154 / 207
修道女、額づく人を見慣れてきたことに気づく
5
しおりを挟む
父は何とも気まずいこの状況を見るなり、何を思ったのか顔を顰めた。
メイラにもわかるほどの怒気をスカーに向け、付いてきていた異母兄ロバートに視線を向ける。
今日もまた武骨で質素な竜騎士の身なりをした異母兄は、おとなしく床の上で転がっているスカーに近づき、ぐいとその黒い髪を掴んだ。
「春でもないのに虫が多すぎる」
縁遠いメイラにもわかるほど、異母兄の顔色は悪く、疲労がたまっているように見える。
「駆除する方の身にもなってくれ」
ぶつぶつと呟く様子から見るに、メイラのことでいろいろと迷惑をかけてしまっているのだろう。
「その者はメルシェイラの知人のようだ」
陛下の言葉に、異母兄はますます顔を顰める。
「例の、昔の恋人云々とかいう……」
「違うそうだ」
メイラが異母兄のことろあまりよく知らないように、異母兄もメイラのことをほとんど何も知らないだろう。いやむしろ、良くない噂ばかりを耳にしているはずだ。
陛下がそっとメイラの頬を撫でる。
今更心無い噂などどうということはないが、そのせいで色々と誤解を受けていると思えば悲しくもなる。
慮ってくれる陛下に、大丈夫だと微笑みを返し、その温かな手をそっと握った。
「どこぞの慮外者がまたそぞろ浅知恵を働かせたのだろう」
「わかりました。死なない程度に情報を引き出すのであれば、そちらの女官殿にお任せした方がよろしいでしょうか。異端審議官の手に渡れば、また細切れにされ……」
「ロバート・ハーデス翼竜将軍」
ルシエラが極めてまっとうそうな口調で異母兄の名前を呼んだので、続く言葉は聞こえなかったが……ものすごく物騒なことを聞いた気がする。
「そちらの男は引き取ります」
異母兄は頷き、掴んでいた髪を離した。
ドゴンと痛そうな音とともに、スカーが後頭部を床にぶつける。
スカーはうめき声ひとつあげない。生きているのか心配になるほどだ。
黒い湖の夢に関わることなので、できれば猊下にお話しておきたいのだが、異端審議官とやらの手に渡すのは良くない気がする。
「スカー。あなたが何者で、どういう理由でわたくしのところへ潜んできたのか聞かせてください」
これまでどんなに締め上げられようが、切っ先を急所に突き付けられようが、身動きどころか呼気すら乱さなかったスカーが、メルシェイラのその言葉を聞くなり急に息を吹き返したかのように顔をこちらに向けた。
人形がいきなり動き出したかのような、正直恐怖すら抱かせる唐突さだった。
メイラは呼吸を整え、すでにもう激しく脈打っている胸を片手で押さえる。
「あなたは……生贄にされそうになっていた子で間違いないわね?」
「はい、夜の乙女」
厳密な意味ではまだ乙女だが、そう呼ばれるにはいろいろと障りがあるメイラの頬が軽くひきつった。
瞬き数回分だけあけて気を取り直し、質問を続ける。
「あれは夢ではなかったの? 現実にあったことなの?」
「はい、夜の乙女」
お願いだから、乙女乙女と連呼しないで欲しい。
「ではどうしてあなたは大人なの? どうしてわたくしのところへ潜んできたの?」
未だ抜身の剣に囲まれたまま、スカーは恐れることなく身体を起こした。
すかさず切っ先をねじ込もうとした騎士たちを制したのは、ルシエラだ。
近衛騎士を制止するなど、あなた何者。思わず入れそうになった突っ込みは、さすがに空気を読んで飲み込んだ。
ルシエラが何者なのかなど、わかりきったことではないか。
ルシエラは、ルシエラ様だ。それ以外に言いようがない。
スカーは騎士たちの警戒などものともせず、その場できっちりと起坐の姿勢を取って両手を床についた。
「乙女の御業は神の領域につき、下賤なしもべ程度では到底理解できるものではございません」
……しもべ? 犬に並んで聞きたくない言葉だ。
「貴女様は夢とお思いなのかもしれませんが、しもべにとっても夢のような出来事でございました。ですが、二十年前に確かに貴女様のご慈悲を賜り、しもべは生きていく赦しを得ました」
この男、一人称が「しもべ」なの?
「長年夜の乙女を探してまいりましたが、よもやしもべよりもお若い方だとは思ってもおりませんでした。生業の為に貴女様の身辺を伺っておりましたところ、垣間見えたご尊顔にまさかと……」
メイラは息が詰まって呼吸ができないような錯覚に陥りながら、必死で平常心を保とうとした。
しもべってもしかして、メイラのしもべという意味か?
「どうしても、確かめずには居られなかったのです」
犬以上にいらない。
絶対にいらない。
「ですが……ああ、長年の願いが叶いました。もう思い残すことはございません」
スカーの声には独特の癖があった。おそらくは、他大陸の出身なのだろう。
彼が長い間メイラを探していたのだと聞かされると、さすがに少々申し訳ない気もするが、そもそも夢の中で気ままに振るまっただけなのだ。神の御業というのも、メイラのものというより、おそらくダリウス神の気まぐれだろう。
同じ巻き込まれた者として、メイラごときを見つけて思い残すことはないなどと、さすがに気が咎める。
「……ルシエラ」
「はい、御方さま」
「この者はあなたに預けます。聞き出すべきことを聞き出して、そのあとは好きにさせてあげて」
できれば、故郷に帰ってくれるとありがたいのだが。
ぱっと顔を上げたスカーの黒い目が、メイラを見て即座に伏せられる。
「多分、素直に話してくれると思うの。……そうよね? スカー」
「はい、夜の乙女」
この男、ずっと乙女と呼ぶつもりだろうか。
何と言ってやめさせようかと言葉を探していると、ルシエラがすかさずスカーを足で蹴飛ばした。行儀が悪いな。
「御方さまとお呼びしなさい」
そうやって即座にメイラの意図を汲むあたり、ルシエラは他人の心の機微に鈍感なわけではない。
ただ、その事について慮ろうとしないだけだ。
「御方さまの犬ならば、それなりの身の処し方を心得なさい。御方さまは乙女と呼ばれるのがお恥ずかしいようです」
間違ってはいない。いないのだが……なんでも直球で口にするのはどうかと思う。
メイラにもわかるほどの怒気をスカーに向け、付いてきていた異母兄ロバートに視線を向ける。
今日もまた武骨で質素な竜騎士の身なりをした異母兄は、おとなしく床の上で転がっているスカーに近づき、ぐいとその黒い髪を掴んだ。
「春でもないのに虫が多すぎる」
縁遠いメイラにもわかるほど、異母兄の顔色は悪く、疲労がたまっているように見える。
「駆除する方の身にもなってくれ」
ぶつぶつと呟く様子から見るに、メイラのことでいろいろと迷惑をかけてしまっているのだろう。
「その者はメルシェイラの知人のようだ」
陛下の言葉に、異母兄はますます顔を顰める。
「例の、昔の恋人云々とかいう……」
「違うそうだ」
メイラが異母兄のことろあまりよく知らないように、異母兄もメイラのことをほとんど何も知らないだろう。いやむしろ、良くない噂ばかりを耳にしているはずだ。
陛下がそっとメイラの頬を撫でる。
今更心無い噂などどうということはないが、そのせいで色々と誤解を受けていると思えば悲しくもなる。
慮ってくれる陛下に、大丈夫だと微笑みを返し、その温かな手をそっと握った。
「どこぞの慮外者がまたそぞろ浅知恵を働かせたのだろう」
「わかりました。死なない程度に情報を引き出すのであれば、そちらの女官殿にお任せした方がよろしいでしょうか。異端審議官の手に渡れば、また細切れにされ……」
「ロバート・ハーデス翼竜将軍」
ルシエラが極めてまっとうそうな口調で異母兄の名前を呼んだので、続く言葉は聞こえなかったが……ものすごく物騒なことを聞いた気がする。
「そちらの男は引き取ります」
異母兄は頷き、掴んでいた髪を離した。
ドゴンと痛そうな音とともに、スカーが後頭部を床にぶつける。
スカーはうめき声ひとつあげない。生きているのか心配になるほどだ。
黒い湖の夢に関わることなので、できれば猊下にお話しておきたいのだが、異端審議官とやらの手に渡すのは良くない気がする。
「スカー。あなたが何者で、どういう理由でわたくしのところへ潜んできたのか聞かせてください」
これまでどんなに締め上げられようが、切っ先を急所に突き付けられようが、身動きどころか呼気すら乱さなかったスカーが、メルシェイラのその言葉を聞くなり急に息を吹き返したかのように顔をこちらに向けた。
人形がいきなり動き出したかのような、正直恐怖すら抱かせる唐突さだった。
メイラは呼吸を整え、すでにもう激しく脈打っている胸を片手で押さえる。
「あなたは……生贄にされそうになっていた子で間違いないわね?」
「はい、夜の乙女」
厳密な意味ではまだ乙女だが、そう呼ばれるにはいろいろと障りがあるメイラの頬が軽くひきつった。
瞬き数回分だけあけて気を取り直し、質問を続ける。
「あれは夢ではなかったの? 現実にあったことなの?」
「はい、夜の乙女」
お願いだから、乙女乙女と連呼しないで欲しい。
「ではどうしてあなたは大人なの? どうしてわたくしのところへ潜んできたの?」
未だ抜身の剣に囲まれたまま、スカーは恐れることなく身体を起こした。
すかさず切っ先をねじ込もうとした騎士たちを制したのは、ルシエラだ。
近衛騎士を制止するなど、あなた何者。思わず入れそうになった突っ込みは、さすがに空気を読んで飲み込んだ。
ルシエラが何者なのかなど、わかりきったことではないか。
ルシエラは、ルシエラ様だ。それ以外に言いようがない。
スカーは騎士たちの警戒などものともせず、その場できっちりと起坐の姿勢を取って両手を床についた。
「乙女の御業は神の領域につき、下賤なしもべ程度では到底理解できるものではございません」
……しもべ? 犬に並んで聞きたくない言葉だ。
「貴女様は夢とお思いなのかもしれませんが、しもべにとっても夢のような出来事でございました。ですが、二十年前に確かに貴女様のご慈悲を賜り、しもべは生きていく赦しを得ました」
この男、一人称が「しもべ」なの?
「長年夜の乙女を探してまいりましたが、よもやしもべよりもお若い方だとは思ってもおりませんでした。生業の為に貴女様の身辺を伺っておりましたところ、垣間見えたご尊顔にまさかと……」
メイラは息が詰まって呼吸ができないような錯覚に陥りながら、必死で平常心を保とうとした。
しもべってもしかして、メイラのしもべという意味か?
「どうしても、確かめずには居られなかったのです」
犬以上にいらない。
絶対にいらない。
「ですが……ああ、長年の願いが叶いました。もう思い残すことはございません」
スカーの声には独特の癖があった。おそらくは、他大陸の出身なのだろう。
彼が長い間メイラを探していたのだと聞かされると、さすがに少々申し訳ない気もするが、そもそも夢の中で気ままに振るまっただけなのだ。神の御業というのも、メイラのものというより、おそらくダリウス神の気まぐれだろう。
同じ巻き込まれた者として、メイラごときを見つけて思い残すことはないなどと、さすがに気が咎める。
「……ルシエラ」
「はい、御方さま」
「この者はあなたに預けます。聞き出すべきことを聞き出して、そのあとは好きにさせてあげて」
できれば、故郷に帰ってくれるとありがたいのだが。
ぱっと顔を上げたスカーの黒い目が、メイラを見て即座に伏せられる。
「多分、素直に話してくれると思うの。……そうよね? スカー」
「はい、夜の乙女」
この男、ずっと乙女と呼ぶつもりだろうか。
何と言ってやめさせようかと言葉を探していると、ルシエラがすかさずスカーを足で蹴飛ばした。行儀が悪いな。
「御方さまとお呼びしなさい」
そうやって即座にメイラの意図を汲むあたり、ルシエラは他人の心の機微に鈍感なわけではない。
ただ、その事について慮ろうとしないだけだ。
「御方さまの犬ならば、それなりの身の処し方を心得なさい。御方さまは乙女と呼ばれるのがお恥ずかしいようです」
間違ってはいない。いないのだが……なんでも直球で口にするのはどうかと思う。
0
お気に入りに追加
656
あなたにおすすめの小説
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】
雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。
誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。
ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。
彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。
※読んでくださりありがとうございます。
ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?
詩海猫
恋愛
私の家は子爵家だった。
高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。
泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。
私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。
八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。
*文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる