月誓歌

有須

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修道女、マジ泣きする

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 ひどい目に遭った。
 他人様に喉まで手を突っ込まれるなど、もちろん初めての体験だ。何度も強制的に吐かされて、呼吸すらままならず、死にそうな思いをした。
 もうやめてくれと抵抗しても、誰も聞いてくれない。逆に味方のはずの皆に抑え込まれ、盥にたまった己の吐瀉物の上にグイグイと顔を近寄らされて、ぼろぼろと涙が零れた。
 胃袋をひっくり返されるような荒行に、最後の方は意識を無くしていたように思う。
 たとえ毒物を飲まされていなくとも、体力が枯渇したあの状況での無体は失神しても仕方がない。
 ゆっくりと宥めるように髪を梳かれて、ぼんやりと瞼を持ち上げた時には、指先一本持ち上げる元気すら残っていなかった。
 いつの間にか部屋が変わっていた。
 若干サイズが小さくなった寝台に、狭くなった部屋。
 豪華さは少し控えめで装飾品も少ないが、やはり貴人向けらしく金がふんだんに使われた、より実用的な部屋だ。
 メイラの身体はしっかりと毛布に包み込まれ、背後から抱き込まれていた。
 陛下だ。
 顔を見ずとも、ウッド系の香料のにおいでそうとわかる。
 とろとろと半ば微睡んだ状態のまま、その逞しい腕に額を擦りつけた。
 髪を撫でていた手が止まり、そっと顔を覗き込んでくる気配がして。少し長いため息をついたのち、反対側の手で更に腰を引き寄せられる。
 額にチクチクと無精ひげが当たる。柔らかな口づけが、こめかみに振ってくる。
 ひどい目にあったが、今は安心だ。
 メイラは心底そう思いつつ、その逞しい腕の中でくるり、と寝返りを打った。
「……すまぬ」
 低い声が、まるで子守唄のように耳朶に響く。
「そなたを守り切れぬ不甲斐ない私を責めてくれ」
 その腕で抱きしめられると、すっぽりとおさまってしまってなお余る。
 赤子を宥めるように背中を擦られ、うっとりと吐息をもらした。
「そなたを傷つけたものを、決して許しはせぬ」
 囁かれた言葉に含まれる不穏さに、そのときのメイラはまったく気づいていなかった。
 ただうっとりと、どこよりも安全で安心できる場所への心地よさに浸っていた。
 おそらくそのまま眠ってしまったのだと思う。
 再び目を開くと、また場所が変わっていた。
「あっ! メルシェイラさま!!」
 シェリーメイが、弾むような泣き笑いの声でメイラの名前を呼んだ。
「ユリさま! メルシェイラさまが」
「ご気分はいかがですか?」
「……ユリ」
 ものすごく枯れて細い吐息のような声が喉から零れた。まるで瀕死の重病人のような声だ。
「無理に声は出さないでください」
「ここは」
「陛下の御寝室です。ここならば余程の事がない限り安全だろうとご配慮下さって……ああ、本当にようございました。私が食べさせた桃でメルシェイラさまを死なせるところでした」
 いや、違うでしょう。桃に毒などなかったはずだ。悪いのは気恥ずかしい記憶と、独力で身体を起こせなかった自分自身だ。
 しかしユリはすっかりそう思い込んでいるらしく、自責に耐えないという表情で唇を噛んでいる。
 メイラは力の入らない手をそっと伸ばし、握りしめられた彼女の手の甲に触れた。
 大丈夫なのだから、そんな顔はしないでほしい。そういう思いを込めて包み込むと、ユリははっとしたように顔を上げ、普段冷静な彼女らしくなく泣くのを我慢するかのように顔をゆがめた。
「メルシェイラさまの御膳には今後万全の体勢を敷くことが決まりました。すべて陛下と同じものが配されます。ご安心ください」
 そんな、大げさな。
 困惑して目を瞬かせていると、控えめなノックの音が聞こえた。
「そうでした、メルシェイラさまにお客様がお待ちです」
 入ってきたのはフランで、後宮にいる時同様真っ黒な上級メイド服を身にまとい、キリリと厳しい表情をしている。
 そんな彼女の視線がメイラの方を向き、わずかに大きく見開かれて、次いでふわりと綻ぶ。
「お目覚めですか」
「ええ、陛下にお伝えして」
「はい」
 待って! いちいちそんなことを報告しなくてもいいから!! というメイラの渾身の想いは通じなかった。
 フランはにっこりとわらい、丁寧な仕草で一礼してから引き留める間もなく退室してしまった。
 起きたばかりなのに! とか、身づくろいを!! とか、そういう焦りは受け取ってもらえて、ユリとシェリーメイの二人がかりで身体を起こされて、薄手の夜着の上から怯むほどに手触りのいいショールが掛けられた。
 いやだ、アルビアウールじゃない! リベリス産かな、トルタ産かも。
 さらりとした手触りと、ふんわりとした軽さ、しかも保温性ばっちりの高級素材だ。
 ついそちらに気を取られ、掌でその触感を堪能しているうちに、短い髪を丁寧に梳かれ、熱い布でそっと顔を拭われた。
 ささっと鏡が差し出され、そこに映っている青ざめやつれ切った己の顔にショックを受ける。
 ザンバラだった髪は、いつのまにか綺麗に整えられ、柔らかく頬を覆っていた。寝ぐせを水でぬらして丁寧に梳かしつけられても、もともとの
童顔がますます子供っぽく幼く見える。
 荒れて血色も悪い唇に少しだけ色のついた軟膏を塗られたが、それでもなお病人じみた様子は隠せない。
 まるっきり病気の子どもにしか見えないくて、がっくりと肩を落とした。
 これでは、周囲が心配するのも無理はない。
 落ち込んだ気分が復活しないうちに、再びドアがノックされた。
 フランが出て行ってからそれほど経っていなかったので、まさか陛下だとは思いもしなかった。
「よかった、気づいたか」
 エルネスト侍従長の手で開かれた扉の向こうから、荒っぽい足音とともに小走りに部屋に入ってきたその人の姿に、メイラはぽかんと口を開く。
 躊躇いもなくベッドの端に腰を下ろし、まだ少し濡れている髪を撫でてくれる大きな手。
 甘受している自身に驚愕してしまうが、その感覚は心地よく、もはやよく慣れたもので。
 そっと唇を指で辿られたので、だらしなく開いていたのを慌てて閉ざし、助けを求めて視線を泳がせる。
 あっという間にメイラの見た目を多少は見れる風に整えてくれた有能なメイドたちは、いつのまにかベッドから離れた位置に控え、恭しく頭を垂れている。
 エルネスト侍従長も、陛下の真後ろ、丁度メイラとは視線が合わない立ち位置に控えている。
 誰もメイラを救出してくれるものはおらず、無言で何度も頬を撫でられてどうしようかと思った。
 ごほん、と場違いに聞こえる大きな咳払いがした。
 メイラを撫でまわしていた陛下の手が止まり、上機嫌だった表情が一気に下降するのがわかる。
「そろそろよろしいでしょうか」
 ひゅっと、メイラの喉が鳴った。
 聞き間違いようのない枯れた声。冷淡そうな声色。
 恐る恐る顔を入り口の方に向けると、思った通りの人物が険しい表情で立っていた。
 その背後にいる背の高い人物よりも、左右に見える歩哨と思われる騎士たちよりも、小柄で痩せたその老人の存在感の方が強烈だった。
「……おとうさま」
 メイラがぽつり、とこぼしたその声に、老人の眉間の皺が深くなる。
 ハーデス公と呼ぶべきだったかと後悔するより先に、老人は深いため息をつき、口元を手で覆った。
「まったく、何をやっているのだお前は」
「……心配していたと素直に言ったらどうですか」
「黙れ愚息」
 メイラはきょとり、と目を見開いて、小柄な父親とその背後の屈強な男とを見比べた。
 愚息、ということは息子。つまりメイラの異母兄か。
 異母兄のひとりが武人であり、青竜将軍の任を受けているという事は知っている。しかし一度も会ったことはなかった。特にその容姿を想像した事もない相手だが、いくらか父に似た細身の男性なのだろうと思っていた。
 実物は父と比べるとあまりにも対照的で、背は高く、肩幅も広い。近衛の装束でもなく、憲兵や領兵のものともまた違う、独特なデザインの騎士服を身にまとっている。
 じっと見ていると、大きな手で視界を塞がれた。
「そなたは私以外の男を見ずとも良い」
「父親と兄ですよ」
「疎遠な父に、ほとんど会ったこともない異母兄だろう」
 ロバート・ハーデス将軍の低い声に、陛下が真剣な声色で答える。
「これにとって害になるのであれば、たとえ親兄弟だとしても近づくことは許さぬ」
 あまりにも冷ややかなその口調に、メイラは慌てて手を動かす。
 父と陛下が不仲になるなど、悪夢としか思えない。
 視界を覆う手に触れようとしたが、逆にその指先を囚われ、ぎゅっと握りこまれてしまった。
「見てのとおり体調が優れぬ。会わせたのだからもう良いだろう」
「いや少し待って下さい。先ほども申し上げました通り、娘と二人きりで話したいのですが」
 苦虫をかみつぶしたような父の声。
「話ならここでせよ」
 箸にも棒にも掛からぬ陛下の口調。
 あまりにもギスギスしたその雰囲気に、眩暈がしてくる。
 父ハーデス公爵は国内でも最有力の貴族だ。陛下は、そんな父を敵に回すべきではないのだ。
 そうは思っても、小娘一人にどうすることもできない。
「へ、へいか」
 思わず縋り付くようにそうつぶやく。その声はかすれていて、聞き苦しいものに違いなかったが、揉めていた双方の口舌がピタリと止まった。
 しばらくして、父の若干うわずったような咳払いが聞こえた。
「……わかりました。続きは執務室で話しましょう」
「そうだな」
 陛下が生真面目な口調で同意する。
 寸前までお世辞にも和やかとは言いかねるやり取りをしていたのに、何故だか急に双方ともに意を得た様子だ。
 父の黒い目がじっとメルシェイラを見つめて、不機嫌そうにしか見えない眉間の皺を更に深くしながら唇をゆがめた。
「メルシェイラ、よくよく養生して体調を戻せ。あとで滋養のあるものを届けさせる」
 どう見ても病床の娘に向ける視線ではなかったが、真後ろに立つ異母兄が笑いをこらえているような顔をしているので、怒っているわけではないのだろう。
「夕刻までには戻るので、休んでいるように」
 陛下の大きな手がそっとメイラの髪に指を差し込み、異母兄に向いていた視線を引き戻される。
 メイラは犬猫のように撫でまわされながら、所在なげに周囲を見回した。
 どうしてだろう、誰とも視線は合わなかった。
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