込まれた。
「いくぞー、臨時依頼は済んだろう?」
「この女はどうしますか」
「ほっとけほっとけ」
「了解」
「マロー! 待って、ねぇ待って! マロー!!」
 メイラの抗議など、小さな子供の抵抗程度でしかなかった。暴れても、叫んでも、男の手から逃れることはできない。
 岩浜に着けられた小舟に乗せられ、そのまま連れ去られそうになり、ますます顔面から血の気が引いた。
 メイラには使命がある。
 時間がないのだ。こんなところで攫われている場合ではないのだ。
 脳裏に、陛下の穏やかな微笑みと、後宮に入る前に一度だけ見た帝都の街並みが過った。
 とっさに、目の前にある黒い肌に噛みついていた。遠慮なく、固い干し肉を噛むときのように思いっきり。
「ってぇ!!」
 一度歯を立てただけでは足りず、更にギリリと食いしばった。
 噛んだ場所は親指の付け根。口を塞ごうとしてか、丁度目の前にあったからだ。
 噛んだ瞬間、場所を間違えたと思った。男の手は骨ばっていて非常に硬く、噛みちぎるより先に歯が砕けてしまいそうだ。
 それでも、食い込ませた歯を緩めずにいると、耐えかねた男が手を振った。要するに、メイラを拘束する腕が緩んだのだ。
「……おおっと」
 すかさず海に飛び込もうとしたが、叶わなかった。
「あっぶねぇな。ここの海にはサメがうようよしてるんだ。あっという間に食われるぞ」
 改めて自身の非力さに絶望し、それでもなお男の腕から逃れようと身をよじる。
「猫みてぇだな、お前」
 じたばたと、抱え込まれたまま抵抗を繰り返すメイラを見下ろして、噛まれたことなどまったく意に介していない男が笑う。
「おとなしそうな顔してるのにやるじゃねぇか」
「離してください! 船を戻して!」
「やっぱ美味そうなんだよなぁ」
「わ、わたくしは!!」
「うんうん、ちょっと肉付きが悪いけど、あのお綺麗な姫さんよりよっぽどタイプだわ」
 ずい、と顔を寄せられて、同じだけ下がろうとしたができなかった。
「ベッドで寝首かきかねない女より、子猫ちゃんのほうがいい」
 身体に巻き付いた腕が、明確に違う意図で動き……
「どう? 俺に食われてみない?」
「……っ、わたくしには夫がおります!!」
「ははは、俺海賊。奪うのが仕事だ」
 大きな手が胸の上に置かれ、そのささやかなふくらみを包み込んだ。
 眩暈がした。
 おそらくはちょっと毛色の違う女に食指を伸ばしただけなのだろうが、そもそもその相手が自分だという事が信じられない。
 平凡な顔立ちで、貧相な体格の女だということを自覚している。
 どうして夫が愛し気に微笑みかけてくださるのか、その理由さえはっきりとわからないでいるのに……
 陛下の顔を思い出した瞬間に、すうっと冷静さを取り戻した。
「……手を、離しなさい」
「お」
「無礼な真似は許しません」
「……いいねぇ」
 気を持ち直したメイラを見下ろして、黒墨色の男はにたりと笑った。
 逃れようとしても無駄だという事はわかっている。何しろ船は小さくて、大柄な男が五人も乗り込めば沈みそうなサイズなのだ。
 船頭を入れてすでに三人、メイラを含めれば四人だが、逃げる場所すらないというのが実情だった。
「なぁ、あんたの旦那は、海賊に攫われた奥さんを受け入れてくれるのか?」
 見知らぬ男の膝の上……というなんとも居心地が悪い場所に留め置かれたまま、ぐいと顔を寄せられた。
「野郎どもにあーんなことやこーんなことされても、愛してくれるって?」
 この男、無意味に距離が近い。目が悪いようには見えないのに、本を読みすぎて目を悪くした知人と同じような態度を取る。
 近すぎるその距離感に腹が立ってきて、メイラはその真っ黒な顔を両手て突っぱねた。
 あまりにも勢いが良すぎて、バチンと派手な音がした。
「近い。不作法な真似はやめてください」
 スカーと同郷の男は無表情のままだが、褪せた茶色の髪の船頭はあからさまにぎょっとした顔になった。
「わたくしが夫にどう思われようと、あなたに何の関係が?」
「……こんな状況でよくそんな口が利けるな」
 大きな手でぎゅっと胸を掴まれた。ささやかなサイズとはいえ、女性の胸はデリケートだ。乱暴に掴まれれば痛い。
「ぐちゃぐちゃにして野郎どもに下げ渡して、最後は娼館に売りつけてやろうか」
「子供ですか」
「なんだと」
「女性の扱いがなっていません」
 至近距離で見る男の顔は、意外と若そうだった。肌の色と、東方人の容貌とが年齢不詳に見せているが、実際はメイラとそれほど年が離れていないのではないだろうか。
「手を離しなさい」
 ぎゅうぎゅうと胸を掴んでいる大きな手を、パシリと叩いた。
「わたくしにそれ以上触れることは許しません」
「……なぁあんた。状況がわかってるのか?」
 ちょっとより目になった男が、困惑したように船頭たちと視線を交わした。
 その視線がそれた瞬間に、もう一度胸を鷲掴みにしたままの手を叩く。
 メイラは貧しい修道院で育ったので、下町の事も良く知っている。場末の娼婦がどのような生き方をしているのか、もしかしたら目の前の黒墨の男よりも身近で見てきたかもしれない。
 だからこそ、誇りを捨ててはならないと知っている。何が起ころうとも、まっすぐ前を見て生きていく事が正しいと知っている。
「手を、離しなさい」
 胸を張れ。決して怯むな。
 まっすぐに相手の目を見て、逸らしてはならない。
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