偽物令嬢と獣の王子様

七瀬りーか

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20.捕らえられた獲物

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 エミリーの勧めで、ノラは一人体を洗いに行った。

 きっと疲れているのよ、と言ってくれた周囲の温かさに心はいくらか晴れた。
 外に作られた使用人専用の洗い場には既に何人かの女がいたが、そのなかに混ざってノラは体を洗い、髪も軽く流してさっぱりと外へ出る。

 夜風が濡れた髪を冷やしていく。
 いそいそと足早に、洗い場から主屋へ戻ろうと裏庭を通ったときだった。
 木陰に置かれた椅子の方から、鋭い視線が飛んでくる。

 金色の双眸が、まるで夜行性の獣のそれのように、ノラの姿を捉えていた。
 大きな影が、思わず足を止めたノラに向かって近付いて来る。

 グレイド様は何と説明したのだろうか。確かに娘のリリアを城へ送り出したと、そう説明したのだろうか。それとも、エリック様は替え玉の件については何も問われなかったのだろうか。何故来られたのだろうか。
 何をしに──

 大きな腕がノラの体を抱き締める。
 その温もりに、必死に押し込めていた思いが溢れ出す。

「迎えに来た」

 優しい声。
 彼の胸に置いた手から力が抜ける。

 過ごした時間は少なかった。きっと、お互い知らない事の方が多い。
 今の自分の姿だってその一つだ。
 洗いっぱなしの髪に、お城で着せられていたナイトドレスとは比べるべくもない服。

 それでも、抱き締められるだけでこんなにも幸せな気持ちになれるなら、あとはどうでもいいような気になってしまう。

 洗い場の方がにわかに騒がしくなった。
 談笑しながら近付いて来る女たちの気配に、ノラは彼の手を引いて裏口から倉庫へと入った。真っ暗でわずかに空気の冷たい倉庫の中で、彼女たちが通り過ぎるのをやり過ごす。
 背後から急にぎゅっと抱き締められて、体が熱を帯びる。

「お前を忘れた日は、一日もなかった」

 耳元で囁かれて、ノラは目を閉じた。

「グレイフィール伯は、お前が望むなら、相応の配慮で送り出してもいいと言ってる」
「……どういうことです?」

 エリックの腕の中で身を捩って彼を振り返ると、ゆっくりと唇が重なった。
 軽く触れ合うだけのキスだったというのに、膝から力が抜けてしまいそうになる。
 抵抗もせず大人しく抱き締められているノラの額に唇を押し当てながら、エリックは笑った。

「お前を貰い受ける許しを得た。あとは、お前の気持ち次第だ」
「えっ──」
「俺はお前が好きだ。お前は、どうだ?」

 とくん、と大きく胸が鳴る。
 そんなふうに聞かれても、どう答えていいかわからない。
 だって自分は使用人で、きっと彼の側にいても彼を困らせる種にしかならない。
 そうわかっているのに、ずっと欲しかった彼の温もりの中で、嘘はつけなかった。

「……お慕い、してます……変わらず、ずっと……」

 再び唇が重なり、啄むように何度か熱を感じ合う。
 それを押しとどめるように、そっと顔を背ける。わずかな理性がそうさせた。

「でも、私……」
「何が心配だ? ひとつずつ解決していこう」
「私、使用人で……王子様の側に居る資格なんて」
「心配しなくていい」
「で、でも! お辞儀だってリリア様やアリシア様みたいにはできないし」
「お前の礼は綺麗だったぞ」

 こめかみにそっとキスが落とされる。
 くすぐったいような、気持ちいような。
 ノラの頬に熱が集まる。

「そ、それに、お食事の作法も、ダンスも、できません」
「覚えていけばいい。それに、令嬢が全員完璧な作法で食事をすると思ったら大間違いだぞ。存外適当な奴も多いし、食事も、ダンスも、楽しむことが何よりだ」
「そうは言っても! も、申し訳ありません……!」

 つい身分の差を忘れて声を上げたノラの頬に、またキスが落とされる。

「謝るな。お前のそういうところが好きだ」

 真っ赤になったノラは慌てて彼の腕の中から抜け出ると、そのまま向か合わせに真っすぐ金色の瞳を見上げる。

「私、行けません……! 作法だけじゃないはずです! きっと、色んな細かいところで、私には理解できないような風習とか、価値観の違いとか! それに、お妃様って言ったら、近隣諸国のお偉方とお会いしたりするんでしょうし、そんなの私にできるわけありません! ご迷惑をかけるだけです!! だから、だから私……」
「それは、どこの令嬢でも抱く心配だ。王家はどんなに怖い場所なんだろう、うまくやれるだろうか、とな。でも、俺を見ろ。別に、お前と変わらないだろう?」

 じり、と追い詰めるようにエリックが歩み寄って来る。
 背をぺたりと壁に付けたノラは逃げ場もなくただ俯くほかなかった。

「俺だって、近隣国の王族と話すときは緊張する。何が機嫌を損ねるか未だにわからない。俺も勉強中だ。お前も、俺と一緒に、そうして積み重ねてくれたら嬉しい」
「で、でも……」
「でも、何だ? 何でもいい。言ってみてくれ」

 すぐ側に感じる温もりに、ノラはどんどん逃げ場を失うような気がした。
 それは決して恐怖や重圧ではなく、一つずつ、彼を遠ざけるために背負い込んだ言い訳を降ろされていくようだった。
 触れていいんだ、側に居ていいんだと、思ってしまう。

 きっとそんなことはないはずなのに。
 使用人が、王子様のお妃様になっていいはずがないのに。

「私……髪だって、洗いっぱなしだし、手だって、かさかさで……」
「髪はいい匂いがするし、しっかり俺の手を握り返してくれる」
「……私……私で、本当に……いいんですか……」
「そうだ、お前がいい」

 抱き締められた腕の中で、ノラは抵抗する力を失った。
 かわりに、どんどん胸の奥から温かな喜びが沸き上がって来る。どれほど苦労するかわかったものではない。覚えなければいけないことは、きっと眩暈がするほどあるだろう。どれだけ迷惑をかけるかも、考えただけで身が竦む。

 でも、この人と一緒なら、乗り越えて行けそうな気がする。
 広い背中におずおずと手を伸ばすと、抱き締める腕に力が込められた。
 優しい声が降って来る。

「名前を教えてくれないか?」
「……ノラ、です」
「ノラ」

 初めて名前を呼ばれて、じわじわと幸せがこみあげて来る。
 ノラを閉じ込めていた腕の力が弱まると、そっと頬に大きな手が添えられる。
 求められるままに、目を閉じた。

 彼の熱を唇に感じる。何度も口付けを交わし、下唇を軽く吸われると、ノラは小さな甘い吐息をこぼした。
 膝から力が抜けて腰の引けたノラの体を、しっかりと彼の腕が抱きとめる。
 薄く開いた唇の間を割って、舌がノラの口内を優しく侵していく。
 絡めとられた舌に、不慣れに、ほんの少しだけ応じると、彼はキスをやめて再びノラの体をきつく抱き締めた。
 頭上で、彼が吐息を吐き出しながら笑うのがわかった。

「まずい。これ以上は我慢できなくなりそうだ。まさか人様の屋敷の、しかも倉庫で。まずい」

 本当に困ったようなその声に、ノラも小さく笑った。
 まだ濡れた髪のノラの頭を何度も撫でながら、エリックは「ノラ」と繰り返し名を呼んだ。

 彼が見てくれているのは他の誰でもなく、自分なのだと、はっきりと刻まれた気がした。
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