月誓歌

有須

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皇帝、火の粉を振り払う

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 苛立ちしか感じない女の事など頭から消し去り、それから数時間は仕事に没頭した。
 複雑なことは文官連中に任せているが、最終的にはハロルドが判断を下す事柄が非常に多く、その分類も多岐にわたる。ひとつが片付かないうちに別の案件がやってきて、それを何とか片す目途を立てたとたんにまた元の問題が浮上してくる。
 気が遠くなるほど積み上げられた書類は、不在であった分大量に押し寄せてきていて、とにかく少しでも進めなければいつまでたっても終わりそうにないのだ。
「そろそろ夜も更けてまいりました。お休みになられては」
 ため息をつきながら一つの書類を決裁済みの箱に投げ入れたところで、こげ茶色の髪の近衛が湯気の立つ紅茶を差し出しながら言った。
「お身体を清める用意を致しましょう」
 こんな場所であっても、ハロルドの身分であれば湯あみも十二分に可能なことだ。しかしかつては騎士であった彼の認識では、ありえない贅沢であり我がままだった。
 汗を流したい気持ちはもちろんある。しかし、そのために魔法士の魔力を浪費させるわけにはいかない。彼らの魔力は有限なのだから、ハロルドの為の湯を作り出すのではなく、誰かの命を救うために使わせるべきなのだ。
 濡らした布で身体を拭けるだけでも、有難いと思わなければ。
 銀のトレイに置かれた白い布が運び込まれ、侍従が掲げ持つ同素材のたらいに指先をつけひと撫でする。前回も戦場にまで付き従ってくれた侍従は、命じられずともハロルド好みの温度に湯温を上げ、その中に白い布を浸して硬く絞った。
 熱い紅茶を口に含むと、ただでさえ汗ばんでいる肌が更に温度を上げる。カップを置いて立ち上がると、二人の侍従がハロルドの衣服を解き始めた。
 皇帝であれば、着替えひとつ取って自身ですることはまずない。身体を拭くことでさえ、たいていは侍従にさせるものだ。しかし騎士時代の名残か、戦場では用意された熱い布で不快さを拭う自由を自身に許していた。
 もちろん、その介添えをするのは侍従の仕事だ。定期的に清潔な濡れ布を差し出したり、届かない背中を拭いてくれたり。新しい服を用意してくれるのも、夜の身支度を整えてくれるのも、ハロルドの癖を心得た彼らの職務だ。
「……陛下。御執務が終わられれば教えるようにと近衛師団長より申し付かっておりますが、お呼びしてもよろしいでしょうか」
 前線に近いので、夜着とまではいかないが、軍装ともいえないラフな服装になったハロルドに、最後に軽い羽織ものを肩にかけてくれた侍従が感情をのぞかせない単調な声で言った。
 ハロルドは顔を顰めた。
 ドルフェスが面会を望むのに仲介を挟もうとするのは珍しい。しかも自身の部下の近衛騎士に頼むのではなく、侍従に言付をするなど初めてことだ。
 近衛師団長はその手の遠慮とは程遠い男なので、職務であればなおのこと、誰と会談していようとも顔を出しに来るだろう。つまりは、それ以外の用件。……嫌な予感しかしない。
「……若い御令嬢と一緒だろう?」
 再び思い出してしまった美しい女の顔に、少しリラックスできていた気分が不快寄りに傾く。
「はい」
「どうしてもというなら許すが、疲れている」
「御断りなさいますか?」
 長く嘆息したハロルドを見て、侍従はゆったりとした仕草で頷いた。
「明日にするようお伝えしておきます」
「……いや。面倒ごとは後回しにすればするほど大きくなるものだ」
「なるほど。至言でございます」
 年齢不詳のこの侍従は、エルネスト侍従長の腹心であり、十年以上前からハロルドも見知っている男だ。いつ見てもつるりと髭のない整った顔をしていて、低い声が男性だと告げているが、もっと若い頃には一見男装した女性にも見えていた。ちなみに妻帯者で、成人した子供が四人、孫までいる。
 後宮の女たちのおどろおどろしい生態を長年見続けてきた侍従たちは、それなりの年齢まで仕事を続けていると耐性ができてくる。特に忠誠心が厚いハロルドの近習たちは、滅多なことでその色香に惑わされることはない。
 もちろん近衛師団長であるドルフェスとて条件は同じはずなのだが、その警戒心をもするりと抜けてハロルドまでたどり着いたあの女の手腕はかなりのものだ。
 ふと、悪意などまったくありませんと言いたげな、美しい彼女の顔を思い出す。誰もがその善性を疑わず、優れた才女、たぐいまれな美女と口をそろえて称える。
 彼女が、信頼している侍従たちをも懐柔してしまう可能性があることに気づき、真顔になった。
 例えばあの女がハロルドの周囲のすべて、いや元老院や市井の噂話までをも味方に付けたらどうなるだろう。
 いくらハロルドがメルシェイラを寵愛していようとも、同じハーデス公の血縁ならばと母親も貴族であるあの女の方に軍配があがるのではないか。むしろ、大人しいメルシェイラよりも皇帝の妻に相応しいと言い出す者が出るのではないか。
 これまで、あらゆる派閥の若い女性と出会いの機会を画策され、特別な態度など取ったつもりはないのに、気づけば後宮に妃として送り込まれてきた。毎度毎度同じことになるので今はもう女性とは話さないようにしているが、リリアーナ・ハーデスも同じルートで後宮に上がってくる可能性は大いにある。
 嫌悪感に首筋の毛が逆立った。
 彼女はメルシェイラの姪だ。そんな女と閨を共にし、妃と呼ばねばならない日が来たら……可愛いハロルドの妻はきっと傷つく。
「……ドルフェスだけを通せ」
 己に自信がある女ほど、一度でもハロルドの目に留まれば勝ちだと思っているきらいがある。
 ならば会わなければいい。会ったこともなければ、いくら騒ぎ立てようと鼻で笑って知らぬと通せる。
「御令嬢はどうされますか? お寒い中お待ちですが」
「会ってどうせよと? また後宮に妃が増える羽目になるなど御免だ」
「器量も良く、大変優秀なお嬢様だと伺っておりますが」
 まさかすでにもう懐柔されたのではあるまいな。
「そんな女はすでに我が後宮に山ほどいる」
 ハロルドがジロリと冷たい目で見下ろすと、侍従はさっと頭を下げて謝罪した。
「申し訳ございません。出過ぎた事を申しました」
 周囲も一斉に頭を下げ謝意を露わにしているものの、嫌な予感は消えるどころかますます膨らんでいく一方だった。
 おそらくあの女は、寒空の下待たされている事ですら最大限に利用している。
 こんな見方をしているのはハロルドだけかもしれないが。
「……陛下」
 珍しく先ぶれをして天幕に入ってきたドルフェスが、きちんと騎士としての礼を取ってから責めるような目でこちらを見た。
「若いお嬢さんにあまり可哀そうなことは」
「……会って話す意味があるのか?」
「それは」
「補給物資を運んできた者の対応をいちいち私がしなければいけないのなら、そのうち全派閥から若いお嬢さん方が押しかけてくる」
「そんな女どもと一緒にしてしまうのは、いくらなんでも気の毒でしょう」
 案の定リリアーナの肩を持つ腹心に、ハロルドは冷徹な一瞥を投げかけた。
「では、こんな場所に自衛もできない身で、おきれいな格好で押しかけてきた理由は?」
「ハーデス公のお身内という役割がありますよ」
「血縁者が来るというのであれば、役に立たない女ではなく、多少なりと使える男をよこすべきだな。ハーデス公爵家には男子のほうが多いはずだ」
「……陛下? あのお嬢さんについて、何か誤解なさっているのでは?」
 ドルフェスの表情は、心底こちらを気にかけているものだ。そこに打算のようなものはなく、彼の気質から言っても、本心でハロルドの態度をいぶかっているのがわかる。
 だからこそ、腹が立った。
 そしてその怒りは、長年ハロルドの側にいた男たちには違うことなく伝わっているだろうが、誰一人として、理由についてはさっぱりわかっていない様子だった。
「……誤解か」
 ハロルドは小さく唇を歪めた。
「まあいい。補給物資を運んできたという程度で接見する理由にはならない。お前が責任をもってそう説明するんだな。疲れたから少し休む。下がれ」
 無碍なく追い祓うこちらが悪者のようではないか?
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