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終話 玉箒
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* * * *
時々、無性に怖くなる。颯季さんとのすべてが、幸せで儚い一炊の夢に過ぎなかったのではないか、と。
だって、あまりに毎日が幸福に充ちているから。自分の人生に良いことなんかひとつも起こらない、と漠然と考えていたところへ、颯季さんという強烈な光が射し込んできて、俺を明るく照らしたのだ。その光量と熱量を当たり前に受け取ることなんて、到底俺にはできない。この先何か反動で良くない事態が訪れるのではと、くよくよ深読みしてしまう。
不安な夜を過ごし、不穏な夢を見る度に、目覚めてすぐ颯季さんの顔を見るととても安心する。少なくとも今は、彼の隣にいることができるのだ、と思えるから。
今日も颯季さんは、一緒に色々なことを経験したいという俺の要望を叶えてくれた。一度、居酒屋という場所で短冊を見ながら注文をしてみたかったのだ。颯季さんの知人の店というその場所は料理も美味しかったし、好みの味のお酒にも出会えた。すべて、颯季さんのおかげだ。感謝してもしきれない。
彼は「もっとわがまま言っていい」なんて言ってくれたけど、俺はもう充分すぎるほどわがままに振る舞っている。
その結果が、これだ。
俺に肩を支えられながら家路へ向かう颯季さんの足元はやや不安定だ。千鳥足というほどではないけれど、一人で歩かせるわけにはいかない、と感じるくらいには心もとない。
颯季さんはあまりお酒が得意でないと、俺はつい先ほどまで知らなかった。勝手にアルコールに強そうなイメージを持って、不得意な物事に付き合わせてしまった。俺が不用意な希望を口にしなければ、こんな事態にはならなかったのに。罪悪感で口の中が苦くなる。
事務所があるビルまでたどり着き、階段をゆっくりのぼっていく。渡されている合鍵を使ってドアを開け、颯季さんが住む部屋に帰る。彼のベッドまで導いて、上着をなんとか脱がせてからそこに横たえた。俺より少し小柄だが、筋肉質のしなやかな体を。
「ごめんねえ、哲くん。運んでもらっちゃって。重かったでしょ」
颯季さんの下がり眉は、いつもより力なく垂れている。
颯さんが謝る必要なんてない。この状況を招いた元凶は俺なのだから。だが、その気持ちを上手く言葉にすることができない。
「いえ……そんな」
「ぼくももっと飲めたら良かったんだけど。そしたら、もっと一緒に――」
その先は言葉にならず、颯季さんは目をふっと閉じてしまう。よく見ると彼の頬は赤らみ、耳まで朱色に染まっていた。
どうしよう。こういうとき、どうすればいいんだっけ? 経験の少ない脳を掻き回し、必死に知識をサルベージする。酔った人を介抱するには、どうするのだったか。
水。そうだ、何よりもまず、水だ。
ベッドのそばに屈みこみ、意を決して颯季さんに声をかける。
「あ、あの。水、持ってきましょうか?」
すると、颯季さんの瞼が薄く開く。「うん、お願い……ありがとう」
俺は弾かれたように立ち上がると、キッチンでコップに水を汲み、ベッドルームへ取って返した。颯季さんは瞑目して規則正しい呼吸をしている。音を立てないようコップをサイドテーブルに起き、派手な柄シャツの襟元をそっと見やる。少し、苦しそうだ。
心臓がドキドキと強く脈打っている。俺はそろりと指を伸ばして、颯季さんのシャツのボタンをひとつ、ふたつと外していった。
そこで唐突に、颯季さんの目がぱっちりと開き、肩が反射的にびくりと跳ねる。
硬直する俺の前で、相手はふふふ、と妖しく含み笑いを漏らした。
「寝込みを襲うなんて、大胆なことするんだねえ……。ぼく、哲くんにどうにかされちゃうの? 優しくしてね……?」
揶揄うような口調の中に、どこか蠱惑的で深淵に誘うような、危ういものが秘められている。言葉の意味を理解すると同時に、頬がかっと熱くなった。
「ち、ちがっ、そういうのじゃないですから! 水、持ってきましたよ。起きられそうですか?」
「うーん、一人じゃ飲めないかも……」
「えっ……?」
思わぬ答えに返す言葉を失う。一人じゃ飲めないって、じゃあどうすればいいのか。
こちらの顔が疑問符でいっぱいになっていたのだろう、颯季さんの口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。そして彼は、決定的なことを言った。
「そうだねえ。哲くんが口移しで飲ませてくれる――とか?」
「くっ、口移し……」
衝撃的な響きに今度こそ絶句する。颯季さんの声がぐるぐると脳内を巡って谺していた。口移し、口移し、口移し……。
それってつまり、俺が水を口に含んで、直接颯季さんの咥内に注ぐ、ということ?
俺の視線はコップと颯季さんの顔を忙しなく往復する。彼はしどけなくベッドに総身を預け、とろんとした、しかし期待に満ちた目でこちらを見ていた。
心臓がばくばくと、破裂するんじゃないかと思うほどに激しく脈打っている。断ることはできない。だって、颯季さんを酔わせたのは俺なのだから、責任は取らねばならない。
覚悟を決め、ぐいとコップを呷る。寝そべっている颯季さんの後頭部を掌で支え、震えそうになりながら口づけた。
彼とのキスは何度もしているのに、緊張しすぎて何が何やら分からない。気づくと、濡れた唇を舌でぺろりと舐める颯季さんが眼前にいた。
ゆっくりと身を起こしながら、「ね、もっとちょうだい?」なんてねだるように言ってくるものだから、俺の理性は焼き切れて論理的に考えられなくなる。
水を口移しで飲ませる。そんな名目はすぐに役に立たなくなった。もはや水とか関係なく、互いの舌が激しく絡まり、唾液が混ざり合い、アルコールで温まった体がいっそう火照っていく。
下から颯季さんの両腕が伸びてきて、俺の首の後ろに回されると、一段と体温がぶわりと上がった。甘えられているようで嬉しく、いつも格好いい恋人が、今は無性に愛らしく感じられる。
お酒は建前を取り除け、その人の本音をあらわにするとどこかで聞いたことがある。ならば、この姿が颯季さんの素なのかもしれない。そうなのだとしたら――あまりに可愛すぎる。
「ふふ、美味し……」
何度目かのキスのあと顔を離せば、颯季さんの口からこぼれた水が首筋を伝って、胸元へと流れ落ちていくのが見えた。
ごくり、と我知らず生唾を飲み込んでしまう。水を追って彼の肉体にむしゃぶりつきたい、だなんて。浮かされるように思ってしまったことを咄嗟に心の奥底へ封じ込める。
颯季さんは相変わらず深みへ誘うような眼差しをしていて、もうコップは空になっているというのに、衝動をぶつけ合うことを止められない。
片想いをしていたときにずっと、颯季さんとのキスに焦がれていた。恋人となった今ではどれだけキスを求めても怒られはしない。俺はセックスよりももしかしたら、口を使って彼と交わることの方が好きかもしれなかった。
今や俺は颯季さんの体に覆い被さるような体勢になっている。息も絶えだえに、俺は告白した。
「俺っ、颯季さんとキスするの、好き……です」
「そっかあ。ぼくも好きだよ。じゃあ、いっぱいしようねえ」
颯季さんの掌が慈しむように俺の髪を混ぜる。
好き。いっぱい。キス。嬉しい。幸せだ。
ぐり、と硬いものが下腹部で触れ合う。とっくに起っているのだ。俺のも、颯季さんのも。
「ん、てっせい……」
わずかに舌足らずな発音で、吐息混じりに名を呼ばれる。瞬間、下腹部がかき混ぜられるような感覚に襲われて。
至近距離から見る颯季さんはいつになく悩ましく、艶かしく、魅力的に見えた。頭の中のどこかで、別の自分がひそりと囁く。
――ほら。襲って、しちゃえば?
途端に、ぞっとした。冷や水を浴びせられたような感覚が全身を駆け抜ける。
俺は今、何を思った? 襲うだって? 酔って前後不覚になっているかもしれない颯季さんを、襲う? そんな――そんなの、犯罪じゃないか。
急に動きを止めた俺を、颯季さんが「?」という顔で見上げている。この瞬間、下にいる彼は無防備で、隙だらけだ。だからこそ、こちらが倫理をかなぐり捨ててはいけない。
このままここにいたら危険だ。自分の顔と声を持つ悪魔に唆されて、いつ颯季さんを襲ってしまうとも知れない。
俺はがばっと身を起こした。
「すみません、俺そろそろ帰ります! 鍵はかけておきますから、できれば着替えて、歯も磨いて下さいね……!」
「えっ……? ど、どうしたの、急に?」
何か問いたげな颯季さんの視線と、ゆらりと上がる彼の右手から逃げるように、俺は颯季さんの部屋を急いで後にした。
時々、無性に怖くなる。颯季さんとのすべてが、幸せで儚い一炊の夢に過ぎなかったのではないか、と。
だって、あまりに毎日が幸福に充ちているから。自分の人生に良いことなんかひとつも起こらない、と漠然と考えていたところへ、颯季さんという強烈な光が射し込んできて、俺を明るく照らしたのだ。その光量と熱量を当たり前に受け取ることなんて、到底俺にはできない。この先何か反動で良くない事態が訪れるのではと、くよくよ深読みしてしまう。
不安な夜を過ごし、不穏な夢を見る度に、目覚めてすぐ颯季さんの顔を見るととても安心する。少なくとも今は、彼の隣にいることができるのだ、と思えるから。
今日も颯季さんは、一緒に色々なことを経験したいという俺の要望を叶えてくれた。一度、居酒屋という場所で短冊を見ながら注文をしてみたかったのだ。颯季さんの知人の店というその場所は料理も美味しかったし、好みの味のお酒にも出会えた。すべて、颯季さんのおかげだ。感謝してもしきれない。
彼は「もっとわがまま言っていい」なんて言ってくれたけど、俺はもう充分すぎるほどわがままに振る舞っている。
その結果が、これだ。
俺に肩を支えられながら家路へ向かう颯季さんの足元はやや不安定だ。千鳥足というほどではないけれど、一人で歩かせるわけにはいかない、と感じるくらいには心もとない。
颯季さんはあまりお酒が得意でないと、俺はつい先ほどまで知らなかった。勝手にアルコールに強そうなイメージを持って、不得意な物事に付き合わせてしまった。俺が不用意な希望を口にしなければ、こんな事態にはならなかったのに。罪悪感で口の中が苦くなる。
事務所があるビルまでたどり着き、階段をゆっくりのぼっていく。渡されている合鍵を使ってドアを開け、颯季さんが住む部屋に帰る。彼のベッドまで導いて、上着をなんとか脱がせてからそこに横たえた。俺より少し小柄だが、筋肉質のしなやかな体を。
「ごめんねえ、哲くん。運んでもらっちゃって。重かったでしょ」
颯季さんの下がり眉は、いつもより力なく垂れている。
颯さんが謝る必要なんてない。この状況を招いた元凶は俺なのだから。だが、その気持ちを上手く言葉にすることができない。
「いえ……そんな」
「ぼくももっと飲めたら良かったんだけど。そしたら、もっと一緒に――」
その先は言葉にならず、颯季さんは目をふっと閉じてしまう。よく見ると彼の頬は赤らみ、耳まで朱色に染まっていた。
どうしよう。こういうとき、どうすればいいんだっけ? 経験の少ない脳を掻き回し、必死に知識をサルベージする。酔った人を介抱するには、どうするのだったか。
水。そうだ、何よりもまず、水だ。
ベッドのそばに屈みこみ、意を決して颯季さんに声をかける。
「あ、あの。水、持ってきましょうか?」
すると、颯季さんの瞼が薄く開く。「うん、お願い……ありがとう」
俺は弾かれたように立ち上がると、キッチンでコップに水を汲み、ベッドルームへ取って返した。颯季さんは瞑目して規則正しい呼吸をしている。音を立てないようコップをサイドテーブルに起き、派手な柄シャツの襟元をそっと見やる。少し、苦しそうだ。
心臓がドキドキと強く脈打っている。俺はそろりと指を伸ばして、颯季さんのシャツのボタンをひとつ、ふたつと外していった。
そこで唐突に、颯季さんの目がぱっちりと開き、肩が反射的にびくりと跳ねる。
硬直する俺の前で、相手はふふふ、と妖しく含み笑いを漏らした。
「寝込みを襲うなんて、大胆なことするんだねえ……。ぼく、哲くんにどうにかされちゃうの? 優しくしてね……?」
揶揄うような口調の中に、どこか蠱惑的で深淵に誘うような、危ういものが秘められている。言葉の意味を理解すると同時に、頬がかっと熱くなった。
「ち、ちがっ、そういうのじゃないですから! 水、持ってきましたよ。起きられそうですか?」
「うーん、一人じゃ飲めないかも……」
「えっ……?」
思わぬ答えに返す言葉を失う。一人じゃ飲めないって、じゃあどうすればいいのか。
こちらの顔が疑問符でいっぱいになっていたのだろう、颯季さんの口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。そして彼は、決定的なことを言った。
「そうだねえ。哲くんが口移しで飲ませてくれる――とか?」
「くっ、口移し……」
衝撃的な響きに今度こそ絶句する。颯季さんの声がぐるぐると脳内を巡って谺していた。口移し、口移し、口移し……。
それってつまり、俺が水を口に含んで、直接颯季さんの咥内に注ぐ、ということ?
俺の視線はコップと颯季さんの顔を忙しなく往復する。彼はしどけなくベッドに総身を預け、とろんとした、しかし期待に満ちた目でこちらを見ていた。
心臓がばくばくと、破裂するんじゃないかと思うほどに激しく脈打っている。断ることはできない。だって、颯季さんを酔わせたのは俺なのだから、責任は取らねばならない。
覚悟を決め、ぐいとコップを呷る。寝そべっている颯季さんの後頭部を掌で支え、震えそうになりながら口づけた。
彼とのキスは何度もしているのに、緊張しすぎて何が何やら分からない。気づくと、濡れた唇を舌でぺろりと舐める颯季さんが眼前にいた。
ゆっくりと身を起こしながら、「ね、もっとちょうだい?」なんてねだるように言ってくるものだから、俺の理性は焼き切れて論理的に考えられなくなる。
水を口移しで飲ませる。そんな名目はすぐに役に立たなくなった。もはや水とか関係なく、互いの舌が激しく絡まり、唾液が混ざり合い、アルコールで温まった体がいっそう火照っていく。
下から颯季さんの両腕が伸びてきて、俺の首の後ろに回されると、一段と体温がぶわりと上がった。甘えられているようで嬉しく、いつも格好いい恋人が、今は無性に愛らしく感じられる。
お酒は建前を取り除け、その人の本音をあらわにするとどこかで聞いたことがある。ならば、この姿が颯季さんの素なのかもしれない。そうなのだとしたら――あまりに可愛すぎる。
「ふふ、美味し……」
何度目かのキスのあと顔を離せば、颯季さんの口からこぼれた水が首筋を伝って、胸元へと流れ落ちていくのが見えた。
ごくり、と我知らず生唾を飲み込んでしまう。水を追って彼の肉体にむしゃぶりつきたい、だなんて。浮かされるように思ってしまったことを咄嗟に心の奥底へ封じ込める。
颯季さんは相変わらず深みへ誘うような眼差しをしていて、もうコップは空になっているというのに、衝動をぶつけ合うことを止められない。
片想いをしていたときにずっと、颯季さんとのキスに焦がれていた。恋人となった今ではどれだけキスを求めても怒られはしない。俺はセックスよりももしかしたら、口を使って彼と交わることの方が好きかもしれなかった。
今や俺は颯季さんの体に覆い被さるような体勢になっている。息も絶えだえに、俺は告白した。
「俺っ、颯季さんとキスするの、好き……です」
「そっかあ。ぼくも好きだよ。じゃあ、いっぱいしようねえ」
颯季さんの掌が慈しむように俺の髪を混ぜる。
好き。いっぱい。キス。嬉しい。幸せだ。
ぐり、と硬いものが下腹部で触れ合う。とっくに起っているのだ。俺のも、颯季さんのも。
「ん、てっせい……」
わずかに舌足らずな発音で、吐息混じりに名を呼ばれる。瞬間、下腹部がかき混ぜられるような感覚に襲われて。
至近距離から見る颯季さんはいつになく悩ましく、艶かしく、魅力的に見えた。頭の中のどこかで、別の自分がひそりと囁く。
――ほら。襲って、しちゃえば?
途端に、ぞっとした。冷や水を浴びせられたような感覚が全身を駆け抜ける。
俺は今、何を思った? 襲うだって? 酔って前後不覚になっているかもしれない颯季さんを、襲う? そんな――そんなの、犯罪じゃないか。
急に動きを止めた俺を、颯季さんが「?」という顔で見上げている。この瞬間、下にいる彼は無防備で、隙だらけだ。だからこそ、こちらが倫理をかなぐり捨ててはいけない。
このままここにいたら危険だ。自分の顔と声を持つ悪魔に唆されて、いつ颯季さんを襲ってしまうとも知れない。
俺はがばっと身を起こした。
「すみません、俺そろそろ帰ります! 鍵はかけておきますから、できれば着替えて、歯も磨いて下さいね……!」
「えっ……? ど、どうしたの、急に?」
何か問いたげな颯季さんの視線と、ゆらりと上がる彼の右手から逃げるように、俺は颯季さんの部屋を急いで後にした。
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