月誓歌

有須

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修道女、運命を選択する

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 考えさせてくれと頼んではみたが、色よい返事は返ってこなかった。
 穏やかな口調だが、すぐに支度をと告げられる言葉はほぼ強制だ。
 もちろんメイラの傍付きたちは反発したが、何故かルシエラだけが黙っていた。
 普段の彼女らしくないその様子が気になって、判断に迷う。
 猊下の事を信じていないわけではないが、必ず帰れるようにするというその言葉は正直なものではないだろう。
 おそらくは、まだ知らされていない事がある。
 メイラがこの地に居てはいけないのかもしれない。陛下や帝都の人々の命にかかわるのかもしれない。
 悪い方に考えれば考えるほど、それが正解のような気がして……
「……御方さま」
 ユリの、こんなにも不安そうな声を初めて聴いた。
 彼女の顔を見上げて、ああ、己は猊下に従うつもりでいるのだと逆に悟った。
「ハロルドさまに」
 いやだ。まるで別れの言葉のようだ。
 メイラはふっと息を吐き、その先を続けることが出来ず唇を引き結んだ。
「なりません!」
「ユリ」
「いいえ、御方さま。それだけはなりません!!」
「もし、わたくしが御神に祈りをささげることですべてがおさまるのなら」
「いいえ!!」
「主の言葉を遮り、その意思を拒否するなど傲慢にもほどがある」
 かぶせるように告げられた若い神職の言葉は、口調だけはやはりふわふわと柔らかいが、聞き間違いかと思う程に辛辣だった。
 その強烈な違和感に思考が停止し、まじまじと見つめていると、マロンクリームのような色合いの双眸がこちらを向いて、視線が合った瞬間にぞわりと全身が粟立った。
 なんだ、この男は。
 温かみのある色合いの双眸の奥には、空洞があった。絶望も希望もなにもない。ただ空虚な穴が広がっているだけだ。
「……御方さま」
 ふと、ルシエラに強く肩を掴まれているのに気づいた。軽く揺すられてようやく我に返り、強制力のある視線からなんとか逃れる。
「失礼ながら、猊下。御方さまを連れて行かれるというのでしたら、先に陛下へ話を通してください。いくら中央神殿といえども、エゼルバード帝国との関係が険悪になるのは避けたいのでは?」
 ルシエラの言葉を受けて、猊下が困ったような表情になり、若い神職がさらににこやかに笑み深める。
 メイラは彼のその視線を浴びているだけで、息を吸う事すらままならないプレッシャーにさらされた。
「異端審議官殿も、軽々しく御方さまに近づかないでいただきたい。禍々しい血臭で鼻が曲がりそうです」
 彼女が間に立ってくれたので、ようやく呼吸ができる気がして大きく息を吸った。
 それでもまだ冷静になどなれずに、ドクドクと激しく脈打っている心臓の上に手を置く。
「それほど時間の猶予はないんだよ」
「だから、わざと陛下が出立なさってからいらしたのですか?」
 まっすぐに立つシンプルな女官服姿の彼女は、毅然としていて揺るぎない。
 恐れる様子もなく猊下を見上げ、むしろ昂然と顎を上げてみせる度胸はさすがだ。
 え? それよりこの若い神職が異端審議官?
 一介の修道女にはまったく関わり合いのない中央神殿の役職だ。神職を監査するかなり強い権限を有していると聞くが、詳しい事は知らない。
ルシエラは猊下の方を見ていて、その若い神職のほうをあえて見てはいないが、メイラの肩を掴む手の強さが警戒する心理状態をダイレクトに伝えてくる。
「わざわざ御方さまの前に血で汚れた猛犬を連れてきた理由もお聞かせください」
 若い神職が、にっこりと眦に皺を寄せて更に笑みを深くした。
 メイラの目には、ただそれだけしか分からなかったが、後宮近衛の女性騎士たちの全員が一瞬にして剣の柄を握ったところをみるに、何らかの穏やかならざるやり取りがあったのだろう。
 ふっと、黒い影のようなものが視界の片隅に過った。
 何故か、若い神職がそれを目で追うのがわかった。
「……お前」
 ルシエラの地を這うように低い声が聞こえて初めて、メイラは己が窓際まで移動していたことに気づいた。
「スカー?」
 決して恵まれている体形とは言えないのに、彼は小脇にメイラとルシエラの両方を抱えて素早く退避したのだ。
「……お赦しを」
 低く掠れたスカーの声には、抑えきれない緊迫感があった。
 それは何に対しての謝罪なのだろう。メイラたちを許可なく抱きかかえたことに関してか? 猊下たちへ抜身の剣を向けていることに関してか?
 呼吸を止めていたら胸が苦しくなる程度の時間、お互いに相手の出方を伺う沈黙が流れた。
 やがて、猊下が小さくため息をついて首を左右に振った。
「やめなさい、使徒レイノルド」
 諫めの言葉を受けても、若い神職はにこやかな表情のまま笑顔で小首を傾げただけだった。
「君の態度はいささか行き過ぎているよ」
「はい、猊下。申し訳ございません」
「理解できていないね? わたしはこの子を傷つけることは決して許さないと言ったんだ」
「……」
「もう一度言おうか?」
「いいえ猊下」
 若い神職は大げさすぎる身振りで首を左右に振った。
 そして、メイドたちを含めすべての者が警戒する中、とろりと甘い微笑みを浮かべてメイラに頭を下げる。
「大変失礼いたしました、奥方」
 ものすごく柔らかく、優しい口調だった。
「ご気分を害されていないと良いのですが」
 もし、たった今この場に現れた者がいたとすれば、間違いなくこの若い神職に好意を抱くだろう。
 そんな、寸分の痂疲も感じさせない清やかな微笑みだった。
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