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第13章 死闘
第242話 死闘(3)
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なあ、といって大悟は、自分の顔を将の目の前に突き出した。
「瑞樹は、どこに行ったんだ」
質の悪い冗談をいっているわけでもなく、責めているわけでもなく、ただ、瑞樹の行方を問い質しているように見えた。
本気で瑞樹のことを忘れているらしい大悟を、ただ将は恐れた。
「なあ。将、知らないか」
大悟は将の肩に手をおいた。将は耐えられなくなって顔を床のほうに向けて逸らした。
「なあ、将」
限界まで床のほうに目をそらそうとする将の肩を大悟は揺らした。
「なあ。将。なあ」
問いと同様に繰り返し、肩を揺らす。
最初は……問いかけにあわせていたのに、次第に激しく揺さぶられ始めた。
「みずきはどこにいったんだ、なあ、将」
しまいには、上半身がガクガクとシェイクされる。
「なあ、なあ、なあ」
見開いた大悟の瞳は黒い。白眼には赤い毛細血管が見える……血走った眼。あきらかに狂気が宿っていた。
「やめろ……ッ!」
ついに将は、肩に置かれた大悟の手を払いのけた。
大悟の手はあっさりと将の肩からはずれた。
将は身を起こそうとした。
腹に力を入れようとすると、左の肋骨が激しく痛む。思わず将は苦痛の声をあげた。
上半身を起こしながら、将は大悟に向かって辛い事実を再認識させなくてはならない。
「大悟……、瑞樹は……いない。……死んだんだ」
心の痛さと肋骨の痛さで、息がうまくつけない。言葉は切れ切れになった。
やっと言い終わるかどうかというところで、
「お前のせいだろーー!」
と大悟は吼えた。そして首を締めんばかりに将の襟首を掴んだ。
やはり正気だったのか。将は吐いた息をそのまま飲む。
「瑞樹は、最後の最後までお前の名前を呼んでいた。お前のなっ!」
大悟は、10センチと離れていない将の顔に唾を飛ばして叫んだ。
将は抵抗も出来ず、襟首から半身を吊り上げられたまま、ただ大悟の瞳を見つめるしかない。
その瞳には、蓄積された悲しみが爆発したかのような、狂った怒りが宿っていた。
「お前のせいで、瑞樹はッ!」
大悟は、将の襟を床に叩きつけるように解放すると、横たわった将に馬乗りになり、その顔を拳で殴った。
「お前の、お前の、お前のせいで瑞樹はっ!」
右、左、右、左、と手加減なく繰り返される拳が将の頬に、眼窩にめりこむ。
頭蓋骨に繰り返し衝撃が走る。
衝撃のたびに、なぜか将の目の前に火花のように、瑞樹の記憶の断片が散った。
抵抗することを考えたり、痛みを感じたりすることすら忘れるような激しい拳の嵐の中で、将は失神しそうになるのを耐えていた。
なぜ、耐えているのか……その理由を考えることもできない。
将の思考はすでにあまりの衝撃に擦り切れかかっていた。
かろうじて意識だけがつながっているような中で……それでも、いっそ失神した方がマシなのを持ちこたえているのは、大悟への、瑞樹への……償いのためなのかもしれなかった。
ひとしきり将を殴り終わると、大悟はハアハアいいながら、立ち上がった。
将はぼろきれのようにそこにぐったりと横たわるしかできない。
頭の中では、まだ殴られ続けているように、何かがぐわんぐわんと響いている。
――まだ雨が降っているんだな。
静かになってようやく、将の耳は、さっきよりずいぶん静かな雨音をとらえた。
顔のあちこちを生暖かいものが流れている。
唇や鼻、まぶたが切れているのだろう。
口の中はもはや血だらけで、鉄臭いのも甚だしい。
だが、それを吐き出す気力もなく、将は無意識に舌で歯を一本一本確認していた。
しかし、将は開かない目を薄くあけたまま、大悟のゆくえを見ていた。
大悟はふらつきながら、自室へ向かっているようだった。
財布か何かをとりにいっているのだろうか。
「だ、だいご……」
将は最後の力をふりしぼって、大悟のあとを追って、床を這った。
キリキリと顔の切れた場所が痛い。
殴られた頬や瞼には、小さな心臓が埋め込まれたようにズキンズキンと脈打っている。
しかし、思ったより、手や足は自由だということがわかった。
将は、リビング入り口のドアにつかまりながら、ズキズキと痛む肋骨の痛みに耐えて立ち上がった。
ちょうど、大悟が自室から出てきた。
大悟は立ち上がった将に驚いたようすを見せたが、ひるんだのは一瞬だけで、足を上げると将を蹴り倒した。
ようやく立っていた将だから、簡単に倒れてしまった。
大悟は倒れた将をまたぐように玄関に向かうと、将を玄関スペースから締め出すべく、いきおいよくリビングのドアを閉めた。
しかし、閉まるドアの先には……まだ将の右足首が残っていた。
次の瞬間、将は絶叫した。勢いよく閉まったドアに右足首を挟まれたのだ。
ドアか、右足首かわからないが、ミシッと音をたてた……激痛が右足首を震源に将の全身をつらぬく。
木のドアは、将の足を挟むと、バウンドするように再び開いた。
「うっ…あああ……」
倒れたまま右足首をかばって丸まった将の耳に
カチャカチャ
という音が聞こえた。
大悟がチェーンをはずしているのだ。カッシャン、というロックを外す音も。
引き続き、ガチャガチャとドアノブを回す音。
だが、それに鉄のドアが開く音は続かず、ガチャガチャとドアノブを回す音だけが繰り返された。
その音はだんだん大悟の苛立ちをあらわすがごとく、乱暴になってきた。
チェーンをはずしてロックを解除したのに、ドアが開かないのだ。
「なんだこれ」
大悟はついに口に出すと、ドアを蹴った。
重い鉄製のドアが、マンション中に響けとばかりに大きな音で反響する。
実は……将は、大悟が意識を失っている間、彼が出て行けないように、ドアの上部と下部に市販のロックを取り付けていたのだ。
かなり前に、家政婦さんが
『今、ピッキングが流行っているようです。将さんもお部屋にいらっしゃるとき、用心のために付けてくださいよ』
と置いていったのが役に立った。
冷静だったらすぐに気がつくだろうが、案の定大悟は気付かないらしく、ただノブをガチャガチャと回したり、蹴ったりを繰り返している。
将はその背後にいざり寄った。
「まだ……俺は死んでないぞ」
膝をついて立ち上がると、将は大悟の下半身にしがみついた。
「将!」
ふいをつかれた大悟は、恐ろしい叫び声をあげた。
「行くなら、俺を殺してから行け」
地の底から響くような将の低い呟き。大悟は狂気の目に、恐怖を浮かべて将を見下ろした。
大悟の足を死んでも離すものか、と将は心に誓う。
「離せ、離せよ、将」
大悟は両足にしがみついた将の頭を剥がそうとやっきになる。
しかし、そうすればするほど、将は首をすくめるようにして、がっしりと大悟にしがみつく。
どんなに殴られようとも離れない。
「離してくれええ、瑞樹のところに行かせてくれええ」
しまいには、大悟は喚き……泣き叫んだ。
「瑞樹、みずきーっ、うう、あああ」
大悟は体を痙攣させるようにして泣きわめき続け……再び、すとんと落ちるように意識を失った。
もう完全に夜になっていた。
喚き声に満たされていた将の部屋に、静寂が戻ってきた。
右足をひきずりながら将は、大悟をリビングにひきずってくると、窓辺から外を見た。
夜になって、雨も止んだらしい。
痛くて細くしかあけられない瞼の中の目は、はるかに高層ビルの赤い光りを捉えていた。
将は、再び右足をひきずりながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
力が入れられない右足の踝は青黒くなっていた。そこを触った将は、激痛に思わず声をあげた。
声をあげると、響くのか左の肋骨も痛む。
痛さに耐えながら慎重に、青黒い部分の感触を調べる。どうやら折れてしまったわけではなさそうだ。
将は、傷だらけの口の中にかまわず、冷たい水を一気に飲むと、テーブルの上にある錠剤を手に取った。
大悟が持っていたほうの強めの睡眠薬と、弱い入眠剤。
大悟の睡眠薬はあと1回分残っているが、まだ夜8時だ。これを使うには早い。
将は、殴られたせいか、真綿で包まれたような脳を無理やり稼動させて考える。
台風がいってしまったからには、明日9時に、武藤が迎えに来るだろう。
来なくていいといっても、来るのが彼女の務めだ。
頬杖をつこうとして、頬の痛みに、将は思わず手をはずす。
かわりに背もたれによりかかる。体全体が拘束されたように痛いが、まだ、ましだった。
……この顔は、明日派手に腫れあがるだろう。
それを見た武藤は、将をきっと病院に連れて行く、と言い出すに違いない。
だとしたら。
睡眠薬は自分が家をあける間に使ったほうがいい。
昨日、6-7時間ほど効いた薬……。
将はぼうっとしたような頭を出来る限りフル稼働させた。
やはり、明け方まで使わないほうがいい、という結論に達する。
だが、次に大悟が目覚めたとき。
満身創痍の将に彼を止められるかどうかわからない。
殴られた顔は、いまも血がどくどくと集まってくるように熱い。
将はずきずきと脈打つ顔を保冷剤で冷やしながら、倒れたように床で眠る大悟の顔を見る。
涙の跡が白く頬に残っている。
『瑞樹、みずきーっ』
という悲痛なわめき声が脳裏に蘇る。
それで、将はあるものを思い出す。おそらく瑞樹が持っていた……あの道具。
将は右足をひきずりながら、大悟の部屋へ向かった。
「肋骨にはヒビが入っているようですね」
医師はレントゲンを見ながらいった。
医師の前には顔のあちこちにテープを貼った将が武藤と共に座っていた。右手首の裂傷は3針縫った。
足のほうは、骨は大丈夫だったらしいが、筋を痛めてしまったらしい。
1~2週間ほど固定すべきだと言われて、普通の靴を履けないほど嵩高く包帯で覆われた。
ヒビの入った肋骨は、固定といってもコルセットをつけるぐらいしかないらしい。
「暑い時期だから、つけなくてもいい」
とも言われたがいちおう今はつけている。
「顔は……」
武藤がおずおずと訊いた。
「個人差はありますが、腫れがひくのに最低でも1週間かかるでしょうね」
医師は淡々と答える。
痣になった瞼の色がひくのには1ヶ月かかる場合もあると付け加えられて武藤はうなだれた。
「そうですか……」
「もしも。誰かに暴力を振るわれたのだったら、いちおう被害届は出すべきだと思いますよ」
医師は瞳だけを動かして、もう一度将を見あげた。
処方された鎮痛剤に湿布薬などが山のように入った薬の白いビニール袋を将にわたしながら、武藤は
「将、いったい、どうしたの。なんでこんなことに」
とようやく見上げた。見上げてその酷い顔に眉をしかめる。
「本当にすいませんでした」
将はただ頭を下げるしかない。
「誰かとケンカしたの?それとも袋……叩きにでもされたの?」
心配そうな武藤だが、答えられない将は、目を一瞬伏せると(伏せるだけでも、眼球がごろつくのだが)
「俺、ちょっと知り合いの看護師に挨拶してきます」
と一礼した。そのまま踵を返すと、足をひきずって歩き出した。
「あ、将!待ちなさい」
「自分で帰れますから……本当に迷惑かけてすいません」
武藤は、追おうとしたが、まだキャンセルの連絡が山ほど残っている。
立てれるものは代役を立て、スケジュールを調整して……武藤の仕事は急に面倒なことで山積みになってしまったのだ。
「本当に大丈夫ー?」
武藤は将の背中に叫んだ。
「大丈夫です!本当にすいませんでした」
足をひきずりながら、エレベーターに乗りこんだ将は、もう一度深く頭を下げた。肋骨が『まったく迷惑をかけて』と言うかのように、もう一度痛んだ。
それでもエレベーターの扉が閉まる直前、腫れ上がった顔の口元にわずかに微笑が見えた気が、武藤にはしていた。
山のようなキャンセルは気が重いけれど、それだけが救いのようでもあった。
エレベーターを降りると、そこは内科病棟の待合室だ。
懐かしい山口の白衣姿はすぐに見つけることができた。小柄な彼女は、待合室で若い女性と立ち話をしていた。
後姿の女性はカーディガンにチェックのスカート・サンダルといういでたちで、患者のようにはあまり見えなかった。
将のあまりにひどい姿に、内科病棟の患者がいっせいに注目する。
それに気がついた山口は、将を見て一瞬けげんな顔をした。
将の顔があまりにひどい腫れ上がり方なのと、それゆえ誰だかわからないらしい。
「山口さん」
右手をあげようとした将は、思った位置のかなり下で止めた。
折れた肋骨が、また存在を主張するように痛んだのだ。
「……鷹枝くん?」
将の声にようやく気付いた山口が将の名前を口にした。
同時に、背を向けていた女性がこちらを向いた。……聡だった。
「瑞樹は、どこに行ったんだ」
質の悪い冗談をいっているわけでもなく、責めているわけでもなく、ただ、瑞樹の行方を問い質しているように見えた。
本気で瑞樹のことを忘れているらしい大悟を、ただ将は恐れた。
「なあ。将、知らないか」
大悟は将の肩に手をおいた。将は耐えられなくなって顔を床のほうに向けて逸らした。
「なあ、将」
限界まで床のほうに目をそらそうとする将の肩を大悟は揺らした。
「なあ。将。なあ」
問いと同様に繰り返し、肩を揺らす。
最初は……問いかけにあわせていたのに、次第に激しく揺さぶられ始めた。
「みずきはどこにいったんだ、なあ、将」
しまいには、上半身がガクガクとシェイクされる。
「なあ、なあ、なあ」
見開いた大悟の瞳は黒い。白眼には赤い毛細血管が見える……血走った眼。あきらかに狂気が宿っていた。
「やめろ……ッ!」
ついに将は、肩に置かれた大悟の手を払いのけた。
大悟の手はあっさりと将の肩からはずれた。
将は身を起こそうとした。
腹に力を入れようとすると、左の肋骨が激しく痛む。思わず将は苦痛の声をあげた。
上半身を起こしながら、将は大悟に向かって辛い事実を再認識させなくてはならない。
「大悟……、瑞樹は……いない。……死んだんだ」
心の痛さと肋骨の痛さで、息がうまくつけない。言葉は切れ切れになった。
やっと言い終わるかどうかというところで、
「お前のせいだろーー!」
と大悟は吼えた。そして首を締めんばかりに将の襟首を掴んだ。
やはり正気だったのか。将は吐いた息をそのまま飲む。
「瑞樹は、最後の最後までお前の名前を呼んでいた。お前のなっ!」
大悟は、10センチと離れていない将の顔に唾を飛ばして叫んだ。
将は抵抗も出来ず、襟首から半身を吊り上げられたまま、ただ大悟の瞳を見つめるしかない。
その瞳には、蓄積された悲しみが爆発したかのような、狂った怒りが宿っていた。
「お前のせいで、瑞樹はッ!」
大悟は、将の襟を床に叩きつけるように解放すると、横たわった将に馬乗りになり、その顔を拳で殴った。
「お前の、お前の、お前のせいで瑞樹はっ!」
右、左、右、左、と手加減なく繰り返される拳が将の頬に、眼窩にめりこむ。
頭蓋骨に繰り返し衝撃が走る。
衝撃のたびに、なぜか将の目の前に火花のように、瑞樹の記憶の断片が散った。
抵抗することを考えたり、痛みを感じたりすることすら忘れるような激しい拳の嵐の中で、将は失神しそうになるのを耐えていた。
なぜ、耐えているのか……その理由を考えることもできない。
将の思考はすでにあまりの衝撃に擦り切れかかっていた。
かろうじて意識だけがつながっているような中で……それでも、いっそ失神した方がマシなのを持ちこたえているのは、大悟への、瑞樹への……償いのためなのかもしれなかった。
ひとしきり将を殴り終わると、大悟はハアハアいいながら、立ち上がった。
将はぼろきれのようにそこにぐったりと横たわるしかできない。
頭の中では、まだ殴られ続けているように、何かがぐわんぐわんと響いている。
――まだ雨が降っているんだな。
静かになってようやく、将の耳は、さっきよりずいぶん静かな雨音をとらえた。
顔のあちこちを生暖かいものが流れている。
唇や鼻、まぶたが切れているのだろう。
口の中はもはや血だらけで、鉄臭いのも甚だしい。
だが、それを吐き出す気力もなく、将は無意識に舌で歯を一本一本確認していた。
しかし、将は開かない目を薄くあけたまま、大悟のゆくえを見ていた。
大悟はふらつきながら、自室へ向かっているようだった。
財布か何かをとりにいっているのだろうか。
「だ、だいご……」
将は最後の力をふりしぼって、大悟のあとを追って、床を這った。
キリキリと顔の切れた場所が痛い。
殴られた頬や瞼には、小さな心臓が埋め込まれたようにズキンズキンと脈打っている。
しかし、思ったより、手や足は自由だということがわかった。
将は、リビング入り口のドアにつかまりながら、ズキズキと痛む肋骨の痛みに耐えて立ち上がった。
ちょうど、大悟が自室から出てきた。
大悟は立ち上がった将に驚いたようすを見せたが、ひるんだのは一瞬だけで、足を上げると将を蹴り倒した。
ようやく立っていた将だから、簡単に倒れてしまった。
大悟は倒れた将をまたぐように玄関に向かうと、将を玄関スペースから締め出すべく、いきおいよくリビングのドアを閉めた。
しかし、閉まるドアの先には……まだ将の右足首が残っていた。
次の瞬間、将は絶叫した。勢いよく閉まったドアに右足首を挟まれたのだ。
ドアか、右足首かわからないが、ミシッと音をたてた……激痛が右足首を震源に将の全身をつらぬく。
木のドアは、将の足を挟むと、バウンドするように再び開いた。
「うっ…あああ……」
倒れたまま右足首をかばって丸まった将の耳に
カチャカチャ
という音が聞こえた。
大悟がチェーンをはずしているのだ。カッシャン、というロックを外す音も。
引き続き、ガチャガチャとドアノブを回す音。
だが、それに鉄のドアが開く音は続かず、ガチャガチャとドアノブを回す音だけが繰り返された。
その音はだんだん大悟の苛立ちをあらわすがごとく、乱暴になってきた。
チェーンをはずしてロックを解除したのに、ドアが開かないのだ。
「なんだこれ」
大悟はついに口に出すと、ドアを蹴った。
重い鉄製のドアが、マンション中に響けとばかりに大きな音で反響する。
実は……将は、大悟が意識を失っている間、彼が出て行けないように、ドアの上部と下部に市販のロックを取り付けていたのだ。
かなり前に、家政婦さんが
『今、ピッキングが流行っているようです。将さんもお部屋にいらっしゃるとき、用心のために付けてくださいよ』
と置いていったのが役に立った。
冷静だったらすぐに気がつくだろうが、案の定大悟は気付かないらしく、ただノブをガチャガチャと回したり、蹴ったりを繰り返している。
将はその背後にいざり寄った。
「まだ……俺は死んでないぞ」
膝をついて立ち上がると、将は大悟の下半身にしがみついた。
「将!」
ふいをつかれた大悟は、恐ろしい叫び声をあげた。
「行くなら、俺を殺してから行け」
地の底から響くような将の低い呟き。大悟は狂気の目に、恐怖を浮かべて将を見下ろした。
大悟の足を死んでも離すものか、と将は心に誓う。
「離せ、離せよ、将」
大悟は両足にしがみついた将の頭を剥がそうとやっきになる。
しかし、そうすればするほど、将は首をすくめるようにして、がっしりと大悟にしがみつく。
どんなに殴られようとも離れない。
「離してくれええ、瑞樹のところに行かせてくれええ」
しまいには、大悟は喚き……泣き叫んだ。
「瑞樹、みずきーっ、うう、あああ」
大悟は体を痙攣させるようにして泣きわめき続け……再び、すとんと落ちるように意識を失った。
もう完全に夜になっていた。
喚き声に満たされていた将の部屋に、静寂が戻ってきた。
右足をひきずりながら将は、大悟をリビングにひきずってくると、窓辺から外を見た。
夜になって、雨も止んだらしい。
痛くて細くしかあけられない瞼の中の目は、はるかに高層ビルの赤い光りを捉えていた。
将は、再び右足をひきずりながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
力が入れられない右足の踝は青黒くなっていた。そこを触った将は、激痛に思わず声をあげた。
声をあげると、響くのか左の肋骨も痛む。
痛さに耐えながら慎重に、青黒い部分の感触を調べる。どうやら折れてしまったわけではなさそうだ。
将は、傷だらけの口の中にかまわず、冷たい水を一気に飲むと、テーブルの上にある錠剤を手に取った。
大悟が持っていたほうの強めの睡眠薬と、弱い入眠剤。
大悟の睡眠薬はあと1回分残っているが、まだ夜8時だ。これを使うには早い。
将は、殴られたせいか、真綿で包まれたような脳を無理やり稼動させて考える。
台風がいってしまったからには、明日9時に、武藤が迎えに来るだろう。
来なくていいといっても、来るのが彼女の務めだ。
頬杖をつこうとして、頬の痛みに、将は思わず手をはずす。
かわりに背もたれによりかかる。体全体が拘束されたように痛いが、まだ、ましだった。
……この顔は、明日派手に腫れあがるだろう。
それを見た武藤は、将をきっと病院に連れて行く、と言い出すに違いない。
だとしたら。
睡眠薬は自分が家をあける間に使ったほうがいい。
昨日、6-7時間ほど効いた薬……。
将はぼうっとしたような頭を出来る限りフル稼働させた。
やはり、明け方まで使わないほうがいい、という結論に達する。
だが、次に大悟が目覚めたとき。
満身創痍の将に彼を止められるかどうかわからない。
殴られた顔は、いまも血がどくどくと集まってくるように熱い。
将はずきずきと脈打つ顔を保冷剤で冷やしながら、倒れたように床で眠る大悟の顔を見る。
涙の跡が白く頬に残っている。
『瑞樹、みずきーっ』
という悲痛なわめき声が脳裏に蘇る。
それで、将はあるものを思い出す。おそらく瑞樹が持っていた……あの道具。
将は右足をひきずりながら、大悟の部屋へ向かった。
「肋骨にはヒビが入っているようですね」
医師はレントゲンを見ながらいった。
医師の前には顔のあちこちにテープを貼った将が武藤と共に座っていた。右手首の裂傷は3針縫った。
足のほうは、骨は大丈夫だったらしいが、筋を痛めてしまったらしい。
1~2週間ほど固定すべきだと言われて、普通の靴を履けないほど嵩高く包帯で覆われた。
ヒビの入った肋骨は、固定といってもコルセットをつけるぐらいしかないらしい。
「暑い時期だから、つけなくてもいい」
とも言われたがいちおう今はつけている。
「顔は……」
武藤がおずおずと訊いた。
「個人差はありますが、腫れがひくのに最低でも1週間かかるでしょうね」
医師は淡々と答える。
痣になった瞼の色がひくのには1ヶ月かかる場合もあると付け加えられて武藤はうなだれた。
「そうですか……」
「もしも。誰かに暴力を振るわれたのだったら、いちおう被害届は出すべきだと思いますよ」
医師は瞳だけを動かして、もう一度将を見あげた。
処方された鎮痛剤に湿布薬などが山のように入った薬の白いビニール袋を将にわたしながら、武藤は
「将、いったい、どうしたの。なんでこんなことに」
とようやく見上げた。見上げてその酷い顔に眉をしかめる。
「本当にすいませんでした」
将はただ頭を下げるしかない。
「誰かとケンカしたの?それとも袋……叩きにでもされたの?」
心配そうな武藤だが、答えられない将は、目を一瞬伏せると(伏せるだけでも、眼球がごろつくのだが)
「俺、ちょっと知り合いの看護師に挨拶してきます」
と一礼した。そのまま踵を返すと、足をひきずって歩き出した。
「あ、将!待ちなさい」
「自分で帰れますから……本当に迷惑かけてすいません」
武藤は、追おうとしたが、まだキャンセルの連絡が山ほど残っている。
立てれるものは代役を立て、スケジュールを調整して……武藤の仕事は急に面倒なことで山積みになってしまったのだ。
「本当に大丈夫ー?」
武藤は将の背中に叫んだ。
「大丈夫です!本当にすいませんでした」
足をひきずりながら、エレベーターに乗りこんだ将は、もう一度深く頭を下げた。肋骨が『まったく迷惑をかけて』と言うかのように、もう一度痛んだ。
それでもエレベーターの扉が閉まる直前、腫れ上がった顔の口元にわずかに微笑が見えた気が、武藤にはしていた。
山のようなキャンセルは気が重いけれど、それだけが救いのようでもあった。
エレベーターを降りると、そこは内科病棟の待合室だ。
懐かしい山口の白衣姿はすぐに見つけることができた。小柄な彼女は、待合室で若い女性と立ち話をしていた。
後姿の女性はカーディガンにチェックのスカート・サンダルといういでたちで、患者のようにはあまり見えなかった。
将のあまりにひどい姿に、内科病棟の患者がいっせいに注目する。
それに気がついた山口は、将を見て一瞬けげんな顔をした。
将の顔があまりにひどい腫れ上がり方なのと、それゆえ誰だかわからないらしい。
「山口さん」
右手をあげようとした将は、思った位置のかなり下で止めた。
折れた肋骨が、また存在を主張するように痛んだのだ。
「……鷹枝くん?」
将の声にようやく気付いた山口が将の名前を口にした。
同時に、背を向けていた女性がこちらを向いた。……聡だった。
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