ぼくらのおわはじ

三澄 みそこ

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第一章 少年、開花す

007.ドッペルゲンガーの逃亡

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 爽やかな藺草の香り。石油の匂いはしない。額に冷たいものが乗せられていることに気が付き、ルーラはうっすらと目を開けた。低い天井は、馴染みのあるLED電球に真っ白に照らされている。

 寝そべったまま首だけ動かすと、額から濡れタオルがずり落ちた。半分ほど塞がれた視界の端に、洗面器を抱えた一人の女性が映る。流れるような動作で畳に正座する、翡翠の瞳をした彼女にはどこか見覚えがあった。

(あ、そうだこの人)

 答えは数秒で出た。彼女は、舞の最中に足を掛けられ、魔法で立ち直ったあの巫女だった。巫女がルーラの視線に気付き、声をあげる。

「あぁ良かった、お目覚めになられて。何が起きたのかわかりますか?」

 女性にしてはやや低めな声である。タオルを退け、上半身を起こし首を振ったルーラに、巫女は簡潔に説明してくれた。

「突然倒れたそうです、発熱して。あなたに付き添っていた女の子がそう仰っていました」

「え、熱?」

「はい、それはもう、とんでもない高熱だったのですよ。私驚いてしまって……今、頭痛や倦怠感は?」

「…大丈夫です」

「熱はすぐ引いていったようですね。ご無事で何よりです」

 巫女は、女神のような柔らかい微笑をたたえた。舞の最中の、あの険しい顔しか知らなかったルーラは少々驚きつつ、自身の首すじに触れた。確かにやや汗ばんでいるが、そんな高熱を出していたとは思えないほど、どこまでも平熱だった。

 チラリと壁掛け時計を確認すると、神社にやってきたときからまだ一時間も経っていないことがわかる。サホを待ったり、話したりと何やかんやしていたので、倒れていたのは長くてもせいぜい30分程度のようである。

 そして、倒れていたのならば先程までの出来事は全て夢だったことになる。発熱による悪夢。そう位置付けてみれば、そんな気がしてきた。少なくとも、タイムスリップよりはよほど現実的だ。

 また、女の子とは十中八九サホのことだろう。

(サホ………)

 生きてさえいればいいと言った彼女の笑顔と同時に、ルーラを「死体」だと罵る男性の声を思い出す。心に差した陰を振り払うように、ルーラは巫女に質問を投げ掛けた。

「その女の子は何処へ?」

「申し訳ございません、そこまでは存じ上げなくて。あなたを預けられてすぐ、この神社から出ていったようですが…随分そっけないのですね。貴方を残してさっさと帰ってしまうなんて」

 その返答にルーラは俯いた。畳の上に直に寝かされていた、自身の体が目に映った。

 ルーラは巫女にお礼を言い、社務所をあとにしようとした。しかし、靴を履きながらふいにルーラは振り返り、見送りに来てくれた彼女を見上げた。

「…もしかして、まだどこか具合が? そうでなくとも、今日は早くお帰りになられた方が」

「あ……はい、そうします」

「では、お大事に」

 巫女は、引き戸の向こうへ消えていった。




 社務所を出たルーラは、しばし呆然としていた。巫女にはああ言ったものの、とても大人しく帰宅したい気分ではなかった。

 発熱など、これまでしたくてもできなくて万年皆勤賞だったのに、珍しいこともあるものだ。他人と一対一で長話という、慣れないことをしたせいだろうか。

 それに、あの夢。夢には深層心理が反映されるのだという。やはり対人というのは疲れる。また、サホからの誘いに少なからず不安を覚えていたのは否めない。きっと、その疲労と不安があんな悪夢に成長したのだろう。ならばサホを探して、もっと打ち解けてしっかり話を聞けば、それらは払拭されるはずだ。

 しかし、サホは倒れたルーラを置いて、一人で神社を出ていったという。何か急用でもできたのだろうか。伝言の1つでも入っていればと、ルーラはスマホを確認した。夢を思い出し身構えてしまったが、インターネットには問題なく繋がった。メッセージアプリに通知がひとつだけ表示されており、ルーラは急いでタップする。


『さっきマジでごめんな。火傷してなかった??』


「…なんだ、ラヴィンからか」

 ルーラは鼻白んだ。ラヴィンは家に帰れば居るので特に返事はしない。対するサホは音沙汰なしだ。通話ボタンが目に入り、少し迷って、結局キーボードを操作する。

『今起きた。何処に居るの?』

 送信。祈るような気持ちで画面をじっと見つめていると、しばらくして既読がついた。すぽん、とメッセージが飛んでくる。

『神社の下のコンビニの辺り』

 ルーラもすぐさま返信する。

『今からそっち行っていい?』

『いいよ! じゃあ待ってるね』

『俺入るよ、そのサークル。だからもう少し話聞かせてほしい』

 くまのキャラクターがハートを抱えたスタンプが送られてきた。ルーラはスマホをポケットに押し込んだ。

 
 ルーラは石階段へ向かった。叔父夫婦には少し帰りが遅くなるかもしれないと伝えてあるし、何よりルーラも暇だ。時間は十分ある。そんなことを考えながら一段下ったそのとき、下方から騒がしい喋り声が聞こえてきた。

「何か静かじゃね? やっぱこれ、屋台明日っしょ」

「えー? なら何であの人、林檎飴とか持ってたの。紛らわしい~」

「まぁ、どっかで買ったんだろうなぁ。ここまで来ちゃったし、桜でも見ながらちょっと駄弁ろうぜ」

「きゃはは! 風流じゃんウケる!」

 いかにも派手好きそうな男女の集団が、階段をのぼってきたのである。どうやら屋台が出る日付を間違えたらしい。ルーラは踏み出した足を引き、咄嗟に右手の草むらに身を隠してしまった。幸いにも、ルーラの黒いパーカーは夜の闇に溶け込み、相手の視界には映らなかったようだ。

 しかし、ルーラが目の前を通り過ぎていく集団を見送ろうとした、そのときだった。


「…………えっ?」


 集団の真ん中にいる、手を叩いて笑い声をあげる少女が目についた。黒髪の姫カットに鳶色の垂れ目、そして口元の黒子が特徴的な少女。


 そこにいたのは、紛れもなくサホだった。


 たった今、コンビニで待っていると言っていたのに。更におかしなことに、丈の短いトップスの下からは、傷ひとつない肌が大胆に見えている。驚き、思わず声を出してしまったために、相手がこちらに気付いて振り返った。

「うわ暗っ、きも。何でそんなとこ隠れてんの」

「なぁにサホ、この子知り合い?」

「あー……誰だったかな。中学にいたっけ、あんた」

「おい~、覚えてないならいきなりディスってやるなよサホぉ」

 まるで、久しぶりに会ったかのような口振り。今確かにサホと呼ばれていたので、人違いでもないようである。これはいったいどういうことなのか。しかしルーラには、それ以上に気になることがあった。

「そ、それ…」

 ルーラがサホの腹を指差すと、サホは自慢げに口角をあげて言った。

「ん、これ? 肌見せショート丈、可愛いっしょ。今流行ってんだよ。でも、あんたこーいうの興味なさそうだよね」

 狼狽えるルーラを見て、ピアスをじゃらじゃらと着けた塩顔の男が笑う。

「もしかして怖がってる? まぁ君、いかにも優等生ってオーラ出てるもんなぁ。俺らみたいなのとは縁ないでしょ?」

「それな。つか話したこともなかったわ」

「それはサホが最後まで学校行ってなかったからでしょ~」

 赤いセミロングの長身の男の言葉に、ルーラは眉をピクリと動かした。そして、呟くようにその単語を復唱する。

「…最後まで……?」

「そ、サホちゃん中一のときからずーっと不登校だったの。でもそれはそれでアリでしょ? 別に誰にも迷惑かけてないしさ」

「庇わなくていいよ、こんな優等生相手に説明したところでわかんないって」

「まー、住む世界が違うってやつだよな。卒業式の日すら俺らゲーセンにいたし。絡んでごめんね、でもそんなとこにいるのはやめたほうがいいよ。通報されそう」

 やがて、集団は騒ぎながら去っていった。神社鈴で遊び始めた彼らに呆れる余裕もなく、ルーラはしばらく硬直していた。そして、恐る恐る再びスマホを取り出し、今度は通話ボタンを押す。目と鼻の先にいる、あのサホが電話を取る様子はない。まもなくして、機械越しに声が聞こえてくる。

『ルーラ? どうしたの?』

「………」

『おーい、もしもーし』

「……………サ、ホ?」

『なぁに?』

「コンビニに、いるんだよな?」

『うん、いるよ。さっき言ったじゃん』

 電話越しの声はそう言い切った。提灯に照らされぼんやりと浮かび上がる命鼓手向が、風にゆれてさわさわと揺れた。

「…あのさ」

 ルーラは震える口で続けた。


「今、サホが神社に、来てるんだけど」


 声色には、思った以上に恐怖と疑心が滲んだ。痛いほどの沈黙が数分続き、皮膚がぴりついた。きっと、辺りがあまりにも静かだと緊張で皮膚が痙攣を起こすのだ。そんな関係のないことを考えてしまうくらいには、時の流れが遅く感じた。

 ルーラは、「何ワケわかんないこと言ってるの?」と聞き返されるのを待っていた。そう、訳がわからないのだ。この目の前の現象を、少なからず心を開いた相手に笑い飛ばしてほしかった。そうすれば、このぐちゃぐちゃになった思考回路も、情緒も、全て無かったことにできる。考えなくてよくなる。

 しかし、その期待は儚く砕け散った。


 _____ブツン。


 通話は、一方的に切られてしまった。

「は、え? ちょっと」

 焦って画面を操作するが、メッセージには既読が付かず、通話も繋がらない。

 
 ルーラは、スマホをポケットに押し込むと、神社を飛び出した。
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