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皇帝、諸々を薙ぎ払う
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女性の身支度には時間がかかるものだ。
祭事に参加すると言い張るメルシェイラは、まだ日が昇らぬ早朝に起こされ、部屋に備え付けられている浴室に連れて行かれた。
ふたりしてぬくぬくと微睡んでいたところを起こされ不服だが、着飾る彼女を見ているのは好きだ。
女性の身支度など見るものではないなどと、どこの誰が決めたのだ?
いやもちろん、メルシェイラ以外の着替えなど見て楽しいものだとは思わないし、そもそも見たいとも思わない。
愛する妻と過ごす時間だからこそ、どんなものであっても楽しいし、退屈などするわけもないのだろう。
ハロルドの視線を気にし、気恥ずかしそうに晒すドロワーズは、生成りのレースだ。清楚で可憐でそれもなかなか良いが、近いうちに下着すべてを黒であつらえさせようと思う。色白の彼女の肌に、黒いレースはきっとよく映える。
今日のドレスはハロルドの黒い衣装に合わせたデザインで、色はおとなしめのブルーグレーだ。祭事のTPOに合わせて飾りなども少ないシンプルなもの。年齢的には少し地味過ぎる色合いだが、メルシェイラの顔映りがとても良い。
もちろん使っている生地は最高級のものなので、他の女性陣に見劣りするようなことはないし、既婚者を主張するシンプルさがむしろ好みだ。
特に、スカートの下側に見える純白の生地が目を引く。昨年献上された反物のうちハロルドが最も美しいと思ったものだ。きっと彼女に似合うだろうとドレスをあつらえさせた。フォルム的にはボリュームを落としているのに、波打つ裾の布地が厚みを作り、全体的な印象は清楚系だが、おそらくは誰もが二度見してしまうであろう美しいデザインだ。
「……陛下。女性の着替えをそんなふうにご覧になるものではありません」
先ほどから首筋まで真っ赤になって恥ずかしそうにしているメルシェイラを見かねたのだろう。
身支度の工程を離れた位置から見守っていたルシェイラ・マインが、険のある口調で言った。
「御方さまの御仕度は、我らが責任をもって仕上げます。御身に危険が及ぶようなことは、万が一にもありません。あるとすれば、先日の襲撃のような事態です。ご心配なのでしたら、陛下は是非部屋の外から危険を排除する役目をお願いします」
前々から思っていたのだが、この憲兵隊所属の女性士官はこちらへの当たりが強すぎる。大体、じっと見ているのはそちらも同じではないか。
「……ハロルドさま」
一蹴してその場に居座ろうと思っていたのに、ほかならぬメルシェイラ自身に懇願されれば聞かざるを得ない。
「邪魔か?」
「い、いえそんなことは」
少し悲しそうに言って見せれば、すぐに慌ててフォローしようとしてくれる。彼女のそんな気質に付け入ってやろうかと思わないでもなかったが、仕上がりを楽しみに待つのも悪くない。
「それでは、大人しく外で待っていることにしよう」
先ほどから、マデリーン・ヘイズがこちらに向けてしきりに合図をしていたのだ。
何か報告があるのだろう。
申し訳なさそうな顔をしているメルシェイラの前で屈みこみ、うっすらと見てとれる治りきっていない切り傷の近くにそっと唇を落とした。
「何かあれば呼べ。声の届く範囲内にいる」
「……はい」
真っ赤に色づいた耳たぶを食みたい欲求と戦い、結局は打ち勝って部屋を出たわけであるが、扉の真前で待機していた男の顔を見て、やはり我慢などするべきではなかったとつくづく思った。
「皇帝陛下」
ハロルドはこの国の大半の場所でもっとも権威ある人間だが、その権力が行使できない相手は存在する。そのもっともたるものが中央神殿の神職であり、メルシェイラの祖父を名乗る教皇ポラリスはもとより、如才ない穏やかな表情をしているこの老人、リンゼイ枢機卿もそのうちのひとりだ。
「少々お時間を宜しいでしょうか」
枢機卿はメルシェイラを実質的に扶育した者でもあるらしい。彼女からの絶対的な信頼を向けられ、それに苛立つハロルドを年長者らしく普通にいなしてくる。
「ポラリス教皇は潔斎か?」
「はい。昨晩からずっと身を清めておられます。祭事が終わるまでお話はできませんが、気になることがありましたので陛下にお伝えしておくようにと申し使って参りました」
あの夜教皇から聞いた話は、ハロルドにはとても納得できるものではなかったし、受け入れがたいものでもあった。
メルシェイラの半分がすでにもうダリウス神に捧げられていて、おそらくは実質的に贄として認識されているのだろうと言われたのだ。黒竜は彼女を御神の元へいざなうために、その血肉を喰おうと現れたのだ……と。
穏便に事を収めるるには、彼女自身が贄としての本分を果たすか、御神への祈りを担う巫女として生涯を送るか。その二択だと示唆されて、こみ上げてきたのは猛烈な怒り。
メルシェイラは贄などではない。ハロルドの妻だ。相手がたとえ御神であっても、譲るつもりも奪われるつもりもない。
彼女が迷っているのはわかっている。
あの巨大な竜を目にして、また同じようなことがあり被害が拡大することを恐れている。
そんな馬鹿な話があるか。
ハロルドの妻だからこそ狙われたのだ。おそらくは、皇妃になどさせまいと画策している者がいるのだ。彼女が身を引けば、敵を喜ばせるだけではないか。
不愉快極まりない話をまた掘り下げて聞かされるのかと顔を顰めたが、メルシェイラの身にかかわることを無視するわけにはいかない。
彼女の今後の安全の為にも、神殿側との協力体制は欠かせないものだ。
ハロルドは頷いて、隣室へと枢機卿を誘った。
「竜が贄を求めて一直線にあの方の部屋に向かった理由がわかりました。黒龍は召喚されたものであり、その召喚に切られた髪の一部が使われたようです」
挨拶や世間話などを暢気にしている場合ではないという、ハロルドの心情を汲んだのだろう。
人払いを求めることもなく、はっきりとした口調で告げてくる口調は確信的で、おそらくは独自の調査でその召喚地点までたどり着いたのだとわかる。
法衣のマントの影から取り出した紫色の布の包みをテーブルの上に置き、そっと上を開くと、分厚い紙に包まれた黒い髪の残骸があった。
量的にには少なく、燃やされたのか、半分ほど縮れて灰になっている。
「妃の髪か」
「……おそらくは」
髪。メルシェイラの背中を覆っていた、美しく長い黒い髪。
じわり、と抑えきれない怒りがこみ上げてきた。
彼女の身体の一部だったものを不当に奪われ、使われた。……到底許せるものではない。
「召喚現場には、他に証拠らしきものは何もありませんでした。黒竜の襲撃と時を同じくして襲い掛かってきたという者たちに話を聞きたいのですが」
ハロルドは深い怒りを飲み込み、その熱で腹の底が焼けるのを耐えた。
枢機卿の皺深い顔にじっと視線を据え、その情報をこちらによこしてきた意味を考える。
「なるほど。異端審議官が同行しているのか」
「ええ。猊下のお傍には常に」
ダリウス神に帰依する者たちは、厳密に言えば中央神殿の教義に忠実に従う者たちである。いくら忠実過ぎて間違った方向に進んでいようとも、彼らの信心には歪みがない。
故に、そんな彼らが最も厭うのが、その信仰を否定されることだ。
ハロルドは、温和な表情で出された紅茶を口に含んでいる老枢機卿を見つめた。
「……恐ろしい事を考えるものだ」
「そうでしょうか? 少なくとも猊下は、異端者どもを認める気はございません」
太陽と生命を象徴する主神ラーンと、闇と死を象徴するダリウス神とは、兄弟神であり、表裏一体の親密な間柄だと伝承されている。
今、中央神殿の最も高い場所に坐する当代教皇は、主神ラーンの寵児。
もし狂信者どもがそれに対抗しようと思うなら、ダリウス神の祝福を得たものを連れてくるしかない。
それができずにいくら身勝手な主張を繰り広げようとも、教皇ポラリスが否定すればその根拠は氷解する。
連中がどんな集団かはさておき、……たとえばそれが一国家であったとしても、教皇が異端とみなせば存続すら危うくなるだろう。
「……いいだろう」
ハロルドは、視線を枢機卿の背後に立つ黒髪の神殿騎士に向けた。
「ただし、結果は随時こちらにも報告を。うちの者をつけよう」
中肉中背のその神殿騎士は、軽く目礼だけを返してきた。
「ちなみに、襲撃者のほとんどがリベリス人だ」
リベリスは大陸の南端に位置する裕福な商業国家だ。金銭的に豊かであるという事は、つまりは中央神殿への寄付なども相当額あるはずで、普通に考えると無視することはできない。
「……ほう?」
枢機卿がふさふさとした眉を上げ、興味深げに首を傾けた。
そんな国相手でも異端だと言えるのか、と言外に問うたのだが、返ってきたのは穏やかな微笑みだけだ。
「第一皇妃殿下の祖国ですな」
お互いに目の奥を見つめ返し、結論は胸の内にしまった。
祭事に参加すると言い張るメルシェイラは、まだ日が昇らぬ早朝に起こされ、部屋に備え付けられている浴室に連れて行かれた。
ふたりしてぬくぬくと微睡んでいたところを起こされ不服だが、着飾る彼女を見ているのは好きだ。
女性の身支度など見るものではないなどと、どこの誰が決めたのだ?
いやもちろん、メルシェイラ以外の着替えなど見て楽しいものだとは思わないし、そもそも見たいとも思わない。
愛する妻と過ごす時間だからこそ、どんなものであっても楽しいし、退屈などするわけもないのだろう。
ハロルドの視線を気にし、気恥ずかしそうに晒すドロワーズは、生成りのレースだ。清楚で可憐でそれもなかなか良いが、近いうちに下着すべてを黒であつらえさせようと思う。色白の彼女の肌に、黒いレースはきっとよく映える。
今日のドレスはハロルドの黒い衣装に合わせたデザインで、色はおとなしめのブルーグレーだ。祭事のTPOに合わせて飾りなども少ないシンプルなもの。年齢的には少し地味過ぎる色合いだが、メルシェイラの顔映りがとても良い。
もちろん使っている生地は最高級のものなので、他の女性陣に見劣りするようなことはないし、既婚者を主張するシンプルさがむしろ好みだ。
特に、スカートの下側に見える純白の生地が目を引く。昨年献上された反物のうちハロルドが最も美しいと思ったものだ。きっと彼女に似合うだろうとドレスをあつらえさせた。フォルム的にはボリュームを落としているのに、波打つ裾の布地が厚みを作り、全体的な印象は清楚系だが、おそらくは誰もが二度見してしまうであろう美しいデザインだ。
「……陛下。女性の着替えをそんなふうにご覧になるものではありません」
先ほどから首筋まで真っ赤になって恥ずかしそうにしているメルシェイラを見かねたのだろう。
身支度の工程を離れた位置から見守っていたルシェイラ・マインが、険のある口調で言った。
「御方さまの御仕度は、我らが責任をもって仕上げます。御身に危険が及ぶようなことは、万が一にもありません。あるとすれば、先日の襲撃のような事態です。ご心配なのでしたら、陛下は是非部屋の外から危険を排除する役目をお願いします」
前々から思っていたのだが、この憲兵隊所属の女性士官はこちらへの当たりが強すぎる。大体、じっと見ているのはそちらも同じではないか。
「……ハロルドさま」
一蹴してその場に居座ろうと思っていたのに、ほかならぬメルシェイラ自身に懇願されれば聞かざるを得ない。
「邪魔か?」
「い、いえそんなことは」
少し悲しそうに言って見せれば、すぐに慌ててフォローしようとしてくれる。彼女のそんな気質に付け入ってやろうかと思わないでもなかったが、仕上がりを楽しみに待つのも悪くない。
「それでは、大人しく外で待っていることにしよう」
先ほどから、マデリーン・ヘイズがこちらに向けてしきりに合図をしていたのだ。
何か報告があるのだろう。
申し訳なさそうな顔をしているメルシェイラの前で屈みこみ、うっすらと見てとれる治りきっていない切り傷の近くにそっと唇を落とした。
「何かあれば呼べ。声の届く範囲内にいる」
「……はい」
真っ赤に色づいた耳たぶを食みたい欲求と戦い、結局は打ち勝って部屋を出たわけであるが、扉の真前で待機していた男の顔を見て、やはり我慢などするべきではなかったとつくづく思った。
「皇帝陛下」
ハロルドはこの国の大半の場所でもっとも権威ある人間だが、その権力が行使できない相手は存在する。そのもっともたるものが中央神殿の神職であり、メルシェイラの祖父を名乗る教皇ポラリスはもとより、如才ない穏やかな表情をしているこの老人、リンゼイ枢機卿もそのうちのひとりだ。
「少々お時間を宜しいでしょうか」
枢機卿はメルシェイラを実質的に扶育した者でもあるらしい。彼女からの絶対的な信頼を向けられ、それに苛立つハロルドを年長者らしく普通にいなしてくる。
「ポラリス教皇は潔斎か?」
「はい。昨晩からずっと身を清めておられます。祭事が終わるまでお話はできませんが、気になることがありましたので陛下にお伝えしておくようにと申し使って参りました」
あの夜教皇から聞いた話は、ハロルドにはとても納得できるものではなかったし、受け入れがたいものでもあった。
メルシェイラの半分がすでにもうダリウス神に捧げられていて、おそらくは実質的に贄として認識されているのだろうと言われたのだ。黒竜は彼女を御神の元へいざなうために、その血肉を喰おうと現れたのだ……と。
穏便に事を収めるるには、彼女自身が贄としての本分を果たすか、御神への祈りを担う巫女として生涯を送るか。その二択だと示唆されて、こみ上げてきたのは猛烈な怒り。
メルシェイラは贄などではない。ハロルドの妻だ。相手がたとえ御神であっても、譲るつもりも奪われるつもりもない。
彼女が迷っているのはわかっている。
あの巨大な竜を目にして、また同じようなことがあり被害が拡大することを恐れている。
そんな馬鹿な話があるか。
ハロルドの妻だからこそ狙われたのだ。おそらくは、皇妃になどさせまいと画策している者がいるのだ。彼女が身を引けば、敵を喜ばせるだけではないか。
不愉快極まりない話をまた掘り下げて聞かされるのかと顔を顰めたが、メルシェイラの身にかかわることを無視するわけにはいかない。
彼女の今後の安全の為にも、神殿側との協力体制は欠かせないものだ。
ハロルドは頷いて、隣室へと枢機卿を誘った。
「竜が贄を求めて一直線にあの方の部屋に向かった理由がわかりました。黒龍は召喚されたものであり、その召喚に切られた髪の一部が使われたようです」
挨拶や世間話などを暢気にしている場合ではないという、ハロルドの心情を汲んだのだろう。
人払いを求めることもなく、はっきりとした口調で告げてくる口調は確信的で、おそらくは独自の調査でその召喚地点までたどり着いたのだとわかる。
法衣のマントの影から取り出した紫色の布の包みをテーブルの上に置き、そっと上を開くと、分厚い紙に包まれた黒い髪の残骸があった。
量的にには少なく、燃やされたのか、半分ほど縮れて灰になっている。
「妃の髪か」
「……おそらくは」
髪。メルシェイラの背中を覆っていた、美しく長い黒い髪。
じわり、と抑えきれない怒りがこみ上げてきた。
彼女の身体の一部だったものを不当に奪われ、使われた。……到底許せるものではない。
「召喚現場には、他に証拠らしきものは何もありませんでした。黒竜の襲撃と時を同じくして襲い掛かってきたという者たちに話を聞きたいのですが」
ハロルドは深い怒りを飲み込み、その熱で腹の底が焼けるのを耐えた。
枢機卿の皺深い顔にじっと視線を据え、その情報をこちらによこしてきた意味を考える。
「なるほど。異端審議官が同行しているのか」
「ええ。猊下のお傍には常に」
ダリウス神に帰依する者たちは、厳密に言えば中央神殿の教義に忠実に従う者たちである。いくら忠実過ぎて間違った方向に進んでいようとも、彼らの信心には歪みがない。
故に、そんな彼らが最も厭うのが、その信仰を否定されることだ。
ハロルドは、温和な表情で出された紅茶を口に含んでいる老枢機卿を見つめた。
「……恐ろしい事を考えるものだ」
「そうでしょうか? 少なくとも猊下は、異端者どもを認める気はございません」
太陽と生命を象徴する主神ラーンと、闇と死を象徴するダリウス神とは、兄弟神であり、表裏一体の親密な間柄だと伝承されている。
今、中央神殿の最も高い場所に坐する当代教皇は、主神ラーンの寵児。
もし狂信者どもがそれに対抗しようと思うなら、ダリウス神の祝福を得たものを連れてくるしかない。
それができずにいくら身勝手な主張を繰り広げようとも、教皇ポラリスが否定すればその根拠は氷解する。
連中がどんな集団かはさておき、……たとえばそれが一国家であったとしても、教皇が異端とみなせば存続すら危うくなるだろう。
「……いいだろう」
ハロルドは、視線を枢機卿の背後に立つ黒髪の神殿騎士に向けた。
「ただし、結果は随時こちらにも報告を。うちの者をつけよう」
中肉中背のその神殿騎士は、軽く目礼だけを返してきた。
「ちなみに、襲撃者のほとんどがリベリス人だ」
リベリスは大陸の南端に位置する裕福な商業国家だ。金銭的に豊かであるという事は、つまりは中央神殿への寄付なども相当額あるはずで、普通に考えると無視することはできない。
「……ほう?」
枢機卿がふさふさとした眉を上げ、興味深げに首を傾けた。
そんな国相手でも異端だと言えるのか、と言外に問うたのだが、返ってきたのは穏やかな微笑みだけだ。
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