月誓歌

有須

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修道女、デートする

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 その部屋のドアが閉まるなり、副ギルド長はその場で両膝をついて額づいた。
 彼は平民だが、貴族を相手にして一歩も引かないぐらいに有能で気位の高い人物だということは、メイラの耳にも届いていた。
 そんな男が、挨拶の言葉一つ発することなく、板間の床に身を投げ出して頭を下げる。
 唐突な副ギルド長の行動に驚愕の声を上げずに済んだのは、部屋にはすでにもう、同じような姿勢の人間がひとり、巨躯を縮めて待っていたからだ。
 かつては雲の上のように偉い人だと思っていた彼らの、まるで下級使用人のような態度は衝撃的だった。メイラには尋常な情景にはとても見えなかったが、当の二人を含め、部屋にいる誰もがそうすることが当たり前であるかのように表情を変えない。
 彼らが挨拶の口上も述べずに頭を下げているのは、そうする資格がないからだ。
 ギルドの重鎮だとはいえ平民。大帝国の皇帝とは天と地ほどの身分差がある。本来であれば、同じ部屋の空気を吸うことすらありえない事だ。
 メイラは改めて、自身を抱き上げている夫の身分の高さに震えあがった。
「……立て」
 身震いした彼女の背をひと撫でした陛下が、低い声で言った。
「直答を許す」
「……はっ」
 メイラは、そう言われてもなお顔を上げようとしないギルド長が、ものすごく緊張しているのを察知した。
 直接言葉を交わしたことはないが、もと高ランクの冒険者である彼が豪胆で磊落な男だということは伝え聞いている。ギルドに属する誰からも尊敬を受け、生きる伝説とまで囁かれている人物のそんな姿に、メイラの表情もまた強張ってくる。
「もう一度言わねばならんのか? ブルーノ・ガルビス。妻が怯えている」
 弾かれたように顔を上げたギルド長が、慌ててまた元の姿勢に戻ろうとして、少し動きを止めてからおずおずとこちらを伺い見た。
 ……伝説の冒険者の上目遣いなど誰得か。
 メイラはぎゅっと陛下の服を掴み、泳ぎそうになる視線をなんとか堪えた。
「要件はさほど差し迫ったものではない。黒竜の素材についてだ」
「はっ」
「妻と揃いの装飾品をあつらえたい」
「承りました。指輪でしょうか?」
「普段から身に着けていられるものが良い。……メルシェイラ、希望はあるか?」
 希望? いや、ギルド長のあの子犬のような目を何とかして欲しい。
 ぶるぶると首を左右に振ったメイラは、いつの間にか陛下の膝の上に座らされていた。陛下はマントを脱ぐことなくソファーに深く腰を下ろし、副ギルド長がテーブルの上に置いたお茶には手を付けようとせずひたすらメイラの指を弄んでいる。
「腕の良い細工師に心当たりがあります」
「いや、折角の素材だ、魔道具としてあつらえたい」
「魔道具ですか……」
「先だって妻の守りが壊されたばかりなのだ」
 ギルド長の赤茶色の瞳が、ちらりとメイラの方を見た。視線はすぐに逸らされたが、一瞬だが探るようなその目つきに居心地の悪さを感じる。
「皇室お抱えの方に依頼されなくてもよろしいのでしょうか?」
「我が妻であり、ハーデス公の娘でもあるメルシェイラに、害になるようなものを作るつもりか?」
「とんでもございません! ですが」
「もちろん安全性は確認する。だが、折角の機会だからな。記念になるだろう?」
「それは……黒竜ですので」
 メイラは話の内容よりも、陛下が指を弄んでくるほうが気になって仕方がなかった。指一本一本の爪先から付け根までひたすらずっと触れてくる手には、子供が玩具で遊んでいるかのような熱心さがあったが、それはもっと別の……穿った目で見れば、男女の性的な接触を連想させる動きでもあった。
 やめて欲しいとはとても口にできず、そこをじっと見ているギルド長に見るなとも言えない。
 次第に赤らんでくる頬を隠すように俯いた。
「どの素材をどのように用いるかの打ち合わせは、職人と直接話した方が良いと思います」
「あと三日はタロスにいる」
「いつ頃の御都合がよろしいでしょうか」
 三日。
 メイラは努めて表情は変えないようにしながら、陛下の言葉を噛み締めた。
 あとたった三日だけなのか。
 三日間一緒にいられるという事よりも、三日後には別れが訪れるのだという思いの方が強く胸に刺さった。
 それはそうだ。陛下はメイラひとりの夫ではない。広大な領地を持つ帝国の皇帝であり、多くの美しい妃を抱える後宮の主人だ。
 こうやってそばに居られる時間は限られていて、決して独り占めしていいものではない。
「どうした?」
 思わず絡めた指をぎゅっと握ってしまったメイラに、もはや深く耳に馴染む低音が優しく問いかけてくる。
 もとより、自分一人の夫ではない。わかっていた事だ。
「……いえ」
 醜い感情がこみ上げてきそうになり、それが形になる前に飲み込み強いて笑みを作った。
「とても楽しみです」
 今は何も考えないほうがいい。楽しそうな陛下のお気持ちを削ぐのは不本意だ。
 顔を上げると、大きな手がそっとメイラの頬を撫でた。
「そうか」
 メルシェイラはただの妾妃だ。どんなに愛しんで頂けたとしても、長く共に居ることはできない。後宮に戻れば階位も低い妻のひとり。またお会いできるまでには何十日も待たなければならず、その間にも陛下は大勢の妃を閨に召し夜を過ごされるのだろう。
 嫌だ、と顔に出してはならない。困らせてしまうだけだから。
「我儘をいってもいいですか?」
「なんだ? 装飾品の希望でもあるのか?」
 ふるり、と首を左右に振ると、つけ髪の先が陛下の手元でぱさりと揺れる。
 他の妃を抱かないでください。この身だけを愛してください。……そんなことは口が裂けても言えない。そう感じていることを悟らせてもいけない。
「山の手に植物園があります。ガラス張りの温室で、今の時期でも楽しめると思います」
「そこに行きたいのか?」
「はい」
 精一杯笑おう。幸せな時間に一点の影も落とさないように。
 そして目に焼き付けるのだ、メイラにとってはただ一人の夫が、愛し気に微笑んでくれる表情を。
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