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1巻

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   序章


 視界いっぱいに広がる緑の丘に、ところどころ木がぽつぽつと生えている。
 中でもひときわ大きな木の根っこに、二人の少女が腰かけていた。
 一人の少女がスカートのポケットから布にくるまれたお菓子を取り出した。彼女の名前はティーナ・ハニブラム。茶のカールがかった髪をリボンで結んだ、愛らしい顔の少女だ。

「エマ、はいこれ。あなたに」

 エマと呼ばれた長い黒髪の少女が、差し出されたお菓子を見てから顔をそむけた。

「……いらない。お腹なんて減っていない」
「私はもうたーくさん食べたわ。だからこれはエマにと思って持ってきたの。だから食べてくれないと捨てることになっちゃうわ」

 エマは知っていた。少女の父であるハニブラム子爵は息子ばかりを可愛がり、ティーナには焼いた翌日の硬いパンやあまりものしか与えていないことを。
 些細なことにも難癖をつけ、子爵は罰と称してティーナを自室に閉じ込める。なのに人の目は気にするので、ドレスや靴などは普通のものを買い与えていた。
 そんなティーナにとって、お菓子はとても貴重な物だろうに。
 するとエマのお腹がぐるると鳴った。エマは恥ずかしさに顔を赤くする。

「だったら半分こにしよう」

 ティーナの提案にエマが頷く。
 そうして二人は一つのお菓子を分け合って食べた。その間にも、エマは居心地悪そうにドレスを何度も引っ張る。
 ドレスのサイズがあっていないせいで肌が擦れて痛むのだろう。靴も小さいようで、よく足の踵に靴擦れができていた。

「私……いつも小さな服や靴ばかりを着せられてる」

 エマが、ばつが悪そうに語った。ティーナはにっこり笑って自分を指さす。

「私も同じ。下着なんてもう何年も買ってもらってないわ。お母様は誰にも見えないところにお金をかける必要はないって。兄様はいつだって新しいものを買ってもらっているのにね。でも服が擦れて痛いなら軟膏なんこうを塗れば良くなるわよ。私はそうしてるの。今度持って来てあげるわね」

 ティーナの優しい言葉にエマは瞳を潤ませた。

「きついドレスもこんな長い髪も大嫌い……こんなのもういや! 消えてなくなりたい!」

 大粒の涙がエマの頬を流れ落ちていく。エマが泣くところを初めて見たティーナは大慌てする。

「そんなこと言わないで。エマは私の大切なお友達。エマが消えたらとても悲しいわ」

 何とかエマを慰めようと、ティーナは両手を広げてエマを小さい腕の中に抱きしめた。エマの頭を抱いて何度も何度も手で撫でる。

「きついドレスを着ていてもエマはいつだってエマだから、ちっとも変わらないわ。服や髪の長さは関係ない。思いやりがあって強くて優しい、でも一人で悩みすぎちゃうところがある。私はそんなエマが大好き」

 慰めようと思ったのに、エマはさらに声を上げて泣き始める。困り果てたティーナは、覚えている限りの歌を歌うことにした。
 それはとても小さな声の上に、調子が外れていて誰が聞いても上手くない。
 三曲ほど続けて歌った後、ようやくエマが笑顔を見せる。

「……ふふっ、さっきのところ。すごく変だった……」
「エマ! 泣き止んでくれたのね。良かった!」

 ティーナが笑顔で喜ぶ。
 そこに金髪の少年が、そばかすだらけの顔をひょっこりと出した。侯爵家の息子、ユージーンだ。

「ティーナ、お前エマを泣かせたのか?」

 エマはティーナの陰に隠れるように顔を隠した。泣いた理由をユージーンに悟られたくないようだ。
 気持ちを察したティーナがうまくごまかす。

「お父さんに会えなくて、寂しくなったらしいわ」
「ふーん、そんなものか? 僕にはずっと優しいお父様がいるから、エマの気持ちは分からないな。それよりティーナ、一緒に西の池に行こう。熊みたいに大きな魚がいるらしいよ。僕が釣って君に見せてあげるから」

 ユージーンはティーナの家の事情にもエマの悩みにも、何も気がついていないようだ。ワクワクした様子で、ティーナの腕を乱暴に引っ張る。

「あの、でもユージーン。私は泳げないから池に行くのは怖いわ」
「大丈夫、僕が君を溺れさせるわけないだろう。何があっても僕がティーナを守る」

 ユージーンが胸を張ると、ティーナは目に見えて顔を赤くする。彼女がユージーンに恋心を抱いているのは誰の目にも明らかだった。
 その様子を見ていたエマが、涙を拭いて小さくつぶやいた。

「私も行く……」
「いいよ、エマ。お前も一緒に行って遊ぼう」

 そうしてユージーンはエマとティーナと手を繋ぎ、三人揃って池に向かったのだった。
 それは、幼い頃の彼女たちがまだ幸せだった時の懐かしい記憶――



   第一章 鳥籠の中の耐えがたい生活


 春の陽が差す穏やかな日。王都の西側にある庭園は、たくさんの人で賑わっていた。
 ここは王室付きの庭師らが管理しているダリア王国自慢の庭園。王家の所有の庭園だが、こうして一般の者にも開放されている。
 花の種類の選び方や植え方、小道や丘の配置までもが計算されて完璧な造形美を成している。
 庭園にあるカフェは、昼時になると着飾った貴族や金持ちの市民らで満席になった。特に若い恋人同士には人気のデートの場だ。
 ティーナ・ハニブラムも、婚約者のユージーン・バッカムと一緒に来ている。
 いまは社交界シーズン。彼らは領地を離れ、王都にあるそれぞれの別宅で過ごしていた。
 ティーナは子爵令嬢で、婚約者のユージーンは侯爵家の跡継ぎ。もともとハニブラム子爵領とバッカム侯爵領は隣合っている。二人は、幼い頃から一緒に遊んでいた幼馴染だ。
 王国を縦断する川に接し、肥沃ひよくな土地を有するバッカム家は、常にハニブラム家より豊かで優位な立場にあった。
 ハニブラム家の領地で反乱が起きそうになった時は、バッカム家が兵士を送りことなきを得たこともある。干ばつが続き、作物が台なしになった時もバッカム家の食料援助を受けた。
 バッカム家から受けた恩はそれだけにとどまらない。なのでティーナの両親も子爵家の跡継ぎであるティーナの兄も、バッカム家に逆らうことは決してなかった。
 そのバッカム家の嫡男であるユージーンは、金色の巻き髪に青い瞳をした優男だった。
 少し垂れ気味の目は、初めて会う女性でもすぐ心を許してしまうほどの人懐っこさがある。ほどほどに筋肉がついた体は男らしく、大抵の女性はそんな彼を一目で好ましく思うようだ。
 一方のユージーンも満更ではないようで、むしろ積極的に女性と遊びたがっている。
 今日も彼はティーナとのデートの最中だというのに他の女性に声をかけ、会ったばかりの女性の肩を抱いていた。
 扇情的なドレスをまとうその女性は、恐らく玉の輿こしを狙う金持ち娘なのだろう。ユージーンを流し目で誘っている。

「ティーナ、僕は彼女とあっちの庭園を見に行くから、君はここで待っているんだ」

 つい先程、庭園のカフェでユージーンと一緒に昼食を終えたばかり。なのに彼は、ひと気のない場所でティーナに待っていろと言うのだ。
 彼女はまぶたを伏せて、いつものように微笑んだ。

「ええ、分かったわ」

 ユージーンはティーナに笑みを返すと、女性と花々が咲き乱れる庭園へと消えていった。
 二人の会話が風に乗って聞こえてくる。

「本当にいいの? あの人、ユージーン様の婚約者なんでしょう?」
「ああ、でもティーナは親が勝手に決めた婚約者だ。それに彼女は自分の立場をわきまえている。だから君は気にしなくていいよ。さあ、あっちの庭園はすごく素敵なんだそうだ。君の瞳のように美しい青い薔薇ばらが咲いているらしいよ。一緒に見に行こう」

 そうして二人で笑い合う楽しげな声が、だんだんと遠くなり消えていった。
 ティーナは胸の痛みに耐えながら、両手でドレスをぎゅうっと握りしめる。しわになってしまうだろうが、そんなことに構う余裕はない。

(あぁ、何度こんなことを繰り返せばいいのかしら……)

 ユージーンはわざと二人の会話をティーナに聞かせているのだ。
 そんな彼の心の内を想うと、ティーナの鼓動はさらに速くなり目の奥が熱くなる。
 彼が相手にする女性はいつも金髪に青い目。王国の典型的な美女だ。
 けれどもティーナは違う。ブルネットの髪に焦げ茶の瞳。誰もを和ませる穏やかで優しい顔だちだが、ユージーンの好みではない。

(私は……ユージーンに愛されていないの……?)

 彼女はずっとその疑問に悩まされていた。というのも、ユージーンがティーナと婚約したのは、ある出来事があったから。
 あれはティーナが八歳。ユージーンが十一歳の頃だった。
 領地が隣同士で歳の近い二人は、互いの家をよく行き来していた。
 ティーナの両親はバッカム家の跡取りであるユージーンと遊ぶことをとても喜んだし、ティーナ自身も彼と遊ぶのは楽しかった。
 病気の母親の療養のため、領地のはずれにある屋敷に住んでいた女の子と三人でよく遊んでいた。
 彼女の名はエマといった。他人にあまり心を開かない、引っ込み思案で大人しい女の子。
 けれどもティーナが辛抱強く何度も声をかけるうちに打ち解け、一緒に遊ぶようになったのだ。
 ほんの二年くらいの間だったが、ユージーンとエマ、三人で遊んだ日々が楽しかったことは彼女の記憶に残っている。
 ティーナは外遊びはあまり得意ではなかったが、やんちゃでワンパクなユージーンに半ば強引に連れ回されていた。
 その頃既にユージーンのことが好きだったティーナは、それでも一緒にいられて嬉しかった。
 そんな日常が一変したのは、あの事件があってから。
 屋敷から少し離れた場所にある丘で、いつものように三人で遊んでいた時のことだ。
 兵士のような格好をした男が数人、彼女らめがけて走ってきた。その手にはナイフが握られている。
 その頃、王国では貴族の子供を狙った誘拐が頻繁ひんぱんに起きていた。近くに助けになる大人は見当たらない。
 ユージーンが血相を変えて叫ぶ。

「逃げろっ! エマ! ティーナ! 誘拐犯だ!」

 その声にはじかれたようにエマとティーナは走り出したが、子供の足だ。先にエマが追い付かれて男に抱え上げられた。

「きゃぁぁぁ!」

 ユージーンは足を止めて引き返すと、勇敢にも木の枝を手に持って男に歯向かっていく。

「こいつっ! エマを離せっ!」

 やみくもに振り回された枝は男の顔にあたり、頬が裂けて血が流れる。その痛みで、男はエマを地面に落とした。

「エマ、大丈夫か!」
「うぅっ! このガキ! なんてことをしやがる!」

 男は正気を失い、手にしていたナイフでユージーンを刺そうとする。ナイフの先がユージーンの首先に向けられた――その次の瞬間、ティーナの体が自然に動いた。

「危ないっ! ユージーン!」
「駄目っ! 危ない、ティーナ!」
「ティーナ――!」

 男がナイフを振り上げる様子は、まるでスローモーションのようだった。光る銀の切っ先を、青い空越しに見たのが最後。

「きゃぁぁぁぁ!」

 刹那せつな、火が灯ったように背中が熱くなる。
 大きな悲鳴をあげながら、ティーナの意識はそこで途切れたのだった。
 子供たちの叫び声を聞いて急いで駆けつけた大人たちは、丘の中央にナイフで背中を斜めに裂かれ、血だらけで倒れているティーナを見つけたという。
 そんなティーナを、ユージーンは泣きながら膝の上に抱きかかえていた。
 少し離れた場所には血のついたナイフを手に持ったエマと、地面に伏して微動だにしない男。
 ティーナが男に刺された後、エマがそのナイフを奪って男を刺したらしい。ナイフは偶然急所に刺さり、男は既に息絶えていたそうだ。
 他の男らは怖くなってとうに逃げた後だった。エマ自身も怪我をしていたらしいが、すぐに手当てを受けたと聞いている。
 ティーナの目が覚めたのは、事件の少し後。
 深夜、彼女は焼け付くような背中の痛みに目を覚ました。
 どうやら自室のベッドの上にうつ伏せに寝かされているようだ。全身が鉛のように重くて指一本すら動かせない。
 目だけを動かしてまわりの様子をうかがうと、ベッドのすぐ脇にユージーンがいた。彼は泣きながらティーナの手を握りしめている。

「……ユージーン……無事だったの? エマは……?」

 ユージーンは、エマも大丈夫だと無言で何度も頷く。ティーナはホッとして「良かった」と一言つぶやいたきり、再び深い眠りに落ちてしまった。
 次にティーナが意識を取り戻したのはその三日後。
 出血が多かったのと、事件のショックで高熱を出していた彼女は、一時は生死の境をさまよったらしい。再び枕元に目をやると、そこにはまだユージーンがいた。ずっと側にいてくれたのだろうか?
 彼は最初に見た時よりも、さらに赤い目をしている。
 ユージーンは手に一輪の花を持っていた。

「それ……ユビリアムの花……?」

 ユージーンはティーナの意識が戻ったことに気がつき、彼女に抱きつく。

「ティーナ! ティーナ、良かった、目が覚めて! 僕のせいで痛い目にあわせてゴメン!」

 ユビリアムの花は森の奥深くの特別な場所にだけ咲く花で、非常に珍しいもの。花には妖精が宿っていて、持ち主の願いを叶えると王国では言い伝えられている。
 たとえ咲いているところを見つけたとしても、大抵は崖の切り立った場所に自生しているため、大人でも採ってくるのは困難だ。
 それをユージーンは、たった一人で採ってきたらしい。
 彼の思いやりに、背中の痛みも忘れて感謝の涙がこぼれる。涙の水滴がぽたぽたと落ちて、彼女の枕に染みを作った。
 図鑑で見たことしかない可愛らしい花に、そっと手を添える。

「すごいわ、ありがとう……ユージーン。私のために採って来てくれたのね。ふふ、綺麗……」

 ティーナが弱々しい手で花を受け取ると、ユージーンは涙を流しながら頷いた。意地っ張りで気の強い彼が人前で泣くなんて滅多にないことだ。
 彼女はそんなユージーンの優しい心に胸を熱くした。

(ユージーン、あぁ、大好き……)

 その時、ユージーンへの恋心が愛情に変わっていくのをはっきりと感じた。
 あの事件の日以来、ティーナもユージーンもエマとは一度も会っていない。周囲の大人から、療養している母親の病状が悪化したので引っ越したのだと伝え聞いた。
 ティーナが高熱を出して寝込んでいる時、一度だけエマが見舞いに来てくれたそうだ。別れを告げに来てくれたのだろうか。エマはとても心の優しい少女だった。
 結局ティーナの背中には、見るもおぞましいほどの醜い傷が残った。これではもう彼女は結婚できないだろう。
 両家で話し合いがもたれ、ユージーンが責任を取って彼女と婚約するということで落ち着いた。ティーナの父のハニブラム子爵は、侯爵家の嫁になるのだからとてもいい話だと喜んだ。
 ティーナ自身も、ずっとユージーンに想いを寄せていた。願いが叶って、とても幸せだった。
 これがティーナがユージーンと婚約したいきさつ。互いに愛し合って決めたわけではない。
 それでもティーナはユージーンに愛されていると、ひたすら信じていた。
 なのに彼のティーナに対する態度は、日を追うごとに変わっていく。いまでは本当に愛されていたのかすら自信が持てない。
 ユージーンは大勢の女性と浮名を流しているのに、ティーナの体だけは求めないこともその原因の一つだ。
 もう十三年ほど婚約しているのに、いまだにキスまでしかしたことがない。
 幼い頃ならいざ知らず、ティーナは二十一歳でユージーンは二十四歳。
 普通の婚約者同士ならば、既に体の関係があってもおかしくない。そういう機会も何度かあったのに、ユージーンは手を出してこなかった。
 一度なけなしの勇気を振り絞って自分から誘ってみたが、彼女の背中の傷を見た途端、ユージーンは目に見えて動揺した。
 そうしてティーナにドレスを着せると、青い顔で部屋から去って行ってしまったのだ。
 それ以来、彼とキスをするのも怖くなってしまった。

(やっぱりユージーンでも私の傷を醜いと思うのね。だから他の女性と遊ぶのだわ)

 絶望と不安で心がざわつく。

「早く戻ってきて……ユージーン――ここは……寒いわ」

 誰も通らない寂しい場所に一人ぽつんと立つティーナは、空を見上げた。
 重なった葉の隙間から覗く青くて澄み切った空は、子供の頃とちっとも変わらない。ユージーンだって、昔の優しさをまだどこかに持っているはずだ。
 エマを助けようと刃物を持った男に果敢かかんに向かったり、ティーナのために珍しい花を探して来てくれたユージーン。
 ティーナが怪我でベッドに伏していた時、ほとんど寝ずに側についていてくれた。あの時の彼の気持ちに、嘘はなかったと思いたい。

「はぁ」

 諦めの溜め息をついて、沈んだ心を落ち着かせる。

「置いて行かれるのはいつだって心が引き裂かれるくらい辛いわ。けれど、待つのは慣れてしまったみたい……。今日はどのくらいで戻ってきてくれるのかしら」

 いままで最長で三時間待たされた。雪が降る冬のさなかに外で待つことに比べたら、こんな天気の良い日に緑に囲まれて待つことなど苦ではない。
 ただ彼の愛を疑い始めてしまうと、いつも心が冷たくなって胸が苦しくなる。
 今日は、いつもより早く、一時間ほどでユージーンが戻ってきた。
 先程の女性は既にいなくなっていたが、彼の首筋にはくっきりと赤い口紅がついている。ティーナは彼女とユージーンが何をしていたのか、気になってどうしようもない。
 それを直接尋ねる勇気はなかったが、このままでは口紅の跡がついているのを他の人に見られてしまうだろう。
 ユージーンにおずおずとハンカチを差し出す。

「――あの、ユージーン。首が……赤くなっているわ」

 すると彼は悪びれもせず首筋に手を当てた。

「ああ、これね。だから駄目だって言ったのに、後先考えない情熱的な女性は困るな」

 彼が腕を上げた瞬間、あの女性のものと思われる香水の香りが漂ってきた。

(ユージーン。さっきの女性と、少なくとも首筋にキスの跡が残るようなことをしたのね……)

 唇を噛んで苦しみに耐える彼女を見て、ユージーンは楽しんでいるようだ。
 彼は面白そうに笑いながら、ティーナが差し出したハンカチを突き返す。

「ははっ、ティーナ。じゃあティーナが口紅を取ってくれる? 自分じゃどこについているのか分からないからね」

 彼の顔にはあざけりが混じっている。
 ティーナが傷つくのを知っていて、わざと意地悪をしているようにしか見えない。彼女の心をもてあそぶのがそんなに楽しいのだろうか。
 ティーナは必死で感情を抑えながら、震える指でハンカチを当てる。するとユージーンはいきなりその手首を掴まえて、グイッと彼女を自分の方に引きよせた。
 驚いたティーナは大きく目を見開く。

「きゃっ! な、何……? ユージーン――痛っ!」

 握られた手首にさらに力が込められる。ティーナが痛みに顔を歪ませると、彼は嬉しそうにほくそ笑んだ。

「ずっと前から、僕は君と結婚すると決まっている。この結婚はバッカム家からは断れない。もし僕と結婚するのがいやなら、ティーナが一言そう言えばいい。すぐに婚約は解消になるだろう。どうする? 君は僕との婚約を解消したいの?」

 ティーナの心の中が絶望感でいっぱいになる。

(あぁ、やはりユージーンは私を愛していないのだわ。私から婚約を解消してほしいのね)

 しばらくの間をおいて、ティーナはゆっくりと声を絞り出した。

「あの……私はあなたを愛しているからいやだけれども――あなたがどうしても婚約を解消したいというなら……私……」

 いままで何とか堪えていた涙が一筋、頬を伝って流れていく。その涙を、ユージーンは顔を寄せて唇で受け止めた。

「あぁ、ティーナ。かわいそうに、君はそんなに僕が好きなんだ」

 声の調子が、普段の彼のように優しく穏やかに戻っている。
 強く掴まれていた手からは力が抜けていて、これ以上にないほど優しい彼の笑顔が近くに見えた。
 頬に何度もキスが落とされる。
 顔にはティーナへの愛しさがあふれていて、ついさっきまで彼女に婚約解消を勧めていた同じ男性には見えない。

「僕も君を心から愛してる、ティーナ。僕のことを分かってくれる女性は君だけ。だから僕は絶対に婚約を解消しない。君だって分かっているよね」

 ティーナは胸を痛みに絞られながらも、小さな声で返事をした。

「ええ、もちろんよ、ユージーン」

 いままで彼女は何度も別れを口にした。愛する彼の意思に反して結婚などしたくなかったから。
 両親に反対されても破談にしようと、勇気を振り絞って持ち掛けた。なのにそのたびに彼は甘い言葉でティーナを引き留める。

(ユージーン、私にはあなたが何を考えているのか分からないわ。私と結婚したいのか、結婚したくないのかも……)

 昔から彼がそうだったわけではない。でもあの事故の後から、ユージーンは変わってしまった。
 そう、ティーナとの婚約が決まった頃から徐々に……川が下流になるほど幅が広くなるように……ゆっくりと彼の態度は変化していったのだ。
 ここ数年ではさらに酷くなって、他の女性の影をちらつかせてティーナを苦しめるようになった。それでもたまに彼が見せる優しさに、ティーナの心は浮かんだり沈んだりするのだ。
 そうしてユージーンは、他の女性にもしたのだろう同じ唇で、ティーナにもキスをする。
 彼の温かい唇の感触が、逆にティーナの心を冷たく固く凍らせていった。
 もう何年もこんな調子だ。彼の傍にいると切なくて苦しい気持ちしか感じられない。
 結婚してもおかしくない年齢になったというのに、ユージーンからのプロポーズはまだなかった。
 ユージーンへの愛を見失いそうになる。
 けれどもそのたびに、ティーナはユビリアムの花を採って来てくれた優しいユージーンを思い出す。そうして、もう少し彼を信じてみようと考え直すのだ。

(あの時の優しいユージーンは、まだあなたの中に残っているのでしょう……?)

 ティーナは神に祈るように心の中で願った。
 デートを終えた後、ユージーンに王都の別邸まで送り届けてもらう。
 バッカム家の馬車が玄関に到着すると同時に、ティーナの両親と兄が揃って笑顔で出迎えた。
 父のハニブラム子爵は揉み手をして猫なで声を出す。

「ユージーン様、いつも娘を連れだしてくださってありがとうございます」
「いいえ、ハニブラム子爵。彼女の婚約者として当然です。僕もティーナと一緒に時間を過ごせて楽しかったですから」

 ユージーンはティーナの手をしっかりと握りしめ、爽やかな笑顔でそれに答えた。母のマチルダがティーナの肩を抱く。

「あぁ、こんな素敵な方が婚約者で、本当にティーナは幸せ者ね、ほほほ」

 はたから見れば、二人は周囲に祝福された幸せな恋人たち。けれどもティーナは繋がれたその手の温かさに、重苦しい閉塞感へいそくかんを感じ取っていた。
 両親にも兄にも、ユージーンの女癖の悪さは耳に届いている。なのにバッカム家の援助がなくなるのを恐れて、決してそのことを口にしない。

「あの、ユージーン」

 ティーナの兄、キースがユージーンの隣に擦り寄った。
 キースはユージーンより七つも年上だ。なのにユージーンの機嫌を損ねないよう、低姿勢で慎重に彼の様子をうかがう。


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