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第三章 水の街
第102話 見えぬ舞台の陰
しおりを挟む時折、少女は理解の追いつかない現象に見舞われていた。
──ごめんなさい、ごめんなさい。
音が聴こえる。
ぼんやりとした意識に現れる音。微睡みの揺籃に限られる音。
どこから聞こえるのか。何が発しているのか、少女には判別ができない。
分からないが、懐かしさを感じる。温かみを感じる。
時を経てして、それは赦しを請いてる言葉なのだと知る。
質問には応えない。耳を傾けてくれない。
ひたすらに繰り返される、謝罪の意の込められた言葉。
あれは誰の言葉? 何の罪への贖い?
あなたは、だあれ?
少女は常に空虚を感じていた。空いている部分を埋められずにいた。空虚が疑問を抱かせていた。
自分は何故この世にいる──?
こびり付いた自問。消えることのない根本の疑い。
ヒトとは違う故の意義への渇望。歪んだ運命が故の欠落の呪い。
本質を問う。存在に意味を見出そうとする。
……街があった。ヒトがいた。
住まう者、構築物の群れ、流れる水。
とりわけ美醜の見定めに長けていた。叡智の果ての、神の域に近しい感覚を。
街の何もかもが少女には目が眩む輝かしさを持っていた。
綺麗なものがあった──汚いものもあった。
熱意に溢れたヒトがいた──悪意に満ちたヒトもいた。
少女は街を見る。大勢のヒトの営みを観察する。身を寄せ合う者達を観測する。
血の繋がりを持つ者達の晩餐を外から覗き見る。
『どうしてワタシにはないものがたくさんあるの?』
自分には無いものが、この世界にある。そこにある。
当たり前で、当たり前ではないもの。少女にはなかったものが広がっている。
求めた。求め続けた。ヒトにはあって自分には無いものを。ヒトが普遍に与えられるものを。自分には与えられないものを。
すぐ傍に、伸ばす手にはひどく遠くに。掴もうとする掌をすり抜けて。
届かない。穢れた手、穢れた魂には与えられない。
ニンゲンの園に居場所はあらず。異形の心は涙を流し続ける。
ヒトならざる者は憧憬する。子供のように無垢に。
ヒトならざる者は羨望する。子供のように我儘に。
ヒトならざる者は愛憎する。子供のように残酷に。
『ドウシテ■■■■ニハ、アタエラレナイノ──?』
怨嗟は鼓動する。かくも美しき世界に向けて。
怨嗟は胎動する。かくも醜き楼閣を憎睨して。
マープルと呼称の代わりにビィビィと呼ばれた少女が流れを逆上る。
川を泳ぎ上り、オンディーヌ鏡窟を慣れた足取りで進む。
「ねえ、みんなっ!」
最奥部に行き着き、ビィビィは呼ぶ。
目前の湧き水が水面が盛り上がらせ、瀑布が撒き散らされる。
被った水の中から現れたのは、シンジがスライムと形容し、彼らを害した巨躯の存在。
朗らかに振る舞う少女を前に、巨躯の生命体は緩慢に佇む。無形の体躯の一片一片が蠢き、全意識をビィビィへ向ける。
「────」
巨大なスライム型のモンスターを前に、依然としてビィビィは逃げない。
恐怖は無い。ビィビィがスライムを恐れることなく、スライムも敵意はない。スライムがシンジ達を払い飛ばした凶暴性は微塵も発現していなかった。
この子達は仲間、我らはトモダチ──何故なら自分と同じなのだから。
「ただいま! 遅くなってごめんね! あのね、あのねっ──」
ビィビィは姿を消していた間にあった出来事をスライムに話す。シンジ達に会ったことを、彼らに教えられたことを、喜怒哀楽全てをおすそ分けする。
目と耳に相当する器官は見当たらないがスライムはビィビィの話を静聴する。何十、何百、千に匹敵する思考無きに等しい知性が、少女の感情を汲み取る。
知っていた。スライムが何者であるかを、ビィビィは初めから本能的に知覚していた。
これは一個体ではなく、群体。多数の生命をぎゅっと塊めた集合群。
ビィビィと同じくして、ひいてはシュヴェルタルと同様の、人間を基にした異形の生命体の正体。
この巨躯を構成する集合群は……。
「お兄ちゃんがね、その人を助けたいの。ビィビィはお兄ちゃんのお願いを叶えたい。お友達を助けてもらったら解放してあげちゃおうね」
シンジと交わした約束をスライムに打ち明ける。
行方の分からない友達が彼等の手で戻ってきたら、あの人を解放してあげよう。あの気味の悪い男の言いつけを破って。
口を持たない。会話を交わす機能を持たない……が、スライムはビィビィの話を理解し、同意した。
ビィビィとスライムは友達。ならば決めたことを尊重する。否定する理由がない、と乏しい知性は判断する。
「みんな、ありがとう。シンジお兄ちゃんもテレサお姉ちゃんも好きになれるよ。ビィビィみたいにね」
自分とシンジらは友達。きっと仲良くなれる。恐れるものも何らの障害もない。
あの街で得た絆はいつまでも……。
────いつまでも?
「あれ……?」
疑問を顕わにする。
気付いたのだ。自分が見ていなかった可能性に、無意識に見ていなかった未来に。
解放したら、シンジやテレサはその後どうする──?
「全然見ねえな思ったら……やっと戻ってきたか」
新たな来訪者の顔を見た瞬間、ビィビィの顔がさらに曇った
ロギニ──。
オリジンを前に、自らをそう定義した者。シュヴェルタルに屈辱を負わされた男がビィビィの前に姿を現していた。
硬い地面を打つ足音が地形により反響する。あの足音がより不快に聞こえた。
ビィビィはこの男が苦手だ。とても嫌いだ。
あの目が嫌い。怒ってくるのが嫌い。いつも苛々しているのが嫌い。それ以上に、漠然とした嫌悪がある。この男に対しては特に。
「どこに行ってた!? なあっ! なあっ!!」
「ひっ……」
「またあんな所で遊んでたのか? そうなんだろっ!?」
「ち、ちがうもん。いなくなった仲間をさがしてたの」
「知るもんかっ!! 遊びに行ってる暇があるなら人間を一人でも血祭りにあげてろっ!」
条件反射で怒声に怯える。頭を掴まれた。
「チッ、役に立たねえな。こんの……クソガキがっ!!」
会う都度十中八九この機嫌の悪さ。この男が機嫌良くしている時は無く、優しく接されたことはない。
楽しい思い出も記憶もくれない。教えてくれたのは、何も知らない自分でも嫌に感じることばかり。この男の言うことは全てが耳に障る。
自分を見る目は慈しみの一片もない。消えた同族すら見捨てていった。散っていった仲間に関心を持たなかった。
怖い、この男が。
何もかも踏みにじられ、何もかも否定するこの男が。
子供相手にロギニは──以前の屈辱を加味して──虐げる。機械の不具合に苛立つように。
「ちが、うもん……っ」
クソガキは自分の名前じゃない。シンジに与えられた名前がある。自分の存在を世界に証明する呼称、ビィビィが。
与えられた名前に奮われ、ビィビィは反抗に出る。手を退け、キッとロギニを睨む。
「何しやがるんだあぁ?」
「クソガキじゃないもんっ!」
「あぁ?」
「ビィビィはビィビィって名前があるもんっ!」
「なに? ビィビィ? なんだそりゃあ……」
「名前っ! お兄ちゃんがくれたのっ! ビィビィはビィビィだよっ!」
少女に与えられた名を、しかし冷めた目で見下ろすロギニは「ハッ」と。血の通わぬ色の唇に蔑笑を添えた。
「バカがっ、絆されてんじゃねえよっ!! ビィビィ? 名前? お前ダマされてんじゃねえのかっ!?」
「だまされ……なんのこと?」
「誰もお前のことなんか大事に思ってなんかいねえっ。だってそうだろ? お前みたいなゴミカス、誰が気に掛けるかよ」
「ちがうもんっ!! お兄ちゃんは優しくしてくれたもんっ!!」
「違わねえ。野良猫を可愛がっても面倒を最後まで見る奴なんざいねえ……アイツらに幻想を見るのは今のうちだ。そのうち裏切られんぜ」
違う、とビィビィは食って掛かる。ロギニをさらに苛立たせる。
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「い、いた……っ」
またも虐げてくる。ロギニが反抗の芽を摘もうとする。
やっぱり怖い。この寂しい男の話を聞くと苦しくなる。自分という存在が定まらなくなる。
どうして生まれた? そんなもの知らない。
知る由もない。自分がどうして生まれたのか。どうして此処にいるのかを。
気が付くとこの世界に居た。いつの間にかこの世界に引っ張り出された。
この男がいた。ロギニにあれしろこれしろと言われた。
何よりも重要な部分が欠落している。だから欠陥している。
「ヒトの魂を使ったモンスターの成功作として生み出されたかと思えば……役に立たねえゴミがっ! 遊び呆けてさあっ!」
「やめて、いたい……!」
ロギニは拒む。名前も、ヒトらしいものの全てを加虐の形で拒絶する。いっさい躊躇なく。
痛々しい声を聞いても手を上げ続け、激化する。
そして、唸り声が水鏡窟を揺るがした。
水が騒ぐ。波が立つ。
静聴しただけのスライムが目前のひどい有様に堪えかねて形状を変える。
友を害する者に激昂する。ロギニであれ容赦しない。
怒りが具現する。
「チッ、お前もいつもいつも……!」
軟体の一部が触手を形成し、ロギニに目掛けて矛先を集中する。イレギュラーな存在が故にロギニに反逆し、ビィビィを優先して守ろうとする。
このモンスターもまたロギニの手を焼かせている。こうなると鎮まるまで手がつけられない。暴威舞う嵐そのものだ。
「がはっ……!」
尖端がロギニを害する。矛盾行動が爪を立て、友を逃がそうと分け剥がす。
ロギニが伏し、ビィビィがその場から逃げ出した。
小さな身体がさらに小さくなるのを、ロギニが舌打ちして目で追う。
「お前に居場所なんか無いんだよ──っ!!」
どこに逃げても無駄と、悔し紛れの強情は重く。
背に浴びせられた呪詛をビィビィは拒んだ。
違う。居場所はある。
ロギニへの恐怖からか証明の為からか、不安に苛まれたビィビィの身体は水に飛び込んでいった。
逃げに逃げ続けて、街の近くまで戻っていた。
水上に顔を出し、わずかな燐光を灯したヒトの園を見据える。慣れた往路が長く感じ、戻ってきたことに安堵する。
ロギニに言われた事がまだ新鮮に残っている。胸の内がどうしてか苦しい。
シンジ達に会いたかった。もう一度確かめたかった。自分を抱き締めた感触を。
あれがビィビィを許容する。ビィビィを肯定する。怖いものを払拭してくれる。
彼のいる場所を目指し、いつもより早く水中を進んでいく。
はっと気付いた。自分を取り巻く異変に。
何かに引っ掛かっている。進行を妨げている。阻まれ、どう藻掻いても先に進めない。
水中から顔を出した瞬間、上空から何かが降ってきた。
網だ。網が水に降りかかり、ビィビィを囲み包む。
「わっ! なに、これ……!?」
ヒトが魚を捕まえるものじゃない。モンスター除けに使うもの? それも違う。明らかな目的の見え隠れするもの。
抜け出すには遅く、ビィビィの身は絡め取られ網と共に陸地に引っ張り上げられた。
網の外から声が聞こえる。
外に立っているのは、大勢のニンゲン。しかも武器を持っている。脅威的なものに備えているように。
このヒトたちは……?
彼らは奇異な目でビィビィを見つめ、驚愕と困惑を各々で発露する。
「おお! おお! お前たち! よくやってくれた!」
何が起こっているのか分からない中、一人だけ興奮をもって現れた。
誰よりも裕福な身なりで、ロザリーヌに似た気品のある男。だがロザリーヌとは遠い、無駄という贅肉を纏った者──バルガーネ。
平民から貴族に成り上がり、一般市民のロザリーヌを嫁にし損ねた男が躍り出た。
ビィビィを品定めするように眺め、歓心。
「上々だ。夜更けに足を運んだ甲斐がある。此度は報酬を弾ませてやろう」
「こ、これが噂のマープルの正体ですかい? 子供に見えますが……」
「疾く見よ。この醜い生き物がヒトであるはずがない。これはモンスターだ」
「違うもんっ!!」
「ほう、言葉を喋るのか。これは素晴らしい。コレクションの中でも上物となろう」
口髭を撫で、ニッと口端を吊り上げる。
バルガーネの発言が、落胆よりも興味を上回らせた。
「これくしょん……?」
「私が討伐者に依頼し、蒐集しているモンスターのコレクションだ。今は観賞用のみだが、必ず私兵にしてみせる。その暁には議会で踏ん反り返る上級貴族どもを黙らせよう」
軽口にもバルガーネが悪趣味を晒す。己の隠していた実態と野望を明かす。シンジの求めていた答え合わせを、ビィビィは耳にした。
──見つけた。
この男だ。この男が仲間を攫った。自分の欲求を満たす為の道具にして。
「ああ、アァ……」
許せない。ユルセナイ。
体温が上昇する。思考が鈍り、理性が溶ける感覚。
抑えようとしても身体が自然と動く。本能がこの男を殺せと叫んでいる。
ころせ、コロセ、殺せ。
この男はユルセナイ。
殺してやる──!!
「ガアッ!!」
「むっ!? のおっ!!」
剥いた牙は寸前で止まる。絡め取られた身体では動けない。
バルガーネが怯んで離れ、彼の雇った討伐者が槍と剣をビィビィに放った。
ドスッ、ドスッ、と小さな身体に刃物が突き刺さる。大人が子供に武器を刺し向ける異常な構図だ。
「アッ、ウッ、ウゥ……!!」
痛い、痛い。
刃が肉を穿ち裂く痛みに悶え苦しむ。抵抗が失せるまで槍は突き刺さったまま。即死しなかったのはモンスターだからか。
苦しむビィビィを救う者はいない。バルガーネの主張により人間と見なくなっているから。
「加減せよ。殺してはならんぞ」
「はっ」
「早急に慎重に運び出せ。議会に悟られる前に終わらせよ」
倒れ、抵抗が失せたのを機に得物が抜かれ、男達が運搬の作業に取り掛かった。
刺突を受け、それでもわずかに意識を残していたビィビィの心中は失意に染められていた。
これがヒトの一面。ヒトの行い……。
なんて酷い。なんて醜い。なんて汚らしい。
下賤、下賤だ。
外も内も苦痛がじくじくと訴える。
意識が途絶える直前、ビィビィは自分に希望をくれた人物を目蓋の裏にぼんやりと映した。
「オ……にイちゃん、タスけてよオ……」
ビィビィが連れ去られる。荷馬車に運ばれていく。シンジ達の目の届かぬ場所で。
歪んだ運命に産み落とされた哀れな少女は、穢い者達の飽くなき悪意に翻弄される。腐れた悪戯の玩具にされて。
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