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修道女、これはきっと夢だと思う
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ゆっくり瞼を開ける。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、目の前にある筋肉質の胸板に焦点を合わせる。
ああ……陛下だ。
そう思った瞬間、安堵の念が沸き上がってくる。
「おはよう」
耳元に落ちてくる少し掠れた低音に、すっかり慣れてしまった自分が怖い。
「……おはようございます」
今日も今日とて陛下は下ばき一枚のほとんど裸だった。いい加減乙女との同衾に気を使ってほしいのだが。
もちろんそんなことは口に出しては言えないので、ほんのり顔を上気させ視線を泳がせた。
「熱はだいぶ下がったな」
「はい、陛下」
「辛いところはないか?」
「はい」
メイラのほうはさすがに夜着を着ているが、かなり薄手なので、布越しに陛下の高めの体温がはっきりと伝わってくる。
腕枕をしていた手が動き、そのままそっと髪を撫でる。
耳に触れ、頬をたどり。軽く顎を持ち上げられたところできゅっと目を閉じた。
低く男性的に笑う声がした。
「今朝も愛いな、妃よ」
「……っ」
軽く唇をついばまれる。
遠慮もなく舌が潜り込んできて、まったりと咥内をまさぐり、更に深く食もうと角度が変わったところで、ごほんと場違いな咳払いがした。
「……無粋な真似をするな。少しぐらい良いだろう」
大きな手が腰を、尻を撫でる。
「なりません。御方様はまだご本復されておりません」
陛下はともかく、寝起きにエルネスト侍従長の声を聴くのはまだ慣れない。
その「陛下はともかく」という部分に自分でも突っ込みどころ満載だったが、あえて深く考えないようにした。
太腿を撫でる手の動きに、ふるふると全身が震える。
見られている。
侍従長に、壁際で空気のようになって控えているメイドたちに、護衛の騎士たちに。
陛下にとって閨事はそういうものなのかもしれないが、市井育ちのメイラには耐えがたい羞恥だった。
悲鳴を上げて、頭から毛布をかぶってしまいたい。枕をぶつけ、こっちを見ないで! と大声で叫びたい。
……もちろん、そんなこと出来るはずもないのだが。
「本日の予定を申し上げます」
エルネスト侍従長の、淡々と続く口調がありがたかった。その調子で何事もなかったかのようにスルーしてほしい。
陛下も! 怪しげに手を動かすのはやめて下さい!!
クックっと笑う喉の動きを睨むと、おそらく真っ赤になっているのだろう頬を撫でられた。
「早く良くなれ」
「……はい、陛下」
若干不貞腐れた声でそう言うと、更に機嫌が良さそうになるのは何故だろう。
陛下が大きな掛布をめくると、ひんやりとした空気に身体が震えた。
メイラのそんなささやかな仕草をも敏感に察知して、空気がもれないようぎゅっと包みなおしてくれる。
「見送りはいいからもう少し寝ていなさい。まだ朝も早い。」
そう言いながらメイラの髪を撫で、こめかみに口づけをひとつ。
ベッドの脇に立つその姿は、下ばき一枚、つまりはほぼ裸。どこも隠そうとはしない。少しも恥ずかしがる素振りがないのは、その見事な肉体美を誇示したいからなのか。
恨みがましくそう思ってしまう程、陛下の身体には不要なぜい肉などみあたらなかった。
メイラは掛布の下で、やわらかな己の脇腹を摘まんでみた。
美しいプロポーションとは程遠い体形だ。あばら骨が浮くほどに貧相で、腹はたるんでいる。せめてこのたるんだ肉が胸に回ってくれたらいいのに……。
エルネスト侍従長にガウンを掛けられた陛下が、最後に一度、メイラの方を振り返る。
その深い色合いの瞳が好きだ。優しく綻ぶ唇が好きだ。
陛下の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見送って、ぐいぐいと枕に額をねじ込んだ。
……ああそうだ、認めよう。
メイラはもはや言い訳しようもないほど、陛下を愛してしまっていた。
あまりにも簡単で、あまりにも単純な恋の落ち方だった。
確かに陛下は夫だ。しかしメイラは、数いる妻たちの一人にすぎない。
さして美しいわけでも、可愛らしいわけでも、特出した才能があるわけでもない。ごく平凡な、貴族を名乗るのもおこがましい、育ちの悪い小娘だ。
今はそばに居てくださるが、いつかは遠くに去ってしまうだろう。メイラより美しい、たとえば第二妃殿下のような方のもとに帰られるのだろう。
枕に頭をうずめたまま、じわりと瞼が緩むのを許した。
覚悟をしておかねばならない。決して自分だけの夫にはならないのだと。
「……メルシェイラさま?」
しばらくそのままじっとしていると、ユリの気づかわし気な声がした。
これ以上心配をかけたくはないが、顔を上げることはできそうになかった。
「どうされましたか? ご気分でも?」
「少し眠いの」
「さようでございますか。では部屋を暗くしましょう」
目を閉じると、くらり、と眩暈がした。
確かにまだ熱がある。あまり食事をとっていないので、体力も落ちている。このまま患ったままでいれば、陛下はずっとお優しく気遣ってくださるだろうか。
それぐらいしか陛下を引き留めておく手段を思いつけない自分が、たまらなく情けなかった。
とはいっても、元来健康体なので数日とかからず回復してしまうだろう。無理やり吐かされたせいで喉が少し痛むが、今ある熱もおそらく微熱程度だ。
回復してしまえば、後宮に戻ることになるのだろう。
そうすれば、陛下は他の妃のもとへ行ってしまう。簡単には会えなくなる。
最初から分かっていたことなのに、それは嫌だと心が叫ぶ。
ずっとそばに居て、ずっとそばで笑っていて。
わきまえなければいけない立場なのに、浅ましいそんな思いが胸を締め付ける。
静かにカーテンが引かれる音がした。ベッドの天蓋布まで下げられて、腕で覆った視界の外が薄暗くなる。
今だけは、ベッドの上の限られた空間にメイラただ一人。誰からの視線も気にすることなく居られる。
ユリのその気遣いに感謝しながら、涙で枕が湿ってくるに任せた。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、目の前にある筋肉質の胸板に焦点を合わせる。
ああ……陛下だ。
そう思った瞬間、安堵の念が沸き上がってくる。
「おはよう」
耳元に落ちてくる少し掠れた低音に、すっかり慣れてしまった自分が怖い。
「……おはようございます」
今日も今日とて陛下は下ばき一枚のほとんど裸だった。いい加減乙女との同衾に気を使ってほしいのだが。
もちろんそんなことは口に出しては言えないので、ほんのり顔を上気させ視線を泳がせた。
「熱はだいぶ下がったな」
「はい、陛下」
「辛いところはないか?」
「はい」
メイラのほうはさすがに夜着を着ているが、かなり薄手なので、布越しに陛下の高めの体温がはっきりと伝わってくる。
腕枕をしていた手が動き、そのままそっと髪を撫でる。
耳に触れ、頬をたどり。軽く顎を持ち上げられたところできゅっと目を閉じた。
低く男性的に笑う声がした。
「今朝も愛いな、妃よ」
「……っ」
軽く唇をついばまれる。
遠慮もなく舌が潜り込んできて、まったりと咥内をまさぐり、更に深く食もうと角度が変わったところで、ごほんと場違いな咳払いがした。
「……無粋な真似をするな。少しぐらい良いだろう」
大きな手が腰を、尻を撫でる。
「なりません。御方様はまだご本復されておりません」
陛下はともかく、寝起きにエルネスト侍従長の声を聴くのはまだ慣れない。
その「陛下はともかく」という部分に自分でも突っ込みどころ満載だったが、あえて深く考えないようにした。
太腿を撫でる手の動きに、ふるふると全身が震える。
見られている。
侍従長に、壁際で空気のようになって控えているメイドたちに、護衛の騎士たちに。
陛下にとって閨事はそういうものなのかもしれないが、市井育ちのメイラには耐えがたい羞恥だった。
悲鳴を上げて、頭から毛布をかぶってしまいたい。枕をぶつけ、こっちを見ないで! と大声で叫びたい。
……もちろん、そんなこと出来るはずもないのだが。
「本日の予定を申し上げます」
エルネスト侍従長の、淡々と続く口調がありがたかった。その調子で何事もなかったかのようにスルーしてほしい。
陛下も! 怪しげに手を動かすのはやめて下さい!!
クックっと笑う喉の動きを睨むと、おそらく真っ赤になっているのだろう頬を撫でられた。
「早く良くなれ」
「……はい、陛下」
若干不貞腐れた声でそう言うと、更に機嫌が良さそうになるのは何故だろう。
陛下が大きな掛布をめくると、ひんやりとした空気に身体が震えた。
メイラのそんなささやかな仕草をも敏感に察知して、空気がもれないようぎゅっと包みなおしてくれる。
「見送りはいいからもう少し寝ていなさい。まだ朝も早い。」
そう言いながらメイラの髪を撫で、こめかみに口づけをひとつ。
ベッドの脇に立つその姿は、下ばき一枚、つまりはほぼ裸。どこも隠そうとはしない。少しも恥ずかしがる素振りがないのは、その見事な肉体美を誇示したいからなのか。
恨みがましくそう思ってしまう程、陛下の身体には不要なぜい肉などみあたらなかった。
メイラは掛布の下で、やわらかな己の脇腹を摘まんでみた。
美しいプロポーションとは程遠い体形だ。あばら骨が浮くほどに貧相で、腹はたるんでいる。せめてこのたるんだ肉が胸に回ってくれたらいいのに……。
エルネスト侍従長にガウンを掛けられた陛下が、最後に一度、メイラの方を振り返る。
その深い色合いの瞳が好きだ。優しく綻ぶ唇が好きだ。
陛下の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見送って、ぐいぐいと枕に額をねじ込んだ。
……ああそうだ、認めよう。
メイラはもはや言い訳しようもないほど、陛下を愛してしまっていた。
あまりにも簡単で、あまりにも単純な恋の落ち方だった。
確かに陛下は夫だ。しかしメイラは、数いる妻たちの一人にすぎない。
さして美しいわけでも、可愛らしいわけでも、特出した才能があるわけでもない。ごく平凡な、貴族を名乗るのもおこがましい、育ちの悪い小娘だ。
今はそばに居てくださるが、いつかは遠くに去ってしまうだろう。メイラより美しい、たとえば第二妃殿下のような方のもとに帰られるのだろう。
枕に頭をうずめたまま、じわりと瞼が緩むのを許した。
覚悟をしておかねばならない。決して自分だけの夫にはならないのだと。
「……メルシェイラさま?」
しばらくそのままじっとしていると、ユリの気づかわし気な声がした。
これ以上心配をかけたくはないが、顔を上げることはできそうになかった。
「どうされましたか? ご気分でも?」
「少し眠いの」
「さようでございますか。では部屋を暗くしましょう」
目を閉じると、くらり、と眩暈がした。
確かにまだ熱がある。あまり食事をとっていないので、体力も落ちている。このまま患ったままでいれば、陛下はずっとお優しく気遣ってくださるだろうか。
それぐらいしか陛下を引き留めておく手段を思いつけない自分が、たまらなく情けなかった。
とはいっても、元来健康体なので数日とかからず回復してしまうだろう。無理やり吐かされたせいで喉が少し痛むが、今ある熱もおそらく微熱程度だ。
回復してしまえば、後宮に戻ることになるのだろう。
そうすれば、陛下は他の妃のもとへ行ってしまう。簡単には会えなくなる。
最初から分かっていたことなのに、それは嫌だと心が叫ぶ。
ずっとそばに居て、ずっとそばで笑っていて。
わきまえなければいけない立場なのに、浅ましいそんな思いが胸を締め付ける。
静かにカーテンが引かれる音がした。ベッドの天蓋布まで下げられて、腕で覆った視界の外が薄暗くなる。
今だけは、ベッドの上の限られた空間にメイラただ一人。誰からの視線も気にすることなく居られる。
ユリのその気遣いに感謝しながら、涙で枕が湿ってくるに任せた。
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