月誓歌

有須

文字の大きさ
32 / 207
修道女、これはちょっと駄目なやつじゃないかと思う

4

しおりを挟む
 メイラはぽかんと開いた唇を扇子の後ろに隠していたが、アナベルのひそかな咳払いに我に返って顔面から血の気を失せさせた。
 慌てて立ち上がり、相手の胸あたりまでしかない顔で必死に上を向いて。
「へ、陛下!」
 礼を取ろうにも、距離が近すぎてできない。
 混乱するメイラに何を思ったのか、陛下はぬっとその逞しい両手を差し出してきた。
 意味が理解できずにいるうちに、両脇に手を差し込まれひょいと抱き上げられた。
「ひうっ、え? え?」
 背筋を這い上がってきたくすぐったさに淑女らしからぬ声が零れたが、誰も気にする者はいなかった。
 いや、もしかしたら陛下は面白く思われたのかもしれない。メイラを目の高さでぶら下げたまま、男性的なその唇をわずかにほころばせた。
「先ほどぶりだな、妃よ」
 そしてあろうことか、寸前までメイラが座っていたソファーに腰を下ろし、その膝の上に彼女を置いたのだ。
「晩餐をともにと思って参ったが、急ですまぬ」
 耳元に、低く太い声が響く。
「ほんに急でございますね、陛下。女性には身支度というものがございますのに」
「そのままの服装でよい。腹が減った」
 アナベルのやんわりとした苦言に、陛下はまったく堪えた様子もなく笑う。
 その息が耳たぶにかかり、メイラはカチンとその場で固まった。
 逞しい男の腕が脇から腹部に絡まっている。腹の上に置かれた手は大きく、力強い。
「あ、あの陛下」
 くすぐったさに耐えている場合などではなかった。
 恐れ多くも皇帝陛下の膝の上に座らされているという、この状況を何とかしなければならない。
「なんだ」
 陛下の長い指が、さわり、と脇腹を撫でる。
 メイラは悲鳴を上げそうになったものの、必死に堪えた。
「っ……お、おろして下さいませ」
「……ほう」
「あの、あの……恥ずかしゅうございます」
「我が膝の上が不服か?」
「ち、違います。そうではなく……あっ」
 陛下のお顔は背後にいらっしゃるので見えない。
 しかし、尾てい骨を震わせるような低い含み笑いに、その機嫌よさが知れる。
 ご機嫌なのは良い。楽しそうで結構なことだ。向いの椅子にでも座らせてくれたら、お付き合いするのもやぶさかではない。いや椅子などと贅沢なことは言わない。ずっと立たされていてもいい。
「だ、駄目です、あ……あ……」
 メイラの腰など一掴みであろう大きな手が、戯れるように腹を、腰を撫でる。
「お許しください、んっ……あっ」
「なるほど」
「ひっ」
 片腕で抱き込むように拘束が強まり、腹の上にあった手が腰まで伸びた。
「やあっ」
 ゆっくりと、その指が脇腹から上の方へと滑った。
「……愛いことだ」
 低い声が耳たぶを嬲った。
 ぞくぞくっと制御できない震えが背筋を這い上がる。
「臥所へ参るか? 妃よ。隅々までくすぐってやろう」
「駄目です駄目です駄目です!」
 もう耐えるのも限界になって、無礼と知りつつその太い手首をつかんだ。
 身をよじって膝の上から逃げようとしてみたが、鍛え上げられた陛下の腕はびくともしない。
「意地悪しないでくださいませ!!」
 一生懸命手を突っ張り、固い胸をぎゅうぎゅうと押した。
「暴れるな。危ないだろう」
 ふう、と甘い呼気が耳の穴に吹き込まれる
「陛下っ」
「あらまあ、仲のよろしいこと」
 陛下のぶんのお茶を入れていたアナベルが、ころころと笑った。
 メイラはそこで初めて、室内には自分たち以外の人間がいたことを思い出す。
 はっと見回してみると、アナベル以外にもメイドたち三人、近衛騎士たち五人。計八人もの男女がものすごい無表情で控えている。
 しかも廊下へ続く扉は今ようやく閉められようとしているところで、その向こうにも複数の騎士たちの背中が見えた。
 羞恥のあまり、メイラの頭の中から論理的な思考能力が抜け落ちた。
 すがるように見回した中で、唯一視線を合わせてくれた人物に涙の幕の張った目を向ける。
「……たっ、助けてアナベル!」 
「ほう、我が腕の中に在るにも関わらず、他の者にすがるのか?」
「だからその無駄にいい声やめてっ」
 大声でそう叫んだ瞬間、メイラはざっと全身から血の気が引くのを感じた。
 付け焼刃のお嬢さま言葉が剥がれ落ち、あまりにも無礼な物言いをしてしまったからだ。
「も、申し訳ございませ……」
 即座に謝罪しようとしたが、身体に回っていないほうの手で顎を持ち上げられて言葉が途切れた。
「よい声か?」
 低音の美声が、耳朶を震わせる。
「そう言われたのは初めてだな」
 陛下が笑っている。くつくつと、肩を震わせて。
 唇が頬に触れた。耳に近い部分、頬骨の下あたりに。
「そなたの声ももっと聞きたい。わたしのために囀ってくれ」
「……っ」
 さすがは陛下。三十人もの側妾を持つ方だ。メイラのような美しくも可愛らしくもない妃にまでこの扱い、過分すぎる。
 だがその手でワキワキと腰を触らないでほしい! 耳に息を吹きかけないでほしい!!
 遊ばれているのか? 揶揄われているのか? 
 ひくり、と嗚咽が喉から零れた。じんわりと涙が視界を潤ませる。
「……晩餐は後にするか?」
 つ、とその目じりに武骨な指が触れた。
 メイラははっと息を詰め、陛下の男性的に整った貌を見上げた。
 夜だからか瞳孔の黒い部分が広がり、瞳の色が濃く見える。
 そこに、とろりとした情念を見た気がして、いまだ生娘であるメイラは心臓を跳ねさせた。 
「食べます食べたいですお腹がすきました」
「そうか」
 美しい瞳が、ゆっくりと細められる。
「……そなたを喰うのも良かろうと思ったのだがな」
 陛下が笑う。まるで肉食獣のような表情で。
 メイラは震えあがった。
 己が捕食される獲物になった気がした。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...