祓い屋と憑き人と犬

冬野瞠

文字の大きさ
上 下
22 / 26
終話 玉箒

2

しおりを挟む
 * * * *

 時々、無性に怖くなる。颯季さんとのすべてが、幸せで儚い一炊の夢に過ぎなかったのではないか、と。
 だって、あまりに毎日が幸福に充ちているから。自分の人生に良いことなんかひとつも起こらない、と漠然と考えていたところへ、颯季さんという強烈な光が射し込んできて、俺を明るく照らしたのだ。その光量と熱量を当たり前に受け取ることなんて、到底俺にはできない。この先何か反動で良くない事態が訪れるのではと、くよくよ深読みしてしまう。
 不安な夜を過ごし、不穏な夢を見る度に、目覚めてすぐ颯季さんの顔を見るととても安心する。少なくとも今は、彼の隣にいることができるのだ、と思えるから。


 今日も颯季さんは、一緒に色々なことを経験したいという俺の要望を叶えてくれた。一度、居酒屋という場所で短冊を見ながら注文をしてみたかったのだ。颯季さんの知人の店というその場所は料理も美味しかったし、好みの味のお酒にも出会えた。すべて、颯季さんのおかげだ。感謝してもしきれない。
 彼は「もっとわがまま言っていい」なんて言ってくれたけど、俺はもう充分すぎるほどわがままに振る舞っている。
 その結果が、これだ。
 俺に肩を支えられながら家路へ向かう颯季さんの足元はやや不安定だ。千鳥足というほどではないけれど、一人で歩かせるわけにはいかない、と感じるくらいには心もとない。
 颯季さんはあまりお酒が得意でないと、俺はつい先ほどまで知らなかった。勝手にアルコールに強そうなイメージを持って、不得意な物事に付き合わせてしまった。俺が不用意な希望を口にしなければ、こんな事態にはならなかったのに。罪悪感で口の中が苦くなる。
 事務所があるビルまでたどり着き、階段をゆっくりのぼっていく。渡されている合鍵を使ってドアを開け、颯季さんが住む部屋に帰る。彼のベッドまで導いて、上着をなんとか脱がせてからそこに横たえた。俺より少し小柄だが、筋肉質のしなやかな体を。

「ごめんねえ、哲くん。運んでもらっちゃって。重かったでしょ」

 颯季さんの下がり眉は、いつもより力なく垂れている。
 颯さんが謝る必要なんてない。この状況を招いた元凶は俺なのだから。だが、その気持ちを上手く言葉にすることができない。

「いえ……そんな」
「ぼくももっと飲めたら良かったんだけど。そしたら、もっと一緒に――」

 その先は言葉にならず、颯季さんは目をふっと閉じてしまう。よく見ると彼の頬は赤らみ、耳まで朱色に染まっていた。
 どうしよう。こういうとき、どうすればいいんだっけ? 経験の少ない脳を掻き回し、必死に知識をサルベージする。酔った人を介抱するには、どうするのだったか。
 水。そうだ、何よりもまず、水だ。
 ベッドのそばに屈みこみ、意を決して颯季さんに声をかける。

「あ、あの。水、持ってきましょうか?」

 すると、颯季さんの瞼が薄く開く。「うん、お願い……ありがとう」
 俺は弾かれたように立ち上がると、キッチンでコップに水を汲み、ベッドルームへ取って返した。颯季さんは瞑目して規則正しい呼吸をしている。音を立てないようコップをサイドテーブルに起き、派手な柄シャツの襟元をそっと見やる。少し、苦しそうだ。
 心臓がドキドキと強く脈打っている。俺はそろりと指を伸ばして、颯季さんのシャツのボタンをひとつ、ふたつと外していった。
 そこで唐突に、颯季さんの目がぱっちりと開き、肩が反射的にびくりと跳ねる。
 硬直する俺の前で、相手はふふふ、と妖しく含み笑いを漏らした。

「寝込みを襲うなんて、大胆なことするんだねえ……。ぼく、哲くんにどうにかされちゃうの? 優しくしてね……?」

 揶揄うような口調の中に、どこか蠱惑的で深淵にいざなうような、危ういものが秘められている。言葉の意味を理解すると同時に、頬がかっと熱くなった。

「ち、ちがっ、そういうのじゃないですから! 水、持ってきましたよ。起きられそうですか?」
「うーん、一人じゃ飲めないかも……」
「えっ……?」

 思わぬ答えに返す言葉を失う。一人じゃ飲めないって、じゃあどうすればいいのか。
 こちらの顔が疑問符でいっぱいになっていたのだろう、颯季さんの口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。そして彼は、決定的なことを言った。

「そうだねえ。哲くんが口移しで飲ませてくれる――とか?」
「くっ、口移し……」

 衝撃的な響きに今度こそ絶句する。颯季さんの声がぐるぐると脳内を巡って谺していた。口移し、口移し、口移し……。
 それってつまり、俺が水を口に含んで、直接颯季さんの咥内に注ぐ、ということ?
 俺の視線はコップと颯季さんの顔を忙しなく往復する。彼はしどけなくベッドに総身を預け、とろんとした、しかし期待に満ちた目でこちらを見ていた。
 心臓がばくばくと、破裂するんじゃないかと思うほどに激しく脈打っている。断ることはできない。だって、颯季さんを酔わせたのは俺なのだから、責任は取らねばならない。
 覚悟を決め、ぐいとコップを呷る。寝そべっている颯季さんの後頭部を掌で支え、震えそうになりながら口づけた。
 彼とのキスは何度もしているのに、緊張しすぎて何が何やら分からない。気づくと、濡れた唇を舌でぺろりと舐める颯季さんが眼前にいた。
 ゆっくりと身を起こしながら、「ね、もっとちょうだい?」なんてねだるように言ってくるものだから、俺の理性は焼き切れて論理的に考えられなくなる。
 水を口移しで飲ませる。そんな名目はすぐに役に立たなくなった。もはや水とか関係なく、互いの舌が激しく絡まり、唾液が混ざり合い、アルコールで温まった体がいっそう火照ほてっていく。
 下から颯季さんの両腕が伸びてきて、俺の首の後ろに回されると、一段と体温がぶわりと上がった。甘えられているようで嬉しく、いつも格好いい恋人が、今は無性に愛らしく感じられる。
 お酒は建前を取り除け、その人の本音をあらわにするとどこかで聞いたことがある。ならば、この姿が颯季さんの素なのかもしれない。そうなのだとしたら――あまりに可愛すぎる。

「ふふ、美味し……」

 何度目かのキスのあと顔を離せば、颯季さんの口からこぼれた水が首筋を伝って、胸元へと流れ落ちていくのが見えた。
 ごくり、と我知らず生唾を飲み込んでしまう。水を追って彼の肉体にむしゃぶりつきたい、だなんて。浮かされるように思ってしまったことを咄嗟に心の奥底へ封じ込める。
 颯季さんは相変わらず深みへ誘うような眼差しをしていて、もうコップは空になっているというのに、衝動をぶつけ合うことを止められない。
 片想いをしていたときにずっと、颯季さんとのキスに焦がれていた。恋人となった今ではどれだけキスを求めても怒られはしない。俺はセックスよりももしかしたら、口を使って彼と交わることの方が好きかもしれなかった。
 今や俺は颯季さんの体に覆い被さるような体勢になっている。息も絶えだえに、俺は告白した。

「俺っ、颯季さんとキスするの、好き……です」
「そっかあ。ぼくも好きだよ。じゃあ、いっぱいしようねえ」

 颯季さんの掌が慈しむように俺の髪を混ぜる。
 好き。いっぱい。キス。嬉しい。幸せだ。
 ぐり、と硬いものが下腹部で触れ合う。とっくに起っているのだ。俺のも、颯季さんのも。

「ん、てっせい……」

 わずかに舌足らずな発音で、吐息混じりに名を呼ばれる。瞬間、下腹部がかき混ぜられるような感覚に襲われて。
 至近距離から見る颯季さんはいつになく悩ましく、なまめかしく、魅力的に見えた。頭の中のどこかで、別の自分がひそりと囁く。
 ――ほら。襲って、しちゃえば?
 途端に、ぞっとした。冷や水を浴びせられたような感覚が全身を駆け抜ける。
 俺は今、何を思った? 襲うだって? 酔って前後不覚になっているかもしれない颯季さんを、襲う? そんな――そんなの、犯罪じゃないか。
 急に動きを止めた俺を、颯季さんが「?」という顔で見上げている。この瞬間、下にいる彼は無防備で、隙だらけだ。だからこそ、こちらが倫理をかなぐり捨ててはいけない。
 このままここにいたら危険だ。自分の顔と声を持つ悪魔にそそのかされて、いつ颯季さんを襲ってしまうとも知れない。
 俺はがばっと身を起こした。

「すみません、俺そろそろ帰ります! 鍵はかけておきますから、できれば着替えて、歯も磨いて下さいね……!」
「えっ……? ど、どうしたの、急に?」

 何か問いたげな颯季さんの視線と、ゆらりと上がる彼の右手から逃げるように、俺は颯季さんの部屋を急いで後にした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

しのぶ想いは夏夜にさざめく

叶けい
BL
看護師の片倉瑠維は、心臓外科医の世良貴之に片想い中。 玉砕覚悟で告白し、見事に振られてから一ヶ月。約束したつもりだった花火大会をすっぽかされ内心へこんでいた瑠維の元に、驚きの噂が聞こえてきた。 世良先生が、アメリカ研修に行ってしまう? その後、ショックを受ける瑠維にまで異動の辞令が。 『……一回しか言わないから、よく聞けよ』 世良先生の哀しい過去と、瑠維への本当の想い。

淫らに壊れる颯太の日常~オフィス調教の性的刺激は蜜の味~

あいだ啓壱(渡辺河童)
BL
~癖になる刺激~の一部として掲載しておりましたが、癖になる刺激の純(痴漢)を今後連載していこうと思うので、別枠として掲載しました。 ※R-18作品です。 モブ攻め/快楽堕ち/乳首責め/陰嚢責め/陰茎責め/アナル責め/言葉責め/鈴口責め/3P、等の表現がございます。ご注意ください。

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

山本さんのお兄さん〜同級生女子の兄にレ×プされ気に入られてしまうDCの話〜

ルシーアンナ
BL
同級生女子の兄にレイプされ、気に入られてしまう男子中学生の話。 高校生×中学生。 1年ほど前に別名義で書いたのを手直ししたものです。

無理やりお仕置きされちゃうsubの話(短編集)

みたらし団子
BL
Dom/subユニバース ★が多くなるほどえろ重視の作品になっていきます。 ぼちぼち更新

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

当たって砕けていたら彼氏ができました

ちとせあき
BL
毎月24日は覚悟の日だ。 学校で少し浮いてる三倉莉緒は王子様のような同級生、寺田紘に恋をしている。 教室で意図せず公開告白をしてしまって以来、欠かさずしている月に1度の告白だが、19回目の告白でやっと心が砕けた。 諦めようとする莉緒に突っかかってくるのはあれ程告白を拒否してきた紘で…。 寺田絋 自分と同じくらいモテる莉緒がムカついたのでちょっかいをかけたら好かれた残念男子 × 三倉莉緒 クールイケメン男子と思われているただの陰キャ そういうシーンはありませんが一応R15にしておきました。 お気に入り登録ありがとうございます。なんだか嬉しいので載せるか迷った紘視点を追加で投稿します。ただ紘は残念な子過ぎるので莉緒視点と印象が変わると思います。ご注意ください。 お気に入り登録100ありがとうございます。お付き合いに浮かれている二人の小話投稿しました。

処理中です...