167 / 207
修道女、旅立つ
4
しおりを挟む
ザガンとタロスの間は馬車で数時間の近距離だ。目立たないようにさほど速度を出したわけでなくとも、昼になる前に潮の香りがし始めた。
幌の隙間から覗いてみると、眩いばかりの明るさの中、街に入ろうとしている大勢の人々の姿が見える。
街が開くのは日の出と同時。自国民でも夜間の出入りはできない。
メイラもかつては質素な修道女服を着て、薄暗いうちからあの大門の前で並んだものだ。
すでにもう日は高いので、並んでいる者はいないが、相変わらず大都市ザガンを出入りする人数は多かった。
馬車はさしたる確認作業もないまま大門を通され、馬車通りを港の方へ向かう。
幼いころから幾度となく訪れた港町は、今日もまた賑やかだった。
ほんの半年前にはメイラもあの雑踏の中にいたのだ。日々の費えに頭を悩ませ、成長期の子供たちの腹を満たすために奔走していた。
小さな子供たちの手を引き、寄付を募って歩き回る日々は楽ではない。しかし、その時は気づくことはなかったが、やりがいがあり充実した毎日だった。
小さな世界を守り、日々子供たちと笑いあっている幸せ。彼らが恙なく成長し、無事に巣立っていく喜び。
かつては、それがメイラの生き方だった。ずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
幌の隙間から見える景色は変わらない。
変わってしまったのはメイラのほうだ
眩い世界から目を逸らし、真っ暗に見える幌の中で目を閉じる。
戻りたいのかと自問してみる。
あの頃は幸せだったと、そう思いはするが、戻れるわけもないとすぐに答えは出る。
何より、愛する夫はそこにはいない。
たとえ神の御業で過去に戻ることが可能であっても、やはり夫の側にありたいと思うのだろう。
やがて馬車が止まる。耳をすませば、小さく潮騒の音。
街に入る前にスカーとダンは役割を交代しており、今同じ荷台にいるのはスカーのほうだ。
正体の知れているダンとはちがい、おそらく、としかわからないこの男の事は、信頼してもいいのかもしれないと思いつつも、ダンよりも心の距離が遠い気がする。
ダンも寡黙な男だが、それに輪をかけて何もしゃべらない。
それなのに強い視線は感じるのだ。
「……」
ちらり、と荷台の対角線上できっちりと両膝をついた姿勢の男を見やる。
もともと幌馬車の荷台は薄暗いのだが、スカーは更にそこに影を落としたかのように闇に染まって見えた。
幌馬車の外はあんなにも明るいのに。
にぎやかな声が、ここまで聞こえてくるのに。
かつての柔い頬の幼子を思い出す。金色の髪をしていた。夢の中で、メイラがあの色を奪った。
昼間なのに、闇に染まって見えるこの男のことを、どうあつかえばいいのかいまだによくわからない。
揺れる荷台できっちり膝をそろえて起坐などと、普通では耐えがたい苦痛のはずだが、まるでそういう置物であるかのように微動だにしない。
いや、足を崩してもよいと言ってはみたのだ。二度ほど。
「はい」と答えつつ動かないのは、動く気がないからか、三回許可を出されるまで足を崩してはいけないという決まりごとでもあるからか。
気しなければいいのだが、視界の中でずっとそうやっていられると気になって仕方がない。
「……小腹がすいているのではない?」
こういう警戒心が抜けない子もいたなと、かつての経験則に乗っ取りもう一度声を掛けてみる。
「わたくしのメイドが用意してくれたものだけれど、量が多いの。食べる?」
常に空腹な子供であれば、それなりに効果のある手段なのだが、相手は大人だ。
言ってみてから気付いて内心赤面していたのだが、意外にもスカーはこっくりと首を上下した。
人の食べ残しなど嫌だろう。命じた形になったのかもしれないと心配になっていたのだが、メイラが差し出した布包みはあっという間になくなり、瞬きひとつする前にスカーの手の中に移動していた。
どうやったのだろう。紐みたいなもので引き寄せたのだろうか。
そう思ってしまう程、気づいた時にはスカーは同じ姿勢で荷台の対角線上にいて、両膝をそろえて起坐の姿勢のまま、丁寧に布包みを剥こうとしていた。
メイラはぱちぱちと数度、ゆっくり瞼を上下させた。無様にぽかんと口を開けているのにも気づかなかった。
時間にして十秒ほどだったのではないか。
メイラが苦労して腹に詰め込んだ残りの半分を、闇色に染まった男はあっという間に口の中に放り込み、飲み込んでしまった。
「も、もっと噛んで食べたほうがいいわよ」
スカーは首を左に傾け、少し考えて、手元の布に視線を落としてからこっくりと頷いた。
「はい」
布包みを丁寧に畳むのはいいのだけれど、どうしてそれを嬉々として懐にしまおうとしているのだろう。いや、その布に特に思い入れがあるわけではないからいいのだが。
「ありがとうございました。とてもおいしかったです」
「そ、そう」
やはりよくわからない男だ。ちぐはぐというか、違和感があるというか。
「……急に故郷に連れて行けなどと無理をいってごめんなさい」
基本スカーのほうから話しかけてくることはないので、すぐに間が持たない雰囲気になってしまう。その強い視線を浴びながら沈黙を貫かれると、居心地悪いというか、気詰まりというか。
なんとか話題を振ってみたが、スカーは無表情のまま首を傾けるだけで無言だった。
「あんなことがあった場所ですもの」
いやいやいや! 生贄に捧げられそうになったなどと、わざわざ思い出させてどうする。
しかしスカーはまったく表情を変えず、首を傾けたまま瞬きをした。返答はないが、気を悪くした様子もない。
だからといって、この話を続ける勇気はなかった。
相手が全くの無表情だからこそ、どう考えているのかわからず反応に困る。
「……」
やめよう。この話はやめよう。
キジも鳴かずば撃たれまい。沈黙は金……いや、藪蛇藪蛇。
先人の偉大なる知恵には従うべきだ。
しばらく無言で向き合ってから、メイラはわざとらしくならない程度に『淑女の』ほほ笑みを浮かべてみせた。
幌の隙間から覗いてみると、眩いばかりの明るさの中、街に入ろうとしている大勢の人々の姿が見える。
街が開くのは日の出と同時。自国民でも夜間の出入りはできない。
メイラもかつては質素な修道女服を着て、薄暗いうちからあの大門の前で並んだものだ。
すでにもう日は高いので、並んでいる者はいないが、相変わらず大都市ザガンを出入りする人数は多かった。
馬車はさしたる確認作業もないまま大門を通され、馬車通りを港の方へ向かう。
幼いころから幾度となく訪れた港町は、今日もまた賑やかだった。
ほんの半年前にはメイラもあの雑踏の中にいたのだ。日々の費えに頭を悩ませ、成長期の子供たちの腹を満たすために奔走していた。
小さな子供たちの手を引き、寄付を募って歩き回る日々は楽ではない。しかし、その時は気づくことはなかったが、やりがいがあり充実した毎日だった。
小さな世界を守り、日々子供たちと笑いあっている幸せ。彼らが恙なく成長し、無事に巣立っていく喜び。
かつては、それがメイラの生き方だった。ずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
幌の隙間から見える景色は変わらない。
変わってしまったのはメイラのほうだ
眩い世界から目を逸らし、真っ暗に見える幌の中で目を閉じる。
戻りたいのかと自問してみる。
あの頃は幸せだったと、そう思いはするが、戻れるわけもないとすぐに答えは出る。
何より、愛する夫はそこにはいない。
たとえ神の御業で過去に戻ることが可能であっても、やはり夫の側にありたいと思うのだろう。
やがて馬車が止まる。耳をすませば、小さく潮騒の音。
街に入る前にスカーとダンは役割を交代しており、今同じ荷台にいるのはスカーのほうだ。
正体の知れているダンとはちがい、おそらく、としかわからないこの男の事は、信頼してもいいのかもしれないと思いつつも、ダンよりも心の距離が遠い気がする。
ダンも寡黙な男だが、それに輪をかけて何もしゃべらない。
それなのに強い視線は感じるのだ。
「……」
ちらり、と荷台の対角線上できっちりと両膝をついた姿勢の男を見やる。
もともと幌馬車の荷台は薄暗いのだが、スカーは更にそこに影を落としたかのように闇に染まって見えた。
幌馬車の外はあんなにも明るいのに。
にぎやかな声が、ここまで聞こえてくるのに。
かつての柔い頬の幼子を思い出す。金色の髪をしていた。夢の中で、メイラがあの色を奪った。
昼間なのに、闇に染まって見えるこの男のことを、どうあつかえばいいのかいまだによくわからない。
揺れる荷台できっちり膝をそろえて起坐などと、普通では耐えがたい苦痛のはずだが、まるでそういう置物であるかのように微動だにしない。
いや、足を崩してもよいと言ってはみたのだ。二度ほど。
「はい」と答えつつ動かないのは、動く気がないからか、三回許可を出されるまで足を崩してはいけないという決まりごとでもあるからか。
気しなければいいのだが、視界の中でずっとそうやっていられると気になって仕方がない。
「……小腹がすいているのではない?」
こういう警戒心が抜けない子もいたなと、かつての経験則に乗っ取りもう一度声を掛けてみる。
「わたくしのメイドが用意してくれたものだけれど、量が多いの。食べる?」
常に空腹な子供であれば、それなりに効果のある手段なのだが、相手は大人だ。
言ってみてから気付いて内心赤面していたのだが、意外にもスカーはこっくりと首を上下した。
人の食べ残しなど嫌だろう。命じた形になったのかもしれないと心配になっていたのだが、メイラが差し出した布包みはあっという間になくなり、瞬きひとつする前にスカーの手の中に移動していた。
どうやったのだろう。紐みたいなもので引き寄せたのだろうか。
そう思ってしまう程、気づいた時にはスカーは同じ姿勢で荷台の対角線上にいて、両膝をそろえて起坐の姿勢のまま、丁寧に布包みを剥こうとしていた。
メイラはぱちぱちと数度、ゆっくり瞼を上下させた。無様にぽかんと口を開けているのにも気づかなかった。
時間にして十秒ほどだったのではないか。
メイラが苦労して腹に詰め込んだ残りの半分を、闇色に染まった男はあっという間に口の中に放り込み、飲み込んでしまった。
「も、もっと噛んで食べたほうがいいわよ」
スカーは首を左に傾け、少し考えて、手元の布に視線を落としてからこっくりと頷いた。
「はい」
布包みを丁寧に畳むのはいいのだけれど、どうしてそれを嬉々として懐にしまおうとしているのだろう。いや、その布に特に思い入れがあるわけではないからいいのだが。
「ありがとうございました。とてもおいしかったです」
「そ、そう」
やはりよくわからない男だ。ちぐはぐというか、違和感があるというか。
「……急に故郷に連れて行けなどと無理をいってごめんなさい」
基本スカーのほうから話しかけてくることはないので、すぐに間が持たない雰囲気になってしまう。その強い視線を浴びながら沈黙を貫かれると、居心地悪いというか、気詰まりというか。
なんとか話題を振ってみたが、スカーは無表情のまま首を傾けるだけで無言だった。
「あんなことがあった場所ですもの」
いやいやいや! 生贄に捧げられそうになったなどと、わざわざ思い出させてどうする。
しかしスカーはまったく表情を変えず、首を傾けたまま瞬きをした。返答はないが、気を悪くした様子もない。
だからといって、この話を続ける勇気はなかった。
相手が全くの無表情だからこそ、どう考えているのかわからず反応に困る。
「……」
やめよう。この話はやめよう。
キジも鳴かずば撃たれまい。沈黙は金……いや、藪蛇藪蛇。
先人の偉大なる知恵には従うべきだ。
しばらく無言で向き合ってから、メイラはわざとらしくならない程度に『淑女の』ほほ笑みを浮かべてみせた。
0
お気に入りに追加
656
あなたにおすすめの小説
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
気まぐれな婚約者に振り回されるのはいやなので、もう終わりにしませんか
岡暁舟
恋愛
公爵令嬢ナターシャの婚約者は自由奔放な公爵ボリスだった。頭はいいけど人格は破綻。でも、両親が決めた婚約だから仕方がなかった。
「ナターシャ!!!お前はいつも不細工だな!!!」
ボリスはナターシャに会うと、いつもそう言っていた。そして、男前なボリスには他にも婚約者がいるとの噂が広まっていき……。
本編終了しました。続きは「気まぐれな婚約者に振り回されるのはいやなので、もう終わりにします」となります。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる