月誓歌

有須

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修道女、夢と現実の狭間に惑う

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 陛下に抱きかかえられながら入浴を済ませた。
 ところどころ意識が朧で、半ば眠ったような状態だったので、その時は恐れ多いなどとは思わなかったし、むしろ意思に反して髪や身体を洗われたりだとか、オイルを塗りこまれたりだとか、不愉快に感じて文句を言った気がする。
 再び舞い戻ってきたベッドで、足を組んだ陛下の膝の上に座らされ、うつらうつらしながら顔に何かを塗りたくられた。
 冷静に考えたらとんでもない事だ。
 あろうことか、メイドに混じって身支度の手伝いをさせてしまったのだ。
 やんごとないご身分だというのに、手ずからメイラの身体や髪を拭いてくださった。
 更には、下着を着せられ、化粧され、短い髪を隠すように編み込まれ、指先足先のマニュキュアが乾くまでずっと背後で身体を支えていてくれた。
 本当に申し訳ない。
 いや本当に、今からどこかそのあたりに穴を掘ってきますから!
 いくらか正気に戻ったときには、長い支度は仕上げの段階に入っていた。
 完全に何もかもを覚えていないないわけでもないメイラは、真っ赤になり、次いで真っ青になった。
 記憶の中に、陛下に文句を言ってペシリと頬を叩いた記憶がある。
 いやいやいや。
 きっとそれは妄想の産物に違いない!
「……ようやく起きたか、妃よ」
 くすくすと悪戯っぽく笑う声は、上機嫌だ。
 メイラは上目遣いに、ちらりと背後の陛下を見上げた。
「ああ、化粧をしたそなたも美しいな」
 とろり、と溶けそうな眼差しだった。
 すっと頬を撫でられ、指先がぼってりと厚く紅を塗られた唇のまわりを辿る。
「口づけたいが……やめておこう」
 近づいてきたフランの手には、小さな銀色の四角いお盆。その上には、真っ白の絹の靴下が乗っている。
「どれ、靴下もはかせてやろうか」
「……っ! いえっ」
 さすがに恥ずかしすぎる。
 真っ赤になってぶんぶんと首を振ると、にこやかなユリが一礼して足元に膝をついた。
「今更照れずともよかろう?」
 陛下は笑っている。メイドたちも微笑まし気な顔をしている。
 しかしメイラは見過ごさなかった。無表情で壁際に控えているルシエラの隣で、二等女官マロニアの顔が盛大にひきつっていることを。
 常識人なのはきっと彼女だ。これはあきらかに異常事態だ。
 しかし、動揺して視線を揺らすメイラなど完全無視で、どんどん支度が進んでいく。
 ユリの手によりレースの靴下が履かされた。キャミソールの裾からのぞいているガーターベルトの留め具をパチンと付けたのは、あろうことか陛下だ。
低く笑いを含んだ声で、「きつくはないか」と問われるが、顔から火が出るのではないかと思う程に赤面し、言葉にならなかった。
 今更だ。確かに今更だ。
 陛下にもメイドたちにも、もっと恥ずかしい姿を見せてしまった後だということは確か。
 しかしガーターベルトなどという、本来男性に見せるべきではないものに触れられるのは、若いメイラには飛び上って逃げ出したくなるほど恥ずかしいことだった。
「……そんな顔をしてくれるな、妃よ」
 頭の先からつま先まで真っ赤になってしまったメイラの耳を、低く甘い声が支配する。
「食べてしまいたくなるではないか」
「失礼ですが陛下、お時間がございません」
「相変らずその方は無粋だな、ルーベント」
「ルシエラ・マイン一等女官です、陛下」
 ルシエラの冷ややかな声色にビクリと反応したのは、メイラとマロニアだけだった。
 名前すら覚えられないのか無能! と彼女の内なる声が言った気がするが、まさか陛下相手に気のせいだろう。
「本来貴婦人の身支度に男性は関与しないものです。外でお待ちになってくださいとあれほど申し上げましたのに」
「いやだ」
「子どもではないのですから」
「邪魔はせぬと言った」
「邪魔をしております」
「まあまあ、ルシエラさま。もう終いですので」
 この状況に口を挟めるユリはすごいと思う。
「御方様を支えて頂いて、とても助かりました」
「そうだな。眠り姫の世話は女手には少し余ろう」
 手に余るほどのご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございません!
 その場で額づいて謝罪したかったが、陛下の膝の上でがっちりとホールドされているので身じろぎ程度しかできなかった。
「そのまま御方様を立たせていただけますか?」
 ユリ! 陛下になんということをお願いするの!?
 窘めようとするより先に、視界に飛び込んできた物に唖然とした。
 フランが両腕で捧げ持つように運んできたのはドレス。
 流行のゴージャスに布が多いものではなく、ずいぶんとシンプルに見える。
 いや、問題はそんなことではない。
「へ、陛下」
「ハロルドだ」
「ハロルドさま」
 一晩がかりで教え込まれた条件反射で、不敬にも陛下のお名前を呼んでしまった。
 ハッと我に返ったときには、ユリは動きを止めており、フランも中途半端な体勢でドレスを掲げ持って固まっている。
「そなたにその色を下賜する」
 そのドレスは、ほとんど一色で構成された特別なものだった。
 美しい紫色のグラデーション。中央部分が濃い紫色で、裾に行くにしたがって淡く可愛らしいすみれ色に変化する。計算され尽くした、非常に美しい色配分だ。
「今から紫はそなたの色だ」
 理解が追いつかず、現実感に乏しい感覚で瞬きを繰り返した。
 皇族にはそれぞれ個人を示す色があり、たとえば陛下は黒だ。普段から黒い色のお召し物が多く、武具の基本色もそれで統一されている。
 皇帝の妻である皇妃にも、それぞれ色が配されていて、第一皇妃は赤、第二皇妃は白というように、決められた色の離宮に住み、決められた色を冠した名前が呼称となる。
 それだけではない。
 フランが両手に持つドレスの色は、本来位の高い皇族の持ち色なのだ。確かに今現在その色を配された方はいないが、メイラごときが身にまとうにはあまりにも不相応。
 かといって、固辞するのも不敬だ。
 どうすればよいのかわからずにいるうちに、気を取り直したメイドたちにより、テキパキとドレスの着付けが始まった。
 これから長い旅になるので、きついコルセットなどはつけない。つけずともメイラの腰は細いが、その分胸が寂しい事になっていて、補正の胸パットがあらかじめセットされているのがなんともいえない。
 肌に触れる布のすべらかさに感動した。
 これまで触れたこともないような手触りだった。
 メイラがその事に気を取られているうちに、複雑な構造などないシンプルなドレスはあっという間に身に沿って落ちた。
「……ああ、想像していたとおりに良く似合う」
 陛下、陛下。
 全身を見て頂くのは結構なのですが、子供のように脇に手を差し込んでぶら下げないでください。
「っ!」
 高い、高いです!!
 陛下の目の高さまで持ち上げられて、足先はもちろん床につかない。
「小物はやはり黒にしよう。私の色だ」
 頷いたフランがまたもどこかへ行って、戻ってくるまでの間中ずっと、陛下はまるで獲物を掲げ持つかのようにメイラを高く持ち上げたままでいた。
 泳いでいた視線を、ようやく陛下の方へと向けると、ものすごい吸引力のある強い目力に囚われてしまった。
「……へいか」
「ハロルドだ」
「ハロルドさま」
 いつまでたってもすんなり呼べる気はしないが、訂正されたので無意識のうちに正し、たどたどしく呼びかける。
「あ、あの……おろしてください」
「何故」
「腕がお疲れでは?」
「そなたは小鳥のように軽い」
 そんな訳はない。
 いや確かに、鳥ガラのようだと言われたことは何度かあるが。
「そなた程度の重さを一晩中抱いていようとも疲れはせぬ」
 ぱっと赤くなったそこの二等女官! 今何を連想しましたか。
 だ、抱くっていうのは男女のアレのことではありませんからね!
 フランが銀盆の上に、靴を乗せて戻ってきた。
 光沢のある黒い靴だった。夜会などで使う正式なものよりは踵が低いが、街歩きなどの実用性には欠く、暖炉の上に飾っておきたいような美しい品だ。
 ようやく高い位置から降ろしてもらえたが、それでも陛下の膝の上だった。
 何故だか楽しそうなユリが、再び絨毯の上に膝をつく。
 靴はあつらえたようにぴったりだった。
 ……いや、あつらえたようにではなく、おそらくはドレス同様、メイラの為に作られたものだろう。この短期間に、申し訳ない。
「小さな足だな。外を歩かせるのが不安だ」
 陛下、陛下。
 もしかしてずっと抱きかかえて運んでくださっているのはそのせいでしょうか?
 いやいや、市井育ちの元修道女です。一キロ二キロどころか、十キロでも二十キロでも休憩なしに歩けますとも!
 編み込まれた髪に、恭しい手つきで紫色の玉飾りを刺すのはシェリーメイ。
 フランは先ほどから支度の道具を運ぶ係で、テキパキと大股に動き回っている。
 ユリは黒いレースの装飾品をドレスに結いつける作業をしていて、複雑で絡まりそうな留め具を迷いなく的確につないでいた。
 ちょっと待ってください。
 段々ドレスが重くなってくるのですが。
 素晴らしい手触りの、羽のように軽いドレスだったのに!
 見下ろすと、レースに大きな宝石が縫い込まれているのに気づいた。
 え? ガラス玉ですよね? ものすごくキラキラした紫色で、レース糸が通された台座は黒光りした金属製だ。
 確かに美しい。淡い紫色のドレスに差し色で黒のレース。上品で大人びた、それでいて清楚な雰囲気。
 メイラでは着ているというより着られている感満載だろうが、陛下のお心が詰まったドレスだと思えば有難くて涙が出そうになる。
 ……しかし。
 重い。なんだかいろいろな所がものすごく重い。
 気づくと、メイドたちは数歩先の位置まで下がり、深々と礼を取っていた。
 反射的に頷き返そうとして、頭を動かした瞬間に重みで重心がぶれた。
「……」
 べったりと紅の乗せられた唇が引きつった。
 シェリーメイ、頭に一体何を刺したの?!
 手首まで覆う優美な袖はふわふわして見えるのに、腕に感じるこの重みは何だ。
 まさか罰ゲームか何かで、全身に重りを仕込まれているとかそんなことは……
「ああ、仕上がったか」
 だらりと垂れたメイラの手を、陛下がそっと持ち上げる。
 甲にまでおしろいを塗られた右手が、陛下の口元まで攫われていく。
 フランが掲げるトレイから、黒いフィンガーレスのグローブを取り、陛下は手づからそのリングを中指に通した。
 見事なレースとビーズ(……だよね?)のキラキラしいグローブが、手の甲から手首を覆う。
「……これはお守りだ」
 よく見ればそのリングは繊細な造りの指輪で、ぐるりと一周、目立たないように魔石が埋め込まれていた。
 魔法を学ぶ機会はなかったので分からないが、何らかの術式が封じ込まれているのは確かだ。
「旅の無事を祈る」
 再び指先に唇を落とされ、ああ、本当にもうお別れなのだと悟った。
「陛下のご安寧と、ご健勝と……神のご加護を」
「ハロルドだ」
「はい、へ……ハロルドさま」
 声は震えてしまったが、なんとか笑顔を返せたと思う。
 泣くのは、一人きりになってからでいい。
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