上 下
121 / 204
火車 弐

第1話 バレンタインに向けて

しおりを挟む

 名古屋中区にあるさかえ駅から程近いところにあるにしき町。繁華街にある歓楽街として有名な通称錦三きんさんとも呼ばれている夜の町。

 東京の歌舞伎町とはまた違った趣があるが、広小路町特有の、碁盤の目のようなきっちりした敷地内には大小様々な店がひしめき合っている。

 そんな、広小路の中に。通り過ぎて目にも止まりにくいビルの端の端。その通路を通り、角を曲がって曲がって辿り着いた場所には。

 あやかし達がひきめしあう、『界隈』と呼ばれている空間に行き着くだろう。そして、その界隈の一角には猫と人間が合わさったようなあやかしが営む。

 小料理屋『楽庵らくあん』と呼ばれる小さな店が存在しているのだった。








 季節は冬場の真っ只中。

 日本でもだが、世界でも知名度が高いイベントが間近に迫っていた。大半は男性から愛する女性への贈り物を渡す慣わし。

 しかし、日本では昭和の時代に製菓会社のPRがきっかけで、女性から男性へチョコレートを贈るのが定着してきている。

 通常は本命だが、時代の波にもまれて形を一部変えて……いわゆる義理や友人、家族に恩師など様々な関係の相手にも渡すようになった。そしてもう一つ違う点は、約一ヶ月後にお返しを渡すなどとこれまた製菓会社の宣伝から生まれた慣わしだ。

 暦では春だが、気候の関係でまだ冬の真っ只中……。名古屋のある地区にあるマンションの一角で、ひとりの女性がそのバレンタインのために苦戦していた。


「…………むぅりぃ~~!!?」


 女の名前は、田城たしろ真衣まい。丸の内にある広告代理店(株)西創さいそうの新人であるデザイナー見習いだ。

 真衣は、最近休みのたびに平日だとあまり使わないキッチンと向き合っている。普段から食事は外食かコンビニ頼りにしているせいで、簡単な作業工程をしてもうまくいかないのだ。

 PCでこなす一定のスキルがあれば出来ると訳が違う。やはり、理系は理系でも畑違いに手を出したのがまずかったのかもしれない。


「……渡したいのになあ」


 少し前に、出勤途中に真衣が助けることになったひとりの男性。彼ともう一度会いたい理由は、単純に一目惚れだ。顔からだなんて、実に単純過ぎるが惚れたものは仕方がない。

 連絡先は当然、彼の体調のこともあったので交換していないが……先日、希望の光が見えた。同期のデザイナー見習いが、彼との繋がりを教えてくれたのだ。何故、清掃員の初老の男性と彼が繋がっているのは謎だが……何もないより全然良い。

 そして、その同期である湖沼こぬま美兎みうから連絡があり……また、たまたまだが飲み仲間との横繋がりも出来たので飲み会をしないかとの提案があった。

 真衣はもちろん、その提案を受けて……日程的に、バレンタインも近かったために、今もこうしてキッチンでお菓子作りをしているのだが……まったくにもってダメダメの結果になってしまっている。普段からもう少し自炊していればと後悔するくらいに。


「…………もう、買いに行こう」


 材料をこれ以上無駄にしないためにもその方がいい。片付けだけはなんとかしてから、真衣は栄に向かうべく身なりを整えた。目指すは、会社の先輩である沓木くつきの恋人が勤務する焼き菓子専門店。沓木に何度か会社でもらったが、マカロンとかでも口溶けの良さに真衣は虜になったからだ。

 予約はしていないが、何かあればいいだろう。ダメなら、他の店にも行こう。半分くらい気分転換も兼ねていたので、名城線を降りてからわくわくしていると……誰かに肩が当たったので謝罪しようとしたら。


「あ」
「え」


 前髪で目元を隠している黒髪の男性。

 あちらも、真衣の顔を見て気づいたようだ。この路線で真衣が彼を介抱したことを。なので、お互いしばらく見つめ合う形になってしまった。
しおりを挟む

処理中です...