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1巻

1-2

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「……そういえば、結婚する前からずっと、私はライアン様にそういうことを言ったことは一度もないわ」

 一生に一度のプロポーズの返事でさえ、『そうですか。わかりましたわ。では、よろしくお願いいたします』というそっけなさだったのだから。
 ベリルはさっき、ライアン様がいつか心変わりしてしまうかもしれないと言った。

(あぁっ! そんなの絶対に無理ぃ!)

 想像するだけで暗雲が心をおおいつくして、世界が終わった気分になる。なのに私の表情には何も表れない。心の中では床に崩れ落ちて大声で泣き叫んでいるのに、口角は上がらないし目尻も一ミリたりとも下がらないのだ。

きられるのは……絶対に駄目だわ。もうライアン様なしでは生きていけないもの……でも、デレてみて『冷たい君が好きだったのに』と言われたらどうすればいいの? それに、デレるってしたことがないわ。だってライアン様が私の初恋なんだもの」

 あまりに不安で、疑問が口を突く。
 すると、エマがにっこりと笑って人差し指を立てた。

「ただ、愛しているとだけお伝えすればいいのではないでしょうか? どんなに人形のような女性が好みでも、奥様に愛を伝えられて嬉しくない旦那様なんていませんよ」

 そんなことが簡単にできたら苦労しない。

「人形が好きなのであれば、感情の出ない顔で愛していると言う分には、喜んでくださるかしら? でも、一度そう言ってしまうと、止まらなくなってしまいそうよ。『ライアン様の細胞を、余すところなく食べたいくらい愛しています』って言いそうだわ。……でもそんなことを言ったら確実に嫌われてしまうわね」

 私が真剣に悩み始めると、ベリルがあきれたようにため息をついた。

「はぁっ……本当に難儀な性格ですね。奥様は難しく考えすぎるのですよ。少しでも旦那様の近くにいたいと思っておられながら、こんな風に席を離してしまいますし」

 ダイニングテーブルの席のことを言っているのだろう。それはもっともな意見だ。
 でもあまりにライアン様を愛しすぎて、近くにいると動悸どうきが速くなり息苦しくなる。たまにならいいが、毎日のことだ。せっかく愛するライアン様と結婚できたのに、心臓発作で死んでしまっては元も子もないから、席を離すしかないのだ。
 居たたまれなくなった私は、開き直ることにした。

「放っておいてちょうだい。どうせ、私は見かけは人形なのに思考が乙女すぎるのよ。こんなことなら外見だけでなく、心の中も人形のように冷めていればよかったのに。それなら、ライアン様の好み通りの女性だったわ」

 侍女たちは、沈黙することで私の意見に同意する。自分で言ったことなのに、彼女たちの反応で更に落ち込んでしまった。

「……ライアン様が屋敷を出られたのなら、私も着替えるわね。このドレスは高価なくせに、みがつくと取れないの」

 心は半泣きの状態のまま自室に戻って、いつもの洗いやすい廉価れんかなドレスに着替える。
 このドレスは綿めんなので、動きやすい上に汚れてもすぐに水で洗えば落ちるのだ。そしていつものように作業を始めることにした。
 この屋敷には、住み込みの侍女であるエマとべリル、通いで来るシェフと庭師以外に使用人はいない。
 伯爵家で暮らしていたときには、私付きの侍女だけで十人は超えていた。でも、ここではそんなことはできない。使用人を一人やとうだけでも、お金がかかるから。
 ライアン様の給金ならもう少し使用人を増やせるけれど、彼が命をけて稼いだお金をそんな風に使うのは気が引ける。無駄遣いはできるだけ抑えたかった。
 幸いライアン様も「僕のことなら侍女が一人いれば充分」と言ってくれたので、私が連れてきたベリルに加えてエマをやとった。
 エマは侍女として働きはじめてまだ数年だが、いつもほがらかで明るく、ライアン様も気に入っている。
 こうして、私たちの結婚生活はスタートした。
 使用人が少ないからといって、ライアン様の財産である屋敷の管理をおろそかにはできない。そこで私は、自分自身で屋敷の掃除をしようと思いついた。
 ライアン様との愛の巣を、みずから綺麗にしたいという気持ちもある。掃除は節約になるだけでなく、私にとってご褒美ほうびのようなものだ。
 幸い私は表情筋を動かすこと以外は器用で、すぐにコツをつかむことができた。
 伯爵家にいた頃はもちろん掃除などしたことがなかったけれど、結婚して丸二か月で、大抵のことはこなせるようになった。
 その結果、節約ができるし、意外なことに主人の私が掃除に参加することで、使用人たちもスムーズに仕事を進められるようだ。
 物音を立てないよう気を配る必要がないから。おかげで作業効率がぐんと上がった。
 そういうわけで、我が家の侍女たちと私はただの主従関係ではなく、心を許せる友人のようなもの。屋敷に引きこもってばかりの私にとって、二人の存在はとても嬉しい。
 私が廊下に出ると、エマが張り切って腕まくりをしていた。

「奥様、今日は何をなさるのですか?」
「そうね、窓ガラスをいて、庭で花をとってきて玄関に生けましょう。今夜観劇に着ていくドレスも用意しないといけないわね。それに、今日の午後はハプテル家の屋敷に行かなければならないし、忙しくなるわ」

 両親とお兄様は、私とライアン様の結婚を許すにあたって条件を出した。それは、週に二日、一時間、私がハプテルの屋敷で一緒にお茶を飲むというもの。私を溺愛できあいしてやまない彼らは、その日をことさら楽しみにしている。
 私は心の中で大仰おおぎょうにため息をつくと、いつものように侍女たちと一緒に窓ガラスをき、玄関に花を生ける。ライアン様の喜ぶ顔を思い浮かべていると、あっという間に終わってしまった。
 そのあと、今夜のドレスを決めるために自分の部屋に向かう。
 私の部屋には、扉を開けるとすぐに長椅子とテーブル、ちょっとした書きものができる机と本を並べたたながある。奥にベッドとワードローブのある小さな寝室だ。
 エマが私のワードローブの扉を開いて振り返った。その中には、ドレスがぎっしり詰まっている。

「それで、今夜のドレスはどうなさいますか? 奥様ならなんでもお似合いになると思います。この間おしになられた、黄色のシルクのドレスにされますか?」

 貴族の令嬢は目ざといから、一度着たことのあるドレスにすると、口さがない人たちにライアン様のことを悪く言われるかもしれない。
 そうでなくても身分差のある結婚だったのだ。私たちには、好奇の目が多く向けられている。私が勝手にしている節約のせいで、新品のドレスを買うお金すら稼げない旦那様だなんて言わせたくない。
 私はしばらく考えたあと、いつものようにドレスを直すことに決めた。

「確かそこに、前に着た青のタフタのドレスがあったでしょう? そでを少し短くして胸元にリボンを飾れば、違うドレスに見えるはずだわ。古い藍色あいいろのシルクのドレスに、ちょうどいい色合いのリボンがついていたはずよ。伯爵家で暮らしていた頃のドレスが山ほど余っているのだもの。せっかくだし使わなきゃね」
「奥様、ここにとても綺麗なオーガンジーのドレスがありますけど、これはどうですか? とてもお似合いだと思いますよ」

 そう言ってエマが出してくれたのは、透明感のある夏空のような青色で素敵なドレスだ。けれど、私は首を傾げる。

(おかしいわね、こんなドレス持っていたかしら? あぁ……でも結婚前は、私を溺愛できあいするお父様とお兄様が競ってドレスを贈ってくださっていたから、きっと存在を忘れていただけなのね。それにしても、なんて綺麗な青なのかしら)

 せっかくなのでそのドレスを手に取り、引き出しから裁縫セットを取り出す。結婚してから外出するたびに、ドレスのプリーツを増やしたりそでを短くしたり、リメイクしている。狙い通り、毎回ドレスを新調していると周囲は勘違いしているようだ。
 ライアン様の、旦那様としての株も上がるに違いない。
 私はウキウキしながら、しつけ糸を外す。それも、もう手慣れたものだ。

「ほら、もうできたわ。これにサファイアのネックレスと髪飾りを合わせれば、今夜は大丈夫ね」

 それを聞いて、侍女のべリルがため息をついた。

「はぁっ……本当に残念です。名門ハプテル伯爵家の令嬢だった奥様が、つくろいものまでして尽くしておられるのに、旦那様には全て内緒ないしょだなんて……節約なさったお金は、旦那様のものを買ったり旦那様のお名前で貯めておられるのでしょう?」

 私は周囲を見回してから、心の中で眉をひそめる。

「しっ……べリル。彼に言っては駄目よ。こんなことライアン様に知られたら、理想の奥様じゃなかったって離縁されかねないわ。彼はつれない人形のような女性が好きなのよ。尽くす女性はお好みじゃないわ」

 するとエマがにこやかに同意する。

「確かに、奥様は一貫して氷河期のような態度しかとっておられないのに、それでも旦那様は変わらず、奥様を愛していらっしゃいますしね」

 ――旦那様は変わらず奥様を愛している。
 その台詞せりふを本人に言われたわけでもないのに、心がニマニマしてしまう。

「そうよ、それにやってみると案外楽しいものよ。ドレスのデザインを考えたり銀食器をみがいたりするのが、こんなに面白いなんて知らなかったわ。私はライアン様の奥様としてのお付き合いすら上手うまくできないのだもの。これくらいしないと、いたたまれないわ」

 というのも、私には全く社交のスキルがないのだ。
 貴族の奥様方が集まるお茶会に数回参加してみたものの、失敗に終わった。
 私が話しかけると、相手は萎縮いしゅくして黙り込んでしまう。お茶会の雰囲気を台なしにするわけにはいかないので、それ以来断るようにしていた。
 けれどもお優しいライアン様は、私が社交の場に出るのをいない。

『僕は王国につかえる騎士だけど、爵位があるわけじゃない。だから君が社交に気をつかう必要はないよ。必要な付き合いは僕がするから、レイチェルは無理に社交界に出なくていいんだ』

 ライアン様はそう言って笑ってくれた。本当に思いやりの深い男性だ。
 とはいえ、さすがに全ての招待を断り続けるわけにはいかない。
 だから、今日のような観劇や音楽会など、お茶会ほど人と交わらないものには、できるだけ夫婦で参加するようにしている。
 私は一息ひといきつくと鏡の前に立って、出来上がったドレスを体に当ててみる。
 上出来だ。これなら古着のドレスを使い回しているとは、誰も気付かないだろう。
 今夜の観劇は、久しぶりの二人での外出。今からウキウキして、胸が高鳴る。

(これってデートよね。ふふっ、嬉しいわ)
「ふふふふふふ」

 思わず声が出てしまう。すると、エマがびくりと肩を震わせた。
 彼女は声は笑っているのに顔が全く笑っていない私の姿に、まだ慣れていないらしい。
 一方のベリルは、そんな私を見て苦笑いした。

「本当に奥様は旦那様を愛していらっしゃるのですね。ふふ」
「当然よ。大好きなライアン様と結婚できて、私は本当に幸せだわ。一生分の幸福を使い切ったんじゃないかって、不安になるくらいよ。だからご褒美ほうびに少しだけ……いいわよね、ベリル。今日も頑張ったもの」
「またですか? 奥様」

 ベリルがあきれた声を出す。私は強くうなずいた。

「だって、これをしないと、ライアン様不足で死んでしまいそうなのですもの! 朝から、もう五時間もお会いしていないわ」

 私はエマとベリルの冷たい視線を無視して、バスルームを抜けてライアン様の部屋に入った。

(そう……この部屋の空気も悪くはないけど、これにかなうものはないんだもの)

 ベッドのわきにあるライアン様のワードローブの前まで来ると、大きく一回息を吐いてその扉を開けた。
 その瞬間、全身がぱぁぁぁぁっとライアン様の匂いで包まれる。まるで抱きしめられているようだ。

「あぁっ。ライアン様っ。今死んでもいはないわ」

 胸いっぱいに息を吸って、全身の細胞の隅々まで彼の匂いをみ渡らせる。じぃんと涙が出そうになった。何度も深呼吸をり返す。

「すぅぅぅぅっ! はぁぁぁっ! すぅぅぅっ! はぁぁ!」
「……立派な変態ですね。奥様」

 私の背後でエマがつぶやいた。そんなことを言われてひるむ私ではない。
 彼女たちのことは無視して、私は愛する旦那様の香りを思い切り堪能たんのうした。
 夏の雨上がりの空と秋の夕暮れの風が混じったような、ライアン様の香り……。心の奥があたたかくなって、幸福感で満たされる。
 そうして数分後、私は名残なごりしみながらも扉を閉めた。

「これ以上は駄目だわ。理性がかなくなりそうよ。王国中の一人一人のお家を回って、ライアン様が大好きだと伝えたくなるもの。胸が痛くて死んでしまいそうだわ」
「奥様……それだけは絶対におやめください」

 ベリルがあきれた顔で言った。本当にそっけない侍女だ。私は心の中でほんのちょっとだけむくれた。
 それから使用人たちと一緒にお昼をいただく。ちょうど食べ終えた頃、ハプテル伯爵家の馬車がやってきた。金の装飾に繊細せんさいなオークの細工さいく。名門ハプテル伯爵家の馬車だと、一目ひとめでわかる豪華さだ。
 王城でどれだけ重要な仕事があろうとも、両親とお兄様は私に会うことを優先する。何があっても私を来させるため、こうして時間になると、いつも豪華な馬車が迎えに来るのだ。しかも護衛付きで。あまりにも仰々ぎょうぎょうしいので目立って仕方ないが、彼らの気持ちはわかるので受け入れるしかない。

「レイチェル様、お迎えに参りました」

 いつもの馭者ぎょしゃと必要以上の数の護衛たちにうながされ、私は侍女たちとともに伯爵家へ向かう。
 十分ほど馬車にられて屋敷に着くと、すでにお父様とお母様、お兄様が玄関で待っていた。
 その背後には、使用人たちがずらりと一列に並んで立っている。
 使用人たちがそろって頭を下げる中、両親とお兄様が歓声を上げた。馬車から降りるなり、身動きが取れないほどきつく抱きしめられる。

「レイチェル! ああ、元気そうだ。相変わらずなんて超絶美人なんだ。まぶしくて目がくらみそうだぞ」
「こんなに美しい妹がいるなんて、俺は世界一の幸せ者だ!! レイチェル、ああ、顔をよく見せてくれ」

 そう言うお父様とお兄様だけでなく、お母様までハンカチを手に涙ぐんでいる。

「レイチェル、あなたに会えて嬉しいわ。少し髪が伸びたのかしら。ますます綺麗になって……あぁ」

 あまりの熱烈歓迎ぶりにため息をつくしかない。私は彼らをたしなめるように言った。

「お父様、メルビスお兄様。それにお母様もおやめください。つい三日前にお会いしたはずです。それにメルビスお兄様には、ご自分の子どもがいらっしゃるでしょう。いつまでも妹にかまけるのはどうかと思います」

 するとメルビスお兄様が、私の顔を穴があくほど見つめる。

「何を言っている。レイチェル、お前の美しさは三日前よりも更に増している。お前以上に美しい女性は、今まで見たことがない。それに、確かに俺には自分の子が四人いるが、そろいもそろって男子。しかもあいつらはもう成人して、好き勝手やっている。俺が唯一無二の大事な妹にかまけて何が悪い!」

 お父様もそうだといわんばかりに大仰おおぎょうにうなずいた。

「そうだぞ、レイチェル。どうだ、あの男は……ライアン君は、お前を大事にしてくれているのか? 何かあったらすぐに伯爵家に戻ってきていいのだぞ。お前がいなくなったこの屋敷は、本当に寂しくて味気ないのだ」

 普段は他の貴族たちに恐れられるお父様が、すがるような目で私を見る。相変わらずの溺愛できあいぶりだ。使用人は慣れたもので、その様子を遠巻きに見守っている。

「お父様、私はライアン様を愛しています。それに、ライアン様は最高の旦那様です。私がこの屋敷に戻ることは絶対にありませんわ」

 私がそう断言すると、お父様は寂しそうな顔で目に涙をめた。可哀想だけれど、少しきつめに言っておかなければいけない。
 彼らは私を溺愛できあいしているだけなのだけれど、放っておくと何をするかわからない。
 私のためならばと、街一つ買い占めた前歴があるのだ。私は誰の視線も気にせずに、ゆっくり買いものがしたいと言っただけなのに。
 私は心の中であきれながら、みんなに押されるようにして屋敷の中に入った。すると、テーブルの上に豪勢なお菓子が隙間すきまもないほど並べられている。私のために、お父様が珍しいお菓子を取り寄せてくれたらしい。

「可愛らしい形ね。香りもいいし、とても美味おいしそうだわ。ありがとうございます、お父様」
(余ったお菓子はライアン様のために包んでもらいましょう。夕食のデザートにお出ししたら、すごく喜んでくださるに違いないわ。ふふふ)

 そんなことを考えながら、私はいつものように過保護な両親とお兄様とのティータイムを楽しく過ごした。



   2 旦那様とのデートはいつでも胸きゅんです


 私が伯爵家から戻ってしばらくすると、ライアン様が帰ってきた。いつもより早く仕事が終わったらしい。
 軽く夕食を済ませ、私たちは馬車に乗ってボルネリ王立劇場へ向かう。
 騎士服を脱いでフォーマルな服に着替えたライアン様も、やはりとても素敵だ。ラインの入ったブルーグレーの上着に、オレンジ色のタイがよく似合っている。

(あぁ、この素敵な男性が私の旦那様なのよ! この柔らかい桃色の形のいい唇が私の唇に重なるの! きゃぁぁぁ、想像するだけで気がおかしくなりそう!)

 私はいつものように向かいに座るライアン様をチラ見しながら、心の中でもだえていた。それに気が付いたのか、彼が私に微笑みかける。
 さわやかな笑顔にドキッとしながらもすぐに目をらし、何度もまばたきをり返して誤魔化ごまかした。

「な、なんだか空気が乾燥しているみたいですね。こほっ。こほっ」
(いやだわ。ライアン様に見惚みとれていたのを気付かれたのかしら……)

 内心ドギマギしている私に、ライアン様は心配そうな顔で答える。

「そうかな? 僕は感じないけど、レイチェルは大丈夫? 目が痛いの?」

 ライアン様は身を乗り出して、私の頬に手を当てた。そうして私の顔をのぞき込む。
 綺麗に通った鼻筋に、男性なのに色気さえ感じさせる魅惑的な瞳。
 ライアン様に見つめられて、心臓が激しく打ち鳴らされる。目をらそうと思うが、体が固まってできない。
 銀色の柔らかい前髪が、緑色の瞳の前をさらりと横切っていく。髪が肌をでる音さえ聞こえそうな近さに、ドキドキが抑え切れない。

「……レイチェル?」

 どのくらいの時間、彼に見惚みとれていたのだろうか……。ライアン様の落ち着いた声で、意識が戻ってきた。

「心配してくださらなくて結構です。もう目は大丈夫ですから」

 私は彼の手をすぐに振り払って顔をそむける。動揺していたためか、力の加減をあやまったようだ。思ったよりも大きな音を立てて、彼の手を払ってしまった。あわてて様子をうかがうと、彼は気にしていないといわんばかりに満面の笑みを浮かべている。

(よ……よかったわ。なんとも思っていないみたい)

 私はホッと胸をで下ろす。そうこうしているうちに馬車が着いたようだ。
 扉が開き、ライアン様が先に降りて私の手を取りエスコートをしてくれる。
 王立劇場の入り口は、たくさんの紳士淑女でめ尽くされていた。足を踏み入れた瞬間、一斉にみんなの視線がそそがれる。

「ほう、見てみろ。彼女が噂のハプテル伯爵家の『妖精の人形』だ。本当に人間離れした美しさだな。人形の見た目どおり、傲慢ごうまんで冷たいらしいぞ」
「あぁ、ライアン様。なんて素敵なのかしら。ご結婚なさったなんて、残念だわ」

 様々な人が、私たちを話題にする声が聞こえてくる。
 オペラを観にきているとはいえ、その前後の社交も楽しみの一つ。
 けれど、誰も私には話しかけない。社交界に出るのを控えるようになってから、たまの外出のときは物珍しいのか、更に遠巻きにされるようになっていた。
 ライアン様は、何人かの方に声をかけられている。だけど私が傍にいるせいか、形式的な挨拶あいさつわすだけで、誰かとじっくりと話すことはなかった。
 他の夫婦連れを見ると、みんななごやかに歓談を楽しんでいる。

(社交性のない奥様で、ライアン様に申し訳ないわ)

 しゅんっと心がくもる。
 王立劇場の入り口を抜けると、そこは劇場前のホールだ。吹き抜けの高い天井てんじょうからは、豪華なシャンデリアが垂れ下がっている。その下では、色とりどりのドレスで着飾った淑女と礼服に身を包んだ紳士が、楽しそうに談笑していた。
 私たちがホールに入ると、人の隙間すきまから女性が現れ、満面の笑みでライアン様の腕にみずからの腕を絡めた。

「ライアン! あなたも来ていたのね!」

 ライアン様は一瞬驚いたような顔をした。でもすぐに頬を緩める。

「アレクシア、誰かと思ったら君か」
「ふふっ。ライアンが来るなんて思ってなかったわ。知っていたら、もっといいドレスを着てきたのに」

 二人の親しい様子を目の当たりにして、衝撃が走る。

(誰!? いったい誰なの? この綺麗な女性は!)

 突然現れた彼女は、つやのある腰までのブロンドの髪に青い目の、目鼻立ちのすっきりした女性だ。スタイルのいい健康的な体には、黄色のシルクのドレスがとても似合っている。
 人懐っこい太陽のような笑顔と、自信にあふれたその瞳。その全てがライアン様一人に向けられている。彼の隣に立つ私は蚊帳かやの外だ。
 彼らは楽しそうに言葉をわしたあと、やっと気付いたといわんばかりに、彼女は私を見る。

「こちらがあの有名な奥様ね。初めまして、アレクシア・バートラムと申します。彼が十八歳で騎士団に入った頃から、ライアンとは親しくさせていただいています。彼のことならなんでも知っていますわ。お二人の結婚式には参加できなくて申し訳ありません。ちょうど熱を出してしまったの」

 実際に会ったことはなかったが、彼女の名は耳にしたことがあった。アレクシア様の父親であるバートラム侯爵は、ライアン様の所属する騎士団第二部隊の隊長でもある。

(だから、ライアン様と親しそうだったのね。私ったら驚いてしまったわ。でもここはライアン様の奥様として、そつなく対応しないと)

 私は緊張を隠しながら……とはいえ表情に出ることはないのだけれど、完璧なマナーでアレクシア様に挨拶あいさつをした。
 彼女は形式的に挨拶あいさつを返すと、にっこりと微笑んですぐにライアン様に向き直る。そして再び彼と楽しそうに会話を始めた。
 私の知らない話題で盛り上がっては、ライアン様が時々声を出して笑う。二人きりのときには見たことがない彼の表情に、見惚みとれてしまった。

(ライアン様は、こんなお顔もされるのね。新しい発見だわ、ふふ。……それにしても、お二人はとても仲がよさそう)

 二人の様子を眺めていると、アレクシア様がライアン様に腕を絡めようとした。ライアン様は、あっさりとその手をほどく。そして彼は私の手を取り、指に口づけた。
 指に残る唇のあたたかさに、うっとりする。

「ごめんね、レイチェル。せっかくのデートなのに、寂しい思いをさせてしまったよね」
「――全くそんなことはありませんわ。もっとお話しになってもよろしかったのよ」

 ライアン様の優しさに天にも昇る心地ここちだけれど、冷たく突き放す。とはいえ、これは本音でもある。

(私はライアン様のお傍でその姿を見られれば、それだけで幸せなのだもの。うふふ)

 ライアン様は私の言葉を聞いて、にっこりと微笑んだ。

「そんな寂しいことを言わないで。アレクシア、今はレイチェルがいるから失礼するよ。今度はゆっくりと時間を取って、レイチェルも一緒に三人で話そう」
「――ライアン! せっかく会えたのに、もうっ!」


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