偽物令嬢と獣の王子様

七瀬りーか

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2.計画の失敗

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 城内に入り、人気のない一角の通路を何度か曲がった男はノックもせずにその扉を開き暗い室内へノラを連れ込んだ。
 ここがどこかはわからなくても、ノラはさっき男が通った道順をしっかりと記憶していた。来た道を戻れば庭園には行きつく。庭園に出てしまえばあとは部屋まで簡単に帰ることができる。ただ、割った花瓶と明日からの生活がノラの心を重くさせる。

 失敗した。
 あっさりと死ななければならなかったのに。生き延びてしまった。
 男が自分をこの部屋に連れ込み何をする気なのかと不安に思う精神的余裕さえなかった。
 壁際に置かれた簡素な木製のベッドにノラは静かに下ろされた。まるで生まれたての雛を扱うような男の態度に、ノラは冷え切った胸の奥がじわりと熱を取り戻すようだった。

「怪我は?」
「いえ、ありません」

 土の上に投げ出されたときに、掌を擦りむいたかもしれないが、大して痛くもない。これくらいの怪我はノラにとっては日常茶飯事だったし、もっと大事を成し遂げようとしていたのだ。痛いとは思えなかった。

 男はノラに背を向けてランプに火を灯す。
 揺れる明かりは頼りなく揺れながら、男の手元をわずかに照らしている。
 男は兵士なのか騎士なのか、立派な剣を腰にさげている。顔を見られてはいけないと、咄嗟にノラは俯き、雨に濡れた金髪で顔を隠した。

「目を見せてみろ。首が締まると目が赤くなる。あまりひどいようなら、大事にはしないから医者に見せる。いいな」

 男はベッドに座るノラの前に膝をつき、ランプを脇のテーブルに置いた。有無を言わせず、ごつごつとした大きな手がノラの髪を避けて顎を捉える。
 決して強くはない力だったが、抗うこともできずあっさりと前を向かされたことに心臓が大きく跳ねる。

 こんなふうに、異性に触れられたことなどないというのに。
 暗くてその顔までははっきりと見えない。髪は短く、引き結ばれた唇は凛々しい。ノラの様子を確認しようとする真剣な眼差し。
 瞳の色までは暗闇のせいでわからない。しかし、間近で見つめ合っているという事実にノラの頬は状況にそぐわない熱を帯びた。

 男の手がゆっくりと離れていく。視線から逃れるように再び俯いた。

「大丈夫そうだな。見ない顔だな、どこの所属だ?」
「所属、ですか……」

 男の質問に答えられず口ごもる。
 返事に窮して黙り込んだノラに、男はしげしげと全身を観察して言った。

「侍女じゃないな。お前……王子の花嫁候補の一人か?」

 飛び上がる思いだ。
 どうしてバレたんだろう。どうして自分を見ただけでそんなことがわかるのか。
 そうか、ドレス──
 ノラは自分の纏っているナイトドレスはとても侍女や女官が身に付けられる類のものではないことにようやく気が付いた。
 リリア様として死のうとしていたため、あっさりと花嫁候補だとバレてしまった。

 恨めしく見下ろしたドレスは、雨に濡れ体に張り付き透けている。
 胸のふくらみも、つんと上向いた淡い色の先端も、すべてあらわになっている。

「──っ!!」

 恥ずかしい……!
 両手で自らの体を抱くようにして隠すと、男もいささか慌てた様子だった。

「いや! そんなつもりで見たわけでは──悪い、配慮が欠けた」
「い、いえ……」

 体から火が噴き出しそう。きっと見られた。どうしよう、こんな恥ずかしい思いまですることになるなんて。
 羞恥心に足先まで力が入り、透けた衣のせいで、たまらなく心細さがこみあげて来る。
 そんなノラの様子を見て、男は自らの上着を脱いだ。水を吸って重くなったそれがノラの肩にかかると、ノラの体はすっぽりと男の上着に包まれることになった。

「どうしてあんな真似をしたか、理由を訊いてもいいか?」
「……ご容赦ください」
「そうか……。わかった、今夜のことは口外しないと誓おう」

 男はあっさりと引いた。もしかしたら、彼もこのような問題に深く関わりたくはないのかもしれない。理由がどうあれ深く追及されずに済んだことに安堵した。

「俺は部屋まで送ってやれない。一人で戻れるか?」
「……はい」
「何か余程の事情があるんだろうが、もうあんな真似はするなよ。困ったことは──そうだ、王子に言え。何とかする」

 まさか、言えるはずがない。
 自分は王子様の花嫁候補の身代わりですと、言ってしまえばそれで終わりだ。
 再び口を閉ざしたノラに、男は少し笑った。

「そんなに王子は信用に足りない男か」
「いえ、決してそのようなことは──お目にかかったことも、ありません」

 王子を疑うような考えはノラにはない。自分にとって王子様とは全く人生に関わる予定のなかった雲の上の存在でしかない。
 男が何故か得心したように短く息を吐いた。
 ごつごつとした手がノラの髪を一房すくう。毛先に触れられただけだというのにくすぐったさを感じて首をすくめる。
 どうして髪なんて触るの。
 自分に触れる男の意図がわからなくて、ノラは赤い顔を逸らし続けた。

「……俺はもう行く。部屋まで、ランプを持って行け。滑って怪我をしたら大変だからな」
「はい」

 こくりと頷くと、男は立ち上がり宣言通りに部屋から出て行った。
 失敗してしまった。
今からまた木にシーツを括りつけて首をつることもできる。しかし、宙に浮いたときのあの恐怖。
 それはしっかりと体の芯に刻まれて、とてももう一度踏み台を蹴るなんて真似はできない気がした。

 冷たく濡れた衣服が乾くまで何時間もかかるだろう。すぐには部屋に戻れない。侍女たちに何をしていたのかと問いただされる答えを用意しなければ。
 それはそうと、この上着、どうしたらいいのだろうか。
 名前も聞けなかった。
 次に会ったときに顔もわからないが、声を聞けばわかる気がする。

 命の恩人さん、と命名して、自分を包む上着に縋るようにそっと頬をあてる。雨水に濡れたそれは、まだ男の優しい匂いがする気がした。


◇◇◇◇◇◇◇


 リリア・グレイフィールのお転婆は侍女の間ですぐに噂となった。
 何せお城に来た初日に「お部屋が広いのでついはしゃいでしまって、花瓶を割ったので何とかしようと外に出たら、すっかり迷子になって」と倉庫でうたた寝していたところを発見されたのだから。

 そうだ、うっかり寝てしまったのだ。
 夜明け前にリリアがいないことに気付いた侍女たちは、令嬢を見失った自分たちの不手際を隠そうと城中を死に物狂いで探し回りノラを発見した。
 自分だって同じ立場ならそうするだろう。もし部屋にリリアがいなかったら、そう思うとざわざわと首筋の毛が逆立つ思いだった。
 どれほど彼女たちの肝を冷やしたか理解できるからこそ、ノラは侍女たちに迷惑をかけたことを素直に反省した。

 結局ノラの自決失敗は知られることもなく、“リリア”のお転婆として失踪事件ごと侍女たちは握りつぶした。割った花瓶についても「お怪我がなくて何よりです」と言われる始末で、ただただ恐縮するばかりだった。

 ただ、男の上着はしらを切りとおした。
「覚えていないのです。寝ているあいだにどなたか掛けて下さったんでしょうか?」
 馬鹿なふりをしてぼんやり首を傾げてみる。

 リリアも「さぁ、わかりませんわ」と話しをはぐらかすときにはこうしていた。
 令嬢によくあることなのか、それともノラが扮したリリアを本当に馬鹿だと思ったのか、侍女たちは一旦納得し、上着の主を秘密裏に捜索しようとしていた。命の恩人さんが貸して下さった上着を取り上げられるのはどこか寂しい思いだったが、雨に濡れたまま放置して漆黒の上着の色褪せがあっては困る。
 すぐに洗濯をお願いした。
 ボタンが取れないように洗濯板は使わないで! と喉元まで出掛かった言葉を飲み込んでお城の侍女たちの腕前を信じた。

 そんななかで、いよいよ王子様謁見の予定が決まった。
 侍女たちの気合の入り方たるやノラが「怖い」と感じるほどで、彼女たちは“リリア”が王子に見初められて妃、せめて愛妾となることを願っているらしい。

 現在2人の令嬢が王子の花嫁候補として挙がっている。
 北方から来たベーリング公爵家のアリシア嬢、そして南方のグレイフィール伯爵家リリアに扮したノラである。

 噂によると、王子には他国の王女を娶らせると国王陛下は計画していたらしいが、これに王子が猛反発。
 国王も息子に反発されているクチなのか。
 どこの家も大変なのねぇ、と同情せずにはいられない。

 それはさておき、侍女たちの噂話によると、王子様は大層気難しい方らしく既に三人の奥様候補が「泣いて帰った」そうだ。どうにも不穏な響きであるが“追い返された”というわけでもないらしい。
 しかし気難しい方ならなおのこと、「お前などいらぬ、帰れ!」と送り返して頂ける可能性が高い。それはノラにとっては嬉しい期待である。

 リリアとして仕上げられたノラは、鏡に映る自分にひたすら違和感を覚える。
 これまで、髪は邪魔にならないようにするために結い上げる、身だしなみは主に敬意を示し規律を守るために整えると認識していたのに。
 この自分が令嬢のようにドレスを着せられて、髪を美しく結われ、化粧までしている。
 もう一生、こんな機会はないだろう。
 リリアには遠く及ばないが、いつも洗濯水に映った地味な自分とは見違えるようで、さすがに少しばかり心が躍る。

 が、残念ながら楽しかったのはそこまでだ。
 ひらひらと揺れ動くドレスの裾を必死に捌きヒールの不安定さに四苦八苦しながらも、決して大股にならないようしずしずと歩き、王子様とお会いする一室に辿り着いた頃にはノラはほとほと疲れ果てていた。

「お嬢様、こんなに大変な思いをしてらしたのですか……」

 遠くのリリアに向かって尊敬の意を捧げる。
 しかし、本番はこれからだ。計画では、これから“リリア・グレイフィール”は王子エリックに嫌われなければならないのだから。
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