月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
142 / 207
皇帝、諸々を薙ぎ払う

7

しおりを挟む
 急遽用意された会場は、天井の高い大きな広間だった。
 石造りの建造物が多い帝国内ではあまり見ない、複雑な彫刻を施された木製の天井と柱が特徴的だ。
 そこに長方形のテーブルが結構な数詰め込まれていて、真っ白なテーブルクロスと、美しくセットされた食器類が膨大な数並べられていた。
 食事の内容は、肉魚が一切ないわけではなかったが、やはり精進料理なのか味付けは薄く、あっさりしたものばかりだった。濃い味付けに慣れた舌には少し物足りないが、文句なく美味で満足できるものだったと思う。満足……そう、食事だけならば。
 黙々と食べ進めながらも、ハロルドはもはや我慢の限界だった。
 大げさな世辞と、明らかに本心とは違うお愛想。囀る内容を聞くだけで耳が腐りそうだ。
 次第にイラついてくるハロルドに気づいたのだろう、テーブルの下で小さな手がきゅっと服の裾を掴んだ。
 視線を彼女に向けると、ささくれ立っていた心が即座に鎮静化する。
 カトラリーを投げつけそうになっていた手から力を抜き、視界に入るだけで精神安定剤のように作用する妻に腕を回した。
 軽くひと撫で、さりげなく下から上へ背骨を辿ると、小柄な彼女はビクリと過敏に反応して身をよじる。
 メルシェイラの弱点がそのあたりだと知っているが、あまりにも可愛らしくいちいち反応してくれるので、つい何度も触れてしまうのだ。
 そんな妻の姿を他所の男に見せる筋合いもないが、そもそもこのテーブルを囲む連中はメルシェイラの存在を完全に無視している。
 男どものパートナーが明らかに若すぎる女性ばかりで、全員が気持ち悪い視線を向けてくるものだから、その狙いは見え透いていた。
 大人しそうな彼女を排除して、その後釜に座ろうとしているのだ。
 そろいもそろって、「わたくしの方が美しいでしょう?」と思っている心の声が聞こえてくるようだ。冗談じゃない。
 ハロルドの目には、むき出しに近い胸の谷間も、ねっとりと口紅を塗られた唇も、流行りなのかそろいもそろって垂れ目に描かれた化粧の目元も、なんら関心の対象にはならない。
 見た目だけなら、もっと美しい女など後宮には大勢いるし、そもそも品性の欠片もない女は視界にも入れたくない。もちろんそれを表に出さないだけの処世術は心得ているが……どこの誰がこの手の女がハロルドの好みだなどと吹聴しているのだろう。
 会食なので、テーブル席は指定。このテーブルは、ハーデス公爵家の派閥に属する高位貴族が寄せ集められた席だ。本来であれば、公の実子であるメルシェイラを後押しするべき立場にもかかわらず、別の女を進めてくるとはどういうつもりか。
「失礼いたします、陛下。お食事はお進みでしょうか」
「公か」
 声を掛けてきたのは、ホストとして教皇たちと同席していたハーデス公爵だ。
 本来であればハロルドもそのテーブルに座るはずだったのだが、またもメルシェイラの席がなく、激怒しそうになったところを本人に宥められた。
 彼女は席がないなら参加せずともよいと言ったが、それではハロルドの腹が収まらない。
 改めて教皇と同じテーブルに彼女の席を用意しようとしたのをやめさせて、ひとつ席次を落としたテーブルに、ハロルド自身が移動したのだ。
 お忍びだからいいだろうというのは口実。娘と言っておきながら、こんな扱いを許している公への抗議と、あとは単に、教皇への嫌がらせだった。
 影どもから受けた異端審議官についての報告があまりにもひどかったので、他人の庭先で傍若無人に勝手な行動をしてくれたお礼だ。
 メルシェイラの席がないことに顔を顰めていた教皇が、彼女が離れた席にすわると決まったとたんに落胆の表情をうかべて残念がった。
 それを見て、ハーデス公の奥方たちやその子らが表情を硬くする。
 メルシェイラが教皇にまで気に入られていることに何を感じているのか。初対面のハロルドにすらわかるほどの彼女への隔意を、当主である公がしっかりと収めてくれなくては困る。
「そろそろ腹も満たしたし、我らは下がるとしよう。妻の具合がすぐれぬ」
「……それは」
 眉間の皺を深くした公が、さっとメルシェイラの様子に目を配る。居心地が悪そうではあるが、体調が悪いようには見えないと判断したのだろう、ほんの少しその皺の深さが緩くなる。
 見間違いようもない、公がメルシェイラに向ける親としての情に、では何故こうまで身内にいいようにさせるのだと逆に突っ込みを入れたい。
「ついでに言えば、私の機嫌もな」
 ハロルドは膝上に広げていたナフキンを取り上げ、クシャっと手の中で握りつぶした。
「……メルシェイラへの非礼は、夫である私へ向けたものと同等だと知れ」
「はっ、大変申し訳ございません」
 シン、と会場が静まり返った。
 寸前まで好き勝手にしゃべていた同じテーブルの男たちが、真っ青になって表情を硬くしている。
 対照的に目をぎらつかせているのはそのパートナーたち。
 お前らの考えていることはわかっている。ハーデス公ですら頭を下げるハロルドの権力に魅了されたのだろう。この絶好の機会に、メルシェイラを排除して後釜に座ってやると、改めて闘志をたぎらせているに違いない。……勘弁してくれ。
「では、行こうか」
 深く頭を下げた父親の姿にオロオロしているメルシェイラに、ハロルドは甘く微笑みかけた。
「日差しが高くなってきたな。少し散策でもするか?」
 おずおずと掌に乗せられた小さな手をぎゅっと握り、その白い手の甲に軽く口づけを落とす。
 立ち上がろうとした中途半端な体勢で驚愕の表情を浮かべた彼女の手を引き、そのまま懐深くに引き寄せた。
「それとも……」
 離れたテーブル席からは、ハロルドがメルシェイラを抱き寄せ、頬を擦り合わせたように見えただろう。
 しかし近くにいた者たちは、妻の耳元でささやく睦言にあっけにとられた表情になった。
 メルシェイラは一瞬にして耳たぶまで真っ赤になって、抗議しようと何かを言いかけたが、周囲からの凝視に気づいたらしく押し黙り、酸欠になったかのようにパクパクと唇を開閉した。
「そうか、わかった」
 そんな可愛らしい様子を他所に見せてやる義理はなく、近づいてきた侍従が掛けてくれたマントをばさりと広げ、そっと翼の下に仕舞い込むかのように華奢な背中を覆った。
 ものすごい数の視線がハロルドたちを追っていたが、誰もその行く手を遮ることはない。
 ガタゴトと音を立てて席を立ち、突然の皇帝の退席に慌てて礼を取ろうとする貴族どもの無様さに、見る必要などないとメルシェイラの視界を塞いだ。
「ハロルドさま?」
 マントで前が見えなくなった彼女が、いぶかし気に顔を上げてハロルドを見上げようとする。
 ああそうだ。この美しい黒い瞳には、醜いものなどなにひとつとして入れたくはない。
 権力に群がろうとする虫どもは排除一択だ。これ以上彼女を蔑ろにし、ハロルドの不快感を煽るのであれば……よかろう、相手になってやる。
「そうだ、メルシェイラ。街を歩いてみないか?」
「えっ……ですが、ハロルドさまの身に危険は」
「帝都より大勢の影者がこの街に入っている。大きな芽は摘んであるし、大抵のことは何か起こる前に片が付くだろう」
 本音を言えば、気分が塞いでいる彼女に何かしてやりたかったのだ。
 己のせいで黒竜が襲撃してきて、城は大破し、怪我人が大勢出た。そう思って落ち込んでいるのだろう。度重なるハーデス家の心無い対応もあいまって、時折悲しそうな表情をしているのが気になっていた。
「ただの夫婦のように手をつないで街を歩き、買い物をして、記念に揃いのものでもあつらえるか?」
 真っ黒な瞳がうるりと潤み、震える口角に小さな笑みが灯った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私はただ一度の暴言が許せない

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
厳かな結婚式だった。 花婿が花嫁のベールを上げるまでは。 ベールを上げ、その日初めて花嫁の顔を見た花婿マティアスは暴言を吐いた。 「私の花嫁は花のようなスカーレットだ!お前ではない!」と。 そして花嫁の父に向かって怒鳴った。 「騙したな!スカーレットではなく別人をよこすとは! この婚姻はなしだ!訴えてやるから覚悟しろ!」と。 そこから始まる物語。 作者独自の世界観です。 短編予定。 のちのち、ちょこちょこ続編を書くかもしれません。 話が進むにつれ、ヒロイン・スカーレットの印象が変わっていくと思いますが。 楽しんでいただけると嬉しいです。 ※9/10 13話公開後、ミスに気づいて何度か文を訂正、追加しました。申し訳ありません。 ※9/20 最終回予定でしたが、訂正終わりませんでした!すみません!明日最終です! ※9/21 本編完結いたしました。ヒロインの夢がどうなったか、のところまでです。 ヒロインが誰を選んだのか?は読者の皆様に想像していただく終わり方となっております。 今後、番外編として別視点から見た物語など数話ののち、 ヒロインが誰と、どうしているかまでを書いたエピローグを公開する予定です。 よろしくお願いします。 ※9/27 番外編を公開させていただきました。 ※10/3 お話の一部(暴言部分1話、4話、6話)を訂正させていただきました。 ※10/23 お話の一部(14話、番外編11ー1話)を訂正させていただきました。 ※10/25 完結しました。 ここまでお読みくださった皆様。導いてくださった皆様にお礼申し上げます。 たくさんの方から感想をいただきました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 今後はいただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

完結 若い愛人がいる?それは良かったです。

音爽(ネソウ)
恋愛
妻が余命宣告を受けた、愛人を抱える夫は小躍りするのだが……

もう二度とあなたの妃にはならない

葉菜子
恋愛
 8歳の時に出会った婚約者である第一王子に一目惚れしたミーア。それからミーアの中心は常に彼だった。  しかし、王子は学園で男爵令嬢を好きになり、相思相愛に。  男爵令嬢を正妃に置けないため、ミーアを正妃にし、男爵令嬢を側妃とした。  ミーアの元を王子が訪れることもなく、妃として仕事をこなすミーアの横で、王子と側妃は愛を育み、妊娠した。その側妃が襲われ、犯人はミーアだと疑われてしまい、自害する。  ふと目が覚めるとなんとミーアは8歳に戻っていた。  なぜか分からないけど、せっかくのチャンス。次は幸せになってやると意気込むミーアは気づく。 あれ……、彼女と立場が入れ替わってる!?  公爵令嬢が男爵令嬢になり、人生をやり直します。  ざまぁは無いとは言い切れないですが、無いと思って頂ければと思います。

未亡人となった側妃は、故郷に戻ることにした

星ふくろう
恋愛
 カトリーナは帝国と王国の同盟により、先代国王の側室として王国にやって来た。  帝国皇女は正式な結婚式を挙げる前に夫を失ってしまう。  その後、義理の息子になる第二王子の正妃として命じられたが、王子は彼女を嫌い浮気相手を溺愛する。  数度の恥知らずな婚約破棄を言い渡された時、カトリーナは帝国に戻ろうと決めたのだった。    他の投稿サイトでも掲載しています。

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!

翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。 「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。 そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。 死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。 どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。 その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない! そして死なない!! そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、 何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?! 「殿下!私、死にたくありません!」 ✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼ ※他サイトより転載した作品です。

処理中です...