月誓歌

有須

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皇帝、夜の帳を想う

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 ハロルドは湯殿でひとり、湯気の行く先を見ていた。
 建国以来、水問題に悩まされた国ではあるが、皇帝のための風呂には絶えず湯が沸いている。彼以外誰も入ることはないのに、湯殿は広々としていて、ところどころ南国の植物が植えられていたり、日替わりで花や薬草が浮いていたりしている。
 一日の内のたった数十分、もしかするともっと短い時間しか使わないのに、贅を尽くされた内装と行き届いた手入れ。
 今でこそ何も感じなくなったが、彼とて生まれた時からこのような贅を尽くした暮らしをしてきたわけではない。
 母親の身分は低くはなかったが、四番目の男子だったので扱いは軽かった。後宮の片隅で幼少期を過ごし、一般の貴族が通う学園にも行ったし、ある程度の年齢になってからは騎士を志し、訓練に明け暮れもした。
 いつも側には皇族というきらびやかな世界があったが、それにはあまり見向きもせず、金は身を飾るものにではなく装備や馬に、あるいは麾下の兵たちの為に使った。
 幼少期に刷り込みのように恐ろしい女の世界を垣間見たので、常に女性に対して警戒心を抱いていたように思う。
 派手な化粧や、きらびやかなドレス、一部の隙も無い作られた笑顔と会話。一般的に貴族の女性がたしなみとするそれらの要素は、ハロルドからしてみれば騎士の武装にしか見えない。
 あまたの美女と閨をともにしてきて、一度も心に響いたことがないのはそういう気質なのだろうと思っていたが、要するに彼女たちはハロルドの好みではなかったのだ。
 美しい女性たちだと思う。皇帝であるハロルドに必死に愛されようとしているのだと理解はする。理解はするが……気持ちが沿うことはなかった。
 そっと手を持ち上げて、数時間前に触れたメルシェイラの細腰を思い出す。
 彼女と似たような背格好の妃はいる。同じようにおとなしい気質の、ハロルドを前に一言も口をきけない内気な女性たちも。
 しかし彼女たちにはこれほど気をひかれはしなかったし、伝統の規則を破ってまで会おうとする気持ちも抱かなかった。一度閨を共にしただけで、二度と寝所に来ることはなかったという事もあるし、名前すら記憶に薄い。
 彼女たちと、メルシェイラの違いは何だろう。
 美しい黒髪か? あの吸い込まれそうな瞳か? 穏やかな喋り方か?
 どれも正解のような気がするし、違うような気もする。
 まさか、少女のような年頃の娘が好みだというのだろうか。
 第三皇妃の無邪気な笑顔を思い出し、首を振る。
 彼女はメルシェイラより四歳程度年下で、ハロルドの従妹でもある。利発で素直な彼女のことは可愛らしい子だと思うが、初枕を交わす日取りを早めようとは思わないし、わざわざ会いに行きたいとも思わない。
 ちゃぽん、と両手を湯の中に沈めた。
 目を閉じれば、恥ずかしそうに視線を逸らす美しい黒曜石のような瞳を思い出す。
 眦に朱が散り、小ぶりな唇をきゅっと閉じ。
 困惑したように震えている細い肩。
 背けられた首筋の、あまりの細さが心もとない。
 まるで稚い少女のようだと思ったが、豊かな黒髪を結い上げた襟足には大人の女性としての艶があった。
 あの首筋に、口づけた。
 はじめて会った夜の、彼女の匂いを思い出す。
 そうだ、あの細い首に唇を落とし、舌を這わせた。
 この手でささやかな胸のふくらみを包み、愛撫した。少しだけ触れた先端の慎ましさを、組み敷いた肢体の柔らかさを……なにもかも鮮明に覚えている。
 遠くでぱしゃりとかけ流しの湯が落ちる音がする。
 我に返って、普段は薬を用いて起たせている男性器が、熱を持っているのに気づいた。
 湯の中にある半起ちのソレを、苦笑とともに見下ろして。
 ハロルドは、己が黒髪の少女を愛したのだと自覚した。
 

 湯から上がると、男性の湯殿番たちが身体の水滴を拭う。
 彼の硬くなった性器に気づいただろうが、誰も何も言わない。
 ハロルド自身、下半身事情を直視されるなど今更で、相手が女性でないぶん気も使わない。
 夜着を着せられようとしたが首を振り、シンプルな軽装を選んだ。
「失礼します」
 テラス際のラタン椅子に座り、湯上りのけだるさに目を閉じていると、侍従長のエルネストが入室してきた。
 その手には盆。柑橘の浮いた水差しと、青いグラス。
 手慣れた仕草でグラスに水を注ぎ、片膝を立ててハロルドの脇に膝をつく。
 差し出されたグラスに触れると、氷のように冷たかった。
「……ご報告いたします」
 ハロルドはぐびり、と冷水で喉を潤しながら己の侍従を見下ろした。
「部屋を荒らした者どもについてはほぼ判明しました」
「……」
「とはいえ実行犯のみですので、尋問等はこれからです」
「エルネスト」
「はい」
 ハロルドは常に冷静さを失わないエルネストの、表情が読み取りがたい青灰色の目を見返した。
「……ネズミは一匹も残らず駆除しろ。その親も、一族もだ」
「追い払うだけではいけませんか?」
「すぐにまた沸く」
「それはそうですが……別のネズミにたかられても面倒ですよ」
 ハロルドはグラスを盆の上に返し、小さく鼻を鳴らした。
「害獣でなければ見逃す」
「害獣のネズミとそうでないネズミの違いはなんでしょう」
「わかっているだろう」
 再び瞼を落とし、訪れる暗闇に黒髪の彼女を想う。
    心が静かに凪いでいた。
「あれの敵は、我が敵だ」
 低い声で告げる。それは、宣言。
「……御意」
 閉じた視界の向こうで、エルネストが低く頭を垂れたのが分かった。
 テラスから吹き込んでくる心地よい風が、湿った髪を撫でていく。
 化粧と香水の匂いの染み付いていた夜の気配が、彼女を想う今はこんなにも愛おしい。
 掌中の珠を愛でる気分で、控えめに微笑むメルシェイラの顔を思い浮かべる。
 薄く涙の膜が張った瞳を、震える唇を。
 あの涙を晴らしてやりたい。辛いことがあるなら全て払拭してやりたい。
 これまで抱いたことのない、そんなうねるような衝動が心地よい。
 修道女だったと聞いた。どのような育ちをしてきたのだろう。
 ハーデス公の養女ならばそれなりの血筋の娘だとは思う。あの老公が名目上だけとはいえエルブランの領主を任せるぐらいだ、おそらくは近しい親族なのだろう。
 エスネストのことだから、彼女の身の上を一から洗い始めているだろう。おそらくは別口でネメシスも。
 たとえ問題のある血統であろうとも、近いうちにメルシェイラを皇妃にする。そしていずれ彼女に我が子を産んでほしい。
 飛躍しすぎだ、と苦笑する。
 そんなに急がずとも、メルシェイラはすでにハロルドの妻だ。
 彼が愛した、唯一の妻だ。
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