上 下
173 / 204
菅公

第5話 飼い猫だった者の恋人

しおりを挟む
 ほろっと口に入れては、熱燗を楽しんでいると……店の入り口がゆっくりと音を立てて開けられた。


「こんばんはー」


 愛らしい女の声だ。初めて聞くが、耳通りの良い声。

 振り向けば、入り口には会社帰りらしい年頃の女が立っていて、道真みちざねらを見ると目を丸くした。


「お、嬢ちゃんじゃねぇか?」


 元狗神の蘭霊らんりょうは知っているらしい。火坑かきょうの方を少し見ると……とても嬉しそうな笑顔でいた。愛らしくも見える笑顔なぞ、獄卒であった頃も補佐官であった頃も……飼い猫だった頃も見たことがない。

 であれば。


「あ……お久しぶり、です」
「いらっしゃいませ、美兎みうさん」


 火坑が中に入るように促すと、美兎と呼ばれた女はゆっくりと入ってきて……必然的に、隣となった道真の横にある席に腰掛けた。


「……はじめまして」
「……ああ。はじめまして」


 火坑以外に、わずかながら妖気は感じるが……あとは凄まじいとも言い難き、高い霊力。それに愛らしい顔立ちは初めて見るのに……ひどく安心出来た。この女が火坑の唯一無二の女であることが。


「嬢ちゃん、こいつは今人間ぽくしているが。人間じゃねぇんだよ?」
「え? あやかし……さんですか??」
「いやいや、私はこれでも神の端くれなんだ」
「えぇ!?」


 正直に言うと、何故か美兎はペコペコと謝罪してきた。


「ああ、今は衣裳が邪魔だから人間ぽくしているだけだよ?? そんなかしこまらないで良い」
「……良いんですか??」
「もちろん。神であれ、今はただの客に変わりない」
「……ありがとうございます」
「礼はこちらの方だよ? 火坑の恋仲」
「!!?」


 二十代の女であるのに、随分と初々しい反応が愛らしく見える。実に素直な性格の女を見初めたのだな、と火坑を見れば……相変わらずニコニコと微笑んでいた。久しぶりに会えた恋仲を、道真に紹介出来たのが嬉しいのだろう。

 おしぼりを火坑が渡しても、美兎はしばらくカチコチに固まっていた。


「美兎さん。お腹の空き具合はいかがでしょう??」


 火坑が聞く頃には、腹の空き具合で緊張がほぐれたのかほっとしたような表情になっていた。


「結構……ぺこぺこです」
「では、蚕豆そらまめは苦手ではないですか??」
「大丈夫ですけど??」
「こいつがさっき、ピラフ作ってくれたんだよ」
「そら豆でピラフですか!?」


 興味を持ったのか、すぐに火坑が作ったそれを美兎は実に美味しそうに口にしていた。

 見ていて、心の内がほっこりするような気持ちになっていると……美兎が、代金がわりにと差し出した心の欠片は。

『梅干し』であった。
しおりを挟む

処理中です...