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皇帝、夜の帳を想う
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ハロルドは内心の苛立ちを表に出すまいと努力しながら、腕組みをして深くソファーに腰を下ろしていた。
腕が触れるほどの側にメルシェイラが、向いのソファーには憲兵師団長のネメシスが、こちらは双方ともに浅く、作法通りに行儀よく座っている。
「では、その補佐官との面談中のことだというわけですね?」
「はい。正式な記録がのこっているかと思いますが……」
手元の紙をペラペラとめくっていたネメシスが、あたりさわりのない穏やかな口調のまま、ほんのわずかに首を傾けた。
「それなのですが」
ハロルドにはちらりとも視線を向けず、やけにまっすぐメルシェイラの目を見ている。
「妾妃さまのお記憶違いということはございませんか?」
見た目は人畜無害、むしろ人のよさそうな外面で、相手の油断を誘うのがこの男のいつもの手だ。
「いいえ。面談からの帰路で報告をうけましたので、間違いようがございません」
対してメルシェイラは、少し顔色が悪かった。揃えた両手できゅっと扇子を握りしめ、尋問に対する緊張のせいか、部屋中の視線を浴びているせいか、朱い夕日で染まっていてもなお、その頬から血の気が失せているのがわかる。
「おかしいですねぇ……記録ではその時刻は白紙なのです」
ネメシスの困ったような表情は、長年培ってきた完璧な擬態だ。それは、彼を長年よく知るハロルドですら騙されそうになるほどで、初対面のメルシェイラが気づかないのも無理はない。
「え? それは……記入漏れでしょうか?」
彼女は気づかわし気な、困惑したような表情をして、首を傾ける。
「わかりません。ですが、妾妃さまのご記憶が正しいのであれば、記録がないのは大問題です。後宮への出入りは端に至るまで細かく管理されています。記録にない面会があるということは、記録にない出入りがあってもおかしくはない。……これが意図したものであろうがそうでなかろうが、きちんと調べる必要があります」
「はい」
彼女がこくりと頷くと、結われた黒髪に刺された玉飾りがきらりと夕日を弾いた。
「妾妃さまのお部屋を荒らした者については、調査をすすめておりますのでご心配には及びません。問題はカーテンやソファーのクッションを裂いた刃物についてですが、発見されるまでは危険がないとは言えません。近衛の護衛をお付けしますので、安心してこちらでお過ごしください」
「……あの、見つからない場合はどうなりますか?」
うがった見方をすれば、護衛というよりも隔離だろう。安全を守るという建前で、その行動を監視したいのだ。
それを知らないメルシェイラが、不安そうに言う。
「見つけますのでご心配なく」
ネメシスの口調が、何故が普段よりも優し気に聞こえた。
「ですが布を裂く刃物ですよね? 近衛の方は帯剣しておられますし、厨房では料理人が包丁を使うでしょう。庭師もきっと鉈や大きな鋏をお持ちですし、メイドも……そう、花切鋏や裁縫用の裁ち鋏を持っているはずです。一概に刃物といっても、形状も定かでないものを見つけることができるのですか?」
「基本的に後宮近衛はお妃さま方のお部屋には入りません。必要があれば許可されますが、特に問題がなければ外からの警護になります。近衛が犯人の場合、許可なく侵入したことになりますから大問題です。そのほかの包丁や鋏類ですが、それらもすべて許可制です。個人での保有は認められておらず、すべて必要時のみの貸し出しとされ、利用後は速やかに返却することを徹底しています。数の管理の為です」
不安そうなメルシェイラに、ネメシスが優しく安心させるような口調で言う。
「あの日、あの時刻の、カーテンを裂けるような刃物の所在はすべて確認させます。登録されているものであれば、むしろ犯人へたどりつく近道になるでしょう。なければ、外部から刃物がもちこまれたことになりますが……」
気のせいではない。珍しく本心から気遣っているように見える。
大丈夫ですよ、と再び穏やかに微笑むネメシスに苛立ちを感じ、それを聞いてほっと息をつくメルシェイラを見れば眉間の皺が深くなる。
ハロルドは無意識のうちにイライラと指を動かし、足を組んだ。
二人が会話をしているので、視線が重なっているのは当然のことなのだが、それすらも気に入らない。
「もういいか? あとは共にいたというメイドに聞け」
「陛下、話の途中ですので少しお待ちください」
「聞くべきことは聞いただろう」
「陛下」
小さなため息の後、黙っていられないなら席を立て、とネメシスからの無言の圧がかかってきた。
「こういう話は、すべての者から細かく聴取するべきなのです。話の食い違いを精査することが、何が起こったのか理解する近道です」
「あの……」
言い返そうとしたハロルドより少し早く、メルシェイラが若干震える声で前に身を乗り出した。
「わたくし、もしかすると自演であのようなことをしたと思われているのでしょうか?」
「……そう思っている者もいるようですね」
「まぁ……なんてこと」
小さな唇から、ため息が零れた。
華奢な身体がふるふると震えていたので、大丈夫だ、心配することは何もないと腰に手をまわした。
ぴくりと震えた彼女の身体はどこまでも細く、強く触れると折ってしまいそうだった。
すがるようにこちらを見る黒い目には涙の幕が張っている。可哀そうに、相当に恐ろしい思いをしているのだろう。
「へ、陛下」
「……話を続けろ」
注意深くこちらの様子をうかがっているネメシスに、わずかに顎を上げて先を促すと、何を考えているのかわからないその灰色の目が一瞬、面白がるような笑みを浮かべた。
「そうですね。それでは面談の時、どのような話をしたのかお聞かせください」
「……はい」
名目上の領主である街の疫病の話、やはり水不足であるという話、その対応の話、そして第二皇妃への見舞いの品を含め、日用品を発注した話。
途中口をはさみはしなかったが、少々思っていたのとは違う内容だった。
「お義父上からのお手紙を受け取ったとか、お召しがあったことにたいしての報告などは」
「あの方からは何もございませんし、わたくしの方からも何も」
ごく控えめに、俯き加減に紡いだ言葉に何やら訳ありな雰囲気を感じ、空いている方の手でそっと顎を持ち上げると、彼女の潤んだ目じりがほんのりと染まり、視線が揺れた。
「ち、父はあのような方ですから」
この国の宰相が、おそらくは敵国よりも警戒している老人である。権謀術数の権化のような人物で、ハロルドの即位に力を貸してくれはしたが、純粋に味方だとも言い難い。
老人の派閥はこの国の三分の一に及び、その気になれば皇帝の首を挿げ替えることができるとも言われている。敵対すれば内乱などということにもなりかねず、常に動向が気になる相手だ。
「閣下はわたくしが後宮に上がった経緯をご存知でしょうか」
「いえ、それほど詳しくは……。お義父上からの御意向で、第二皇妃殿下の派閥の強化だと伺いましたが」
「ええ。ご懐妊中と、和子さまが生まれてから後、少しでも殿下の楯になるようにと申し使ってまいりました」
―――楯だと?
ハロルドの眉間の皺がなおいっそう深くなった。この薄く頼りない身体を楯にしようなどと、よくも考えたものだ。もちろん物理的な楯ではあるまい。それでも、メルシェイラのような少女をあえて掲げる意味があるのか?
「……なるほど」
ネメシスがちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らせた。その意味ありげな一瞥に不快感を覚えたが、頼りない声色で続けるメルシェイラを励ますように腰に添えた手に少し力を籠める。
「し、しかるべき時に、少しでも矛先をそらせる役目を果たせればよいと思っておりましたが……お目通りが叶うどころかご挨拶もできずにいるうちに、このような……」
それはそうだろう。まだ入内してそれほど経っていない。派閥の一員として認知されるのはもう少し後になってからだ。いやむしろ、今の状態では敵とみなされているのかもしれない。
「とてもまだ、報告できるような状況ではありません」
ふるふる、と華奢な首を振る。そうすると結い上げられた黒髪が、服越しに肩に触れる。
座っていても、彼女の背丈はハロルドの肩ほどまでしかない。成人しているとはとても思えない、まるで稚い少女のような女性だ。
ハロルドはそっと、メルシェイラの背中を撫でた。
ピクリと震える背筋が、揺れる肩が、涙ぐんだ眼が、そのすべてがハロルドに強烈な庇護欲をもたらす。
―――まずい。
己が今、どういう顔をしているのか、わからない。
だが、ネメシスがわざとらしい咳払いをしたとき、至近距離にメルシェイラの真っ赤な顔があった。
腕が触れるほどの側にメルシェイラが、向いのソファーには憲兵師団長のネメシスが、こちらは双方ともに浅く、作法通りに行儀よく座っている。
「では、その補佐官との面談中のことだというわけですね?」
「はい。正式な記録がのこっているかと思いますが……」
手元の紙をペラペラとめくっていたネメシスが、あたりさわりのない穏やかな口調のまま、ほんのわずかに首を傾けた。
「それなのですが」
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「妾妃さまのお記憶違いということはございませんか?」
見た目は人畜無害、むしろ人のよさそうな外面で、相手の油断を誘うのがこの男のいつもの手だ。
「いいえ。面談からの帰路で報告をうけましたので、間違いようがございません」
対してメルシェイラは、少し顔色が悪かった。揃えた両手できゅっと扇子を握りしめ、尋問に対する緊張のせいか、部屋中の視線を浴びているせいか、朱い夕日で染まっていてもなお、その頬から血の気が失せているのがわかる。
「おかしいですねぇ……記録ではその時刻は白紙なのです」
ネメシスの困ったような表情は、長年培ってきた完璧な擬態だ。それは、彼を長年よく知るハロルドですら騙されそうになるほどで、初対面のメルシェイラが気づかないのも無理はない。
「え? それは……記入漏れでしょうか?」
彼女は気づかわし気な、困惑したような表情をして、首を傾ける。
「わかりません。ですが、妾妃さまのご記憶が正しいのであれば、記録がないのは大問題です。後宮への出入りは端に至るまで細かく管理されています。記録にない面会があるということは、記録にない出入りがあってもおかしくはない。……これが意図したものであろうがそうでなかろうが、きちんと調べる必要があります」
「はい」
彼女がこくりと頷くと、結われた黒髪に刺された玉飾りがきらりと夕日を弾いた。
「妾妃さまのお部屋を荒らした者については、調査をすすめておりますのでご心配には及びません。問題はカーテンやソファーのクッションを裂いた刃物についてですが、発見されるまでは危険がないとは言えません。近衛の護衛をお付けしますので、安心してこちらでお過ごしください」
「……あの、見つからない場合はどうなりますか?」
うがった見方をすれば、護衛というよりも隔離だろう。安全を守るという建前で、その行動を監視したいのだ。
それを知らないメルシェイラが、不安そうに言う。
「見つけますのでご心配なく」
ネメシスの口調が、何故が普段よりも優し気に聞こえた。
「ですが布を裂く刃物ですよね? 近衛の方は帯剣しておられますし、厨房では料理人が包丁を使うでしょう。庭師もきっと鉈や大きな鋏をお持ちですし、メイドも……そう、花切鋏や裁縫用の裁ち鋏を持っているはずです。一概に刃物といっても、形状も定かでないものを見つけることができるのですか?」
「基本的に後宮近衛はお妃さま方のお部屋には入りません。必要があれば許可されますが、特に問題がなければ外からの警護になります。近衛が犯人の場合、許可なく侵入したことになりますから大問題です。そのほかの包丁や鋏類ですが、それらもすべて許可制です。個人での保有は認められておらず、すべて必要時のみの貸し出しとされ、利用後は速やかに返却することを徹底しています。数の管理の為です」
不安そうなメルシェイラに、ネメシスが優しく安心させるような口調で言う。
「あの日、あの時刻の、カーテンを裂けるような刃物の所在はすべて確認させます。登録されているものであれば、むしろ犯人へたどりつく近道になるでしょう。なければ、外部から刃物がもちこまれたことになりますが……」
気のせいではない。珍しく本心から気遣っているように見える。
大丈夫ですよ、と再び穏やかに微笑むネメシスに苛立ちを感じ、それを聞いてほっと息をつくメルシェイラを見れば眉間の皺が深くなる。
ハロルドは無意識のうちにイライラと指を動かし、足を組んだ。
二人が会話をしているので、視線が重なっているのは当然のことなのだが、それすらも気に入らない。
「もういいか? あとは共にいたというメイドに聞け」
「陛下、話の途中ですので少しお待ちください」
「聞くべきことは聞いただろう」
「陛下」
小さなため息の後、黙っていられないなら席を立て、とネメシスからの無言の圧がかかってきた。
「こういう話は、すべての者から細かく聴取するべきなのです。話の食い違いを精査することが、何が起こったのか理解する近道です」
「あの……」
言い返そうとしたハロルドより少し早く、メルシェイラが若干震える声で前に身を乗り出した。
「わたくし、もしかすると自演であのようなことをしたと思われているのでしょうか?」
「……そう思っている者もいるようですね」
「まぁ……なんてこと」
小さな唇から、ため息が零れた。
華奢な身体がふるふると震えていたので、大丈夫だ、心配することは何もないと腰に手をまわした。
ぴくりと震えた彼女の身体はどこまでも細く、強く触れると折ってしまいそうだった。
すがるようにこちらを見る黒い目には涙の幕が張っている。可哀そうに、相当に恐ろしい思いをしているのだろう。
「へ、陛下」
「……話を続けろ」
注意深くこちらの様子をうかがっているネメシスに、わずかに顎を上げて先を促すと、何を考えているのかわからないその灰色の目が一瞬、面白がるような笑みを浮かべた。
「そうですね。それでは面談の時、どのような話をしたのかお聞かせください」
「……はい」
名目上の領主である街の疫病の話、やはり水不足であるという話、その対応の話、そして第二皇妃への見舞いの品を含め、日用品を発注した話。
途中口をはさみはしなかったが、少々思っていたのとは違う内容だった。
「お義父上からのお手紙を受け取ったとか、お召しがあったことにたいしての報告などは」
「あの方からは何もございませんし、わたくしの方からも何も」
ごく控えめに、俯き加減に紡いだ言葉に何やら訳ありな雰囲気を感じ、空いている方の手でそっと顎を持ち上げると、彼女の潤んだ目じりがほんのりと染まり、視線が揺れた。
「ち、父はあのような方ですから」
この国の宰相が、おそらくは敵国よりも警戒している老人である。権謀術数の権化のような人物で、ハロルドの即位に力を貸してくれはしたが、純粋に味方だとも言い難い。
老人の派閥はこの国の三分の一に及び、その気になれば皇帝の首を挿げ替えることができるとも言われている。敵対すれば内乱などということにもなりかねず、常に動向が気になる相手だ。
「閣下はわたくしが後宮に上がった経緯をご存知でしょうか」
「いえ、それほど詳しくは……。お義父上からの御意向で、第二皇妃殿下の派閥の強化だと伺いましたが」
「ええ。ご懐妊中と、和子さまが生まれてから後、少しでも殿下の楯になるようにと申し使ってまいりました」
―――楯だと?
ハロルドの眉間の皺がなおいっそう深くなった。この薄く頼りない身体を楯にしようなどと、よくも考えたものだ。もちろん物理的な楯ではあるまい。それでも、メルシェイラのような少女をあえて掲げる意味があるのか?
「……なるほど」
ネメシスがちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らせた。その意味ありげな一瞥に不快感を覚えたが、頼りない声色で続けるメルシェイラを励ますように腰に添えた手に少し力を籠める。
「し、しかるべき時に、少しでも矛先をそらせる役目を果たせればよいと思っておりましたが……お目通りが叶うどころかご挨拶もできずにいるうちに、このような……」
それはそうだろう。まだ入内してそれほど経っていない。派閥の一員として認知されるのはもう少し後になってからだ。いやむしろ、今の状態では敵とみなされているのかもしれない。
「とてもまだ、報告できるような状況ではありません」
ふるふる、と華奢な首を振る。そうすると結い上げられた黒髪が、服越しに肩に触れる。
座っていても、彼女の背丈はハロルドの肩ほどまでしかない。成人しているとはとても思えない、まるで稚い少女のような女性だ。
ハロルドはそっと、メルシェイラの背中を撫でた。
ピクリと震える背筋が、揺れる肩が、涙ぐんだ眼が、そのすべてがハロルドに強烈な庇護欲をもたらす。
―――まずい。
己が今、どういう顔をしているのか、わからない。
だが、ネメシスがわざとらしい咳払いをしたとき、至近距離にメルシェイラの真っ赤な顔があった。
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