ぼくらのおわはじ

三澄 みそこ

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第一章 少年、開花す

016.地に足を

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 ラヴィンは、狭い足場の上で小さく蹲っていた。少しでも動けば落ちてしまいそうになるからだ。

 辺りは真っ暗で何もなく、また何も聞こえない。温い闇の中で膝を抱えてじっとしながら、ラヴィンはぼんやりと過去のことを思い出していた。



 小学校、確か5年生から6年生にかけてのときだった。一時期、同級生たちに変に距離を取られたことがあった。ただし、明確に何がというわけではない。別に無視されたり、仲間外れにされたりなどということはなく、勿論悪口も言われない。むしろ皆、ラヴィンにとても優しくしてくれた。


 優しすぎるくらいに、優しかった。


 誰もラヴィンに意見しなくなった。グループディスカッションや学級会で、だれもラヴィンの挙手のあとに続かない。皆ラヴィンの言うことに快く頷いた。

 ラヴィンはすごい。流石だね。頼りになる。いつもありがとう。

 そんな言葉に囲まれて、ラヴィンも最初は喜んでいた。しかし、だんだんと気づき始めた。自分が孤独であることに。

 少し低いところから向けられる感謝や羨望。ラヴィンはどんどん上へと追いやられていった。いつの間にか隣には誰もおらず、暖かな喧騒は遥か下、壁の向こうにあった。いつしかラヴィンの心には、常に虚しい風が吹くようになっていた。


 決定打は忘れもしない、あの運動会の日。

 ラヴィンはクラス対抗リレーのアンカーを任されていた。トップでバトンを受け取り、クラスメイトたちの声援を聞きながら、快晴の下で順調なスタートダッシュを切った。しかし途中で靴が脱げてしまい、ラヴィンは転倒した。勢いのまま、ラヴィンは丁度差し掛かっていた自分のクラス席に突っ込んだ。

 クラスメイトたちの水筒に頭をぶつけた。中には蓋を壊してしまったものもあり、スポーツドリンクや麦茶を被った。痛くて、恥ずかしくて、申し訳なくて、消えてなくなりたかった。

 構わず追い越していく他のクラスのアンカーたちの足音。泣きそうなのを堪えて、ラヴィンは顔をあげた。


 そこで言葉を失った。


 誰も、ラヴィンのことを見ていなかった。


 いや、ラヴィンは確かにクラスメイトたちに見下されてはいた。しかし、誰一人としてを見ていなかったのだ。

 声援は先程と同じ調子で続いている。順調に走っていたラヴィンに送られていた声援が。皆揃って、ラヴィンは大丈夫だと信じて疑わなかった。ただ「頑張れ、頑張れ」と。ラヴィンなら一人で立てる。走れる。むしろ、こんな転倒なんて障害のうちに入らない、平気でしょう、と。

 快晴を背にした同級生たちは、どこか遠く、上を見上げているように感じた。そこにラヴィンはいないのに。本当のラヴィンは土に塗れて地面に倒れているのに、誰もそこへ手を差し伸べようとしなかった。

 結局、ラヴィンは誰の手を借りることもなく、一人で最後にゴールテープを切った。全校生徒の拍手喝采と、放送委員の実況が妙に遠く聞こえたのを覚えている。照りつける太陽の熱が苦しくて、視界が点滅して足元がふらついた。

 目を覚ますと、そこは保健室だった。軽度の熱中症だった。自分のクラスは総合2位だったと聞かされたが、もはやそんなものどうでも良かった。


 感謝、羨望。それは眩いばかりに輝く壁だった。誰もそれを越えてこようとはしない。それどころか、さらなる感謝と羨望を向けて壁を高く厚くしていく。壁一枚挟んだ高い場所に、ラヴィンを追いやる。

 遠ざけて、遠ざけて、遠ざけて。

 遠ざけるから、ラヴィンがどんなに辛そうな表情をしたところで見えない。助けを求めても聞こえない。輝かしい場所にいるラヴィンはすごくて、一人でも大丈夫なのだと皆して決め付けた。


 実際はどうだ。輝く壁の向こう側は、こんなにも狭くて高くて恐ろしく、身動ぎひとつ出来やしない。こんなに高くされては、一人では降りられない。


 何故、こんなに窮屈な思いをしなければならないのだろう。


『魔法のせいだ』


 正面から声がした。そこにいたのは自分自身、もう一人のラヴィンであった。

『俺の魔力が、人並みより多いから。それで差別されたんだ』

 もうひとりのラヴィンは憎々しげに吐き捨てる。確かにそうだと思った。ラヴィンの凄さは魔臓の大きさを筆頭にしている。全ての不幸はこの魔臓、この魔力から始まっている。魔法がラヴィンを孤独にした。

 思えば、魔法がときどきコントロールできなくなるようになったのは、あの運動会以来だ。特に焦ったときに暴発しがちになる。それで服を焦がして駄目にすることが多くなった。母は頻繁にラヴィンの服を買い足していた。それだっていつも申し訳なかった。


 もうひとつ忘れられないのは、従弟が家にやってきたときのこと。無視する理由を問い詰めたら、焦げた服の袖を静かに見てきた。知らないうちにコンプレックスを刺激していた。それだけではない。桜祭りの日に火傷を負わせた。魔法のせいで、彼の心も体も傷付けた。きっと許してくれない。


 魔法が孤独の壁を高く、厚くしたのだ。


『魔法なんかあったって、良いことなんて一つもない』

 その通りだ。魔法なんかあったって。

『魔法なんてなければ、こんなに苦しむことなかった』

 そうだ、魔法なんて。



「魔法なんて、なければ……………」



 呟くと、闇がぐんと濃くなった。ここは楽でいい。苦しいことも、辛いこともない。何も考えなくていい。壁も何も、ここには自分ひとりしかいないのだから。このまま闇に身も心も預けて眠ってしまいたい。



 _______ラヴィン!



 瞼を閉じようとしたラヴィンだったが、澄んだ声に阻まれた。しかし辺りを見回しても、周りには変わらず安息の闇があるばかりだ。気のせいかと、再び顔を伏せる。



 _______起きろ、ラヴィン!



 それなのに、声は絶えずラヴィンの眠りを妨げる。ラヴィンは膝の間に深く顔を埋めた。

(うるせぇな………放っといてくれ。誰も俺の気持ちなんてわかってくれない。もう、ひとりにしてくれよ…)


 そのとき突然、コトン、と何かが落ちる音がした。ラヴィンは膝の隙間から目を覗かせた。


 目の前に落ちていたのは、一箱の絆創膏だった。


(なんで、こんなもんがここに)

 何となく拾おうとして、慌てて手を引っ込めた。動いてはいけない。落ちても誰も助けてくれないのだから。



 _______ラヴィン、絆創膏ありがとう。これ貼れば火傷は大丈夫だから、俺もうお前のこと無視したりしないから! だから戻ってこい、ラヴィン!!



(…ありがとう?)

 ラヴィンは目を見開き、もう一度絆創膏を見つめた。

 感謝はもううんざりのはずなのに、この声を聞いていると不思議と心が暖かくなる。今まで貰った感謝は、いつだってラヴィンを遠ざけた。しかしこれは寧ろ、こちらへ歩み寄ってくるような。


 何か忘れている気がする。


 それが喉まで出かかったそのとき、もうひとりのラヴィンがそれを制した。

『おい、余計なこと考えんな! 生きてさえいればそれでいいんだよ。そして魔法を憎め!』

 闇が重くのしかかった。何故だろう、これは思い出さなければいけないような気がしてならない。しかし闇はどんどん質量を増していき、息苦しさすら覚えるようになった。酸欠で思考が回らなくなる。

(くる…しい………だ、れか………)

 こう思いはするが、助けの求め方がわからない。それに、ただでさえ自分は高い場所にいるのに、これ以上どこに引き上げるというのか。

『お前は孤独だ。魔法がお前を孤立させた。助けなんてこない! いい加減諦めろよ!』

 もうひとりのラヴィンが責め立ててくる。そうだ、自分は孤独。誰も救いの手なんて差し伸べてはくれない。それは今まで嫌というほど経験したはずだ。


 それでも恐る恐る、絆創膏へと手をのばす。わからない。ただの絆創膏に何故こんなに執着するのか。

(……ただの? いや違う。俺は、何か____)



 ずるりと、バランスを崩した。



 体が倒れる。咄嗟に伸ばした腕は空を切り、ラヴィンは真っ逆さまに闇の中へ落ちた。

「あ……あ、ああああッ!! 嫌だッ嫌だ…!!」

 顔が引きつる。落ちたら痛い。どれくらいだ。きっと頭が潰れる。怖い。怖い。

「誰か……助けて………!!」

 空中で必死に藻掻く。死にたくない。こんなところで、たった一人きりで。つい先程まで一人は楽だと思っていたのに、今は痛いほど寂しかった。


(そうだ……俺はずっと、寂しかったんだ……)


 高い場所に一人きりで、壁越しに賑やかな笑い声を聞いていた。ずっと輪に入りたかった。地に足をつきたかった。でも降りるのが、皆の描く「すごいラヴィン」の理想を裏切るのが恐ろしくて動けなかった。嫌われるのが怖かった。


 魔法が憎いなんてとんでもない。むしろずっと、多大な魔力量というステータスに頼っていたではないか。そうして今までずっと、壁の向こうに閉じ籠もり続けていた。


「……都合のいい奴」


 逆さまのまま自嘲する。もう、終わりだ。



 しかし、諦めて下げようとした手を、がしっと掴まれる感触があった。突然落下が止まり、肩が外れそうな衝撃があった。足がぶらぶらと揺れた。

 驚いて上を見上げるが、そこには誰もいない。代わりにラヴィンは、掲げた手に何かを握りしめていた。


「…御守り?」


 いつの間にか、広く頑丈な地面に足がついている。絆創膏が落ちている。


 何の苦もなく拾って、そしてインクが滲むように鮮やかに、記憶が蘇ってきた。


 火傷させたまま終わりたくなかった。ほんの少しでもいいから挽回したくて、神社にルーラを置いてきたあと、家に帰らずコンビニに寄った。そこで絆創膏を買ったのだ。

 気休めにしかならないかもしれない。悪足掻きかもしれない。それでも何もせず、縮みかけた距離をまた突き放すような真似はしたくなかった。

 少しでも、皆と同じ高さへ。



「………何だ、そっか」



 笑みと、涙が零れた。

 自分は、諦めてなんかなかった。危うく自分の意志を殺すところだった。そして今、漸く応えてくれた。


「遅ぇんだよ。ずっと待ってたんだからな」


 ラヴィンは安心して顔をあげた。




 _____雨音が耳についた。体が冷たい。

 そこは、雨降る夜の神社だった。こちらを見下ろす銀髪の少年の、真っ赤な瞳と目が合った。
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