月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
61 / 207
修道女、マジ泣きする

5

しおりを挟む
 高熱が意識を溶かす。
 ぼんやりとした視界に、朱金色のきらめきを見た気がしたが、それが現実なのか妄想なのか定かではなかった。
 呼気は熱く、ベッドの上に横たわっていてさえ方向感覚が失せ頭がぐらぐらする。
 ずっと、かたくて温かくて頑丈な何かに包まれていた。
 絶えず、低く穏やかな声で呼びかけられていた。
 体つきも薄くそれほど頑健そうには見えないメイラだが、普段は風邪もほとんど引かない健康体である。
 これほどの高熱を出した経験などなかったし、こんなにも長く寝込んだこともなかった。
 時折戻る意識が、情けなくも泣き言をいう。
 暗い、寒い、怖い。
 痛い、つらい、悲しい。
 とりとめもない感情を垂れ流していた気がする。
 幼子のようにぐずるたびに、抱きしめられ、頭を撫でられる。
 記憶に遠い幼少期ですら、こんなに甘やかされたことはなかった。
「どうした、メルシェイラ。喉が渇いたか?」
 喉が渇けば、すぐに水を含まされ。
 寒いと思えば、抱き込まれ。
 汗をかいて不快になれば、着替えさせてもらう。
 甲斐甲斐しく世話を焼かれ、傲慢にもそれを当たり前のように甘受して。
 もしかしなくても、とんでもない迷惑を掛けてしまったのではないだろうか。
「……早く良くなれ」
 軽いリップ音と共に、こめかみに口づけが落とされる。
 え、これってどういう状況? と、急激に現実に立ち返ってしまったメイラがそう思ったのは、ものすごく豪華でやけに室温が高い寝室の中だった。
 目の前には、むき出しの太い腕。
 彼女に背後から抱き着いているのは、生娘の妄想などではなく現実の男性の裸体だ。
 恐怖はなかった。何よりもそれが不思議だった。
 きょとり、と目だけを動かして、黄金をふんだんに使った豪華すぎる室内の様子を伺ってみる。
 燃え立つ暖炉、魔道具のストーブがいくつか、その上に湯が満たされた鉄鍋が置かれている。
 分厚いカーテンの向こう側は夜のようなのに、広すぎる寝室の中は煌々と明かりが灯され眩いばかり。夜なのにどうしてこんなに明るくしているのだと苦情を言いかけて、口を開きはしたものの声は出なかった。
「……メルシェイラ?」
 幾分かすれた低音が、密着している身体に伝わってきた。
「目を覚ましたか。すぐに匙を呼ぶ」
「……っ」
 ぐるり、と身体を仰向けにされた。
 長い朱金色の髪が顔に落ちてくる。
 至近距離にある男性的な美貌に、メイラは言葉もなく震えた。
 手を伸ばす。その逞しい首に、必死で縋り付く。
 メイラが伸ばした腕は避けられることなく、しっかりと抱き返された。
「泣くな」
 耳元で、低く甘やかな声が囁く。
「恐ろしい目に遭わせて済まなかった。もう何も心配することはない。……ああ、目が溶けてしまうぞ。そんなに泣かないでくれ」
 声は出なかったが、まるで子供のように泣いた。
 いまだかつて、こんなふうに号泣したことなどなかった。
 抱きしめられて、頭や頬や肩や背中を撫でられて。低い声で宥めるように名前を呼ばれると、もはや堤が決壊したかのように涙があふれて止まらない。
 諸々の恐ろしかった記憶が押し寄せてきて、どうしようもなかった。
 恐ろしかったのだ。
 心細かったのだ。
 本心では、再びこの腕の中に戻れるなど信じてはいなかった。
 泣いて、泣いて、体中の水分をすべて絞り出すように泣いて。
 いつの間にかまた、深い眠りに陥っていた。
 しかし今度は、その闇を恐ろしいものには感じなかった。


 熱はなかなか下がらなかった。医師は精神的な疲労もあるだろうというが、あの凍りつく石の部屋に長時間囚われていたせいだと思う。
 多忙であろう陛下が、ずっとそばに付き添って下さっている事も申し訳なかった。
 しかし、風呂やトイレなどでわずかに離れるだけでも気持ちが不安定になる。
 不在の間ずっと不安でたまらず、震えて、涙がこぼれて。
 引き留めようと手を伸ばすのは無意識で、こんなことでは駄目だと思うのに自制が利かない。
 陛下が下手に甘やかすものだから、なおのことダメなのだ。ずっとその逞しい腕の中に居たいなどと、思ってはいけない方なのに。
 意識がはっきりしたり、混濁したりの数日を過ごした。
 正確な日数はわからないが、陛下を独占してもいい時間を軽く凌駕していることは確かだ。
「……もうよいのか?」
 少量の穀物粥をすくった陶器のスプーンを片手に、小首を傾げる仕草がなんともミスマッチだった。
 とろりと溶けたクジャク石のような双眸に、居たたまれなくなって俯く。
 そこに少し残念そうな色合いが含まれているなど、きっと気のせい。
 メイラはこくこくと数度頷き、更に手ずから柔らかな布で口元を拭われて赤面した。
 ―――どうしてこんな状況に。
 声を出せない以前の問題で、どう反応していいのかわからない。
 陛下が合図をすると、エルネスト侍従長がにこやかに微笑みながら半分ほど粥が減った椀を下げた。
「少し時間を置けば食せるか? 後でまた作らせるから、もう少し食べたほうが良い」
 短くなってしまった髪を丁寧に耳にかけられ、そのまま滑らせるように頬を撫でてくるものだから、ますます反応に困って目線が泳いだ。
「果物はいかがでしょう。甘い桃がありますよ」
「桃か。口当たりがよさそうだな」
「すぐにご用意いたします」
 すっと陛下の顔が近づいてきて、拭われた唇の端に触れるだけの口付けが落とされる。
 視線が合って、ふっと小さく微笑まれたものだから、メイラの意識は一気に処理能力の限界に達した。
 今こそ現実逃避して気絶するべき時なのに!
 吸引力抜群の視線に囚われて、まったく何も考えられなくなる。
「名残惜しいが、そろそろ仕事に戻らねばならん」
 陛下はそんなメイラに軽く頬を寄せ、長い溜息をついた。
 ずっと彼女の側にいて執務が滞っているのだろう。メイラは一介の妾妃にすぎない。こんなふうに寄り添い、看病してくれることこそが望外なのだ。
「そんな顔をしてくれるな。離れ難くなるだろう?」
 そっと優しい仕草で肩に腕を回されると、小柄なメイラはすっぽりと陛下の懐に収まってしまう。
「隣の部屋にいるから何かあれば呼ぶがよい」
 はっきりと聞いたわけではないが、ここはまだ港町サッハートだ。窓を開けた時にほのかに感じる潮のにおいから、間違いないだろう。
 メイラがこの場所を動けないのは体調不良から仕方がないのかもしれないが、陛下は違う。
 わざわざ帝都からエルネスト侍従長を含む文官たちを連れてきて、ここで執務をこなしているようなのだ。
 陛下がそうまでしてこの土地を動かないのは、うぬぼれでなければメイラのせいだろう。
 申し訳なくて。
 しかし、置いて行かれることが恐ろしくて。
 メイラは更に眉を下げ、視線を手元に落とした。
 この国で最も高貴で、最も責任あるご身分にある陛下を、たかだか一妾妃のもとに留め置くなどできるはずもない。
 いずれ帝都にもどられ、また当分会えない日が続くのだろう。
 そう思うだけで、指先が震え始める。
「そなたは何も心配せずともよい。安心して養生せよ」
 そんな彼女を宥めるように、陛下の大きな手が髪を梳く。
 優しいそのぬくもりに、またも鼻の奥がツンとして、慌てて目を瞬かせた。
 果たしてメイラは、まだ陛下の妾妃と名乗っても許される立場なのだろうか。
 男女が密室でお茶を飲むだけでも、特別な関係だと取りざたされる世の中だ。特に男性と接することを徹底的に制限されている後宮の住人が、誘拐されて幾日も所在不明だったなどと……戻ったところで何と言われるか。
 蔑まれるだけならまだいい。陛下に良からぬ瑕疵を負わせてしまうことになるのではないか?
 想像するだけで涙が出る。
「エルネストを付ける。好きに使え。それから……」
 ふっふと小さな含み笑いが耳元で聞こえた。
「そなたの兄を、しばらく護衛に残す」
 あに? 兄?
 メイラが小首を傾げると、つん、と頬をつつかれた。
「……血のつながった、実の兄なのだろう?」
 誰のことか本気で分からかなかった。咄嗟に父だと名乗ったダンの顔が思い浮かんだが、さすがに違うだろう。血のつながった異母兄たちのことは、これっぽっちも頭に過らなかった。
「見ていればわかる」
 困惑して振り仰ごうとしたが、ものすごく至近距離に陛下の顔があってまたも思考が止まってしまった。
 待っていたとばかりに、唇が寄せられる。今度は端ではなく、しっかりと密着させて。
 くちゅり、と湿った音がした。
 躊躇なく潜り込んできた舌が、ゆったりと咥内を探る。
 やがて光る糸を引いて離れ、再び陛下は男臭い含み笑いを漏らした。
「そなたは何を考えているのかわかりやすいな」
 いつの間にか、逞しい腕に囲われるようにしてベッドに埋まっていた。
「わたしに食べられたくなってきたか?」
 ギシリ、と背中の下でスプリングが軋む。
 上手く働かない頭が、ひどく頼りない警報を発していた。どうしようどうしようと、ただそれだけを考えているうちに、ほんのりと濡れた陛下の唇が再び近づいてくる。
「いずれ食い尽くしてやるから、早く良くなれ」
 風邪なら移るかもしれないとか、しばらく歯磨きしていないとか、そんな余計な混乱は、ユリウスに「ない」と言われたささやかな胸を、薄い夜着の上からそっと包まれたことで霧散した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

私はただ一度の暴言が許せない

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
厳かな結婚式だった。 花婿が花嫁のベールを上げるまでは。 ベールを上げ、その日初めて花嫁の顔を見た花婿マティアスは暴言を吐いた。 「私の花嫁は花のようなスカーレットだ!お前ではない!」と。 そして花嫁の父に向かって怒鳴った。 「騙したな!スカーレットではなく別人をよこすとは! この婚姻はなしだ!訴えてやるから覚悟しろ!」と。 そこから始まる物語。 作者独自の世界観です。 短編予定。 のちのち、ちょこちょこ続編を書くかもしれません。 話が進むにつれ、ヒロイン・スカーレットの印象が変わっていくと思いますが。 楽しんでいただけると嬉しいです。 ※9/10 13話公開後、ミスに気づいて何度か文を訂正、追加しました。申し訳ありません。 ※9/20 最終回予定でしたが、訂正終わりませんでした!すみません!明日最終です! ※9/21 本編完結いたしました。ヒロインの夢がどうなったか、のところまでです。 ヒロインが誰を選んだのか?は読者の皆様に想像していただく終わり方となっております。 今後、番外編として別視点から見た物語など数話ののち、 ヒロインが誰と、どうしているかまでを書いたエピローグを公開する予定です。 よろしくお願いします。 ※9/27 番外編を公開させていただきました。 ※10/3 お話の一部(暴言部分1話、4話、6話)を訂正させていただきました。 ※10/23 お話の一部(14話、番外編11ー1話)を訂正させていただきました。 ※10/25 完結しました。 ここまでお読みくださった皆様。導いてくださった皆様にお礼申し上げます。 たくさんの方から感想をいただきました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 今後はいただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

処理中です...