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第2章 ハズール内乱編

第26話 セルジオ・ロドリゲス

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「親父たち……無事に王都にたどり着けるだろうか……」 

 セルジオ・ロドリゲスは自室の窓から遠く北の山々を見やるとボソリとつぶやいた。

………
……


 彼が王都にやってきたのは20年ほど前、都会に憧れ一旗上げることを夢見て単身上京したのだった。
 王都ではいろいろな仕事を転々としていたが、結婚し子供を授かったとき、ついに落ち着いた仕事で身を固めることを決意し、荷物搬送の仕事に就いた。

 愛する妻と息子のため、かつて自分の抱いた夢など諦めて日々の生活のために汗を流す毎日が続いた。それほど収入の良い仕事ではなかったが、得意先の大半は貴族であり、彼らは貴族としてのプライドから支払いを渋るようなこともなかったため安定した収入を得ることができた。

 中でもオスカー・シュトルンツ大公爵はセルジオにとって大口の客であった。王家に次ぐ家柄ゆえのプライドも高く、配達の度に渡されるチップの額も他の貴族家とは別格であった。

 そうして、彼はコツコツと仕事を続け、わずかではあるが蓄えも作った。子供が生まれて間もない頃は、年に一度くらいは実家のある北の田舎に帰ったりもしていた。

 彼と彼の家族は質素ながらも幸せな日々を過ごしていた。


 しかし、そんな幸福に包まれたセルジオの生活は長くは続かなかった。

「セルジオ、頼む!今ならとある貴族がものすごく低い利息で金を貸してくれると言ってくれたんだ!この通り!」

 職場のマルコ先輩から家を買うために金を借りる必要があるから、借金の連帯保証人になってくれと頼まれた。

 彼は最初こそ保証人になることを渋ったが、マルコ先輩にはこれまで世話になった恩も感じていたし、最終的には同意してしまった。


 まもなく……マルコ先輩は突然仕事を辞め、姿をくらませた。

 セルジオは先輩を探して王都中を必死に走り回ったが、ついに発見することはできなかった。

 そして最初の支払期日を迎えた。

 なんとか返済は出来たが、いくらか貯金を切り崩してしまった。これがあと何十回も続くのかと思うと、彼は胸が押しつぶされるような不安に襲われた。

 そして二度目、三度目と支払いは毎月続いた。

 まだまだ支払いの終わりは見えないが、貯金の底は確実に見え始めていた。

「セルジオ、いったい毎月何に貯金を使っているの?!」

 妻もセルジオの異変に気づき、厳しく彼を責め立てた。

 そしてセルジオはこのときになって初めて、保証人のことを妻に告げた。妻は最初こそ驚きと怒りをあらわにしたが、彼のそういう、困っている人を放っておけないところに惹かれて結婚したのも事実であったし、ついには内職をはじめて借金の返済を助けてくれた。

 妻の手助けもあり、しばらくの間は滞りなく借金の返すことができた。しかし、日々の生活はギリギリで、かつてのような幸せを感じることはもうなくなってしまった。

 そして、ついに恐れていたことが現実となってしまった。家事に育児に内職に休む暇もなく働き詰めていた妻がとうとう過労で倒れた。

 不幸中の幸いにも命はとりとめたが、床に伏せることが多くなった妻を頼ることはもう出来なくなった。

 生活の水準は一段、また一段と下がり、ついにはその日食べるものにさえ苦労するようになってしまった。

 息子はすでに10歳になったが、栄養が足りず身体つきは5歳児に見間違われるほど貧相であった。

 それでもセルジオは、妻の内職も自分がこなし、昼夜を問わず働き続けながら借金を返し、一人で家族を養った。

 近所では、この数年で急にみすぼらしくなった自分の家族が、根も葉もない噂で悪く言われているのをセルジオは知っていた。体の小さな息子が他の子供に意地悪をされているのも知っていた。

 心の中に黒いものが蠢くのを感じたが、元来温厚なセルジオはその感情を必死で押し殺した。


 そしてある年の冬、ついに事件が起こった。

 この頃になると、パンを買うこともできず、セルジオとその家族はセルジオのとって来た木の実や雑草、時には昆虫まで食べられるものは何でも食べていた。栄養などほとんどなく、食事とも呼べないようなもので、彼らは必死に食いつないだ。

 しかし、神はそんな彼らに手を差し伸べることはなかった。やがて妻と息子は栄養失調から風邪をこじらせ、布団から起き上がることすらできないほどに衰弱してしまった。

 セルジオもなんとか倒れず持ちこたえていたが、すでに彼の心も体もとうに限界を超えていた。

「もう少し……もう少しだけ動いてくれ……」

 彼はふらつく足を必死に引きずりながらも、配達の仕事を続けた。この日は月に一度、大公爵家に荷を運ぶ日だ。何があっても休むわけには行かなかった。

 彼はいつものように、大公爵家御用達の高級店で食材や酒や雑貨を受け取り荷車に積み込むと、身体に鞭打って相当に重たくなった荷車を押した。

 後ろの荷車に積まれた果物の山が、セルジオには眩しかった。高級な燻製肉の香りが、彼の鼻を問答無用で責め立てた。

「自分の暮らしのなんとみすぼらしいことよ……」

 セルジオは荷車を押しながら、涙を流した。

「一つ……たった一つくらいなら、懐に入れてもバレないのではないか?」

 彼はふとそんな事を考えてしまった。

「いや……いかんいかん、大公様は最も大口の顧客。信用を損なうようなことだけは絶対にあってはならん」

 そして彼は際限なく襲い来る誘惑に耐え、品物を大公爵邸に運び込んだ。

 いつも検品にあたる執事がこの日はいつになく真剣な表情で届けた品を確認している。

「わ、私はりんごの一つだって落っことさないように運んできました」

 執事は検品を終えると鋭い目でセルジオを見つめた。セルジオは道中で何かを落とし、自分が疑われているのだと思った。

「ほ、本当です!」

「いえ……品物は確かにございました」

 「ほっ……では私はこれで……」

「セルジオさん……見たところ随分と顔色が良くないようだ」

 執事はそれまでの鋭い視線が嘘のように思えるほど柔らかい表情でセルジオに言った。

「はは……恥ずかしながら最近ろくに飯も食っていないもん出して……」

 セルジオはバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。

「それはいけない!給仕のものに何か精のつくものを作らせましょう。ちょっとお待ちなさい」

 そう言って執事は一度屋敷の奥へと下がっていった。そして、数分もしないうちに戻ってきたが、その手には何も持っていなかった。

 ……ははっ、からかわれちまったか……

 彼は自分が冷やかされたのだと思い、一瞬悔しさがこみ上げたがすぐにいつもの営業スマイルを作って執事に向き合った。 

「食事のことは少しお待ち下さい。それより……オスカー様があなたに話があるそうです。奥までご同行願えますかな?」

「か、閣下が……私なぞに?」

 セルジオは事態が飲み込めなかったが、呼び出されたとあっては伺わないわけにもいかず、手ぐしでさっさと寝癖をなおすと、執事に続いて奥の間へと進んだ。

「し、失礼致します……」

 奥の広間はセルジオが見たこともないほど華美な装飾で埋め尽くされ、見上げるほど高い天井は一面がステンドグラスになっていた。
 彼はその場の雰囲気に飲まれかけたが、寸前のところで我に返り地に膝をついた。

「お前がセルジオ・ロドリゲスか。私がこの屋敷の主、オスカー・シュトルンツだ。そうかしこまるな、楽にせよ」

 顔を上げて視界に入ったオスカーは、紙と見間違うほどに美しく、支配者の風格というものが感じられた。

「は、はい……私がセルジオでございます。それで……閣下、本日はどのような御用で?」

「一つは、毎月の荷運びの礼を言うため、そしてもう一つはお前に知らせるべきことがあってだ」

「れ、礼なんてとんでもございません!いつも良くしていただいているのは私の方でございます」

「そうか。さて、もう一つの用事だが……」

 そこまで言ってオスカーはその先をためらってみせた。一体何を言われるのか検討もつかず、セルジオは胸いっぱいの不安に襲われた。

「セルジオ、お前のことを少し調べさせてもらった。どうやら、少なからぬ借金があるそうだな?」

 セルジオの心臓は激しく鼓動した。

「そ……それには、色々と事情がありまして……」

 借金に苦しむ貧民など、大公爵が相手にするはずがない。きっと、今日をもって大公家への荷運びは終わりなのだとそう直感した。

「案ずるな、責めておるのではない。実はその借金を毎月支払っておるルーカス伯爵は私とも付き合いがあってな」

 ルーカス伯爵、と聞いてセルジオは更に驚愕した。そうすると、大公には自分がなぜ借金に苦しんでいるのかということまできっと伝わっているのだろう。

「貴族は契約を重んじる。お前が借金の保証人にされたことにルーカスは大変心を痛めておったが、かと言って契約を反故にするわけにもいかんと申しておった」

「そ、そんな……全ては自分の責任でございます」

「そう謙るな。これまで何年もの間、借金を肩代わりし続けたその苦労、さぞ無念であっただろう。さきほど聞いたが、食事もろくに摂れておらんそうではないか」

「………」

 オスカーの言葉にセルジオは心を激しく揺さぶられた。今まで押さえ込んできた悔しさや、怒りや、家族への申し訳無さが一気にこみ上げてきた。

「う…うぅ……うぅ……」
 
 セルジオは広間の真ん中で声を上げて泣いた。その時、オスカーが広間の脇に控える私兵に声をかけた。

「おい、やつを連れてまいれ」

 兵士は無言で一度頷くと、隣の部屋に移動しすぐに一人の男を連れて広間に戻ってきた。

 その男を見た瞬間、セルジオの頭は真っ白になった。

「セ、セルジオ……」

「マ……マルコ、先輩」

 借金を自分に押し付け姿をくらました、セルジオにとって諸悪の根源とも言えるその男の姿が目の前にあった。セルジオはこみ上げる怒りを必死に堪え、マルコに話しかけた。

「マ、マルコ先輩……なぜ、なぜ突然姿をくらましたのですか?」

「……そ、それは……」

 マルコはセルジオから視線をそらし、口を閉ざしてしまった。

「私が代わりに教えてやろう。この男は、最初からお前を騙すつもりでルーカスに金を借りたのだ」

「そんな……それでは、借りた金は一体……」

「……ちがう!ちゃんと返そうと思っていたんだ……」

「なっ!?……そんな、あんまりだ……あの後私の家族がどんな思いをして今まで暮らしてきたか、あなたにわかりますか?」

 セルジオはこみ上げる怒りをまだギリギリのところで押さえ込んでいた。

「酒に女に、賭博に消えた。調べは付いているぞ?」

「なん……だと……」

 オスカーの放った一言がセルジオの我慢を打ち砕いた。今まで必死で押さえ込んできた心の中の黒いものが一気に外に溢れ出した。

 セルジオは怒りに震え、我を忘れてマルコに詰め寄った。

「ま、待て!話を聞いてくれ!」

 セルジオの鬼気迫る表情に恐怖を感じ、マルコは青ざめた顔でセルジオを止めようとした。

「黙れ!お前のせいで俺の家族は……どれだけ惨めな思いをしてきたと思っている!」
 
 マルコの胸ぐらをつかむと、セルジオは怒りのままに彼の顔面を殴りつけた。何度も、何度も……

 マルコの鼻は変な方向にひしゃげ、おびただしい量の血が顔面を紅く染めている。

「ひっ!ゆ、許してくれ!この通り、この通りだ!」

 しかしマルコの声はセルジオの耳には届かなかった。

「セルジオ、この男が憎いか?」

「はい……」

「殺してしまいたいほどに憎いか?」

「はい……」

「よかろう、その機会をくれてやる」

 オスカーは懐から短剣を取り出すとそれをセルジオの足もとに転がした。

 セルジオは反射的にその短剣を拾い上げると、そのきれいな刃紋をしばらく見つめた。美しい装飾の施されたその短剣は、見た目とは裏腹にセルジオの心を真っ暗な闇の奥底へと引きずり込んだ。

「よ、よせ!セルジオ、俺が悪かった!頼む、やめてくれ!」

 マルコは必死で命乞いをするが、やはりその声がセルジオに届くことはなかった。

「マルコ、お前は許さない……」

 セルジオはそれだけ言うと兵士に取り押さえられたマルコの胸に短剣を突き立てた。何度も、何度も………

 やがて、動かなくなったマルコを見下ろしながら、セルジオはその手に握られた短剣を見やった。人を殺すという禁忌を犯したにも関わらず、彼はいささかの後ろめたさも感じていなかった。

「気は済んだか?」

 オスカーは淡々とセルジオに訊ねた。

「……はい」

「そうか」

「しかしこの男を殺したとて、私のこれまでの苦しみと、これからの苦しみが消えるわけではありません……」

「セルジオ、お前は騙される側で満足か?奪われる側で満足か?」

「……いいえ」

「……家族にもっといい暮らしをさせてやりたいか?」

「……はい」

「そうか……では、私に付き私のために働け。そうすれば、お前には何不自由無い暮らしを用意してやろう」

 セルジオがもうほんの少し理性を残していれば、ここで思いとどまることも出来たであろう。しかし、今の彼にはそんな心の余裕はなかった。

「閣下のために働きます。なんでも致します……」

 そしてセルジオは片膝をついてオスカーに頭を下げた。

「よかろう、それではお前の借金は私が肩代わりしてやる。これからも励め」 

「はい」

 セルジオ・ロドリゲスはそうして闇に墜ちた……


 その後、彼はオスカーの指示に忠実に従い、秘密裏に武器や爆薬を調達すると次々に大公邸に運び込んだ。
 そして、ときには乞食を攫ってきたり、その死体の処理を請け負ったりもした。
 そうすることで彼にはとてつもない褒美が与えられ、彼と家族の暮らしぶりはあっという間に以前よりも良くなった。

「セルジオ、いったいどうやってこんなお金を……?」

「オスカー閣下から直々に荷物の搬送を依頼されててな、もう金の心配をすることもない」

 妻と息子には自分の仕事を話してはいけないと言われている。

 ちょうどその頃だった。北の実家に住む父から母が亡くなったと知らせが届いた。もう何年もセルジオは両親に会っていない。母の最期に側にいてやれなかったことが残念で仕方なかった。

 セルジオは、実家で一人さみしく過ごしているであろう父を想い、彼も王都に呼び寄せることにした。

「これからは、家族みんなで幸せに暮らそう。俺たちはここからもう一度やり直すんだ……」

 そして彼は何かに取り憑かれたように、オスカーの依頼を淡々とこなしていくのだった。
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