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1巻

1-3

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「……つっ!」

 大きな音がして背中に痛みが走る。逃げ場がないジュリアの顔を、マーカスが鋭い目で覗き込んだ。

「俺は権力も名誉もある公爵だ。逆らったらどうなるか、分かっているだろうな」

 ジュリアも負けじとにらみ返す。

「色々とおっしゃっていますけれど、いまの私とあなた、どちらが優勢だと思っていらっしゃるの?」

 ジュリアを追い詰めたとでも思っていたのだろう。マーカスが戸惑いの表情を浮かべる。
 ジュリアは誘うようににっこりと笑うと、いきなり彼の唇にキスをした。
 唇を唾液で濡らし、何度も繰り返しそれを重ねる。くちゅり、くちゅりと、かすかに卑猥ひわいな水音を響かせた。


 危険な賭けだが、王国でも有数の権力を持つ公爵に勝つにはこれしかない。
 女嫌いで女性をもてあそんで捨てている、非情な男性。
 そんな女慣れした公爵様が、キスすらあまり経験のないジュリアに誘惑されるものなのか不安になるが、気丈なふりをして唇を重ね続ける。
 ジュリアは一度唇を離して、マーカスの下半身にそれとなく目をやる。ズボンの中のそれは、充分大きくなっていた。機は熟したようだ。
 安心して顔を上げると、ようやくマーカスの表情をうかがうことができる。彼の頬は赤く染められていて瞳は熱で満たされ、激しい息を何度も繰り返していた。

(公爵様は男性だというのになんて美しいのでしょうか……そのような人が、こんなに興奮してくれているのですね……)

 ついほだされそうになったが、ジュリアはなんとか理性を取り戻す。

「……ジュリア……」

 マーカスが、切なそうな声を出した。熱に浮かされている彼を見てどきりと心臓が跳ねたが、いまが形勢を逆転できるその時だ。
 ジュリアはマーカスを見て、にっこりと微笑んだ。

「公爵様。いま私が叫び声をあげたら、みなさんどう思われるでしょうか」
「――! ジュリア……まさか……」

 勘のいい公爵はすぐに気がついたらしい。
 国王の開いた夜会で令嬢を襲ったとすれば、地位も名誉もある公爵だとしても、おとがめはあるだろう。
 ジュリアの頬は殴られて赤くれているし、右腕に至っては擦り傷から血が出ている。
 どちらもマーカスのせいではないが、股間を膨らませた彼がいくら弁明をしても、そういう結論が下されることは想像にかたくない。
 そうでなくともマーカスの女遊びは有名なのだ。ジュリアが告発すれば、誰もが信じるはずだ。
 マーカスの顔からほうけた表情が消えた。代わりに悔しそうな目でジュリアをにらみつける。
 その迫力に一瞬気圧けおされそうになったが、ジュリアはなんとかこらえた。

「で……ですから私がここから乱れた格好で飛び出せば、いくら公爵様でも申し開きはできませんわよね。ここはお互い何事もなかったことにしませんか?」
「何事もなかっただと……本当にそう思っているのか、ジュリア」

 ジュリアを見るマーカスの瞳に、ぞわぞわと胸がざわついて、思わず目をらした。すると、ふわりとマーカスが身を寄せてくる。心臓がドキドキと音を立てはじめた。

(ど、どうしたのかしら。公爵様にとっても、何もなかったことにしたほうがいいはずですのに……)
「ジュリア、これはお前のせいだ。お前が俺をあおったんだから後悔するなよ」

 低いテノールの声に思わず視線を戻すと、マーカスは先ほどよりも興奮を深めているようだ。
 彼は火照ほてる体を持て余すように荒い息を繰り返すと、ジュリアの体を抱き寄せて唇を重ねてきた。
 いきなり歯列を割られ、マーカスの舌がそのわずかな隙間にねじ込まれる。

「ん……んんっ!」

 文句を言おうとしたが、口をふさがれているのでくぐもった声しか出ない。あっという間に口内いっぱいに温かさが広がった。
 突然のことに、戸惑いが隠せない。そんなジュリアの気持ちなど知らず、マーカスの舌は容赦なく彼女の口内を攻め続ける。
 歯列をなぞって舌を絡ませ、口内の全てを味わいつくす。唾液が絡まり合って、ぐちゅりというみだらな音が何度も聞こえてきた。
 ジュリアの膝はがくがくと震えて力が入らない。いまにも気絶してしまいそうだ。
 それに気づいたマーカスがジュリアの腰を支え、さらに強く抱きしめた。息が止まりそうなほどの心地よさに、頭がぼうっとしてくる。
 そんな気分に酔いしれていると、突然呼吸がしやすくなった。ジュリアは大きく息をする。

「はぁっ……はぁっ……ぁ……」

 ジュリアとマーカスの体は、隙間もないほどに密着していた。
 どくん、どくん、どくん。
 互いの心臓の音が重なるのを聞き、さらに興奮が高まっていく。
 瞳をうるませてジュリアが桃色の吐息を繰り返していると、マーカスは形のいい目を細めた。

「ジュリア、お前は一体何者なんだ……どうして俺はお前にだけ……」

 マーカスはその先を続けず、代わりにジュリアの頬に唇を落とす。柔らかくて温かい感触に、体中に電気が走ったのかと思った。思わず悦楽の声が漏れる。

「……あぁっ! ぁん」

 同時にマーカスが体をびくりと震わせた。ジュリアが薄く目を開けると、目の前には真っ赤に染められたマーカスの首元。
 マーカスも緊張しているのか、つややかな金髪がかすかに上下に動いている。それを見て、ジュリアは途方もなく切ない気持ちになった。

「ジュリア……」

 熱い声でマーカスがジュリアの名を呼ぶ。
 頬にあてられた唇はそのまま下降して、ジュリアの首筋にまで辿たどり着く。ドレスの隙間から、ジュリアの胸元にマーカスの荒い息が吹き込まれた。背筋からぞくっと快感がのぼってくる。

「ぁあ……はぁっ……ぁん」

 ジュリアはビクリと大きく体を震わせると、全身の力を抜いた。
 マーカスは彼女の体を抱いたまま、その場に崩れ落ちるようにして座り込む。
 静かな夜、人気ひとけのない王城のテラスで抱き合いながら、互いの荒い息だけが夜のとばりに響いていた。

「はっ……はっ……ジュリア――」

 顔を上げると、月を背にして熱っぽくジュリアを見つめるマーカスが見える。
 金髪が月の光に照らされてキラキラ光り、まるで宝石のよう。マーカスは恍惚こうこつとして、湿った吐息を繰り返している。
 美しいとしか形容しようがないその表情に、ジュリアの全身がしびれた。
 でも、すぐに現実を思い出して心を引きしめる。

(公爵様は女性にだらしがないお方。きっと私を誘惑して捨てるつもりなのだわ。だまされては駄目っ!)

 ジュリアは心を覆いつくそうとする甘い感情を抑え込んで、冷静になるよう努める。
 自分に言い聞かせるかのように、ジュリアはマーカスに話しかけた。
 声が上ずってしまうが、一刻も早くマーカスの傍を離れなければ、本気になってしまいそうだ。

「……っもうこれで満足されましたか? でしたら私はここで失礼します。今夜、素敵な男性を見つけるつもりですの。ではさようなら、マリウス様」
「ジュリアっ……」

 傷ついたような瞳でジュリアを見るマーカス。けれどもジュリアは彼の胸を、両手で思いきり突き飛ばした。
 そうしてなんとか立ち上がると、ジュリアは後ろを振り返らずにテラスを出る。

「待てっ! ジュリア!」

 遠くからマーカスの悲しげな声が聞こえてツキンと胸が痛むが、すぐにその場を離れて、城内の廊下を走った。
 心臓の音がバクバクと……どうしようもなく激しく打ち鳴らされている。
 化粧室を探して、早足で駆け込んだ。先にいた令嬢から不審な目で見られるが、仕方がない。ジュリアは息を整えながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。
 紅潮した頬に手をあてるとほんのりと温かい。そして唇にはまだマーカスのキスの感触が残っていた。

(……すごく情熱的なキスだったわ。まるで、本当に愛されているみたいでしたもの……)

 でも、きっとそれが女をもてあそぶためのマーカスの手なのだ。ジュリアは全部忘れてしまおうと、唇が痛くなるほど何度も手でこすった。

(マリウス様……素敵だと思っていましたのに。まさか彼があの女たらしのアシュバートン公爵様だなんて思いもしませんでしたわ)

 貴族が間諜かんちょう職に就くことはあるが、高名な公爵だというのは異例だ。
 間諜かんちょうは、危険と隣り合わせの仕事。その身に何かあれば、爵位を継ぐ者がいなくなるから。

(そんな職に就くなんて、何か理由があったのでしょうか……)

 じっくり考え込んでしまうが、ジュリアはこんなことをしている場合ではないと顔を上げた。
 夜会は永遠に続くわけではないのだ。王城にいる間に、婿になってくれる男性を見つけなければいけない。
 イザベルとミュリエルにぶたれた頬は、それほどれてはいないようだ。
 右腕の擦り傷もすでに血は止まっているし、ドレスも土埃つちぼこりがついているだけで破れてはいない。
 口紅は全て取れてしまっていたので、改めて紅をさし直した。

(とにかく夜会が終わるまでは頑張らないと、ドレスを新調してくれたお父様やお母様に悪いですもの)

 ジュリアは気を取り直し、鏡の前で笑顔の練習を何度かしてから化粧室をあとにした。
 ダンスホールに戻ろうと足を進めた時、目の前に人影が現れてジュリアの行く手をさえぎる。

「ジュリア。僕を置いていくなんてひどいね。どう? アシュバートン公爵とは会えた?」

 いたずらっ子のような目をしたジェームズが、微笑みながら立っていた。先ほどと同じ軽い調子で、ジュリアの肩を抱いて引き寄せる。
 けれどもジュリアは腕を突っ張って、できるだけジェームズから距離を取った。ジュリアがマーカスと会っていたことを、知られるわけにはいかない。

「いいえ。でも、どうしてそんなことをお聞きになるのですか? 私はハーミア様を捜しに行ったのですわよ」
「おかしいな。ジュリアと会わなかったはずはないんだけどな。君が廊下を走っていったあと、公爵が君のあとを追いかけていったよ。しかもジュリアって名前も呼んでいたしね。二人の間に何かあったんでしょう? 君の髪もかなり乱れてたしね」

 テラスを出てきた時の様子を見られていたらしく、思わずギョッとする。

(どこまでナスキュリア様に見られていたというのでしょうか? まさか、その前にあった出来事までは見られてませんわよね⁉)

 ジェームズの言葉に取り乱しそうになったが、平静をよそおう。彼の口調からすると、おそらくその心配はないだろう。

「それより、もうこの手を離してくださらないかしら。他の男性に、ナスキュリア様との関係を誤解されてしまいそうですもの。そうなればナスキュリア様もお困りになるでしょうし」

 ジュリアはそう言うが、彼は首を横に振った。

「僕は誤解されても構わないよ。ねえ、ジュリアは公爵にとってなんなの? 知り合い? 友達? いや、違うよね。公爵があんな表情をしたところを初めて見たよ。しかも女性の名前を呼んでいるなんてね。まさか、恋人?」

 ジェームズは探るようにジュリアの目を覗き込んでくる。彼女はわざと答えずに、逆に質問で返した。

「あら、ナスキュリア様。やはり公爵様とは、かなり親しい関係ですのね。王城の内部にもお詳しいようですし、本当のお名前を名乗ってはくださらないのかしら? 噓つきは嫌いですと言ったはずですわ」
「ははっ、参ったな。ジュリアには何も隠し事はできないね。そんな調子でマーカスとも話したの? あいつがあんな取り乱すなんて。いつも澄ました顔をして余裕たっぷりの男だからね。ありがとう、ジュリア。その調子でもっとマーカスを困らせてくれない? マーカスのゆがんだ顔がもっと見てみたいんだ」

 やはりジェームズはマーカスをよく知っているようだ。呼び方が公爵からマーカスに変わった。
 しかも、彼はとてもゆがんだ思考を平然とした顔で語る。
 ジュリアに声をかけてくるのも、マーカスに関心があるからに違いない。彼はジュリアを通して彼の何かを知りたいのかもしれないが、彼女はこれ以上彼と関わるつもりはさらさらなかった。
 ため息をついてジェームズの顔を見上げてから、ジュリアは重い口を開いた。

「ナスキュリア様、私は公爵様とは……」
「ジュリア!」

 その時、背後から聞き覚えのあるテノールの声が響いてきて会話が中断される。振り向かなくても声の主は分かった。
 あんなことがあったあとで、どんな顔をすればいいのか分からない。ジュリアは困った顔でジェームズを見上げる。
 するとジェームズはジュリアの腰に両腕を回して抱き寄せた。そして大きな声で言う。

「マーカス、ちょうどよかった。君に紹介したい女性がいるんだ。彼女はジュリア・ヘルミアータ子爵令嬢だよ。たったいま、僕の恋人になったんだ。祝福してね」
(え――? なんですって?)

 ジュリアはジェームズの突拍子もない発言に驚いて、思わず叫び声をあげそうになった。いつの間にジェームズの恋人になったというのだろう。

「ちょ……ちょっとお待ちください! それは違いますわよね!」

 大きく目を見開いて抗議の視線を送るが、ジェームズはものともしない。まるで本物の恋人のように熱い視線を浴びせてくるだけ。そして、大丈夫だと言わんばかりに柔和にゅうわな笑みを浮かべた。
 そのいたずらっ子のような態度に、ジュリアはからかわれていることを確信する。
 ジェームズにがっちりと腰をホールドされているので、彼女は上半身をねじってなんとかマーカスのほうを振り返る。

「あのっ……」

 訂正をしようと口を開いたジュリアだったが、そのまま固まった。マーカスが怒りの表情を向けてきたからだ。あまりの剣幕に、怖気おじけづいてしまう。
 ジュリアの頬にジェームズがキスをする。ちゅっという軽い音が耳元で鳴った。
 動けないままのジュリアに構わず、ジェームズは話し続ける。

「まさか、こんな風に一瞬で恋に落ちるなんて思わなかった。誰かを好きになるっていうのは時間じゃないんだね。大好きだよ、ジュリア。結婚式はいつにする?」
「ちょっと待ってくださいませ……ナスキュリア様。一体どういう……」

 とにかく間違いを正そうとした時、マーカスはジェームズの腕を掴んだ。

「ジェームズ、ジュリアははねっかえりの強い生意気な女だぞ。こんな女と結婚したら、お前の人生は終わりだ。考え直せ」

 彼のその態度に、ジュリアは怒りを燃え上がらせた。腰に絡められたジェームズの腕をほどいて、マーカスに向き直る。

「そうですわね。私ははねっかえりの強い生意気な女ですけれど、結婚相手を絶対に後悔させたりしませんわ。愛を尽くして旦那様だけを慕い、一生を幸福で満たすことをお約束します。女嫌いを隠して結婚しなければならない方よりも、ずっと幸せで温かい生活を送るつもりですわ」
「女の愛なんて信じられるわけないだろう! ジュリアだって、ジェームズの金と地位に目がくらんだだけだ! 女は世界で一番信用できないからな!」

 さらににらみつけてくるマーカスに対して、ジュリアは胸を張って宣言した。

「私はナスキュリア様が何者なのかも知りません。でもあなたよりは彼のほうが、よほど優しいですわ。それに、私の愛はとっても真剣でとっても貴重な、唯一無二ゆいいつむにのものです。一度愛を誓った以上は、必ずその方を一生愛し続けますわ」

 するとマーカスは、心の底から傷ついたような顔をした。その表情に、言い過ぎたかとほんの少し反省する。
 けれどもマーカスはすぐに表情を変え、冷たい目でジュリアを見た。

「俺にけんかを売ってただで済むと思うな。ヘルミアータ子爵家なんかすぐに取り潰してやる。覚えておけ」

 地の底から響くような怒りの声でそう言うと、マーカスはきびすを返してその場を去っていった。
 突然の出来事にしばらく呆然としていたが、我に返ったジュリアは淑女らしからぬ声をあげる。

「ど、どうしましょう! ヘルミアータ子爵家が取り潰されてしまいますわ! あんなこと言うんじゃありませんでした。いまからでも土下座して謝れば、許してくださるかもしれませんわね。いくら女嫌いでも騎士なのですから、人情くらいはあるでしょうし……」

 完璧にマーカスを怒らせてしまったようだ。パニックになって焦るジュリアの両手を、ジェームズが握りしめた。そうしていたずらっ子のような顔を、ゆっくりと近づけてくる。
 またキスでもするつもりなのだろうかと、ジュリアは体を硬くして顔を背けた。

「土下座をする必要はないよ。ジュリア、信じられないけど、君はマーカスにとって特別な存在らしい。心配しなくていい。僕の傍にいれば、僕が君を守ってあげられるよ」
「……どういう意味でしょうか? ナスキュリア様」

 その言葉に背けた顔を戻す。ジェームズは栗色のカールした髪をふんわりと揺らしながら、にっこりと上品な笑みを浮かべた。

「ナスキュリアは僕の母方の姓なんだ。本当の名は、ジェームズ・バステール。僕はバステール王国の第三王子だ」

 バステール王国といえば豊富な資源で巨万の富を築き上げた国。ボッシュ王国の一番の友好国だ。

(ま、まさか、私は勘違いとはいえ、他国の王子と恋人になる宣言をしてしまったのですか!?)

 ジュリアは気を失いそうなほど驚いてしまう。
 そんな彼女を、ジェームズはただ微笑んで見つめていたのだった。


 そうして夜会が終わる頃、ジュリアとジェームズは一緒に馬車で揺られていた。
 ジェームズがジュリアをぜひ屋敷まで送りたいと、ブルボン伯爵夫妻に申し出たからだ。
 伯爵夫妻はとても驚いていたが許可は下りたので、ジェームズにエスコートされて、ジュリアは伯爵家に戻ることになった。
 向かい側に座ったジェームズが、突然思い出したように笑う。

「ははっ、僕とジュリアが恋人になったって言った時のマーカスの顔、面白かったね」

 自分をにらみつけるマーカスの顔しか思い浮かばないジュリアは、苦笑いをこぼす。頭の中はヘルミアータ子爵家が取り潰されることへの不安でいっぱいだ。
 そんなジュリアに、ジェームズは提案をした。

「どう? このまま、マーカスの前で僕の恋人のふりをするっていうのは。そうしたらマーカスだって、ヘルミアータ子爵家には絶対に手を出せない。だって、ジュリアはバステール王国の第三王子の恋人なんだからね」
「それは心の底から嬉しいですけれど、そんなことをする理由が、あなたにはありませんわ。私のことを本気で好きでいてくださるようにも見えませんし……」

 ジェームズは柔和にゅうわな微笑みを浮かべ、ジュリアの発言を否定せずに続けた。

「そうだね。でも、君といたらマーカスのもっと面白い顔が見られそうだから」

 そう言うジェームズの顔は、子どものようにワクワクしている。ということは彼にとっても悪い話ではなさそうだ。もう少し条件をつけてもいいのかもしれない。
 ジュリアはジェームズの様子をうかがいながら慎重に言う。

「……でしたら、あの、図々しいお願いかもしれませんが、アシュバートン公爵様の怒りが収まりましたら、私に誰か男性を紹介してくださいませんか? できればヘルミアータに婿に来てくれて、私のことを理解してくださる男性がいいのですけれど」
「婿? どうしてなの?」
「私は子爵家の一人娘なのです。子爵である父のほかにヘルミアータ家の血を継ぐ男性の親戚はおりません。ですので、父が亡くなる前に婿を迎えなければ、ヘルミアータ子爵家は終わってしまうのです」

 それを聞いたジェームズは、大きく頷く。

「もちろんいいよ。でも、マーカスの怒りが収まるまで、僕との恋人関係は解消しない。それでいいよね、ジュリア」

 これ以上の好条件はないだろう。ジュリアは一も二もなく頷いた。



   第二章 マーカスの三人の結婚相手候補


 夜会の翌日。
 ブルボン伯爵家の客間には、爽やかな朝の日差しが差し込んでいる。
 小鳥のさえずりを聞き、ジュリアは重たいまぶたを開けた。
 すると、ベッドの傍にハンナが立っているのに気づく。彼女は何故だか涙を目にいっぱい溜め、真っ赤な顔で震えていた。
 あまりのことに、ジュリアの目は一気に覚めてしまう。

「な、なぁに⁉ ハンナ、何かあったのかしら!?」
「お嬢様、すごいですわ。まさか王子様の心を射止めて帰っていらっしゃるなんて、思いもよりませんでしたわ!」

 ハンナは涙を吸ったハンカチを握りしめて、力強く言った。
 昨夜、伯爵家に帰ってきたジュリアとジェームズを迎えたのはハンナだった。ジュリアの隣に立つジェームズを見て、彼女が何を期待してどれほど喜んだのかは想像にかたくない。
 でも、ハンナには申し訳ないが、ジェームズはジュリアに恋していない。それは、彼の目を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだ。
 彼が執着しているのは、ジュリアではなくアシュバートン公爵なのだ。
 スプリングの利いた最高級のベッドの上に身を起こして、ジュリアはため息をつく。

「はぁー……違います。ハンナ、これはあの方のただの気まぐれだから、あまり期待しないで」
「でもお嬢様。気まぐれでもなんでも構いません。とにかくお嬢様が無事に結婚してくだされば、私は安心なんです。ですから、何がなんでもジェームズ様を射止めてくださいませ」

 そもそも、ジェームズがヘルミアータ子爵家のような弱小貴族に婿に入ってくれるはずもない。第三王子であるから国を継ぐ可能性は低いとはいえ、隣国の王族だ。
 それに、ジュリアはジェームズとどうにかなる気はなかった。
 ハンナは時々鼻をすすりながら、いつものように朝の支度を手伝ってくれる。今日は淡い黄色のドレスを選んだ。髪はハーフアップにして、ドレスと同じ生地のリボンを結ぶ。
 その後、ジュリアは軽めの朝食を一人で食べて、ブルボン伯爵家のサンルームのベンチで読書をする。
 伯爵家の図書館には興味深い本がたくさんある。それなのに、昨夜のことが気になって本の内容が全く頭の中に入ってこない。

(アシュバートン公爵様は、ヘルミアータ子爵家を潰すとおっしゃっていました。ナスキュリア様は大丈夫だとおっしゃっていましたけれど、本当なのでしょうか。子爵家が取り潰しになったら、領民に顔向けができませんわ)

 最後に会った時のマーカスの様子から察するに、彼はとても怒っているようだ。

(もしかしたら、女性からキスをされたのが初めてで、悔しかったのかもしれませんわね。でも、彼は女性を傷つけるのを楽しむ最悪の男性ですもの。それくらいは許されるはずですわ)

 だとしても、今回のことはやり過ぎたかもしれない。ジュリアは深く反省する。
 好感を抱いていたマリウスが女たらしの公爵だったと知って、混乱していたのが原因だろう。
 馬車の中で話した時は、誠実で真面目な男性だとばかり思っていたのに、ジュリアの観察眼も落ちたものだ。

(だからといって、ヘルミアータ子爵家を取り潰させるわけにはいきませんわ。……それにしても、心底怒った公爵様はものすごく怖かったですわ。美形の男性が怒ると、もっと恐ろしい形相になるということを初めて知りました。もう彼を怒らせるのはやめておきましょう……)

 イザベルに聞いた話だと、マーカスは三人の候補とのお付き合いを余儀なくされたらしい。
 三か月以内にはそのうちの誰か一人との結婚を決めなくてはいけないと、国王陛下から直々にお達しがあったという。どう考えてもジュリアが計画の邪魔をしたせいだ。
 マーカスはいま、ジュリアに対して猛烈に怒っているに違いない。女嫌いなのに結婚させられるわけだから、想像できないほど苦しいだろう。
 そう考えると、ほんの少し悪いことをした気持ちになってくる。

(でも、公爵様だって、いままでわざと女性を傷つけてきたのですわ。そのくらいの苦しみは当然だと思います!)

 すぐに罪悪感を払拭ふっしょくして、ジュリアはマーカスに対する怒りを再燃させた。

「どうしたんだい? 眉間にしわが寄っているよ、僕のプリンセス」

 気がつくと目の前にジェームズの顔がある。突然の彼の出現に、ジュリアは驚いた。

「ナスキュリア様! どうしてあなたがここにいらっしゃるの?」

 彼は洗練された流行の服に身を包み、柔和にゅうわな笑みをたたえている。
 そして、隙のない動作でジュリアの手を取ってキスをした。その様子に、やはり本物の王子様なのだと実感する。

「冷たいな。僕の最愛の恋人に会いに来ては駄目なの? まあ、そんなジュリアも可愛くてチャーミングで好きだけどね。でも、僕のことはいい加減にジェームズと呼んで欲しいな」

 ジェームズが軽い口調で迫ってくるので、ジュリアは失礼のない程度に、自分の体を後方に引いた。

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