月誓歌

有須

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皇帝、諸々を薙ぎ払う

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 急遽用意された会場は、天井の高い大きな広間だった。
 石造りの建造物が多い帝国内ではあまり見ない、複雑な彫刻を施された木製の天井と柱が特徴的だ。
 そこに長方形のテーブルが結構な数詰め込まれていて、真っ白なテーブルクロスと、美しくセットされた食器類が膨大な数並べられていた。
 食事の内容は、肉魚が一切ないわけではなかったが、やはり精進料理なのか味付けは薄く、あっさりしたものばかりだった。濃い味付けに慣れた舌には少し物足りないが、文句なく美味で満足できるものだったと思う。満足……そう、食事だけならば。
 黙々と食べ進めながらも、ハロルドはもはや我慢の限界だった。
 大げさな世辞と、明らかに本心とは違うお愛想。囀る内容を聞くだけで耳が腐りそうだ。
 次第にイラついてくるハロルドに気づいたのだろう、テーブルの下で小さな手がきゅっと服の裾を掴んだ。
 視線を彼女に向けると、ささくれ立っていた心が即座に鎮静化する。
 カトラリーを投げつけそうになっていた手から力を抜き、視界に入るだけで精神安定剤のように作用する妻に腕を回した。
 軽くひと撫で、さりげなく下から上へ背骨を辿ると、小柄な彼女はビクリと過敏に反応して身をよじる。
 メルシェイラの弱点がそのあたりだと知っているが、あまりにも可愛らしくいちいち反応してくれるので、つい何度も触れてしまうのだ。
 そんな妻の姿を他所の男に見せる筋合いもないが、そもそもこのテーブルを囲む連中はメルシェイラの存在を完全に無視している。
 男どものパートナーが明らかに若すぎる女性ばかりで、全員が気持ち悪い視線を向けてくるものだから、その狙いは見え透いていた。
 大人しそうな彼女を排除して、その後釜に座ろうとしているのだ。
 そろいもそろって、「わたくしの方が美しいでしょう?」と思っている心の声が聞こえてくるようだ。冗談じゃない。
 ハロルドの目には、むき出しに近い胸の谷間も、ねっとりと口紅を塗られた唇も、流行りなのかそろいもそろって垂れ目に描かれた化粧の目元も、なんら関心の対象にはならない。
 見た目だけなら、もっと美しい女など後宮には大勢いるし、そもそも品性の欠片もない女は視界にも入れたくない。もちろんそれを表に出さないだけの処世術は心得ているが……どこの誰がこの手の女がハロルドの好みだなどと吹聴しているのだろう。
 会食なので、テーブル席は指定。このテーブルは、ハーデス公爵家の派閥に属する高位貴族が寄せ集められた席だ。本来であれば、公の実子であるメルシェイラを後押しするべき立場にもかかわらず、別の女を進めてくるとはどういうつもりか。
「失礼いたします、陛下。お食事はお進みでしょうか」
「公か」
 声を掛けてきたのは、ホストとして教皇たちと同席していたハーデス公爵だ。
 本来であればハロルドもそのテーブルに座るはずだったのだが、またもメルシェイラの席がなく、激怒しそうになったところを本人に宥められた。
 彼女は席がないなら参加せずともよいと言ったが、それではハロルドの腹が収まらない。
 改めて教皇と同じテーブルに彼女の席を用意しようとしたのをやめさせて、ひとつ席次を落としたテーブルに、ハロルド自身が移動したのだ。
 お忍びだからいいだろうというのは口実。娘と言っておきながら、こんな扱いを許している公への抗議と、あとは単に、教皇への嫌がらせだった。
 影どもから受けた異端審議官についての報告があまりにもひどかったので、他人の庭先で傍若無人に勝手な行動をしてくれたお礼だ。
 メルシェイラの席がないことに顔を顰めていた教皇が、彼女が離れた席にすわると決まったとたんに落胆の表情をうかべて残念がった。
 それを見て、ハーデス公の奥方たちやその子らが表情を硬くする。
 メルシェイラが教皇にまで気に入られていることに何を感じているのか。初対面のハロルドにすらわかるほどの彼女への隔意を、当主である公がしっかりと収めてくれなくては困る。
「そろそろ腹も満たしたし、我らは下がるとしよう。妻の具合がすぐれぬ」
「……それは」
 眉間の皺を深くした公が、さっとメルシェイラの様子に目を配る。居心地が悪そうではあるが、体調が悪いようには見えないと判断したのだろう、ほんの少しその皺の深さが緩くなる。
 見間違いようもない、公がメルシェイラに向ける親としての情に、では何故こうまで身内にいいようにさせるのだと逆に突っ込みを入れたい。
「ついでに言えば、私の機嫌もな」
 ハロルドは膝上に広げていたナフキンを取り上げ、クシャっと手の中で握りつぶした。
「……メルシェイラへの非礼は、夫である私へ向けたものと同等だと知れ」
「はっ、大変申し訳ございません」
 シン、と会場が静まり返った。
 寸前まで好き勝手にしゃべていた同じテーブルの男たちが、真っ青になって表情を硬くしている。
 対照的に目をぎらつかせているのはそのパートナーたち。
 お前らの考えていることはわかっている。ハーデス公ですら頭を下げるハロルドの権力に魅了されたのだろう。この絶好の機会に、メルシェイラを排除して後釜に座ってやると、改めて闘志をたぎらせているに違いない。……勘弁してくれ。
「では、行こうか」
 深く頭を下げた父親の姿にオロオロしているメルシェイラに、ハロルドは甘く微笑みかけた。
「日差しが高くなってきたな。少し散策でもするか?」
 おずおずと掌に乗せられた小さな手をぎゅっと握り、その白い手の甲に軽く口づけを落とす。
 立ち上がろうとした中途半端な体勢で驚愕の表情を浮かべた彼女の手を引き、そのまま懐深くに引き寄せた。
「それとも……」
 離れたテーブル席からは、ハロルドがメルシェイラを抱き寄せ、頬を擦り合わせたように見えただろう。
 しかし近くにいた者たちは、妻の耳元でささやく睦言にあっけにとられた表情になった。
 メルシェイラは一瞬にして耳たぶまで真っ赤になって、抗議しようと何かを言いかけたが、周囲からの凝視に気づいたらしく押し黙り、酸欠になったかのようにパクパクと唇を開閉した。
「そうか、わかった」
 そんな可愛らしい様子を他所に見せてやる義理はなく、近づいてきた侍従が掛けてくれたマントをばさりと広げ、そっと翼の下に仕舞い込むかのように華奢な背中を覆った。
 ものすごい数の視線がハロルドたちを追っていたが、誰もその行く手を遮ることはない。
 ガタゴトと音を立てて席を立ち、突然の皇帝の退席に慌てて礼を取ろうとする貴族どもの無様さに、見る必要などないとメルシェイラの視界を塞いだ。
「ハロルドさま?」
 マントで前が見えなくなった彼女が、いぶかし気に顔を上げてハロルドを見上げようとする。
 ああそうだ。この美しい黒い瞳には、醜いものなどなにひとつとして入れたくはない。
 権力に群がろうとする虫どもは排除一択だ。これ以上彼女を蔑ろにし、ハロルドの不快感を煽るのであれば……よかろう、相手になってやる。
「そうだ、メルシェイラ。街を歩いてみないか?」
「えっ……ですが、ハロルドさまの身に危険は」
「帝都より大勢の影者がこの街に入っている。大きな芽は摘んであるし、大抵のことは何か起こる前に片が付くだろう」
 本音を言えば、気分が塞いでいる彼女に何かしてやりたかったのだ。
 己のせいで黒竜が襲撃してきて、城は大破し、怪我人が大勢出た。そう思って落ち込んでいるのだろう。度重なるハーデス家の心無い対応もあいまって、時折悲しそうな表情をしているのが気になっていた。
「ただの夫婦のように手をつないで街を歩き、買い物をして、記念に揃いのものでもあつらえるか?」
 真っ黒な瞳がうるりと潤み、震える口角に小さな笑みが灯った。
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