月誓歌

有須

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修道女、マジ泣きする

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 高熱が意識を溶かす。
 ぼんやりとした視界に、朱金色のきらめきを見た気がしたが、それが現実なのか妄想なのか定かではなかった。
 呼気は熱く、ベッドの上に横たわっていてさえ方向感覚が失せ頭がぐらぐらする。
 ずっと、かたくて温かくて頑丈な何かに包まれていた。
 絶えず、低く穏やかな声で呼びかけられていた。
 体つきも薄くそれほど頑健そうには見えないメイラだが、普段は風邪もほとんど引かない健康体である。
 これほどの高熱を出した経験などなかったし、こんなにも長く寝込んだこともなかった。
 時折戻る意識が、情けなくも泣き言をいう。
 暗い、寒い、怖い。
 痛い、つらい、悲しい。
 とりとめもない感情を垂れ流していた気がする。
 幼子のようにぐずるたびに、抱きしめられ、頭を撫でられる。
 記憶に遠い幼少期ですら、こんなに甘やかされたことはなかった。
「どうした、メルシェイラ。喉が渇いたか?」
 喉が渇けば、すぐに水を含まされ。
 寒いと思えば、抱き込まれ。
 汗をかいて不快になれば、着替えさせてもらう。
 甲斐甲斐しく世話を焼かれ、傲慢にもそれを当たり前のように甘受して。
 もしかしなくても、とんでもない迷惑を掛けてしまったのではないだろうか。
「……早く良くなれ」
 軽いリップ音と共に、こめかみに口づけが落とされる。
 え、これってどういう状況? と、急激に現実に立ち返ってしまったメイラがそう思ったのは、ものすごく豪華でやけに室温が高い寝室の中だった。
 目の前には、むき出しの太い腕。
 彼女に背後から抱き着いているのは、生娘の妄想などではなく現実の男性の裸体だ。
 恐怖はなかった。何よりもそれが不思議だった。
 きょとり、と目だけを動かして、黄金をふんだんに使った豪華すぎる室内の様子を伺ってみる。
 燃え立つ暖炉、魔道具のストーブがいくつか、その上に湯が満たされた鉄鍋が置かれている。
 分厚いカーテンの向こう側は夜のようなのに、広すぎる寝室の中は煌々と明かりが灯され眩いばかり。夜なのにどうしてこんなに明るくしているのだと苦情を言いかけて、口を開きはしたものの声は出なかった。
「……メルシェイラ?」
 幾分かすれた低音が、密着している身体に伝わってきた。
「目を覚ましたか。すぐに匙を呼ぶ」
「……っ」
 ぐるり、と身体を仰向けにされた。
 長い朱金色の髪が顔に落ちてくる。
 至近距離にある男性的な美貌に、メイラは言葉もなく震えた。
 手を伸ばす。その逞しい首に、必死で縋り付く。
 メイラが伸ばした腕は避けられることなく、しっかりと抱き返された。
「泣くな」
 耳元で、低く甘やかな声が囁く。
「恐ろしい目に遭わせて済まなかった。もう何も心配することはない。……ああ、目が溶けてしまうぞ。そんなに泣かないでくれ」
 声は出なかったが、まるで子供のように泣いた。
 いまだかつて、こんなふうに号泣したことなどなかった。
 抱きしめられて、頭や頬や肩や背中を撫でられて。低い声で宥めるように名前を呼ばれると、もはや堤が決壊したかのように涙があふれて止まらない。
 諸々の恐ろしかった記憶が押し寄せてきて、どうしようもなかった。
 恐ろしかったのだ。
 心細かったのだ。
 本心では、再びこの腕の中に戻れるなど信じてはいなかった。
 泣いて、泣いて、体中の水分をすべて絞り出すように泣いて。
 いつの間にかまた、深い眠りに陥っていた。
 しかし今度は、その闇を恐ろしいものには感じなかった。


 熱はなかなか下がらなかった。医師は精神的な疲労もあるだろうというが、あの凍りつく石の部屋に長時間囚われていたせいだと思う。
 多忙であろう陛下が、ずっとそばに付き添って下さっている事も申し訳なかった。
 しかし、風呂やトイレなどでわずかに離れるだけでも気持ちが不安定になる。
 不在の間ずっと不安でたまらず、震えて、涙がこぼれて。
 引き留めようと手を伸ばすのは無意識で、こんなことでは駄目だと思うのに自制が利かない。
 陛下が下手に甘やかすものだから、なおのことダメなのだ。ずっとその逞しい腕の中に居たいなどと、思ってはいけない方なのに。
 意識がはっきりしたり、混濁したりの数日を過ごした。
 正確な日数はわからないが、陛下を独占してもいい時間を軽く凌駕していることは確かだ。
「……もうよいのか?」
 少量の穀物粥をすくった陶器のスプーンを片手に、小首を傾げる仕草がなんともミスマッチだった。
 とろりと溶けたクジャク石のような双眸に、居たたまれなくなって俯く。
 そこに少し残念そうな色合いが含まれているなど、きっと気のせい。
 メイラはこくこくと数度頷き、更に手ずから柔らかな布で口元を拭われて赤面した。
 ―――どうしてこんな状況に。
 声を出せない以前の問題で、どう反応していいのかわからない。
 陛下が合図をすると、エルネスト侍従長がにこやかに微笑みながら半分ほど粥が減った椀を下げた。
「少し時間を置けば食せるか? 後でまた作らせるから、もう少し食べたほうが良い」
 短くなってしまった髪を丁寧に耳にかけられ、そのまま滑らせるように頬を撫でてくるものだから、ますます反応に困って目線が泳いだ。
「果物はいかがでしょう。甘い桃がありますよ」
「桃か。口当たりがよさそうだな」
「すぐにご用意いたします」
 すっと陛下の顔が近づいてきて、拭われた唇の端に触れるだけの口付けが落とされる。
 視線が合って、ふっと小さく微笑まれたものだから、メイラの意識は一気に処理能力の限界に達した。
 今こそ現実逃避して気絶するべき時なのに!
 吸引力抜群の視線に囚われて、まったく何も考えられなくなる。
「名残惜しいが、そろそろ仕事に戻らねばならん」
 陛下はそんなメイラに軽く頬を寄せ、長い溜息をついた。
 ずっと彼女の側にいて執務が滞っているのだろう。メイラは一介の妾妃にすぎない。こんなふうに寄り添い、看病してくれることこそが望外なのだ。
「そんな顔をしてくれるな。離れ難くなるだろう?」
 そっと優しい仕草で肩に腕を回されると、小柄なメイラはすっぽりと陛下の懐に収まってしまう。
「隣の部屋にいるから何かあれば呼ぶがよい」
 はっきりと聞いたわけではないが、ここはまだ港町サッハートだ。窓を開けた時にほのかに感じる潮のにおいから、間違いないだろう。
 メイラがこの場所を動けないのは体調不良から仕方がないのかもしれないが、陛下は違う。
 わざわざ帝都からエルネスト侍従長を含む文官たちを連れてきて、ここで執務をこなしているようなのだ。
 陛下がそうまでしてこの土地を動かないのは、うぬぼれでなければメイラのせいだろう。
 申し訳なくて。
 しかし、置いて行かれることが恐ろしくて。
 メイラは更に眉を下げ、視線を手元に落とした。
 この国で最も高貴で、最も責任あるご身分にある陛下を、たかだか一妾妃のもとに留め置くなどできるはずもない。
 いずれ帝都にもどられ、また当分会えない日が続くのだろう。
 そう思うだけで、指先が震え始める。
「そなたは何も心配せずともよい。安心して養生せよ」
 そんな彼女を宥めるように、陛下の大きな手が髪を梳く。
 優しいそのぬくもりに、またも鼻の奥がツンとして、慌てて目を瞬かせた。
 果たしてメイラは、まだ陛下の妾妃と名乗っても許される立場なのだろうか。
 男女が密室でお茶を飲むだけでも、特別な関係だと取りざたされる世の中だ。特に男性と接することを徹底的に制限されている後宮の住人が、誘拐されて幾日も所在不明だったなどと……戻ったところで何と言われるか。
 蔑まれるだけならまだいい。陛下に良からぬ瑕疵を負わせてしまうことになるのではないか?
 想像するだけで涙が出る。
「エルネストを付ける。好きに使え。それから……」
 ふっふと小さな含み笑いが耳元で聞こえた。
「そなたの兄を、しばらく護衛に残す」
 あに? 兄?
 メイラが小首を傾げると、つん、と頬をつつかれた。
「……血のつながった、実の兄なのだろう?」
 誰のことか本気で分からかなかった。咄嗟に父だと名乗ったダンの顔が思い浮かんだが、さすがに違うだろう。血のつながった異母兄たちのことは、これっぽっちも頭に過らなかった。
「見ていればわかる」
 困惑して振り仰ごうとしたが、ものすごく至近距離に陛下の顔があってまたも思考が止まってしまった。
 待っていたとばかりに、唇が寄せられる。今度は端ではなく、しっかりと密着させて。
 くちゅり、と湿った音がした。
 躊躇なく潜り込んできた舌が、ゆったりと咥内を探る。
 やがて光る糸を引いて離れ、再び陛下は男臭い含み笑いを漏らした。
「そなたは何を考えているのかわかりやすいな」
 いつの間にか、逞しい腕に囲われるようにしてベッドに埋まっていた。
「わたしに食べられたくなってきたか?」
 ギシリ、と背中の下でスプリングが軋む。
 上手く働かない頭が、ひどく頼りない警報を発していた。どうしようどうしようと、ただそれだけを考えているうちに、ほんのりと濡れた陛下の唇が再び近づいてくる。
「いずれ食い尽くしてやるから、早く良くなれ」
 風邪なら移るかもしれないとか、しばらく歯磨きしていないとか、そんな余計な混乱は、ユリウスに「ない」と言われたささやかな胸を、薄い夜着の上からそっと包まれたことで霧散した。
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