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第21章 卒業
第359話 卒業(6)
しおりを挟む妻を亡くした当時の康三の悲しみに共鳴して涙を浮かべてしまった聡ではあるものの、どうして康三がそんな話を自分にするのかは理解できずにいた。
そんな聡に、康三はさらに続ける。
「先生。あれは……、将はふびんな子でね」
ふびんな子。……たしか巌もそういっていた。
「産みの母を早くに亡くして……そのころは私も議員になったばかりだったものですから、なかなかあれにかまってやれなくて」
聡はしきりにまばたきをして、目の表面にたまった涙をどこかにおいやりながら、子供の頃の将を思い浮かべる。
母を亡くしてからの1年間、将は大磯にある巌の家に預けられていたという。
巌は、将を厳しく躾けつつも可愛がったというが……将の寂しさはどれほどのものだっただろうか。
例えば、授業参観のとき。
例えば、皆が母親手づくりの弁当を持ってくる遠足のとき……。
そのときのことを聞いたわけでもないのに……たった一人で、波止場に腰掛けている少年が聡の脳裏に浮かび上がる。
寂しそうに丸まった背中は、沈み行く夕陽に、いつしかシルエットになっている。
将の産みの母親である前妻・環を亡くして1年が経った頃、康三の両親を始めとする一族のものは、康三に後添いをあてがった。
名門・岸田家から嫁いで来た、今の妻・純代である。
「……今の母親とも、子供のうちはうまくいっていたのですが」
康三の話は、あの爆破事件のことに及びはじめた。
たまたま自分が仕事で帰りが遅かったときに起きたこと。
将だけが逃げ遅れて大やけどを負ったこと。
その事件以来、将が非行に走り始めたこと。
見捨てられた将の……痛ましいほどの絶望を……康三は知っているのだろうか。
聡は口を開いた。
「3ヶ月も入院するほど……ひどい火傷を負ったと聞きました」
康三に訊きたいことがあったのだ。
「長官は……」
康三を何と呼べばよいかわからなかった聡は、一瞬迷ったあげく、ためらいながらそ
う呼んでみる。
「鷹枝でいいです」
康三はすぐに柔らかく言い直した。聡は恐縮した。
「鷹枝さんは……。将……くんの入院中は……?」
「会期中でしたから……ほとんど顔を出せませんでした。たまに顔を出しても、うつ伏せたままで、痛いのかロクに口を利いてくれませんでしたし……」
付き添った純代にもほとんど何も話さなかったという。
だけど、聡は将本人から聞いている。
『包帯を替えた日なんか、本当に地獄の痛さでさ。俺、いつまでこんな痛いのが続くのかと思うと、思わず夜中に泣いちゃってさー』
過ぎたことだから、それを話す将の口調は明るかった。
だけど、たった一人の病室で背中に負った火傷の痛みを堪えて涙を流す将を思うと、聡の心も痛んだものだ。
「中学に入って……将は見る間に悪くなっていきました。私たちは、あれにどう接していいかわからなくなってしまいまして」
聡はやるせない気持ちで康三が話す将の姿を、心で追っていた。
母を小さいうちに亡くし……頼るべき父親は忙しくほとんどかまってもらえない。
新しい母親に気に入られるべく、せいいっぱいいい子になろうとした将。
そんな将は、あの爆破事件で燃え尽きてしまったのだ。
自分が所詮一人だと……痛みにも孤独にも、結局誰も手助けなどしてくれないのだ、と……悟ってしまったのだ。
だから、将は……自分を見捨てた両親を、今度は自分が捨てることにしたのだろう。
聡は、いまいちど将の心の軌跡をなぞっていた。
「中学時代に……いろいろなことがあったと、将くん本人から聞きました」
聡は顔をあげて、康三を見据えた。
「そうですか」
それに対して、康三は心持俯いて、聡の視線から自分の瞳を巧みに隠した。
聡がどこまで聞いているのか――もしかしてあの、殺人まで知っているのか――康三ははかりかねているようだった。
「実のところ」
そういうと康三は深いため息をついた。
「同級生が進学するからと、今の高校に入れましたが、私にはあれがいつ問題を起こすか、気が気じゃなかったんです」
康三はまるで懺悔をするように、両手をテーブルの上で組んだ。
淡々としていた声が、いつしか苦しそうになっている。
「あれは……そんな私のエゴイスティックなところをちゃんとわかってて……私たち親子の間は、最悪でした」
ひとつひとつの言葉を絞りだすように、康三はなおも続ける。
「わかっているんです。将を……あんな風にしてしまった責任者は……私です」
康三は崩れるように、組んだ両手の上に、がっくりとこうべを垂れた。
一切の言葉は、胃の中に沈殿し……聡は凍りついたように将の父の姿を眺めるしかない。
「全部、先生のおかげです」
ぼうっとしていた聡はハッとした。気がつくと、康三は聡のほうにまっすぐに顔を向けていた。
「あれが無事高校を卒業できて……しかもK大にまで合格できるとは思ってもいませんでした。きっと」
その顔には穏やかさが戻っている。……しかし、なぜか聡の心臓はどくん、と不気味に動き始めた。
「先生とであったおかげで、あいつは人間らしい気持ちを取り戻すことができた。もう一度努力というものをすることができるようになったのです」
康三はなおも、聡への謝辞を続ける。
「先生も、あれのことを……慈しんでくださったからこそ、将は立ち直ることができたんです。そういう意味で、先生は恩人です」
職業上訓練された笑顔ではない。康三の表情には……ただ将を思う親心だけがあった。
将を立ち直らせた聡への、心からの感謝が現れていた。
だが、聡の動悸はひどくなるばかりだ。
聡はあいまいに答えるだけで、鼓動が収まるのをひたすら待つしかない。
「先生。……信じられないとお思いでしょうが、私は私であれが、可愛いんです」
康三はとうに冷めたコーヒーカップを傾け……それがもう一滴も残っていないことがわかると、テーブルの上で再び手を組み、もう一度聡をほうへ顔をあげる。
「馬鹿な子ほど、可愛くてしかたがないといいますが……グレてしまったときも、どう扱っていいかわからなかったが、……あれを思う気持ちは変わらなかった」
今度は康三が――聡を見据えていた。
「最初は、あれの将来のために……、あれがグレてしまってからは……せめてあれが問題を起こしても……揉み消せる権力をもちたいと、必死で働きました。それくらいしか私にできることはなかったからです」
40歳で政界入りし……康三は異例の出世を遂げて、わずか当選3回目にして官房長官の座を手にしている。
それどころか、今年の9月に行われる総裁選の最有力候補でもある。
自分の出世は、息子である将に捧げられたものだ、と告白する康三を目の前にして。
激しい動悸をなだめるように、聡の心の中では自動的に、今日の卒業式での将が再生されていた。
今日一日……聡は将を見ていた。
校門に着くなり、在校生に生花を付けてもらう少し照れた笑顔も。
井口たちと久々に再会してじゃれあう姿も。
体育館での卒業式のときも。
他の……最初で最後の教え子たちの一人一人の名前を呼びながら、その姿を心に刻みつけながら、目の端で……常に将を意識していた。
そして最後のHR。教室での卒業証書授与。
順番がまわってきた将は、得意げに聡のいる教壇に歩いてくると、聡が捧げ持っている卒業証書にその長い腕をすっと伸ばした。
もっと手を伸ばせば、抱き寄せられるほどの至近距離で……二人は瞳を交わす。
教壇の上にいる聡と将の目線は、ちょうど同じ高さだ。
高校を卒業して、ひとつ大人に近づいていく晴れがましさに、心持ち顎を上に向けた将は……今飛び立つ鳥のように希望に満ちて見えた。
将は『センセ、ありがと』といたずらっぽくウインクし、さらに声にださずに唇だけで『またね』と言った。
あの晴れがましさは……二人を引き裂いていた『教師と生徒』という結界が解けた喜びではなかったのか。
「先生。私は」
あるいは……回想は、ほんの一瞬だったのだろうか。
テーブルの上の三色スミレに視線を固定したまま、記憶を彷徨していた聡は、康三の声に再び現実に引き戻される。
「あれに……陽の当たる道を歩かせてやりたい。あれは……親馬鹿だと思うでしょうが、人の上にたってしかるべき人間だと信じている」
レースのカーテンを透過して壁に映った午後の光が、さっきより温かみを帯びている。
それを目にしたからなのか、康三はそんなことを言った。
……心臓が再び、大きく波打つ。
ゆっくりと目をあげた聡を、康三は見届けたように、小さく息継ぎをするように一瞬目を伏せた。
「あれの将来に、一点の曇りもつけたくないんです……おわかりですか」
そういうと康三は再び顔をあげた。
端正な……将によく似た容貌。強い決意に類似した……将への愛情が瞳の奥に映っている。
大きく収縮を繰り返す心臓は、聡の全身を締め上げるようだ。
しかし、もはや聡はそれを止める術を持たない。
「こんなことは……あなたにしか頼めない。将を本当に思ってくださるあなたにしか」
康三が眉を歪めた。
誇り高い……康三のような人間ならばありえない形……康三は聡に何かを懇願しようとしているのだ。
その眉を目にした聡は、呼吸を忘れるほど……追い詰められた。
自分を追い詰めるもの。聡にはその正体の99%がすでにわかっている。
「先生……いや、聡さん。頼みます」
康三はテーブルの上でがっくりと頭をたれた。
「あれと……別れてください」
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