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17.別れのとき
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バレた。
どうにかしなければ。
その思いに囚われたノラは、夕食を断り寝室に籠城を決め込んだ。
あの日、死んでおくべきだったのだ。
自分の人生はあの日を境に大きく変わった。
お城に入り、着たこともない衣類を纏い、彼に出会った。
彼に出会わなければ。好きにならなければ。
そうしたらこんなに死が怖いとも思わなかったのに。
彼を王子だと知った今でも心に点る惨めな慕情を振り払うように、ノラは衣装類をあさり、ロープの代わりになりそうなリボンを見つけ出した。
ドアノブに結わえてぎりぎり座ったときに首を圧迫できる高さに調節する。
彼はがっかりするだろうか。悲しむだろうか。それとも自殺した令嬢に憤りグレイフィール家を取り潰しにするだろうか。
いや、きっとそんな非道なことはしないはず。
金色の瞳も、大きく温かな手も。
いつだって自分を守ってくれていた。
滑らかな赤いリボンの輪は、まるで貴婦人の赤い口のようで、ぞわりと背筋に震えが走った。
蛇のような貴婦人に飲み込まれるみたいに、ノラは赤いリボンに頭を通した。
息が上がる。
あの日の恐怖が蘇る。
一瞬をどれほど長く感じたか。どれほど惨めな気持ちになるか。
グレイド様と奥様とリリア様。
グレイフィール家の使用人の皆。
さようなら。
手を離し、一気に体重をかける。
立ち上がりそうになる足を必死に押さえつけ、ノラは思った。
叶わなかったけれど、恋はできた。
思い残すことは何もないんだ、と。
ちちち、と鳥の囀りが聞こえる。
柔らかな布の肌触りと、自分の手を包む温もりに、ノラは自分が天国に行きついたのだとぼんやりとそう思った。
よかった、地獄の業火で身を焼き尽くされる恐怖から逃れられたのだ。
これできっと、グレイフィール家も安泰のはず。
使命を全うできたのだと、ノラは白く眩い光のなかで目を開けた。
すっかり見慣れた天井と、怖いほどに心配そうな金色の双眸。
何度か瞬きをすると、彼はほっとしたように息を吐き出して老齢の医者を呼び付けた。その声はどこか遠く聞こえる。まだ意識が覚醒しきっていないのだろうか。
ぼんやりとした意識の中で、医者の冷たい手があちこちに触れているのを感じた。
指先をぎゅっと抓られるような感覚に、ノラは小さく悲鳴をあげた。
「問題ありません。ご無事です」
「わかった。話しても大丈夫か?」
「結構です」
場所を明け渡すようにして医者と数人の人間の気配が消えると、エリック王子が静かにベッドの端に座った。
大きな手が、躊躇いがちにノラの髪を撫でる。
その手つきは出会ったときの、生まれたての雛を扱うような優しいもので、目の奥が痛んだ。
視界が滲む。
また死ねなかったという失敗への失望よりも、また彼に会えたことが嬉しいなんて自分はとんだ大馬鹿者だ。
「……悪かった。俺のせいで、お前はずっと苦しんでいたんだな」
ふるふると小さく首を振ると、じわりと頭痛が広がる。
きっと王子様は、アリシアから事情を聞いたのだろう。
「……本当に、お前はリリア・グレイフィールではないのか」
真実はとうにバレている。
それでもノラは頷くわけにはいかなかった。
「お前が何者でも、お前も、お前の周りの人間も咎めたりしない。俺はお前が誰なのかが知りたい。教えてくれ、お前は誰なんだ」
「……私は……」
言ってしまいたい。
身代わりで来たのだと。
あなたにも嘘をついていたのだと。
王子様を信じていないわけではない。きっと秘密は守って下さる。
でも、その先は?
秘密を打ち明けても、自分はここにはいられない。
ここに居る限り、自分はリリア・グレイフィールだ。
「……私は、リリア・グレイフィールです」
言い終えると、涙が目尻から溢れて髪を濡らした。
眉間に皺を刻んだ王子様が、ぐっと唇を噛み締めていた。
大きな手が伝った涙を優しく拭う。
「……俺が今、お前にしてやれることは何だ?」
抱き締めて欲しい、きつく、何も考えられないくらいに。
口付けて、髪を撫でて、全部忘れさせて欲しい。
そう言ってしまえたらどんなにいいだろう。
だが、もう身勝手は終わりにしなければ。
「……追い返して、ください」
「……お前を、リリア・グレイフィールだと押し通すこともできる。守ってやれる」
愛しげに自分を見つめている金色の双眸に、わずかな悲しみの光がさした。
離れ難いと思っているのが自分だけではないのだと気付けただけで十分、ノラの心は満たされた。
アリシアの証言を握りつぶしても、また誰かが気付くだろう。あの娘が伯爵令嬢のはずがない、と。
リリア・グレイフィールとして生きていくことは、自分にはできない。
ノラはまた、小さく首を振った。
「私は、王子様と、並ぶ身分にはありません」
「身分は関係ない。お前が誰で、どんな出自であろうとも、俺が愛するのはお前だけだ」
「エリック様……」
涙をこぼしたノラの体を、エリックが抱き寄せる。彼の腕の温もりに、決心が揺らぎそうになる。
大きな背中に腕を回して、彼の首元でもう一度はっきりと告げる。
「私を、送り返してください。本当に、心から、お慕いしています……」
自分を抱き締める腕に力が入る。
「いつかお前を、お前自身を迎えに行く」
そんなことにはきっとならない。
もとは他国の王女と結婚を望まれていた王子様。どんなに願おうと、国王陛下は使用人を妃に迎えるなどお許しにならないだろう。それくらい、自分でもわかる。
そう、もとより、自分は彼と並ぶ身分になかったのだ。
小さく頷きながら、心の中でお別れを告げた。
どうにかしなければ。
その思いに囚われたノラは、夕食を断り寝室に籠城を決め込んだ。
あの日、死んでおくべきだったのだ。
自分の人生はあの日を境に大きく変わった。
お城に入り、着たこともない衣類を纏い、彼に出会った。
彼に出会わなければ。好きにならなければ。
そうしたらこんなに死が怖いとも思わなかったのに。
彼を王子だと知った今でも心に点る惨めな慕情を振り払うように、ノラは衣装類をあさり、ロープの代わりになりそうなリボンを見つけ出した。
ドアノブに結わえてぎりぎり座ったときに首を圧迫できる高さに調節する。
彼はがっかりするだろうか。悲しむだろうか。それとも自殺した令嬢に憤りグレイフィール家を取り潰しにするだろうか。
いや、きっとそんな非道なことはしないはず。
金色の瞳も、大きく温かな手も。
いつだって自分を守ってくれていた。
滑らかな赤いリボンの輪は、まるで貴婦人の赤い口のようで、ぞわりと背筋に震えが走った。
蛇のような貴婦人に飲み込まれるみたいに、ノラは赤いリボンに頭を通した。
息が上がる。
あの日の恐怖が蘇る。
一瞬をどれほど長く感じたか。どれほど惨めな気持ちになるか。
グレイド様と奥様とリリア様。
グレイフィール家の使用人の皆。
さようなら。
手を離し、一気に体重をかける。
立ち上がりそうになる足を必死に押さえつけ、ノラは思った。
叶わなかったけれど、恋はできた。
思い残すことは何もないんだ、と。
ちちち、と鳥の囀りが聞こえる。
柔らかな布の肌触りと、自分の手を包む温もりに、ノラは自分が天国に行きついたのだとぼんやりとそう思った。
よかった、地獄の業火で身を焼き尽くされる恐怖から逃れられたのだ。
これできっと、グレイフィール家も安泰のはず。
使命を全うできたのだと、ノラは白く眩い光のなかで目を開けた。
すっかり見慣れた天井と、怖いほどに心配そうな金色の双眸。
何度か瞬きをすると、彼はほっとしたように息を吐き出して老齢の医者を呼び付けた。その声はどこか遠く聞こえる。まだ意識が覚醒しきっていないのだろうか。
ぼんやりとした意識の中で、医者の冷たい手があちこちに触れているのを感じた。
指先をぎゅっと抓られるような感覚に、ノラは小さく悲鳴をあげた。
「問題ありません。ご無事です」
「わかった。話しても大丈夫か?」
「結構です」
場所を明け渡すようにして医者と数人の人間の気配が消えると、エリック王子が静かにベッドの端に座った。
大きな手が、躊躇いがちにノラの髪を撫でる。
その手つきは出会ったときの、生まれたての雛を扱うような優しいもので、目の奥が痛んだ。
視界が滲む。
また死ねなかったという失敗への失望よりも、また彼に会えたことが嬉しいなんて自分はとんだ大馬鹿者だ。
「……悪かった。俺のせいで、お前はずっと苦しんでいたんだな」
ふるふると小さく首を振ると、じわりと頭痛が広がる。
きっと王子様は、アリシアから事情を聞いたのだろう。
「……本当に、お前はリリア・グレイフィールではないのか」
真実はとうにバレている。
それでもノラは頷くわけにはいかなかった。
「お前が何者でも、お前も、お前の周りの人間も咎めたりしない。俺はお前が誰なのかが知りたい。教えてくれ、お前は誰なんだ」
「……私は……」
言ってしまいたい。
身代わりで来たのだと。
あなたにも嘘をついていたのだと。
王子様を信じていないわけではない。きっと秘密は守って下さる。
でも、その先は?
秘密を打ち明けても、自分はここにはいられない。
ここに居る限り、自分はリリア・グレイフィールだ。
「……私は、リリア・グレイフィールです」
言い終えると、涙が目尻から溢れて髪を濡らした。
眉間に皺を刻んだ王子様が、ぐっと唇を噛み締めていた。
大きな手が伝った涙を優しく拭う。
「……俺が今、お前にしてやれることは何だ?」
抱き締めて欲しい、きつく、何も考えられないくらいに。
口付けて、髪を撫でて、全部忘れさせて欲しい。
そう言ってしまえたらどんなにいいだろう。
だが、もう身勝手は終わりにしなければ。
「……追い返して、ください」
「……お前を、リリア・グレイフィールだと押し通すこともできる。守ってやれる」
愛しげに自分を見つめている金色の双眸に、わずかな悲しみの光がさした。
離れ難いと思っているのが自分だけではないのだと気付けただけで十分、ノラの心は満たされた。
アリシアの証言を握りつぶしても、また誰かが気付くだろう。あの娘が伯爵令嬢のはずがない、と。
リリア・グレイフィールとして生きていくことは、自分にはできない。
ノラはまた、小さく首を振った。
「私は、王子様と、並ぶ身分にはありません」
「身分は関係ない。お前が誰で、どんな出自であろうとも、俺が愛するのはお前だけだ」
「エリック様……」
涙をこぼしたノラの体を、エリックが抱き寄せる。彼の腕の温もりに、決心が揺らぎそうになる。
大きな背中に腕を回して、彼の首元でもう一度はっきりと告げる。
「私を、送り返してください。本当に、心から、お慕いしています……」
自分を抱き締める腕に力が入る。
「いつかお前を、お前自身を迎えに行く」
そんなことにはきっとならない。
もとは他国の王女と結婚を望まれていた王子様。どんなに願おうと、国王陛下は使用人を妃に迎えるなどお許しにならないだろう。それくらい、自分でもわかる。
そう、もとより、自分は彼と並ぶ身分になかったのだ。
小さく頷きながら、心の中でお別れを告げた。
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