月誓歌

有須

文字の大きさ
104 / 207
修道女、犬と別れ悪人面と再会する

6

しおりを挟む
 体感的に数分ほどで馬車は止まった。
 心は何時までも小市民のメイラは、腰を落ち着ける間もなく降りるように指示されて閉口した。
 陛下と歩いた距離よりも短いのではないか。せっかちな父がわざわざ馬車を用意させたのが少々解せない。
 とはいえ、貴族の移動とはえてしてこんなものだ。本来であれば歩いた方が早い距離でさえ馬車で移動する。主に体面の為だが、あまりにも非実用的ではないか。
 馬車の扉が開いて、そそくさと父が腰を上げた。年齢の割に俊敏にタラップを降り、こちらを振り仰ぐ。
 メイラは、やけにクッションが利いた座席から苦労して立ち上がり、慣れない裾さばきに手こずりながら広く開いた扉の前まで行った。
 その先に踏み出すのを躊躇ったのは、意外に高い馬車の車高に怯んだのと、降りるためのタラップが非常に小さかったからだ。
 これでは、ドレスを着ていると足元が見えない。
 父の黒々とした目が叱責するように険しくて、慌てて足を踏み出して転びそうになった。咄嗟に手すりを握ったので大事にはならなかったが。
 ますます厳しくなった視線に、焦りよりも腹立たしさが増す。
「さっさと降りよ」
 そんなことを言われても。
 メイラは手すりを握ったまま、両足を置くのがやっとのサイズのタラップの位置を目測した。
 そして、なんとか一段目の段差に足を下ろすことに成功する。
 しかし続く二段目に踏み出すと、望んだ場所に足を置く場所はなかった。
 嫌だもう、何なのこのバランスの悪さ!
 ドレスの女性を転ばそうと画策しているのではないか。
 そう思わざるを得ない不親切な段差であり、サイズだった。
「失礼します」
 転びそうになったのを支えたのは、大きく逞しい手。
「お気を付けください、足元がお悪うございます」
 耳元で囁く声は、普段より感情を含まず事務的だ。しかしメイラは安堵の表情で身体の力を抜いた。
 小柄な彼女をひょいっと抱え上げ、無事地面まで降ろしてくれたのは、同性でも思わず頬を寄せたくなるほどふくよかなお胸のマデリーン。
 顔を上げると、キンバリーをはじめ後宮近衛の女性騎士たちが整列していた。ゆっくりと馬車が移動してい来る間に、追いついたのだろう。
 メイラは地面にしっかりと両足をついて立ってから、改めてマデリーンの腕に手を置いた。父にエスコートされるより、彼女の方が絶対にいい。
 しかしマデリーンは何の容赦もなくその手を外し、ぐるりと体の向きを変えさせ背中を押した。嫌だと思わず足を踏ん張ったが、武官の彼女にかなうわけがない。
 あっという間に、皮肉気に唇をひん曲げた悪人面の手に委ねられ、ため息が零れそうになった。
「行くぞ」
「……はい、お父様」
 どうかこのまま売り払われるのでありませんように。
 もちろん父が本気でそんなことをすると思っているわけではないが、楽しい事が待っているわけがないのは確かだ。
 顔を上げると、いつも遠巻きに見ていた街一番の高級ホテルがそびえ立っていた。
 夜の明かりがともされ始め、もともと華やかな外装がなおいっそうきらびやかに輝いている。
 馬車止めには父の護衛の騎士たちも並んでいるが、容姿が整った女性騎士たちの方が目立っていた。整然と並ぶ彼らの前を歩きながら、なんとか足を絡ませず無様なことにならないようにだけ気を配る。
 ホテルの入り口には、大きな旗が二振りかけられていた。帝国の国旗と、公爵家の家紋の旗だ。
 見れば、いたるところに旗やタペストリーが飾られていて、正面扉へ続く石畳の上には真新しい赤いカーペットが敷かれている。
 目を引かれる華やかさで飾られているのは、季節的に今は咲いていないはずのハーデス公爵領の領花だ。
 その美しさを引き立てる複雑な結ばれ方をしたリボンに、思わず息が止まりそうになった。
 父には不釣り合いに可愛らしいその装飾は、明らかにメイラを歓迎するものだ。
 急に自覚した場違い感に、足が止まりそうになった。
 陛下の後宮という、ここの比ではない豪華絢爛な場所を見てきたが、あくまでもあそこはメイラが主役の場所ではなかった。
 陛下とご一緒している時もそうだ。豪華できらびやかなのは陛下の為であると思えば当然だとしか思わなかった。
 こうやって到着を歓迎され、うれしくないわけではないが、それよりも逃げ出したい感が強い。
 いったいこの装飾に幾らかかったのだろうとか、請求が公爵家に行くなら全方面からの苦情に見舞われそうだとか、メイラに払えるだろうかとか。
 今更どうしようもないことがグルグルと頭の中を駆け回り、嫌な汗が滲む。
 それを察したわけではないだろうが、メイラの手が触れている部分がぎゅっと絞められた。
 見上げると、前を向いている父の顔。
 相変わらずの険悪な表情、どう見ても怒っているようにしか見えないが、服越しに伝わってくる体温に何故かほっとした。
 いや、安心している場合ではない。
 いやだいやだと思っていたら、それが表情に出てしまう。淑女たるもの、いついかなる場合でもそんな負の感情を見せるべきではないのだ。
「そうだ。そうやって前だけを向いていろ。お前にそれ以上は求めぬ」
 当てにしないから邪魔をするな、としか聞こえない言い草だった。
 メイラはベール越しに胡乱な目をして、小柄な父を見やった。
 冷淡だの悪辣だの色々と評判の悪い顔に、不機嫌以外の表情が浮かぶのを見た事がない。実際にどう思っていようと勝手だが、もう少し愛想よくすれば周囲との軋轢も減らせるだろうに……
 せかせかと速足の父の腕をぐいと引き、歩く速度を弱めて欲しいとサインを出す。
 微妙に顎の辺りの筋肉がひくつく父から目を逸らし、なおも速足のその腕をぎゅうと痛むほどに握ってやると、ようやくいくらか足の運びが緩やかになった。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...