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かまいたち

第1話 美作辰也

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 名古屋中区にあるさかえ駅から程近いところにあるにしき町。繁華街にある歓楽街として有名な通称錦三きんさんとも呼ばれている夜の町。

 東京の歌舞伎町とはまた違った趣があるが、広小路町特有の、碁盤の目のようなきっちりした敷地内には大小様々な店がひしめき合っている。

 そんな、広小路の中に。通り過ぎて目にも止まりにくいビルの端の端。その通路を通り、角を曲がって曲がって辿り着いた場所には。

 あやかし達がひきめしあう、『界隈』と呼ばれている空間に行き着くだろう。そして、その界隈の一角には猫と人間が合わさったようなあやかしが営む。

 小料理屋『楽庵らくあん』と呼ばれる小さな店が存在しているのだった。







 しがないサラリーマン、美作みまさか辰也たつやは名古屋の夏を舐めていた。

 ビル街であるこの中区三丁目付近は、地下鉄の駅がある場所もだが……開けた久屋ひさや大通おおどおりの公園通りに行ったのも失敗だった。


「……直射日光舐めてた」


 あと、取引先から帰社する時間も最悪だった。もうすぐ正午、一番日差しが強い時間になるのだと頭ではわかっていたが。久しぶりだし大丈夫だろうと意味のわからない適当さ加減で、今猛烈に後悔しているところだ。

 そして、辰也はこの猛暑なのにワイシャツの袖は長袖。とある理由があってその服装でいるし、腕をまくるだなんて論外。

 だから、せめて首元だけ緩めてタオルで滝のような汗を拭いてはいるが、だんだんと頭痛がしてきたのだ。


「や……べ」


 加えて、血の気が抜けていくような感覚。これは、経験したことがなかったが貧血症状だろう。それとこの猛暑なのに、何故か寒気までしてきた。まさか……と辰也は公園通りの噴水にでも腰掛けようとした。

 しかし、少し遠かったその場所に行く前に足がもつれてしまい、その場で転けてしまいそうになる。

 地面にぶつかる、と覚悟したが。


「間一髪!」


 覚悟した瞬間に、誰かの腕が抱きとめてくれたようだ。思ったよりも腕を回された腹部に衝撃はなかったが、辰也の方はそれどころではなかった。流れる汗が少しずつ冷たく感じて、手足が震え出してきたのだ。これは……間違いなく熱中症だろう。

 先日、社の先輩がそれで搬送されて、無事に復帰してから症状を話してもらったからだ。


「!?……大丈夫、じゃないですね? すみませんが背負います。力、抜いててください」


 相手も辰也の容態が最悪だと目で見てわかってくれたようで、すぐに辰也の体を背負ってくれた。いくら成人男性でも、少々ガタイのいい辰也の体は重いのにひょいっと言う感じに体勢を変えてくれた。

 目は開けられないくらい体がだるいせいで助けてくれた男性が、どんな人かはわからないが温かくて広い背中に安心が出来て、堪らず寄り掛かってしまう。

 どこかクリニックか診療所がこの辺りにあったか覚えていないが、一瞬だけふわっと浮いた時があった以外は快適だった。

 やがて、どこかに寝かされて腕にちくりと針が刺さったところまでは覚えている。

 意識がはっきりしてきた時には、診療所どころか何処かの座敷に寝かされていたが。


「……あ、れ?」


 意識ははっきりしている。だるさなども軽減されているし、頭痛や寒気も感じない。胃などは昼も食べていないので空いているが、鼻を動かすと嗅いだことのない良い出汁の匂いをとらえた。

 いったい、ここはどこだろうと体を起こすと。寝かされていた小さな座敷席の端に見える入り口の方から、カチャカチャと食器がぶつかり合う音が聞こえてきた。


「……?」


 少し這うような姿勢で入り口まで移動すると、覗いた先に見えたのは若い男性がカウンターの向こうで仕事をしている風景だった。

 年頃は辰也より少し上くらいか。

 格好は紺色の板前のような制服。手元はこちらの位置からは見えないが音の擦れ合う感じから、食器を洗っているのかもしれない。


「……居酒屋?」


 それにしてはかなり狭い。他に店員もいないのでひとりで切り盛りしているのだろう。なら、中区だと飲み屋も割烹も多いから納得がいく。それにしては、店主の年代は若い。錦三周辺で二十代で店を出せるなんて、余程の実力者なのだろうか。


「……? おや、お目覚めですか?」


 こちらに気づいてくれた彼の声は、辰也が倒れる前に聞いた声と同じだった。

 すぐに、助けてくれたことを思い出しつつもゆっくりと壁に手をついて立ち上がった。


「ども。助けてくださってありがとうございました」
「いいえ。体調が落ち着いて何よりです。勝手に知り合いの診療所に連れていきましたが、やっぱり軽い熱中症だったようですよ?」
「あー……ほんとありがとうございました」
「ふふ。僕がたまたま近くにいただけですが。ところで、携帯の着信凄いですけど大丈夫ですか?」
「え?」


 言われてみると、座敷席の卓に置かれていたスマホの着信音に今気づいた。

 慌てて掴んで、時刻を確認したのだが。倒れてから二時間以上も経っていた。当然、心配されるレベルじゃないとすぐに電話に出て上司に謝罪と状況を説明する。

 すると、男性もひとこと告げたいから変わってくれないか、と言ったのでスマホを渡すと。

 彼の名前が香取かとりなのと。この店が楽庵と言う小料理屋なのを知った。
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