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1巻
1-3
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ドレスを褒められて嬉しいが、ユージーンを前にすると反射的に心も体も萎縮してしまう。
ハンカチを失くしたことを彼に責められるのではないかと、ティーナはひやひやしていた。
目を合わすことさえできなくて、その場で俯きじっと佇む。
ユージーンはそんな彼女をいつもと変わらずエスコートし、馬車の中に誘い入れる。彼は謝罪の手紙を読んでいるはず。何事もない彼の様子にティーナはホッとした。
(良かった。ユージーンは怒っていないようだわ……)
彼と向かい合って座席に腰を掛ける。馬車がゆっくりと動き出した瞬間、突然ユージーンが話を切り出した。
「……ハンカチのことだけど」
ぞっとするような冷ややかな声に、ティーナは全身を凍らせる。
月明かりが差し込むだけの馬車の中はようやく顔が見えるくらいに薄暗い。でも長年の経験からユージーンの心の中をはっきりと知ることができる。
「ティーナ。あれを失くしてしまったって本当?」
この低くて感情のない声は、かなり怒りを溜めている時のユージーンだ。ティーナは震える膝を抑えながら頭を下げた。
「え、ええ。ごめんなさい。あなたが私のためにわざわざ用意してくれたものなのに……」
「いいよ、僕は気にしていないよ。ハンカチなんかたくさんあるんだ。ほら、新しいハンカチだよ。ティーナにあげる」
急に彼の口調が穏やかになったので、ティーナは驚いて顔を上げた。
ユージーンはハンカチを手に持ち、ティーナに受け取るようにと差し出している。彼は怒っていないようだ。顔には笑みさえ浮かんでいる。
「あ、ありがとう! ユージーン。嬉しいわ」
ハンカチを受け取ろうとティーナが手を出すと、ユージーンがその少し前に手を離した。白いハンカチが馬車の床に落ちる。
「ユ……ユージーン……?」
朱色の絨毯の上に舞い落ちたハンカチは、薄闇の中でもその白さを際立たせていた。一瞬で全身の血の気が引いていくのが分かる。
ユージーンはもう一度、楽しそうに微笑んだ。
「バッカム家の紋章の入ったハンカチを、床に落としてしまうだなんて酷いな。ティーナ、拾ってくれるかい?」
口調は朗らかだが、その声は恐ろしいほどに低くて、ティーナを怯えさせるには充分だった。彼がハンカチをわざと床に落としたことは明白。
ティーナはよろけながら立ち上がり、座席の間の狭い場所に屈みこんだ。ようやく指がハンカチの先に触れた時、ユージーンがその端っこを靴の先で踏みつける。
「ハンカチを失くすなんて、几帳面なティーナにしてはあり得ないよね。君が出掛ける時は僕が一緒だし、それ以外はどうせクレア・シュジェニーの屋敷に行くぐらいだ。教会に奉仕に行っているのは知ってるけど、それはいつも木曜日。だったら、いったいどこでハンカチを失くしたのかな?」
彼はティーナがハンカチを失くした過程を疑っているのだ。ティーナの心臓がどくどくと音を立てて鳴り響く。
けれども本当のことを話せば、きっと彼は烈火のごとく怒るだろう。ユージーンはティーナが他の男性と話をすることをとても嫌うから。
「あの……ユージーン。手紙にも書いたと思うのだけれど、クレアの屋敷から馬車に乗って帰る途中で落としたのだと思うの。たぶん風で窓から飛ばされたのよ」
苦しい言い訳だが、ティーナには他に何も思いつかなかった。
でもユージーンはハンカチから足をどけようとはしない。
困り果てたティーナは、屈んでいる状態でユージーンの顔を見上げた。距離が近くなったので、彼の表情がいまははっきりと見える。
彼のゾッとするような冷たい視線が突きささり、ティーナは思わず顔を背けた。頭上からユージーンの責めるような声が聞こえてくる。
「まさか僕が贈ったハンカチを、君がわざと捨てるわけないよね?」
「もちろんよ! そんなことするわけがないわ!」
彼はティーナが故意にハンカチを捨てたのだと考えていたようだ。
すぐに顔を上げて否定するが、ユージーンは表情を全く変えない。
「大好きなあなたから貰った大事なハンカチですもの。わざとなんて絶対にないわ。信じてちょうだい、ユージーン」
薄暗い馬車の中が、重い沈黙に包まれる。
そのうちユージーンの足がハンカチからのけられた。
(私を許してくれたの? ……ユージーン)
ティーナはユージーンの行動を窺いながら、おずおずとハンカチを拾い上げて座席に座りなおす。
あまりの緊張に全身が心臓になったようだ。
ハンカチはティーナの膝の上に置かれたまま。それをポケットにしまっていいものかどうかも分からない。
「……ティーナ」
しばらく押し黙っていたユージーンが突然口を開いた。ティーナはビクッと肩を震わせる。
「今夜はリンデル皇国の騎士たちも参加するんだって、みんな騒いでいるよ。でもティーナはずっと僕の隣にいるよね」
「え、ええ。もちろんよ。私はあなたの婚約者ですもの」
「そうだよね、夜会では他の男とは絶対に話をしないでよ。ティーナ、君は僕の婚約者だからね。もし一言でも話をしたら……分かっているよね、ティーナ」
「ええ、分かっているわ。ユージーン」
彼の本意が掴めず、ティーナはさらに困惑する。彼は許してくれたのだろうか。
そういえばユージーンはさっき、彼女に自分の隣にずっといてくれるのかと尋ねた。
(ということは今夜はずっと一緒にいてくれるのだわ。いつもは他の女性とどこかに消えてしまうのだけれど。あぁ、そうだったらいいのに)
戸惑いながらも、ティーナは嬉しく思った。
それからティーナはユージーンと二人、たわいもない会話を続けた。彼はさっき起こったことなど、まるでなかったように普段通りに振舞う。
しばらくすると、馬車は王都の少し外れにある公爵家の門にたどり着いた。
お城と見まごうばかりの大きな建物は、たくさんの松明に照らされ、壁が白く浮かび上がっていた。
池や丘のある広大な前庭を抜けると、数えきれないほどの馬車が停められている。王国中の貴族や有力者が招待されているのだろう。
いつもの夜会とは違う重々しい緊張感に、ティーナは身を引き締める。
「すごいわ、さすが公爵家の夜会ね。こんなにたくさんの人の前できちんとできるかしら」
「ティーナ、大丈夫だよ。不安に思うことはない。僕がついているから」
ユージーンの言葉に緊張が少し解けた。優しい表情に思いやりのある言葉。昔の彼と同じだ。ティーナは彼に微笑み返した。
公爵家の屋敷の中は、これまた豪華な装飾品ばかりだった。
ユージーンにエスコートされて、ティーナは奥に足を踏み入れる。
招待された貴族たちも、今夜は一層着飾っているようだ。リンデル皇国の騎士たちはまだ到着していないようで、令嬢たちがそわそわしていた。
幾人かと社交の挨拶を交わした後、ユージーンとダンスを踊る。
二人が踊り始めると一斉に周囲の注目を集めた。甘いマスクに滑らかな足さばき。ユージーンはどこに行っても目立つ存在だった。ティーナはそんな彼を誇らしく思う。
二曲続けて踊った後に、一人の女性がユージーンの側に立った。彼女はティーナには目もくれず、誘惑的な目つきで彼の様子を窺う。
ユージーンの女癖の悪さは社交界でも有名で、こうやって婚約者のティーナが隣にいても、構わずに彼を誘う女性は珍しくない。
(いやだわ、彼女は金髪に青い目。ユージーン好みの女性だわ。あぁ、また私は放っておかれるのかしら……)
ティーナは浮かれた気持ちを再び沈ませた。
けれどもユージーンは彼女の方を見向きもせずに、ティーナの手を取った。
「ダンスを踊るのはもう飽きたね。ティーナ、あっちの方に行ってみようか。室内に噴水があるらしいよ」
彼は予想外にも女性に背を向けて、ティーナを屋敷の奥へとエスコートする。あとに残された女性が、悔しそうに二人の後姿を見送っていた。
(やっぱり今夜はずっと私の側にいてくれるつもりなのね。あぁ、嬉しい)
ユージーンは一緒に夜会に参加していても、ティーナより他の女性や友人と過ごす時間の方が長かった。
そんなティーナを馬鹿にする令嬢も少なくない。
バッカム家はそれなりの貴族だし、ユージーンは女性に人気がある。その婚約者である彼女への妬みもあったのだろう。
落ち込んでいた気持ちを浮上させたティーナは、彼の肘にかけた手をきゅっと握って、ユージーンの顔を見上げた。
目が合った瞬間、彼が優しく微笑み返してくれる。その笑顔にホッと安心した。
そうしてしばらく二人で室内噴水を見て楽しんだ後、ユージーンが東館にある庭園に続くテラスにティーナを誘った。
天井まで伸びている両開きのガラス戸の向こうには、花壇の花が色とりどりに咲き誇っている。テラスに出ると夜空の藍色が花々の奥に浮かび上がり、そのコントラストがとても美しかった。
(もしかしてユージーン。この風景を私に見せたかったのかしら……。私のためにユビリアムの花を採ってきてくれた優しいユージーン。やっぱり彼は変わっていなかったのだわ)
胸をときめかせながらユージーンに続いてテラスの奥に足を進める。すると、テラスの奥に先日王立庭園で見た女性が立っているのに気がついた。
ティーナは飛び上がるほど驚いたのだが、ユージーンは予め知っていたようだ。
ユージーンはティーナの手を振りほどいて女性に駆け寄る。
「ミュリエル、元気だった? あぁ、今夜の君はいつもよりまして綺麗だ」
女性はむくれたように頬を膨らませた。
「ユージーン様。遅かったですわ。ずいぶんお待ちしましたのよ!」
「ああ、ごめん。でも約束通りに来たんだから許してよ」
平然と会話を続けるユージーンに、ティーナは愕然と目を見張った。
こんなところに女性を待たせておいたユージーンにも驚いたが、それよりティーナの心を乱したのは、女性の着ているドレスだった。
ユージーンからティーナに贈られたドレスと、全く同じオーガンジーの生地で作られた紺色のドレス。それに同じ色味の真珠のネックレスを彼女は身につけている。
彼女のドレスはティーナとは少し違うデザインで、胸元と背中が大きく開いているが、どう見ても同じ生地だ。
「――あの……ユージーン。これってどういうことなの?」
「ああ、このドレスの生地はやっぱり金色の髪と青い瞳に映えるね。まるで詩集にでてくる海の女神みたいだ。君のために、王都一の宝石屋で選んだんだよ」
ティーナを無視したまま、ユージーンは悪びれもせずに女性に話しかけた。ティーナの容姿と比較する彼の発言に、体の震えが止まらなくなる。
ティーナの体は、頭から冷水を浴びせられたように指先まで一瞬で凍りついた。
「やだ、恥ずかしいわ。やめてください。ふふっ」
誉め言葉に気を良くした女性は、笑いながら彼の肘に腕を絡ませる。そうして優越感に満ちた目でちらりとティーナの方を見てからユージーンに視線を戻して甘ったるい声を出した。
「ユージーン様ぁ、私と似たドレスを着た方の横には並びたくありませんわ」
「ああ、いいんだよ。ティーナはずっとここで待たせておくから。ティーナ、いい子だから僕が戻ってくるまでここにいてね」
「ええ、分かったわ」と、いつもは従順に返すのだが、今回はあまりのショックに声が出ない。そんなティーナに、女性が憐れみの視線を向けた。
「ぷふっ、本当に可哀想ね。私だったらこんなの耐えられないわ。さ、ユージーン様、行きましょう。リンデル皇国の騎士様たちが、あちらで剣技を見せてくださるそうよ」
「へえ、それは興味深いな。ぜひ僕も見てみたい」
彼らは茫然と立ち尽くすティーナを尻目に屋内へと消えていった。二人の楽しそうな笑い声が耳に残る。
そうしてティーナは誰もいないテラスに、ポツンと一人残された。
あの様子だとユージーンは、当分ここに戻ってこないだろう。絶望が全身を満たしていく。
同じ生地で作らせたドレスと真珠を、ユージーンは彼女にもプレゼントしたのだ。
(金色の髪と青い瞳に映えるねって……それって私には似合わないってこと。そうよね。だって私は、そのどれも持ち合わせていないのだもの)
ティーナは夜空に浮かぶ月を見上げた。そこには子供の頃と変わらない月が光り輝いている。
(どうしてユージーンはこんなにも変わってしまったの……?)
溢れ出す涙が頬を伝って流れ落ちる。
「もう……もうこんなの耐えられない……私を愛していないのなら、どうして離れさせてくれないの。ユビリアムの花の妖精が本当にいるなら、私をこの地獄から救ってください。お願いします」
ティーナはその場に泣き崩れた。大理石のタイルが膝に当たって冷たいが、構わず子供のように声を上げて泣く。
情けなさと悔しさで、胸が張り裂けそうに苦しい。夜の冷たい風が吹くたびに肌が凍えて、ますます惨めになった。
(どうしてこんな扱いを受けなくてはいけないの……もう何もかも捨てて、どこかに消えてしまいたい……)
どのくらい泣き続けていたのだろうか。突然聞き覚えのある声が、頭上に響く。
「やっと見つけた。こんなに美しい夜なのに、どうしてお前は泣いているんだ」
ぶっきらぼうだけれども、羽毛で耳を撫でられているような心地のいい声……。その声にひりひりと焼け付くような胸の痛みが、ほんの少しだけ和らいだ。
けれどもすぐに状況を思い出して、慌てて涙を拭いて立ち上がる。
こんな姿を他人に見られるわけにはいかない。ここは公爵家の屋敷で、いまは夜会の最中なのだ。
「も、申し訳ありません。あの……目にゴミが入っただけです。ご心配いただきありがとうございます」
泣きはらした顔を見られていないだろうか。
手で顔を隠しながら、ティーナは丁寧にお辞儀をした。涙で目がかすみ、男性の顔ははっきりと見えない。すると男性は思わぬことを言い出した。
「ずいぶん捜し回ったが、ようやく見つけた。招待されているはずなのに、どこにも見当たらなかったからな。まさか、こんな誰も通らない場所にいるとは思わなかった」
その言葉に、ティーナは顔を隠すのも忘れて、目の前に立つ彼の顔をまじまじと見た。
切れ長の目に、鼻筋の通った輪郭。男性の顔はバランスも良く整っている。魅惑的な色気を醸し出しているが、いままで社交界で見かけたことはない。
(誰……誰なの? どうして私のことを知っているの?)
刹那、風が吹いて彼の黒曜石のような漆黒の髪を揺らした。ちょうど月を隠していた雲が、風で流されたようだ。
髪の隙間から、ミステリアスな緑色の混ざった茶色の瞳が月光を浴びて浮かび上がる。その微妙な色合いにティーナは彼のことを思い出した。
「え……あ……あなたは――!」
先日、クレアの屋敷から戻る途中に王都で助けた旅人だ。
さっきは印象的な顔に気を取られて気づかなかったが、彼は騎士の制服を着ている。しかも腰には剣を下げていた。ということは彼はもしかして……
男性はティーナに笑いかけた。
「この間のことは感謝する。いろいろ事情があって騎士服を着れず、庶民の服装をしていたせいで、お前以外の誰も俺を助けてはくれなかった。あの薬草もかなりの値がしたはずだ。なのに礼も求めずに、あの場に置いて行くなんて思ってもみなかった」
王国についたばかりの出来事だったと、彼は語った。
「お前は俺の正体に気づいていて、わざと恩を売ろうとしたのかと思ったが、違ったようだな。夜会に来ても、お前は俺を捜そうともしなかった。少し傷ついたぞ」
鋭く、威圧感のある堂々とした態度。彼は異国の旅人ではなく、リンデル皇国の騎士だったのだ。
騎士は、この王国でも上流貴族と同等の地位を約束されている。それほど誇りのある栄誉な称号。
だからこそ王国中の令嬢が色めき立っているのだが……
驚くティーナに、男性はハンカチを差し出す。ティーナが受け取ろうとすると、彼はそれを胸ポケットの中にしまい込んだ。
「これもお前がわざと残していったのかと思った。ハンカチのお陰で、すぐにお前の名が分かったぞ。ティーナ・ハニブラム。興味深い女だ。どうだ、俺と一曲ダンスを踊らないか?」
突然の申し出にティーナは戸惑う。
これほど階級の差がある男性と、踊った経験はおろか、話をしたことさえない。
ティーナはうやうやしくドレスを持ち上げ、頭を下げた。
「そ……そんな滅相もございません。お名前は存じませんが、あの時のお礼なら結構だと申し上げました。私はここで人を待っていますので、どうぞご容赦を……」
たとえ相手が皇国の騎士でも、ティーナが他の男性と話をしたことが分かれば、それだけでユージーンは怒ってしまうだろう。
彼を待っている時に男性に道を聞かれただけで、長い間不機嫌な態度を取られたことがある。ユージーンを怒らせたことは当然母の耳にも入り、一か月間の外出禁止を言い渡された。
そんな面倒ごとになるのはゴメンだ。
「お前の婚約者であるバッカム家の息子が気になるのか? ユージーンとかいったな。あいつがさっき他の女と一緒にダンスを踊っていたのを見たぞ」
ティーナは羞恥心で顔を赤くする。
まさか王国に来たばかりの男性にまで、ユージーンの女癖の悪さを指摘されるだなんて、思ってもみなかった。しかも彼は、ユージーンが彼女の婚約者だと知っているらしい。
「え、ええ……存じています。彼が他の女性といることも……それでもここで待つと彼と約束したのです。ですから私はこの場所を離れるわけにはいかないのです」
すると彼は顔をしかめた。
その様子にティーナはビクリと肩を震わせる。気を悪くしたのだろうか。
男性は顎に手を当てて、考え込むようなしぐさをした。
「お前が望むことなら、なんでも叶えてやるつもりだが、その意見は認められないな。フランク、いまからここを閉鎖しろ」
彼が右手を上げてそう言うと、花壇の向こうから男性が姿を現した。恐らく近くに控えていたのだろう。
焦げ茶色の髪をジェルで撫でつけ銀縁の眼鏡をかけている、いかにも有能そうな男だ。
フランクは片手を胸にあてて、もう片方の腕を背後の腰に回した。そうしてうやうやしく頭を下げる。
「承知いたしました、エグバート様。ただちに東館を閉鎖させます」
そう言い残すと、フランクはティーナにも頭を下げてからテラスを立ち去った。ティーナの困惑は最高潮に達する。
確かに公爵家は広いので、一つくらい館を閉鎖しても夜会に影響はないだろう。
だが、いくらリンデル皇国の騎士で身分が高いからといって、そんなことを勝手に決められるはずがない。
「あの……でも……」
「あれは侍従のフランクだ。信頼できる男だから皇国から連れてきた。婚約者との約束が守れなくても気にすることはない。待つ場所が閉鎖されたんだから、仕方がないだろう。お前がここにいない充分な理由になると思うが、どうだ?」
男性は、こともなげに答える。そういえば彼はエグバートと呼ばれていた。その名前には聞き覚えがある。
そう、最後にクレアと会った時に彼女が話題にしていたあの騎士の名だ。リンデル皇国の騎士のうちの一人は、ダリア王国の公爵家の嫡男だという。そうして彼の発言。
「まさか……もしかしてあなたは」
「そうだ。俺の名はエグバート・ニューエンブルグ。リンデル皇国の騎士にして、ニューエンブルグ公爵家の嫡男。ずいぶんと長く帰っていなかったが、ここは俺の生まれた家だ。さぁ、ティーナ。俺と踊ろう」
エグバートは、驚く彼女に向かってさっと手を差し出した。
月の光に照らされた彼の顔は幻のように美しく、自信に溢れて凛としている。同時にティーナの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(まさか、町で助けた方がこんなに身分の高い方だったなんて……)
彼女が躊躇するのも構わずに、エグバートはその手を強引に取って歩き始めた。ティーナのパンプスとエグバートの革靴の音が、大理石の廊下に交互に響く。
「あの……! 無理です。申し訳ありませんが、止まってください!」
泣きそうな顔のティーナとは対照に、彼はとても楽しそうだ。
「はははっ、ダンスの申し入れを断るのはマナーに反する。さっきも言ったが、これは夜会の主催者の命令だ。お前は拒絶できない」
確かによほどの理由がない限り、男性からのダンスの申し入れは断れない。
だが踊りたくない女性は、そもそもダンスホールには足を踏み入れない。ティーナはダンスホールにいなかったのだから、無理やりホールに連れていくことの方がマナー違反だ。
「分かっていますが、私はダンスはあまり得意ではないのです、エグバート様。私なんかと踊ったら、お顔に泥を塗ってしまいます」
「大丈夫だ。難しい曲でも俺がリードする。ティーナは俺を信じてついてこい」
彼の機嫌を損ねないようにやんわり断ろうとするが、頑固で聞き入れてくれない。彼女の困惑をよそに、エグバートは廊下をどんどん先に進んでいく。
(あぁ、どうしましょう! もしユージーンにこんなところを見られたら、きっとすごく怒るに違いないわ!)
リンデル皇国の騎士が見知らぬ女性と手を繋いでいるので、通りすがる紳士淑女が興味津々にティーナを見ては小声で噂話をしている。
エグバートの姿を目にするたびに、令嬢たちが色めきたつのが分かった。
「エグバート様! お待ちください!」
ティーナの抵抗もむなしく、二人はダンスホールに到着した。
ようやく彼が足を止めた瞬間、信じられないほどの視線が一気に注がれる。興味、羨望、嫉妬、人々の様々な感情を含む関心に、ティーナは背筋を震わせた。
その小さな肩を庇うようにエグバートが強く抱く。
彼はそんな興味本位の視線には慣れているようだ。これほどの美形なのだ。女性だけでなく、男性すら見惚れてしまうに違いない。
けれどもティーナはユージーン以外の男性に免疫はない。触れられた肩の部分に心臓ができたみたいに熱くなる。
「ちょうど次の曲が始まる直前だったようだな。俺たちはついてる。さぁ、踊るぞ。ティーナ」
「で……でも、私っ!」
ダンスホールの中央に連れていかれたティーナは、周りを見回してから覚悟を決めた。
大勢の紳士淑女が見守る中で、拒否し続けると逆に目立ってしまう。そしてそれはティーナの本意ではない。
王国中の貴族が招待されているのだ。ユージーンに会う確率はそれほど高くないだろう。
(仕方ないわ。一曲だけ……一曲だけでまたあそこに戻らないと……)
ティーナは諦めて彼の前に立ち、手を取ってダンスを始めるポーズをとった。視線を上げると、そこにはエグバートの自信満々の瞳が見える。
彼は目を逸らさずに、ティーナをじっと真剣に見ていた。瞳の色は緑色とも茶色ともつかない、不思議な色だ。それに漆黒の髪が合わさってとても綺麗だと思う。
「ティーナ。お前に会うのをずいぶん待ち焦がれたぞ」
エグバートは低い声でそう言うと、彼女の手をギュッと握りしめる。それと同時に胸がドキドキと高鳴った。
(どうしてそんなことを言うの……? この間、会っただけの人なのに……彼を助けはしたけれども、大したことはしていないわ。なのにどうして?)
エグバートの真意が分からない。
しばらく考えて、ティーナをからかっているだけなのだろうと結論付けた。
楽団の音楽が始まる。この曲はティーナの一番好きな曲だ。
(大丈夫。よかった、これならうまく踊れるわ)
足を右、右、左と、出して軽快なステップを踏む。ティーナはエグバートのリードがとても踊りやすいことに気がついた。さっきユージーンと踊った時とは大違いだ。
それはティーナの足さばきや体の重心に、エグバートがうまく合わせてくれているからだ。
強引で自分勝手な男性かと思っていただけに意外に思う。こんなにスムーズにダンスを踊ったのは、初めての経験だった。
ティーナをリードしながら、エグバートが彼女の耳に囁いた。
「お前はダンスが上手いな。それにそのドレスも綺麗だ。だがデザインや色はいまいちだな」
「あ、ありがとうございます」
とりあえず礼を言う。上流貴族らしからぬ粗い話し方とは裏腹に、エグバートのダンスはとても紳士的だった。
ハンカチを失くしたことを彼に責められるのではないかと、ティーナはひやひやしていた。
目を合わすことさえできなくて、その場で俯きじっと佇む。
ユージーンはそんな彼女をいつもと変わらずエスコートし、馬車の中に誘い入れる。彼は謝罪の手紙を読んでいるはず。何事もない彼の様子にティーナはホッとした。
(良かった。ユージーンは怒っていないようだわ……)
彼と向かい合って座席に腰を掛ける。馬車がゆっくりと動き出した瞬間、突然ユージーンが話を切り出した。
「……ハンカチのことだけど」
ぞっとするような冷ややかな声に、ティーナは全身を凍らせる。
月明かりが差し込むだけの馬車の中はようやく顔が見えるくらいに薄暗い。でも長年の経験からユージーンの心の中をはっきりと知ることができる。
「ティーナ。あれを失くしてしまったって本当?」
この低くて感情のない声は、かなり怒りを溜めている時のユージーンだ。ティーナは震える膝を抑えながら頭を下げた。
「え、ええ。ごめんなさい。あなたが私のためにわざわざ用意してくれたものなのに……」
「いいよ、僕は気にしていないよ。ハンカチなんかたくさんあるんだ。ほら、新しいハンカチだよ。ティーナにあげる」
急に彼の口調が穏やかになったので、ティーナは驚いて顔を上げた。
ユージーンはハンカチを手に持ち、ティーナに受け取るようにと差し出している。彼は怒っていないようだ。顔には笑みさえ浮かんでいる。
「あ、ありがとう! ユージーン。嬉しいわ」
ハンカチを受け取ろうとティーナが手を出すと、ユージーンがその少し前に手を離した。白いハンカチが馬車の床に落ちる。
「ユ……ユージーン……?」
朱色の絨毯の上に舞い落ちたハンカチは、薄闇の中でもその白さを際立たせていた。一瞬で全身の血の気が引いていくのが分かる。
ユージーンはもう一度、楽しそうに微笑んだ。
「バッカム家の紋章の入ったハンカチを、床に落としてしまうだなんて酷いな。ティーナ、拾ってくれるかい?」
口調は朗らかだが、その声は恐ろしいほどに低くて、ティーナを怯えさせるには充分だった。彼がハンカチをわざと床に落としたことは明白。
ティーナはよろけながら立ち上がり、座席の間の狭い場所に屈みこんだ。ようやく指がハンカチの先に触れた時、ユージーンがその端っこを靴の先で踏みつける。
「ハンカチを失くすなんて、几帳面なティーナにしてはあり得ないよね。君が出掛ける時は僕が一緒だし、それ以外はどうせクレア・シュジェニーの屋敷に行くぐらいだ。教会に奉仕に行っているのは知ってるけど、それはいつも木曜日。だったら、いったいどこでハンカチを失くしたのかな?」
彼はティーナがハンカチを失くした過程を疑っているのだ。ティーナの心臓がどくどくと音を立てて鳴り響く。
けれども本当のことを話せば、きっと彼は烈火のごとく怒るだろう。ユージーンはティーナが他の男性と話をすることをとても嫌うから。
「あの……ユージーン。手紙にも書いたと思うのだけれど、クレアの屋敷から馬車に乗って帰る途中で落としたのだと思うの。たぶん風で窓から飛ばされたのよ」
苦しい言い訳だが、ティーナには他に何も思いつかなかった。
でもユージーンはハンカチから足をどけようとはしない。
困り果てたティーナは、屈んでいる状態でユージーンの顔を見上げた。距離が近くなったので、彼の表情がいまははっきりと見える。
彼のゾッとするような冷たい視線が突きささり、ティーナは思わず顔を背けた。頭上からユージーンの責めるような声が聞こえてくる。
「まさか僕が贈ったハンカチを、君がわざと捨てるわけないよね?」
「もちろんよ! そんなことするわけがないわ!」
彼はティーナが故意にハンカチを捨てたのだと考えていたようだ。
すぐに顔を上げて否定するが、ユージーンは表情を全く変えない。
「大好きなあなたから貰った大事なハンカチですもの。わざとなんて絶対にないわ。信じてちょうだい、ユージーン」
薄暗い馬車の中が、重い沈黙に包まれる。
そのうちユージーンの足がハンカチからのけられた。
(私を許してくれたの? ……ユージーン)
ティーナはユージーンの行動を窺いながら、おずおずとハンカチを拾い上げて座席に座りなおす。
あまりの緊張に全身が心臓になったようだ。
ハンカチはティーナの膝の上に置かれたまま。それをポケットにしまっていいものかどうかも分からない。
「……ティーナ」
しばらく押し黙っていたユージーンが突然口を開いた。ティーナはビクッと肩を震わせる。
「今夜はリンデル皇国の騎士たちも参加するんだって、みんな騒いでいるよ。でもティーナはずっと僕の隣にいるよね」
「え、ええ。もちろんよ。私はあなたの婚約者ですもの」
「そうだよね、夜会では他の男とは絶対に話をしないでよ。ティーナ、君は僕の婚約者だからね。もし一言でも話をしたら……分かっているよね、ティーナ」
「ええ、分かっているわ。ユージーン」
彼の本意が掴めず、ティーナはさらに困惑する。彼は許してくれたのだろうか。
そういえばユージーンはさっき、彼女に自分の隣にずっといてくれるのかと尋ねた。
(ということは今夜はずっと一緒にいてくれるのだわ。いつもは他の女性とどこかに消えてしまうのだけれど。あぁ、そうだったらいいのに)
戸惑いながらも、ティーナは嬉しく思った。
それからティーナはユージーンと二人、たわいもない会話を続けた。彼はさっき起こったことなど、まるでなかったように普段通りに振舞う。
しばらくすると、馬車は王都の少し外れにある公爵家の門にたどり着いた。
お城と見まごうばかりの大きな建物は、たくさんの松明に照らされ、壁が白く浮かび上がっていた。
池や丘のある広大な前庭を抜けると、数えきれないほどの馬車が停められている。王国中の貴族や有力者が招待されているのだろう。
いつもの夜会とは違う重々しい緊張感に、ティーナは身を引き締める。
「すごいわ、さすが公爵家の夜会ね。こんなにたくさんの人の前できちんとできるかしら」
「ティーナ、大丈夫だよ。不安に思うことはない。僕がついているから」
ユージーンの言葉に緊張が少し解けた。優しい表情に思いやりのある言葉。昔の彼と同じだ。ティーナは彼に微笑み返した。
公爵家の屋敷の中は、これまた豪華な装飾品ばかりだった。
ユージーンにエスコートされて、ティーナは奥に足を踏み入れる。
招待された貴族たちも、今夜は一層着飾っているようだ。リンデル皇国の騎士たちはまだ到着していないようで、令嬢たちがそわそわしていた。
幾人かと社交の挨拶を交わした後、ユージーンとダンスを踊る。
二人が踊り始めると一斉に周囲の注目を集めた。甘いマスクに滑らかな足さばき。ユージーンはどこに行っても目立つ存在だった。ティーナはそんな彼を誇らしく思う。
二曲続けて踊った後に、一人の女性がユージーンの側に立った。彼女はティーナには目もくれず、誘惑的な目つきで彼の様子を窺う。
ユージーンの女癖の悪さは社交界でも有名で、こうやって婚約者のティーナが隣にいても、構わずに彼を誘う女性は珍しくない。
(いやだわ、彼女は金髪に青い目。ユージーン好みの女性だわ。あぁ、また私は放っておかれるのかしら……)
ティーナは浮かれた気持ちを再び沈ませた。
けれどもユージーンは彼女の方を見向きもせずに、ティーナの手を取った。
「ダンスを踊るのはもう飽きたね。ティーナ、あっちの方に行ってみようか。室内に噴水があるらしいよ」
彼は予想外にも女性に背を向けて、ティーナを屋敷の奥へとエスコートする。あとに残された女性が、悔しそうに二人の後姿を見送っていた。
(やっぱり今夜はずっと私の側にいてくれるつもりなのね。あぁ、嬉しい)
ユージーンは一緒に夜会に参加していても、ティーナより他の女性や友人と過ごす時間の方が長かった。
そんなティーナを馬鹿にする令嬢も少なくない。
バッカム家はそれなりの貴族だし、ユージーンは女性に人気がある。その婚約者である彼女への妬みもあったのだろう。
落ち込んでいた気持ちを浮上させたティーナは、彼の肘にかけた手をきゅっと握って、ユージーンの顔を見上げた。
目が合った瞬間、彼が優しく微笑み返してくれる。その笑顔にホッと安心した。
そうしてしばらく二人で室内噴水を見て楽しんだ後、ユージーンが東館にある庭園に続くテラスにティーナを誘った。
天井まで伸びている両開きのガラス戸の向こうには、花壇の花が色とりどりに咲き誇っている。テラスに出ると夜空の藍色が花々の奥に浮かび上がり、そのコントラストがとても美しかった。
(もしかしてユージーン。この風景を私に見せたかったのかしら……。私のためにユビリアムの花を採ってきてくれた優しいユージーン。やっぱり彼は変わっていなかったのだわ)
胸をときめかせながらユージーンに続いてテラスの奥に足を進める。すると、テラスの奥に先日王立庭園で見た女性が立っているのに気がついた。
ティーナは飛び上がるほど驚いたのだが、ユージーンは予め知っていたようだ。
ユージーンはティーナの手を振りほどいて女性に駆け寄る。
「ミュリエル、元気だった? あぁ、今夜の君はいつもよりまして綺麗だ」
女性はむくれたように頬を膨らませた。
「ユージーン様。遅かったですわ。ずいぶんお待ちしましたのよ!」
「ああ、ごめん。でも約束通りに来たんだから許してよ」
平然と会話を続けるユージーンに、ティーナは愕然と目を見張った。
こんなところに女性を待たせておいたユージーンにも驚いたが、それよりティーナの心を乱したのは、女性の着ているドレスだった。
ユージーンからティーナに贈られたドレスと、全く同じオーガンジーの生地で作られた紺色のドレス。それに同じ色味の真珠のネックレスを彼女は身につけている。
彼女のドレスはティーナとは少し違うデザインで、胸元と背中が大きく開いているが、どう見ても同じ生地だ。
「――あの……ユージーン。これってどういうことなの?」
「ああ、このドレスの生地はやっぱり金色の髪と青い瞳に映えるね。まるで詩集にでてくる海の女神みたいだ。君のために、王都一の宝石屋で選んだんだよ」
ティーナを無視したまま、ユージーンは悪びれもせずに女性に話しかけた。ティーナの容姿と比較する彼の発言に、体の震えが止まらなくなる。
ティーナの体は、頭から冷水を浴びせられたように指先まで一瞬で凍りついた。
「やだ、恥ずかしいわ。やめてください。ふふっ」
誉め言葉に気を良くした女性は、笑いながら彼の肘に腕を絡ませる。そうして優越感に満ちた目でちらりとティーナの方を見てからユージーンに視線を戻して甘ったるい声を出した。
「ユージーン様ぁ、私と似たドレスを着た方の横には並びたくありませんわ」
「ああ、いいんだよ。ティーナはずっとここで待たせておくから。ティーナ、いい子だから僕が戻ってくるまでここにいてね」
「ええ、分かったわ」と、いつもは従順に返すのだが、今回はあまりのショックに声が出ない。そんなティーナに、女性が憐れみの視線を向けた。
「ぷふっ、本当に可哀想ね。私だったらこんなの耐えられないわ。さ、ユージーン様、行きましょう。リンデル皇国の騎士様たちが、あちらで剣技を見せてくださるそうよ」
「へえ、それは興味深いな。ぜひ僕も見てみたい」
彼らは茫然と立ち尽くすティーナを尻目に屋内へと消えていった。二人の楽しそうな笑い声が耳に残る。
そうしてティーナは誰もいないテラスに、ポツンと一人残された。
あの様子だとユージーンは、当分ここに戻ってこないだろう。絶望が全身を満たしていく。
同じ生地で作らせたドレスと真珠を、ユージーンは彼女にもプレゼントしたのだ。
(金色の髪と青い瞳に映えるねって……それって私には似合わないってこと。そうよね。だって私は、そのどれも持ち合わせていないのだもの)
ティーナは夜空に浮かぶ月を見上げた。そこには子供の頃と変わらない月が光り輝いている。
(どうしてユージーンはこんなにも変わってしまったの……?)
溢れ出す涙が頬を伝って流れ落ちる。
「もう……もうこんなの耐えられない……私を愛していないのなら、どうして離れさせてくれないの。ユビリアムの花の妖精が本当にいるなら、私をこの地獄から救ってください。お願いします」
ティーナはその場に泣き崩れた。大理石のタイルが膝に当たって冷たいが、構わず子供のように声を上げて泣く。
情けなさと悔しさで、胸が張り裂けそうに苦しい。夜の冷たい風が吹くたびに肌が凍えて、ますます惨めになった。
(どうしてこんな扱いを受けなくてはいけないの……もう何もかも捨てて、どこかに消えてしまいたい……)
どのくらい泣き続けていたのだろうか。突然聞き覚えのある声が、頭上に響く。
「やっと見つけた。こんなに美しい夜なのに、どうしてお前は泣いているんだ」
ぶっきらぼうだけれども、羽毛で耳を撫でられているような心地のいい声……。その声にひりひりと焼け付くような胸の痛みが、ほんの少しだけ和らいだ。
けれどもすぐに状況を思い出して、慌てて涙を拭いて立ち上がる。
こんな姿を他人に見られるわけにはいかない。ここは公爵家の屋敷で、いまは夜会の最中なのだ。
「も、申し訳ありません。あの……目にゴミが入っただけです。ご心配いただきありがとうございます」
泣きはらした顔を見られていないだろうか。
手で顔を隠しながら、ティーナは丁寧にお辞儀をした。涙で目がかすみ、男性の顔ははっきりと見えない。すると男性は思わぬことを言い出した。
「ずいぶん捜し回ったが、ようやく見つけた。招待されているはずなのに、どこにも見当たらなかったからな。まさか、こんな誰も通らない場所にいるとは思わなかった」
その言葉に、ティーナは顔を隠すのも忘れて、目の前に立つ彼の顔をまじまじと見た。
切れ長の目に、鼻筋の通った輪郭。男性の顔はバランスも良く整っている。魅惑的な色気を醸し出しているが、いままで社交界で見かけたことはない。
(誰……誰なの? どうして私のことを知っているの?)
刹那、風が吹いて彼の黒曜石のような漆黒の髪を揺らした。ちょうど月を隠していた雲が、風で流されたようだ。
髪の隙間から、ミステリアスな緑色の混ざった茶色の瞳が月光を浴びて浮かび上がる。その微妙な色合いにティーナは彼のことを思い出した。
「え……あ……あなたは――!」
先日、クレアの屋敷から戻る途中に王都で助けた旅人だ。
さっきは印象的な顔に気を取られて気づかなかったが、彼は騎士の制服を着ている。しかも腰には剣を下げていた。ということは彼はもしかして……
男性はティーナに笑いかけた。
「この間のことは感謝する。いろいろ事情があって騎士服を着れず、庶民の服装をしていたせいで、お前以外の誰も俺を助けてはくれなかった。あの薬草もかなりの値がしたはずだ。なのに礼も求めずに、あの場に置いて行くなんて思ってもみなかった」
王国についたばかりの出来事だったと、彼は語った。
「お前は俺の正体に気づいていて、わざと恩を売ろうとしたのかと思ったが、違ったようだな。夜会に来ても、お前は俺を捜そうともしなかった。少し傷ついたぞ」
鋭く、威圧感のある堂々とした態度。彼は異国の旅人ではなく、リンデル皇国の騎士だったのだ。
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驚くティーナに、男性はハンカチを差し出す。ティーナが受け取ろうとすると、彼はそれを胸ポケットの中にしまい込んだ。
「これもお前がわざと残していったのかと思った。ハンカチのお陰で、すぐにお前の名が分かったぞ。ティーナ・ハニブラム。興味深い女だ。どうだ、俺と一曲ダンスを踊らないか?」
突然の申し出にティーナは戸惑う。
これほど階級の差がある男性と、踊った経験はおろか、話をしたことさえない。
ティーナはうやうやしくドレスを持ち上げ、頭を下げた。
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たとえ相手が皇国の騎士でも、ティーナが他の男性と話をしたことが分かれば、それだけでユージーンは怒ってしまうだろう。
彼を待っている時に男性に道を聞かれただけで、長い間不機嫌な態度を取られたことがある。ユージーンを怒らせたことは当然母の耳にも入り、一か月間の外出禁止を言い渡された。
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「お前の婚約者であるバッカム家の息子が気になるのか? ユージーンとかいったな。あいつがさっき他の女と一緒にダンスを踊っていたのを見たぞ」
ティーナは羞恥心で顔を赤くする。
まさか王国に来たばかりの男性にまで、ユージーンの女癖の悪さを指摘されるだなんて、思ってもみなかった。しかも彼は、ユージーンが彼女の婚約者だと知っているらしい。
「え、ええ……存じています。彼が他の女性といることも……それでもここで待つと彼と約束したのです。ですから私はこの場所を離れるわけにはいかないのです」
すると彼は顔をしかめた。
その様子にティーナはビクリと肩を震わせる。気を悪くしたのだろうか。
男性は顎に手を当てて、考え込むようなしぐさをした。
「お前が望むことなら、なんでも叶えてやるつもりだが、その意見は認められないな。フランク、いまからここを閉鎖しろ」
彼が右手を上げてそう言うと、花壇の向こうから男性が姿を現した。恐らく近くに控えていたのだろう。
焦げ茶色の髪をジェルで撫でつけ銀縁の眼鏡をかけている、いかにも有能そうな男だ。
フランクは片手を胸にあてて、もう片方の腕を背後の腰に回した。そうしてうやうやしく頭を下げる。
「承知いたしました、エグバート様。ただちに東館を閉鎖させます」
そう言い残すと、フランクはティーナにも頭を下げてからテラスを立ち去った。ティーナの困惑は最高潮に達する。
確かに公爵家は広いので、一つくらい館を閉鎖しても夜会に影響はないだろう。
だが、いくらリンデル皇国の騎士で身分が高いからといって、そんなことを勝手に決められるはずがない。
「あの……でも……」
「あれは侍従のフランクだ。信頼できる男だから皇国から連れてきた。婚約者との約束が守れなくても気にすることはない。待つ場所が閉鎖されたんだから、仕方がないだろう。お前がここにいない充分な理由になると思うが、どうだ?」
男性は、こともなげに答える。そういえば彼はエグバートと呼ばれていた。その名前には聞き覚えがある。
そう、最後にクレアと会った時に彼女が話題にしていたあの騎士の名だ。リンデル皇国の騎士のうちの一人は、ダリア王国の公爵家の嫡男だという。そうして彼の発言。
「まさか……もしかしてあなたは」
「そうだ。俺の名はエグバート・ニューエンブルグ。リンデル皇国の騎士にして、ニューエンブルグ公爵家の嫡男。ずいぶんと長く帰っていなかったが、ここは俺の生まれた家だ。さぁ、ティーナ。俺と踊ろう」
エグバートは、驚く彼女に向かってさっと手を差し出した。
月の光に照らされた彼の顔は幻のように美しく、自信に溢れて凛としている。同時にティーナの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(まさか、町で助けた方がこんなに身分の高い方だったなんて……)
彼女が躊躇するのも構わずに、エグバートはその手を強引に取って歩き始めた。ティーナのパンプスとエグバートの革靴の音が、大理石の廊下に交互に響く。
「あの……! 無理です。申し訳ありませんが、止まってください!」
泣きそうな顔のティーナとは対照に、彼はとても楽しそうだ。
「はははっ、ダンスの申し入れを断るのはマナーに反する。さっきも言ったが、これは夜会の主催者の命令だ。お前は拒絶できない」
確かによほどの理由がない限り、男性からのダンスの申し入れは断れない。
だが踊りたくない女性は、そもそもダンスホールには足を踏み入れない。ティーナはダンスホールにいなかったのだから、無理やりホールに連れていくことの方がマナー違反だ。
「分かっていますが、私はダンスはあまり得意ではないのです、エグバート様。私なんかと踊ったら、お顔に泥を塗ってしまいます」
「大丈夫だ。難しい曲でも俺がリードする。ティーナは俺を信じてついてこい」
彼の機嫌を損ねないようにやんわり断ろうとするが、頑固で聞き入れてくれない。彼女の困惑をよそに、エグバートは廊下をどんどん先に進んでいく。
(あぁ、どうしましょう! もしユージーンにこんなところを見られたら、きっとすごく怒るに違いないわ!)
リンデル皇国の騎士が見知らぬ女性と手を繋いでいるので、通りすがる紳士淑女が興味津々にティーナを見ては小声で噂話をしている。
エグバートの姿を目にするたびに、令嬢たちが色めきたつのが分かった。
「エグバート様! お待ちください!」
ティーナの抵抗もむなしく、二人はダンスホールに到着した。
ようやく彼が足を止めた瞬間、信じられないほどの視線が一気に注がれる。興味、羨望、嫉妬、人々の様々な感情を含む関心に、ティーナは背筋を震わせた。
その小さな肩を庇うようにエグバートが強く抱く。
彼はそんな興味本位の視線には慣れているようだ。これほどの美形なのだ。女性だけでなく、男性すら見惚れてしまうに違いない。
けれどもティーナはユージーン以外の男性に免疫はない。触れられた肩の部分に心臓ができたみたいに熱くなる。
「ちょうど次の曲が始まる直前だったようだな。俺たちはついてる。さぁ、踊るぞ。ティーナ」
「で……でも、私っ!」
ダンスホールの中央に連れていかれたティーナは、周りを見回してから覚悟を決めた。
大勢の紳士淑女が見守る中で、拒否し続けると逆に目立ってしまう。そしてそれはティーナの本意ではない。
王国中の貴族が招待されているのだ。ユージーンに会う確率はそれほど高くないだろう。
(仕方ないわ。一曲だけ……一曲だけでまたあそこに戻らないと……)
ティーナは諦めて彼の前に立ち、手を取ってダンスを始めるポーズをとった。視線を上げると、そこにはエグバートの自信満々の瞳が見える。
彼は目を逸らさずに、ティーナをじっと真剣に見ていた。瞳の色は緑色とも茶色ともつかない、不思議な色だ。それに漆黒の髪が合わさってとても綺麗だと思う。
「ティーナ。お前に会うのをずいぶん待ち焦がれたぞ」
エグバートは低い声でそう言うと、彼女の手をギュッと握りしめる。それと同時に胸がドキドキと高鳴った。
(どうしてそんなことを言うの……? この間、会っただけの人なのに……彼を助けはしたけれども、大したことはしていないわ。なのにどうして?)
エグバートの真意が分からない。
しばらく考えて、ティーナをからかっているだけなのだろうと結論付けた。
楽団の音楽が始まる。この曲はティーナの一番好きな曲だ。
(大丈夫。よかった、これならうまく踊れるわ)
足を右、右、左と、出して軽快なステップを踏む。ティーナはエグバートのリードがとても踊りやすいことに気がついた。さっきユージーンと踊った時とは大違いだ。
それはティーナの足さばきや体の重心に、エグバートがうまく合わせてくれているからだ。
強引で自分勝手な男性かと思っていただけに意外に思う。こんなにスムーズにダンスを踊ったのは、初めての経験だった。
ティーナをリードしながら、エグバートが彼女の耳に囁いた。
「お前はダンスが上手いな。それにそのドレスも綺麗だ。だがデザインや色はいまいちだな」
「あ、ありがとうございます」
とりあえず礼を言う。上流貴族らしからぬ粗い話し方とは裏腹に、エグバートのダンスはとても紳士的だった。
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