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提督、犬になる
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「ジークさま!!」
満面の笑顔で駆け寄ってくるのは、ふわふわとした栗色の髪の美女。
肌の色は抜けるように白く、触れるのを躊躇ってしまう程に可憐な容姿だ。
その花の顔を桃色に染め、濡れたような両目で見上げてくる様はさながら天女のよう。
「ようやくお会いできました! わたくし、不安で寂しくて……」
「すまない、美しいクリスティーナ。悲しい宮仕えの身なんだ」
口からは、意図するまでもなくするりと柔らかな声が出た。直接顔を合わせたら怒りを我慢できないのではないかと思ったが、存外そうでもないらしい。
「あの方ですね……」
クリスティーナは悲し気に眉を下げ、ふっくらとした唇をきゅっと噛んだ。
「先ほど、食事を運んできたメイドにぶつかって、危うく転んでしまうところでした」
「そうか、大型艦とはいえ時に揺れるからな。怪我はなかったか?」
つい無意識のうちにその滑らかな髪を撫でていて、己の行為にぞっとした。
まだ洗脳が溶けていないのだろうか。この女の思うがままに操られているのだろうか。
クリスティーナ・ホーキンズは、二十代半ばの商人階級の女だ。父親が手広く商会を経営しているらしく、おっとりとした口調に育ちの良さを感じる。手入れの行き届いた髪や手指をしていて、身なりも平民にしては良いもので整えている。言葉遣いに訛りなどもなく、見目だけで言えば貴族の御令嬢と名乗っても違和感はないだろう。
「……どうして妾妃さまは、わたくしに意地悪をなさるのでしょう」
ほろり、と大粒の涙が長い瞼に引っかかって落ちた。
「わたくしの何がお気に障ったのでしょう」
顔が斜め下に向いて、青あざになった部分が良く見えた。
わざと見せているのか? 昨日までは考えもしなかった疑惑が胸に湧く。
「あまり失礼なことを言ってはいけないよ。やんごとなきお立場の方だからね」
さりげなく身体を引き離そうとしてみても、クリスティーナは逆に涙をこぼしながら縋りついてくるのだ。
「わたくしのことを気遣ってくださいますのね」
柔らかな肢体。しばらく身を清めていないはずなのに、ほのかに香る花の匂い。
「……きっとわたくしに何か至らないところがあるのでしょう。たった数日のことですし、辛抱できますわ」
男というものは、美しく嫋やかな女性を拒絶しにくいものだ。
リヒターは白手袋をした手で、クリスティーナの痛々しく痣のできた頬を撫でた。
指輪の不在を誤魔化すために、似たような太さのものを見繕って手袋の下に着けている。
彼女はその上をそっと撫で、満足そうにまた愛らしく微笑んだ。
「こういう機会でもないとお会いできない方ですから、仲良くして頂きたいと思ってはいるのですが」
「きっと御方様も心優しい君を理解してくれるよ」
仲良く、というのはどういう意味だろう。
いと高き地位をも望める御方と、一介の町娘……どう考えても、親しく交流を持つ可能性など無さそうに思うのだが。
「ジークさまもそう思われますか?!」
クリスティーナは、リヒターが適当に打った相槌にパッと表情を明るくした。
「一度でかまいませんので、晩餐をご一緒できませんかとお伝えください。……わあっ、楽しみ!」
言質を取られた形なってしまい、唖然とした。いや、もともと晩餐に誘うつもりではいたのだが。
彼女の方から申し出てくれて有難いと思いつつも、ぴょんと小さく跳ねるその仕草に目を見開く。
確か彼女は二十代半ば。成人前の子どもでもしないような無邪気な喜び方に、昨日の己であれば微笑ましく目を細めたのだろう。
再びぎゅっとしがみつかれ、腕に柔らかな胸の感触が伝わってきた。
見下ろすと、さりげなく谷間が見えている。ドレスのボタンの一番上が外されているのは、故意か、偶然か。
ぞっとした。
穿った目で見れば、そこかしこに作為的なものを感じる女だった。
自分はこんな女に、のめり込もうとしていたのか。
あの御方に仕える使用人たちの、指先まで行き届いた美しい所作を目の当たりにしたリヒターの目には、いい年をして幼子のように無邪気にはしゃぐ姿は怪異に映る。
まるで目から氷でも発射しそうに恐ろしいあの一等女官でさえ、どの角度から見ても隙なく美しいと思えるのに。
「ジークさま?」
ごくり、と喉を鳴らしそうになったのを堪えて、懸命に唇を笑みの形にほころばせた。
「なんだい、お嬢さん」
「お時間がございましたら、一緒にお茶を如何でしょうか? お父様の探索がどうなっているのか是非聞きたくて」
「……ああ、そうだな」
桃色の唇。琥珀色のとろりとした瞳。目じりにくっきりとひとつ、泣きほくろ。
確かに美しく、どこに居ても際立つであろう容姿をしている。
しかしもはや、愛らしいその微笑みに魅入られることはなかった。
背筋をぞっと走った冷たいものを、まるであの女官の視線を浴びたときと同じぐらいに恐ろしいと感じてしまったのだ。
昨日まではあんなにも可憐だと、無垢で清楚な美女だと思っていたのに。顔と言い、身体つきと言い、文句なしに好みのタイプに違いないのに。
そして一度そう思ってしまえば、頬を染めてほほ笑むクリスティーナに抱き着かれても、感じるのは嫌悪感だけだった。
「とっておきの茶葉がある。カ国のものだから、なかなか流通しないんだが、風味が独特で……」
リヒターは一瞬ギュッと抱き込むような仕草をしてから、彼女の顔を覗き込んだ。
そうすれば離れてくれると思ったからだが、確かに腕に抱き着くのはやめてくれたが、熟れた目で見つめられて頬が引きつりそうになる。
「いろいろと話したいことがある。士官食堂へ行こうか、湯をもらってこよう」
「はい、中将さま」
内心どう感じていようとも、根性でそれを呑み込んで耐えた。
女性に恥をかかせる云々ではなく、ただリヒター自身の自尊心のために。
どこの小憎たらしい女官にも、二度と『役に立たない』などと言わせはしない。
「君の話もきかせておくれ。ところで薔薇の花びらの砂糖漬けは好きかな?」
意図して、甘く蕩けるような微笑みを浮かべた。
満面の笑顔で駆け寄ってくるのは、ふわふわとした栗色の髪の美女。
肌の色は抜けるように白く、触れるのを躊躇ってしまう程に可憐な容姿だ。
その花の顔を桃色に染め、濡れたような両目で見上げてくる様はさながら天女のよう。
「ようやくお会いできました! わたくし、不安で寂しくて……」
「すまない、美しいクリスティーナ。悲しい宮仕えの身なんだ」
口からは、意図するまでもなくするりと柔らかな声が出た。直接顔を合わせたら怒りを我慢できないのではないかと思ったが、存外そうでもないらしい。
「あの方ですね……」
クリスティーナは悲し気に眉を下げ、ふっくらとした唇をきゅっと噛んだ。
「先ほど、食事を運んできたメイドにぶつかって、危うく転んでしまうところでした」
「そうか、大型艦とはいえ時に揺れるからな。怪我はなかったか?」
つい無意識のうちにその滑らかな髪を撫でていて、己の行為にぞっとした。
まだ洗脳が溶けていないのだろうか。この女の思うがままに操られているのだろうか。
クリスティーナ・ホーキンズは、二十代半ばの商人階級の女だ。父親が手広く商会を経営しているらしく、おっとりとした口調に育ちの良さを感じる。手入れの行き届いた髪や手指をしていて、身なりも平民にしては良いもので整えている。言葉遣いに訛りなどもなく、見目だけで言えば貴族の御令嬢と名乗っても違和感はないだろう。
「……どうして妾妃さまは、わたくしに意地悪をなさるのでしょう」
ほろり、と大粒の涙が長い瞼に引っかかって落ちた。
「わたくしの何がお気に障ったのでしょう」
顔が斜め下に向いて、青あざになった部分が良く見えた。
わざと見せているのか? 昨日までは考えもしなかった疑惑が胸に湧く。
「あまり失礼なことを言ってはいけないよ。やんごとなきお立場の方だからね」
さりげなく身体を引き離そうとしてみても、クリスティーナは逆に涙をこぼしながら縋りついてくるのだ。
「わたくしのことを気遣ってくださいますのね」
柔らかな肢体。しばらく身を清めていないはずなのに、ほのかに香る花の匂い。
「……きっとわたくしに何か至らないところがあるのでしょう。たった数日のことですし、辛抱できますわ」
男というものは、美しく嫋やかな女性を拒絶しにくいものだ。
リヒターは白手袋をした手で、クリスティーナの痛々しく痣のできた頬を撫でた。
指輪の不在を誤魔化すために、似たような太さのものを見繕って手袋の下に着けている。
彼女はその上をそっと撫で、満足そうにまた愛らしく微笑んだ。
「こういう機会でもないとお会いできない方ですから、仲良くして頂きたいと思ってはいるのですが」
「きっと御方様も心優しい君を理解してくれるよ」
仲良く、というのはどういう意味だろう。
いと高き地位をも望める御方と、一介の町娘……どう考えても、親しく交流を持つ可能性など無さそうに思うのだが。
「ジークさまもそう思われますか?!」
クリスティーナは、リヒターが適当に打った相槌にパッと表情を明るくした。
「一度でかまいませんので、晩餐をご一緒できませんかとお伝えください。……わあっ、楽しみ!」
言質を取られた形なってしまい、唖然とした。いや、もともと晩餐に誘うつもりではいたのだが。
彼女の方から申し出てくれて有難いと思いつつも、ぴょんと小さく跳ねるその仕草に目を見開く。
確か彼女は二十代半ば。成人前の子どもでもしないような無邪気な喜び方に、昨日の己であれば微笑ましく目を細めたのだろう。
再びぎゅっとしがみつかれ、腕に柔らかな胸の感触が伝わってきた。
見下ろすと、さりげなく谷間が見えている。ドレスのボタンの一番上が外されているのは、故意か、偶然か。
ぞっとした。
穿った目で見れば、そこかしこに作為的なものを感じる女だった。
自分はこんな女に、のめり込もうとしていたのか。
あの御方に仕える使用人たちの、指先まで行き届いた美しい所作を目の当たりにしたリヒターの目には、いい年をして幼子のように無邪気にはしゃぐ姿は怪異に映る。
まるで目から氷でも発射しそうに恐ろしいあの一等女官でさえ、どの角度から見ても隙なく美しいと思えるのに。
「ジークさま?」
ごくり、と喉を鳴らしそうになったのを堪えて、懸命に唇を笑みの形にほころばせた。
「なんだい、お嬢さん」
「お時間がございましたら、一緒にお茶を如何でしょうか? お父様の探索がどうなっているのか是非聞きたくて」
「……ああ、そうだな」
桃色の唇。琥珀色のとろりとした瞳。目じりにくっきりとひとつ、泣きほくろ。
確かに美しく、どこに居ても際立つであろう容姿をしている。
しかしもはや、愛らしいその微笑みに魅入られることはなかった。
背筋をぞっと走った冷たいものを、まるであの女官の視線を浴びたときと同じぐらいに恐ろしいと感じてしまったのだ。
昨日まではあんなにも可憐だと、無垢で清楚な美女だと思っていたのに。顔と言い、身体つきと言い、文句なしに好みのタイプに違いないのに。
そして一度そう思ってしまえば、頬を染めてほほ笑むクリスティーナに抱き着かれても、感じるのは嫌悪感だけだった。
「とっておきの茶葉がある。カ国のものだから、なかなか流通しないんだが、風味が独特で……」
リヒターは一瞬ギュッと抱き込むような仕草をしてから、彼女の顔を覗き込んだ。
そうすれば離れてくれると思ったからだが、確かに腕に抱き着くのはやめてくれたが、熟れた目で見つめられて頬が引きつりそうになる。
「いろいろと話したいことがある。士官食堂へ行こうか、湯をもらってこよう」
「はい、中将さま」
内心どう感じていようとも、根性でそれを呑み込んで耐えた。
女性に恥をかかせる云々ではなく、ただリヒター自身の自尊心のために。
どこの小憎たらしい女官にも、二度と『役に立たない』などと言わせはしない。
「君の話もきかせておくれ。ところで薔薇の花びらの砂糖漬けは好きかな?」
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