ぼくらのおわはじ

三澄 みそこ

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第一章 少年、開花す

011.腕引かれ

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 五感がどっと戻ってきた。


 消防士たちは皆、炎に包まれて絶叫していた。救急隊員が奔走している。吐き気がするような焦げ臭さと、皮膚が千切れそうなほどの熱さは紛れもなくこの身に近付いている危機で、それを認知できたのは随分後になってからだった。


 ルーラはいつの間にか、放火魔に追い詰められていたのだ。


 まるで、一気に時間が進んだかのようだった。いや、ルーラの時間が止まっていたのだった。一人呑気な思考でいたばかりに。

(あ、死ぬ)

 炎のエキスパート達ですら歯が立たなかったほどの相手だ。何の力もない一般人で、さらに魔法が使えないルーラなんて、いとも容易く殺されてしまうに違いない。頭を焼き潰されるのか、胸を貫かれるのか、はたまた眼球を抉られるのか。どれにしたって、その痛みは計り知れないだろう。

 生きてさえいれば、それで良かった。しかし今、死んでしまう。ただ生きていただけのルーラが、死んでしまったらあとには何が残る? あまりにも何もしてこなかったせいで、先に立たない後悔もない。

 最期に話したかった人……サホの顔が一瞬脳裏に浮かんで、泡のように消えていった。


 何もない、誰もいない。

 始まりから終わりまで、ルーラは独りだった。







『何度同じことを言わせる気だ、この阿呆!!!!』






 突如、二の腕に痛みが走ったかと思うと、引っ張られるようにルーラの体がぐらりと傾いた。勢いのまま地面に倒れ込んだルーラの真横を、燃え盛る腕が通過していった。一瞬、陽炎で景色が歪む。触れずに済んだにもかかわらず、まるで顔を炎天下のアスファルトに押し付けられたようだった。「うっ」と唸ると咄嗟にぺちん、と顔を手で覆った。

 ルーラはその場に踞りながら、確信する。


 今、誰かに腕を引かれた。


(同じだ)

 ふいに神社での出来事を思い出す。

 偽サホからサークルへの加入を勧められていたときも、今のように手を引かれ、話が中断された。それと同時に強い眠気に襲われたために、気のせいだとばかり思っていたが、今のは確実に現実に起こったことだ。しかし辺りにそれらしい人はいない。いや、神社にだってそんな人は見当たらなかった。

 誰かがルーラを助けた。いったい誰がと問うまでもなく、真っ先に思い当たる人物が一人いた。あのとき、名前も尋ねなかったことが悔やまれる。

(あ…ひとつ後悔、見つかった)

 一度自覚すると気になって仕方がなくなった。100年前の命鼓神社で、ルーラを叱りつけたあの男性。あの人はいったい、何者なのか。何故ここで声が聞こえたのか。何故、ルーラを助けたのか。


 疑問は止めどなく溢れてくるが、鮮明な痛みと熱によって現実に引き戻された。鳴り止まない心臓。冷や汗、体の震え。そして、涙が出そうになるほどの恐怖が、順に湧き上がる。

 恐る恐る振り返ると、狙いを外した放火魔が、ゆっくりと立ち上がろうとしてるところが見えた。血液が、細胞が、感情が、目まぐるしくルーラの中を巡り、体を突き動かす。ここに来てやっと、生存本能が仕事をし始めた。


「う………う"わぁぁぁーっ!!」


 半ば転がるようにして、ルーラは駐車場から逃げ出した。


 怖い。怖い。今、死にかけた。目前に迫った死がこんなにも怖いだなんて知らなかった。他の悩みや不安がちっぽけに思えるほど怖かった。

 点滅する歩行者信号を潜り抜け、狭い住宅街に飛び込み、無我夢中で走る。当然前方不注意になり、通行人の荷物に足を引っ掛けてしまった。スーツケースが大きな音を立てて倒れ、中身が弾ける。「きゃっ」と小さく悲鳴があがった。ルーラは地面をゴロゴロと転がり、全身を打ち付けた。痛いことこの上なかったが、間髪入れずに立ち上がる。

「ちょっとあなた___」

「ごっごめ、なさっ」

 相手が何か言っている気がしたが、恐怖と酸欠で呂律も頭も回らない。ポケットから落ちた絆創膏だけ咄嗟に拾って、ルーラはまた走り出した。

 散乱させた荷物を拾いもせずに去っていくルーラを、その人は桜色の長髪を耳にかけながら、澄んだ青色の瞳でしばらくじっと見据えていた。




 喉がヒュウヒュウと苦しげに音を立てている。息も絶え絶えにちらりと後ろを振り返ると、やはり放火魔が追ってきていた。その足取りは今のルーラと同じくらい覚束ないが、ルーラより断然一歩が広い。倒れるように猛進している放火魔は、着実にルーラとの距離を縮めてきていた。このままでは、追い付かれるのは時間の問題だろう。

(ただ走ってるだけじゃ、駄目だ…頭、使わないと………)

 それまで、ただ道なりに走っていたルーラだが、ふいに方向を直角に変えた。曲がった先にあるのは、命鼓神社へと続く石階段である。ルーラは残り少ない体力をぐっと太腿に集中させ、二段飛ばしで階段を駆け登り始めた。

 膝と腹がくっつきそうになるほど足を振り上げ、呼吸も忘れてとにかく登る。足を止めてはいけない、止まったら死ぬ、そう脳内で延々と復唱しながらなんとか頂上へと到達した。


 ルーラが目指していたのは、神社の鯉池だった。水剋火。ルーラは、自分が池に飛び込むか、あるいは放火魔を池に落とすかして状況打破を試みようとしているのである。見たところ人の気配がないのが幸いだった。本物のサホや、巫女舞を観に来ていた老人たちは皆帰ったようだ。もはや吸っても吐いても苦しいが、ここで止まると二度と動けなくなりそうだったので、恐怖に加え、疲労でもガクガクと震える足を何とか前へと進めていく。


 そのとき、背後が絶望の暖色に照らされた。


 下方、今しがた登ってきた階段から、ざっ、ざっ、と足音が近付いてくる。


(嘘だろ…?! もっと離れてると思ってたのに…!)

 焦りが余計筋肉を萎縮させて、とうとうルーラはその場で転んでしまった。一度倒れてしまったために、もう起き上がることができなくなった。

「はぁっ…………み、水っ………」

 ならばと、土で服が汚れるのも厭わずに、地面を這って移動する。しかし、池まではまだ距離があるのに、体は思った以上に動いてくれない。力が入らないのだ。無慈悲にも、背後の光は強くなっていく一方で、こうなってはとても逃げ切れそうになかった。

 やがて、光もまた頂上へと到達する。ルーラとは対照的に、息一つきれていないように見えた。ゆらり、ゆらりと歩いてくる放火魔から、ルーラはそれ以上距離を離すことができない。

「や、やめろ…来るなっ……!」

 ゼェゼェと喘ぎながら必死に拒むが、こんなもの気休めにもならないことなどわかりきっていた。コンビニの店舗にその店員、それに消防士たちまで燃やした相手が、大人しく他人の言葉に耳を貸すはずがない。もう先程のように都合良く救いの手も差し伸べられないだろう。逆に、何故あのとき助かったのかが不思議だ。今度こそ終わりだと思い、ルーラはギュッと目を瞑った。



(……………熱くない)



 いつまで経っても体に痛みが走らないので、ルーラは薄っすら目を開けた。すると、そこにはどういうわけか、恰好の的のはずのルーラを一向に襲おうとしない放火魔がいた。奴は何をするでもなく、ただそこに立ち尽くしているばかりだったのである。

 炎の光と祭り用の提灯の光が混ざり合って、神社は橙色に照らされている。少しだけ冷えた春の夜はチリチリと仄かに暖められていた。穏やかな時間が流れる、いっそ幻想的とさえ感じるその光景には、まるで緊張感がなかった。先程殺されかけたのが嘘のようだ。

 怪訝に思っている間に、呼吸はすっかり整ってしまった。ルーラは放火魔から目を離さないようにしつつ、ふらつきながらも立ち上がる。ルーラと放火魔は、鳥居の下で向かい合う形となった。

「…何がしたいんだ、お前」

 思い切って、ルーラは放火魔に話しかけてみた。返事はあるだろうか。
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