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06 この楽譜に、続きはないから ③
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ついさっきまで、ツアー初日のライブの熱狂の中にいたはずなのに、指先まで凍えそうなほどに重く冷たい空気が部屋を支配していた。
「なんや、アスカちゃん気付いてたん?」
「スガさんの『開かずの間』見ちゃったんです」
「……上にあがって来ちゃダメ言うたやん?あぁ、俺が寝てた時か。俺、眠りは浅い方やと思ってたんやけど。ごめんな、自業自得だわぁ」
へらへらと笑うスガさんに、血管がドクリと脈打つのを感じる。ダメだ、この人相手に絶対アツくなるな。そもそもスガさんは一言も嘘を吐いたり、不誠実なことをしたわけじゃない。ただ、今まで必要じゃなかったから、言わなかっただけだ。
時間を稼げ。ルカ達が方針を考える時間を……出来ることなら、引き止める時間を。
「『I-kis-0』って『Yosiki』からYだけ抜いて後ろから読んでるんですよね」
「へえ、そこも気付いたん?そそ、お兄さんの洒落た言葉遊びってやつ」
「スガさん、自分の本名と関係ない名前は『自分』って感じしないって、言ってましたから」
私の言葉に、一瞬だけ真顔になったスガさんは、怒ってるのか悲しいのか分からないような表情を浮かべた。
「……ヘンなとこ覚えとるな、本当」
呟くように落とされた言葉は、変わってしまった『何か』を悼んでいるようにも見えて、それでもそれはスガさんに『変わらないでいて欲しい』と願う私の幻想でしかなかったのかもしれない。
「とにかく、分かってるんなら話が早いわ。もうな『I-kis-0』の作曲の方で忙しいねん。こっちの方に集中できなくて、中途半端な事するくらいやったら、さっぱりやめた方がお互いのためやなと思って。ツアー初日になんか言いたくなかったけど、こういうのは早い方がええやろ」
淡々と言葉を並べるスガさんに、どうすればいいのか分からない。オロオロと助けを求めてルカの方を見れば、ルカは冷たい表情で黙り込んでいた。
「別に、好きにすればいい」
「ウツミさんっ?」
私が信じられない思いで振り返ると、別にウツミさんは投げやりでも怒っているわけでもなく、ただ真剣にスガさんを見つめていた。
「ここは『Ruka』の音楽を演奏したい人間が、好きで集まってる場所。やりたいと思ってない人間を、ムリに引き止める必要、ない」
「っ……」
ウツミさんの言葉に、スガさんの表情が少しだけ強張ったように感じた。それでも、何の言い訳も、人を傷付けるような言葉も口にすることなく、静かに彼は背を向けた。
「……どことの契約」
それまで一言も喋らなかったルカが、温度のない声で問いかけた。
「契約の事なんて、ホイホイ喋るほどアホやない……少なくとも、もう的場社長に世話んなることはないやろな。まあ、あの人もアッサリ手放してくれるつもりはないみたいやけど」
(いや、ホイホイ喋っちゃってますよ、スガさん……)
とりあえず、すぐにスガさんが事務所を辞めてしまう心配はなさそうだ。書類の上でのつながりがあるなら、希望はいくらでもある……問題は、スガさんが本心ではどう思っているのか、だけ。
「今回のツアーは最後まで弾いて。それさえ終われば、文句は言わない」
「……そういう契約やから、仕事は最後までキッチリやらせてもらうで。んじゃ、今日はこれで」
ガチャリ
ただ、ドアの閉まる音が、こんなにも冷たく無機質に感じたのは初めてだった。
さっきまでとは比べものにならない、完全な無音が部屋に満ちる。それぞれが、一人の欠けた空間から目を逸らそうとして、視線がなんとなく交わって。
「……帰ろう」
静かにウツミさんが呟いて、私達はノロノロと帰り支度を始めた。自分の身体が、自分のものじゃないみたいな感じがした。
ルカ達は、スガさんのことをどう思ったんだろう……そう自分に問いかけながら、答えは何となく分かっているような気がした。
きっと、ウツミさんの言ったことが全てなんだ。それが、ミュージシャンとして『正しい』答えなんだってことは分かってる。分かっているけど……心は納得できるはずがなかった。それなのに、スガさんを引き止める言葉を何一つ持たない自分が、どうしようもなく悲しくて。
それだけ彼の……『アイキス』の音楽が、人生を懸ける理由としては十二分すぎるくらいにすごいものだって、知っていたから。クレジットに名前が載るだけのベーシストと、日本の音楽史に名前を残すかもしれない作曲家としての道と、天秤にかけたら選ぶべきなのがどっちか、なんて私にでも分かること。
そんな音楽を捨てて欲しい、なんて、仮にもミュージシャンの端くれとして言えるはずもなかった。
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