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「夏季休暇かあ」
「僕は家族で海に行く予定なんですけど、ガブリエルさんもご実家に帰省ですか?それともフェリックスさんと何処か旅行とか?」
「うーん…考えた事ないな」
旦那様と相談した方が良いですよ!と言うエリオットの助言に、俺は曖昧に頷いた。
夏季休暇。最も俺の今までの人生で程遠い言葉と言っても過言では無い。
今まで俺は学生時代は夏休みと言えば勉強に明け暮れる日々で、社会人になってからもまともな長期休みなんて殆ど取らずに只管仕事をしたりしていた。稀に取らされた長期休みでは精々資格の勉強でもするか、一日二日帰省するかしかした事が無い。
しかし今年は有り余った有給の消化の為にも一週間以上は休むように言われている。果たして何をしたら良いのか皆目見当もつかない。兎に角エリオットの言う通りに一度フェリックスに相談するのが正解だろう、と俺は家に帰ると早速フェリックスに夏季休暇の話を持ち掛けた。
「何か今年は俺も夏季休暇取らないといけないっぽくて、フェリックスは毎年どうしてんだっけ?」
「俺は大概仕事をしているか、まあ本でも読みながら自室でゆっくりしている事が多かったが。そうか…今年はガブリエルも休みを取るか」
「そうそう。俺あんまりにも長い休みは何したら良いのか分からないんだよなあ…沢山出歩いて疲れるのも嫌だしな」
「…なら、今年はのんびり出来る様な所にでも出掛けるか」
「ん?」
「旅行だ。任せろ、俺の実家は避暑地に幾つか別荘も持っていた筈だから、どれかを借りよう」
「え!?」
かくして俺達は休暇を合わせて、フェリックスの家が所有する別荘へ二人して行く事になったのだった。
自宅のある王都から半日程掛けて移動し、俺達がやって来たのは湖に程近い別荘だった。ここは王都より北の高地に位置する事もあって夏だが比較的涼しい。しかも湖の間近に建てられた別荘の主寝室の大きな窓とバルコニーからは一面の湖と生い茂る緑の木々が見え、大層気持ちが良い。
「うわあ、凄い」
「気に入ったか」
「うんうん、めっちゃ癒される」
「それなら良い」
「フェリックスの御家族もここに来るの?」
「いや、うちはここ数年は別のリゾート地の方にある別荘に良く行っている様だ。俺は参加しないので良く知らないが」
「ふうん」
幾つもの別荘を持っているってさすが超一流貴族一家だなあ、と感心してしまう。
荷物を放り投げて窓の外を眺める俺に、横に並んだフェリックスが苦笑した様に微かに笑った。その笑顔を見たら何だか鼓動が早くなってしまう。何しろ俺達は…結婚して五年以上経つが、きちんと付き合い初めて一ヶ月程度の初々しいカップルなのだから。
あの告白劇から一ヶ月。俺の体調はみるみる良くなっていた。
多分だが、フェリックスにいやいや夫婦ごっこをさせていると思い込んでいたストレスもあったのだろう。それが解消され、堂々とフェリックスと触れ合う日々の何と満たされる事か。フェリックスからの愛の確信と減った仕事量とで、俺の不眠も大分解消されここ最近は非常に体調も良好だった。
それでもフェリックスは俺へのスキンシップを止める事は無く、寧ろ以前より増えていくものだから俺の心臓は幾つあっても足りない。
いきなりこの年齢で不眠と不安で泣いていた己の不甲斐なさに変わりは無いのだが、それでもそのお陰で気付けた事が沢山あったとは思う。
その一方で実は一つだけ懸念点があり、それはきちんとフェリックスに伝えなければならないと思ってはいるのだが…中々言い出せないでいる。これからも、いやこれからもっときちんと夫婦として生きていくのであれば、伝えないといけない事だ。
この一週間の旅行中、言える時が来れば言おう。俺はそう思っていた。
別荘での滞在の日々は穏やかだった。
最初にここに来る前に俺が夏季休暇は余り出歩きたくないと言ったからか、初日にクルーザーで湖を回った以外は特に何もせず過ごしたがそれがまた良かった。
適当な時間に起きて別荘に居るフェリックスの家のお抱えシェフが作ってくれたちょっと豪華な食事を取り、湖が見えるバルコニーのチェアでぼうっとする。フェリックスはいつもの難しい本を読んでいるか俺の傍に来てちょっとした会話をしたり一緒にティータイムの休憩をした。
何も無いが過ごしやすく穏やかな休暇で、俺はすっかり癒されていた。
またこの別荘も良い。少し古い洋館の作りだが中は綺麗に保たれており、目下に広がる広大な青い湖と生い茂る緑のコントラストも美しい。俺は大層気に入ってしまい、まだ滞在の半分程の日数しか過ぎていないがフェリックスに「また来年も来たい」と言ってしまった程だ。
今日もまた午後になり、俺はバルコニーのチェアに腰掛けていた。使用人にハーブの紅茶と軽いお茶請けのお菓子を出してもらい寛いでいると、何だかうとうととし始めてしまう。ここは暑すぎなくて風も心地良い。
ティーカップを横にある小さなテーブルの上に置いて目を閉じ眠る体勢を取った。すると部屋の奥で本を読んでいたフェリックスがバルコニーの方へ出て来た。何だろうと思って目を開けると、フェリックスが横のチェアに腰掛けて俺の手を取り握った。相変わらず視線は広げた本の方に向いていて俺の方を見てはいなかったが、俺は何となくフェリックスの意図が分かって赤面する。
要は、前に俺が昼寝をして変な夢を見て魘されてしまったから…心配してくれているんだろう。
本当にフェリックスは優しい。しかも本を読んでいたのに、俺が眠ろうとしていたのを部屋の奥からでも気付くって…俺の事を常に気に掛けてくれている証だろう。フェリックスの優しさに包まれて俺は幸せだった。ぎゅ、と手を握り返して、俺は目を瞑った。
悪夢は見なかった。
「ガブリエル」
「ん…」
「気持ち良さそうに寝ている所すまないが、もう夕食の時間だ」
「え……」
むくりと俺は起き上がった。夕食の時間?
俺はどれくらい寝ていたのか。そんな時間と言う事は三時間近くは寝ていた様だ。こんなにぐっすりと昼寝をしたのは最早人生でも初めてかもしれないと思った。
「そんなにこの湖の畔が気に入ったのなら、夕食もここで摂るか?」
「え、出来るのか」
「確か使っていなかったテーブルがあった筈だ。それを用意させてここで摂ろう」
「うん」
俺は嬉しくなった。本当にこの湖が見えるバルコニーが気に入ってしまったのだ。
即答した俺にフェリックスが微笑んだ。そこで漸く気が付いたが、どうやら俺が寝こけている時間ずっとフェリックスは俺の手を握っていてくれたらしい。未だに繋がれたままだった手元を見て少々驚いた。
フェリックスはその手をするりと離すと、使用人達を呼んだ。あれよあれよと言う間にバルコニーにガラスの丸い大きなテーブルが運ばれて来て、カトラリーや夕食の前菜がテーブルの上に置かれた。フェリックスは白ワインをグラスに注いで貰っていたので、俺も習い同じ物にした。
「乾杯」
「乾杯」
グラスを交わしてチン、と音を立てた。
日が暮れて来たバルコニーに明かりが灯される。前菜をあてにワインが進み、メイン、食後のデザートを食べ終える頃にはすっかり俺はほろ酔いとなっていた。
食事中も相変わらず会話が少ない俺達だが、こうして仕事をせずに一日中一緒に居ても苦じゃない空気感が好ましい。俺達は基本的には考え方や行動が似ているのだ。だからこそお互いがお互いを邪魔しないし、凪いだ気持ちで居られるのだろう。
食後のお茶を飲みながら、静かな湖畔は月の光と明るい夏の夜空を反射して煌めいていた。綺麗だなあと思いつつ、俺は以前からフェリックスに言わなくてはいけないと思っていた事を言うのなら、今ではないかと思い始めた。結局は言わなくてはいけないのだから、早めに言える内に言った方が良いだろう。それが例え言い辛い事だったとしても。
「あのさ、フェリックス」
「何だ」
「…これからも俺と夫婦で居てくれるのなら、話しておかないといけない事があるんだけど」
「ああ」
俺は下を向きそうになる己を叱咤して、フェリックスの瞳を見詰めて話し始めた。
「俺、これからも出世していくつもりだ。オメガ初の官僚にはなれたけど、それよりも上を目指したい。オメガだから出来ないとか、そう決めつけられたくないからこそ、出来る所までやりたいんだ。勿論これからは体調にも環境にも気を付けるし」
「……」
「だから、俺は子供は…作るつもりは無い。普通に子供の事は好きだし、可愛いと思う。でも俺はもう既にいい歳だし出産に不安もある。子供がいたら沢山の幸せを貰えるだろうけど、それと同じくらい苦労もあるだろう。俺は…やっぱり今更自分が歩んで来た道を逸れる事はしたくない」
そう、フェリックスと心から正真正銘の夫婦になれた時から、ずっと考えていた事だ。
俺達はアルファとオメガだ。発情期にセックスをすれば妊娠は可能だ。普通のアルファとオメガの夫婦というものは、そうして子供が生まれて幸せな家庭を築くのが当たり前だろう。
しかし俺は普通のオメガの考え方がやはり出来ない。例えフェリックスと結ばれて、アルファに愛されると言う事が如何にオメガにとって幸せな事だと分かろうとも、全ての考え方や価値観を変える事は出来なかった。
きっと俺とフェリックスの子供は可愛いだろう。見た目も天使の様に可愛い子供が生まれるだろうし、どちらに似ても頭が良い子になるかもしれない。その成長を見守っていく幸せは何にも変え難いだろう事も分かる。
それでも、俺には俺の野望がある。オメガらしいオメガ、将来の夢はお嫁さんなオメガの価値観なんかクソ喰らえ、と生きてきたこの十年以上の考え方は、今更変えようが無かったのだ。
フェリックスは静かに此方を見返していたが、何故だか呆れた様に溜息をついた。俺はきょとんとしてしまう。
「何だ、そんな事か」
「そんな事!?」
「俺はそうだろうと思っていた。そもそも子作りがしたくてガブリエルを選んだ訳じゃない。何故いつもお前は考えが突拍子も無くて猪突猛進なんだ」
「で、でも…」
フェリックスが子供が欲しいと思っているかもしれないと考えたのだ。だってフェリックスはここ最近本当に変わった。俺を愛してくれているのも伝わって来るし、子供が欲しくなっている可能性だって大いにあった筈だ。
しかしフェリックスは呆れた様に首を振った。
「俺が惚れたガブリエルは、案外気弱で甘えたなオメガらしい所もあるが、しかし本質はアルファ勝りの男だろう。アルファに恋愛や家庭を求めず、数多のアルファやベータを差し置いてオメガ初の官僚にのし上がり、オメガ特有の発情期にも負けずに気丈に努力してきた男だ。まあ頑張り過ぎた結果として少しエンジン切れを最近起こした訳だが」
「う…」
「そんな妻が目標とするものが分かっていて、何故今更俺が子供が欲しいと言い出すと?そもそも最初から欲してはいないし、妻の努力は応援する位の器量はあるつもりだ」
「フェリックス…」
「むしろ、そんなお前だから好きになったとも言える」
だから安心しろ、とフェリックスは淡々と言った。
本当に俺の旦那は、俺にとって最高で唯一の旦那だと思う。フェリックスだからこそ俺は俺で居られるんだ。
俺は嬉しさと愛おしさが込み上げてきてしまいフェリックスにゆっくりと抱き着いた。フェリックスも緩やかに俺の背中に手を回し、頭の上に手を置いた。
「ありがとう…フェリックス。俺もフェリックスがそういう人だから、好きになったんだと思う」
「俺達は夫婦だ。何か思う事があれば直ぐに相談するといい」
「うん」
俺はフェリックスを腕の中から見上げた。フェリックスは俺の頬に手を添えて、静かに此方を見詰める。
何方からともなく顔が近付き、俺達はキスをした。
じんわりと胸に広がる暖かさに俺は笑顔になる。するとフェリックスの方も少しだけ笑ってくれた。嬉しくなって俺はフェリックスの首に手を回し、もう一度…今度は深いキスを送ったのだった。
「僕は家族で海に行く予定なんですけど、ガブリエルさんもご実家に帰省ですか?それともフェリックスさんと何処か旅行とか?」
「うーん…考えた事ないな」
旦那様と相談した方が良いですよ!と言うエリオットの助言に、俺は曖昧に頷いた。
夏季休暇。最も俺の今までの人生で程遠い言葉と言っても過言では無い。
今まで俺は学生時代は夏休みと言えば勉強に明け暮れる日々で、社会人になってからもまともな長期休みなんて殆ど取らずに只管仕事をしたりしていた。稀に取らされた長期休みでは精々資格の勉強でもするか、一日二日帰省するかしかした事が無い。
しかし今年は有り余った有給の消化の為にも一週間以上は休むように言われている。果たして何をしたら良いのか皆目見当もつかない。兎に角エリオットの言う通りに一度フェリックスに相談するのが正解だろう、と俺は家に帰ると早速フェリックスに夏季休暇の話を持ち掛けた。
「何か今年は俺も夏季休暇取らないといけないっぽくて、フェリックスは毎年どうしてんだっけ?」
「俺は大概仕事をしているか、まあ本でも読みながら自室でゆっくりしている事が多かったが。そうか…今年はガブリエルも休みを取るか」
「そうそう。俺あんまりにも長い休みは何したら良いのか分からないんだよなあ…沢山出歩いて疲れるのも嫌だしな」
「…なら、今年はのんびり出来る様な所にでも出掛けるか」
「ん?」
「旅行だ。任せろ、俺の実家は避暑地に幾つか別荘も持っていた筈だから、どれかを借りよう」
「え!?」
かくして俺達は休暇を合わせて、フェリックスの家が所有する別荘へ二人して行く事になったのだった。
自宅のある王都から半日程掛けて移動し、俺達がやって来たのは湖に程近い別荘だった。ここは王都より北の高地に位置する事もあって夏だが比較的涼しい。しかも湖の間近に建てられた別荘の主寝室の大きな窓とバルコニーからは一面の湖と生い茂る緑の木々が見え、大層気持ちが良い。
「うわあ、凄い」
「気に入ったか」
「うんうん、めっちゃ癒される」
「それなら良い」
「フェリックスの御家族もここに来るの?」
「いや、うちはここ数年は別のリゾート地の方にある別荘に良く行っている様だ。俺は参加しないので良く知らないが」
「ふうん」
幾つもの別荘を持っているってさすが超一流貴族一家だなあ、と感心してしまう。
荷物を放り投げて窓の外を眺める俺に、横に並んだフェリックスが苦笑した様に微かに笑った。その笑顔を見たら何だか鼓動が早くなってしまう。何しろ俺達は…結婚して五年以上経つが、きちんと付き合い初めて一ヶ月程度の初々しいカップルなのだから。
あの告白劇から一ヶ月。俺の体調はみるみる良くなっていた。
多分だが、フェリックスにいやいや夫婦ごっこをさせていると思い込んでいたストレスもあったのだろう。それが解消され、堂々とフェリックスと触れ合う日々の何と満たされる事か。フェリックスからの愛の確信と減った仕事量とで、俺の不眠も大分解消されここ最近は非常に体調も良好だった。
それでもフェリックスは俺へのスキンシップを止める事は無く、寧ろ以前より増えていくものだから俺の心臓は幾つあっても足りない。
いきなりこの年齢で不眠と不安で泣いていた己の不甲斐なさに変わりは無いのだが、それでもそのお陰で気付けた事が沢山あったとは思う。
その一方で実は一つだけ懸念点があり、それはきちんとフェリックスに伝えなければならないと思ってはいるのだが…中々言い出せないでいる。これからも、いやこれからもっときちんと夫婦として生きていくのであれば、伝えないといけない事だ。
この一週間の旅行中、言える時が来れば言おう。俺はそう思っていた。
別荘での滞在の日々は穏やかだった。
最初にここに来る前に俺が夏季休暇は余り出歩きたくないと言ったからか、初日にクルーザーで湖を回った以外は特に何もせず過ごしたがそれがまた良かった。
適当な時間に起きて別荘に居るフェリックスの家のお抱えシェフが作ってくれたちょっと豪華な食事を取り、湖が見えるバルコニーのチェアでぼうっとする。フェリックスはいつもの難しい本を読んでいるか俺の傍に来てちょっとした会話をしたり一緒にティータイムの休憩をした。
何も無いが過ごしやすく穏やかな休暇で、俺はすっかり癒されていた。
またこの別荘も良い。少し古い洋館の作りだが中は綺麗に保たれており、目下に広がる広大な青い湖と生い茂る緑のコントラストも美しい。俺は大層気に入ってしまい、まだ滞在の半分程の日数しか過ぎていないがフェリックスに「また来年も来たい」と言ってしまった程だ。
今日もまた午後になり、俺はバルコニーのチェアに腰掛けていた。使用人にハーブの紅茶と軽いお茶請けのお菓子を出してもらい寛いでいると、何だかうとうととし始めてしまう。ここは暑すぎなくて風も心地良い。
ティーカップを横にある小さなテーブルの上に置いて目を閉じ眠る体勢を取った。すると部屋の奥で本を読んでいたフェリックスがバルコニーの方へ出て来た。何だろうと思って目を開けると、フェリックスが横のチェアに腰掛けて俺の手を取り握った。相変わらず視線は広げた本の方に向いていて俺の方を見てはいなかったが、俺は何となくフェリックスの意図が分かって赤面する。
要は、前に俺が昼寝をして変な夢を見て魘されてしまったから…心配してくれているんだろう。
本当にフェリックスは優しい。しかも本を読んでいたのに、俺が眠ろうとしていたのを部屋の奥からでも気付くって…俺の事を常に気に掛けてくれている証だろう。フェリックスの優しさに包まれて俺は幸せだった。ぎゅ、と手を握り返して、俺は目を瞑った。
悪夢は見なかった。
「ガブリエル」
「ん…」
「気持ち良さそうに寝ている所すまないが、もう夕食の時間だ」
「え……」
むくりと俺は起き上がった。夕食の時間?
俺はどれくらい寝ていたのか。そんな時間と言う事は三時間近くは寝ていた様だ。こんなにぐっすりと昼寝をしたのは最早人生でも初めてかもしれないと思った。
「そんなにこの湖の畔が気に入ったのなら、夕食もここで摂るか?」
「え、出来るのか」
「確か使っていなかったテーブルがあった筈だ。それを用意させてここで摂ろう」
「うん」
俺は嬉しくなった。本当にこの湖が見えるバルコニーが気に入ってしまったのだ。
即答した俺にフェリックスが微笑んだ。そこで漸く気が付いたが、どうやら俺が寝こけている時間ずっとフェリックスは俺の手を握っていてくれたらしい。未だに繋がれたままだった手元を見て少々驚いた。
フェリックスはその手をするりと離すと、使用人達を呼んだ。あれよあれよと言う間にバルコニーにガラスの丸い大きなテーブルが運ばれて来て、カトラリーや夕食の前菜がテーブルの上に置かれた。フェリックスは白ワインをグラスに注いで貰っていたので、俺も習い同じ物にした。
「乾杯」
「乾杯」
グラスを交わしてチン、と音を立てた。
日が暮れて来たバルコニーに明かりが灯される。前菜をあてにワインが進み、メイン、食後のデザートを食べ終える頃にはすっかり俺はほろ酔いとなっていた。
食事中も相変わらず会話が少ない俺達だが、こうして仕事をせずに一日中一緒に居ても苦じゃない空気感が好ましい。俺達は基本的には考え方や行動が似ているのだ。だからこそお互いがお互いを邪魔しないし、凪いだ気持ちで居られるのだろう。
食後のお茶を飲みながら、静かな湖畔は月の光と明るい夏の夜空を反射して煌めいていた。綺麗だなあと思いつつ、俺は以前からフェリックスに言わなくてはいけないと思っていた事を言うのなら、今ではないかと思い始めた。結局は言わなくてはいけないのだから、早めに言える内に言った方が良いだろう。それが例え言い辛い事だったとしても。
「あのさ、フェリックス」
「何だ」
「…これからも俺と夫婦で居てくれるのなら、話しておかないといけない事があるんだけど」
「ああ」
俺は下を向きそうになる己を叱咤して、フェリックスの瞳を見詰めて話し始めた。
「俺、これからも出世していくつもりだ。オメガ初の官僚にはなれたけど、それよりも上を目指したい。オメガだから出来ないとか、そう決めつけられたくないからこそ、出来る所までやりたいんだ。勿論これからは体調にも環境にも気を付けるし」
「……」
「だから、俺は子供は…作るつもりは無い。普通に子供の事は好きだし、可愛いと思う。でも俺はもう既にいい歳だし出産に不安もある。子供がいたら沢山の幸せを貰えるだろうけど、それと同じくらい苦労もあるだろう。俺は…やっぱり今更自分が歩んで来た道を逸れる事はしたくない」
そう、フェリックスと心から正真正銘の夫婦になれた時から、ずっと考えていた事だ。
俺達はアルファとオメガだ。発情期にセックスをすれば妊娠は可能だ。普通のアルファとオメガの夫婦というものは、そうして子供が生まれて幸せな家庭を築くのが当たり前だろう。
しかし俺は普通のオメガの考え方がやはり出来ない。例えフェリックスと結ばれて、アルファに愛されると言う事が如何にオメガにとって幸せな事だと分かろうとも、全ての考え方や価値観を変える事は出来なかった。
きっと俺とフェリックスの子供は可愛いだろう。見た目も天使の様に可愛い子供が生まれるだろうし、どちらに似ても頭が良い子になるかもしれない。その成長を見守っていく幸せは何にも変え難いだろう事も分かる。
それでも、俺には俺の野望がある。オメガらしいオメガ、将来の夢はお嫁さんなオメガの価値観なんかクソ喰らえ、と生きてきたこの十年以上の考え方は、今更変えようが無かったのだ。
フェリックスは静かに此方を見返していたが、何故だか呆れた様に溜息をついた。俺はきょとんとしてしまう。
「何だ、そんな事か」
「そんな事!?」
「俺はそうだろうと思っていた。そもそも子作りがしたくてガブリエルを選んだ訳じゃない。何故いつもお前は考えが突拍子も無くて猪突猛進なんだ」
「で、でも…」
フェリックスが子供が欲しいと思っているかもしれないと考えたのだ。だってフェリックスはここ最近本当に変わった。俺を愛してくれているのも伝わって来るし、子供が欲しくなっている可能性だって大いにあった筈だ。
しかしフェリックスは呆れた様に首を振った。
「俺が惚れたガブリエルは、案外気弱で甘えたなオメガらしい所もあるが、しかし本質はアルファ勝りの男だろう。アルファに恋愛や家庭を求めず、数多のアルファやベータを差し置いてオメガ初の官僚にのし上がり、オメガ特有の発情期にも負けずに気丈に努力してきた男だ。まあ頑張り過ぎた結果として少しエンジン切れを最近起こした訳だが」
「う…」
「そんな妻が目標とするものが分かっていて、何故今更俺が子供が欲しいと言い出すと?そもそも最初から欲してはいないし、妻の努力は応援する位の器量はあるつもりだ」
「フェリックス…」
「むしろ、そんなお前だから好きになったとも言える」
だから安心しろ、とフェリックスは淡々と言った。
本当に俺の旦那は、俺にとって最高で唯一の旦那だと思う。フェリックスだからこそ俺は俺で居られるんだ。
俺は嬉しさと愛おしさが込み上げてきてしまいフェリックスにゆっくりと抱き着いた。フェリックスも緩やかに俺の背中に手を回し、頭の上に手を置いた。
「ありがとう…フェリックス。俺もフェリックスがそういう人だから、好きになったんだと思う」
「俺達は夫婦だ。何か思う事があれば直ぐに相談するといい」
「うん」
俺はフェリックスを腕の中から見上げた。フェリックスは俺の頬に手を添えて、静かに此方を見詰める。
何方からともなく顔が近付き、俺達はキスをした。
じんわりと胸に広がる暖かさに俺は笑顔になる。するとフェリックスの方も少しだけ笑ってくれた。嬉しくなって俺はフェリックスの首に手を回し、もう一度…今度は深いキスを送ったのだった。
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