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 七日間程の出張が言い渡されたのは、妻の発情期に合わせて取った休み明けの出来事だった。
 総務大臣が態々俺の元にやってきたと思ったら、国境付近で他国が不審な動きをしており部隊を派遣するので、俺も一時的に其方に向かって指揮を取って欲しいとの事だった。

 俺は即座に断った。と言うのもガブリエルの事があるからだ。
 妻のガブリエルは現在健康状態が余り良いとは言えない。日中は普通だが、夜や眠った時なんかに不調が現れる。特に以前俺が共に同じベッドで眠る様になるまでは夜中に突然起きてしまい、そのまま泣きながら朝まで寝付けないとの話だった。
 最近は専ら改善して来ており、夜そのまま目覚めずにすやすやと眠っている時もある。だが出張の期間が七日と聞いて、流石にそんな期間妻を一人にしておくのは無理だと断った。大臣の方からどうしても他に居ないのだと懇願されたが無視した。

 しかし軽く残業を終え自宅に帰って来た俺に、先に帰っていたガブリエルがこう話しかけてきた。

「そう言えば、聞いたよ。出張なんだって?」
「……誰から聞いた?」
「え、うちの魔法省大臣が言ってた」
「…」

 あのたぬき爺め、他の省の長やガブリエルの方に先に話を通しやがって。根回しが良い事この上無い。

「いや、俺は行かない」
「……もしかして、俺の事気にして…たりしないよな?俺は大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだ」
「えっと、七日間くらい俺一人でも眠れるよ。何しろフェリックスが一緒に寝てくれる様になるまで、三ヶ月位はずっと毎日不眠だったんだ。七日位大した事ないし」
「駄目だ」
「やっぱ俺のせい?いや本当に俺は大丈夫だから!行って!」

 不安そうな顔をする妻に、これは逆に行かない事の方が負担になってしまうんじゃないかと思った。しかし…ここ最近のガブリエルの様子を見ていると一人にさせるのは大いに不安なのだが。そう思いガブリエルを見遣るが、その強ばった表情を見る限りやはり俺が自身の為に出張を断る事は嫌らしい。なら仕方が無い。

「分かった、行ってくる」
「うん。そうして」
「何かあればすぐ実家に帰るか、俺に連絡するように」
「了解」

 ほっとした様に笑うガブリエルに、俺は複雑な気持ちになった。
 本当にお前は大丈夫なのか。一人で夜この広い家に居られるのか。
 些か不安を感じながらも、俺は気にしていない風を装って頷く他無かった。




 そう、これは想定外である。
 この俺が他人の為に生活リズムや仕事の仕方すら変えようとするのは、以前の俺からすると考えられない事だった。
 俺は今までの経験からオメガだけに非ず全ての人間が嫌いだった。それくらいに俺の生まれてからこの数十年間で出会ってきた人間達がろくでも無い人間ばかりだった事を意味する。
 だからこそガブリエルと結婚した。普通の夫婦がすべき触れ合いや生活を共にする事、子作り、何もかもをしなくていいからこそガブリエルを選んだ。実際結婚してからの五年間はその通りの生活が待っており俺は何ら不満も抱かず結婚生活、もとい同居人生活を謳歌していた訳だ。
 ところがガブリエルが長年の過労とストレスから体調を崩し、この様な生活が始まった。
 確かに始まりは義務だった。今更離婚も出来ない上にガブリエル以上の都合の良いオメガのパートナーは居ない。ただそれを繋ぎ止めるためだけに俺は医師に言われた通りにガブリエルと夜添い寝をして眠る様になり、手を繋ぐ事やそれ以上といった行為もする様になった。

 しかし今こうしてガブリエルを一人にする事が心配で仕方が無いのは、果たして体裁や義務だけで行っている事なのだろうか。
 あんなに全ての人間が大嫌いで仕方が無かったのに、どうして俺はガブリエルの為なら出張も断るし、休日なるべく不自然じゃない程度にガブリエルから目を離さない様にしているんだろう。

 考えたくはなかった。俺達夫婦は普通の夫婦とは違う。利害の一致だけが俺達を繋ぐキーだ。夫婦らしくなればなる程、きっと俺達は夫婦で居られなくなる。




「じゃあ、行ってくる」
「うん」
「……」

 いってらっしゃい、と軽い調子で手を振るガブリエルに後ろ髪を引かれながらも、俺は国境付近へと旅立った。
 暫くは順調だった。俺が指揮を任された新たに結成された部隊は精鋭ばかりで、余り目立った問題行動も無く順調に仕事は進んだ。

 数日程経ち、出張も半分程の期間が終わった。その間ガブリエルから何かしらの連絡は無かった。
 何かあれば連絡する様にと伝えてはいるものの、ガブリエルの性格からすると何かあっても基本的に俺に連絡を寄越さないであろう事は容易に想像が付いた。ガブリエルは俺の人間不信の事を知っているので、余り俺に迷惑を掛けたくないと思っているのだ。
 念の為家で雇っている家政婦達にも何かあればすぐに連絡を寄越す様に伝えているが、生憎そちらも無かった。連絡が無いと言う事は何事も無い事と同意義なので良い事の筈だが、それはそれで心配が膨らんでいくのも事実だ。
 仕事が順調に進めば進む程俺の方は気が気で無くなっていった。仕事中はおくびにも出さないが、夜出張先の宿の部屋に一人になるとどうしてもガブリエルの事が気がかりで落ち着かない。いっその事此方から連絡してみようかと思うのだが、普段用がある時しか通信は飛ばさないので用も無くそうするのは少々勇気が出ない。それこそガブリエルが案外けろっとしていて、「え?何で連絡してきたの?」なんて言われたら落ち込んでしまう。



悶々としながらも更に日は経ち、五日目の事だった。
 すっかり寝入った夜半、俺の枕元に置いている魔道具が鳴った。完全に寝入ってはいたのだが、普段から緊急で連絡の入る事の多い俺はその音に即座に飛び起きる。相手先を確認すると…ガブリエルだった。俺は通信を繋いだ。

「ガブリエル?」
『……』
「どうかしたか」
『…フェリックス』
「眠れないのか」
『う…』

 若干涙ぐんでいる様なガブリエルの声が聞こえる。俺は胸がぎゅっと絞られた様な感覚に陥り、今すぐにでも家に帰りたいと思ったが生憎それは叶わない。
 鼻を啜る様な声でガブリエルは続ける。

『こんな…遅くにごめん…』
「いや、構わない」
『構うよ。本当に…なんで俺…ずっと平気だった筈なのに……』
「……」
『どうしても、眠れなくて、辛くて……フェリックスの声が聞きたくて…』
「ああ」
『……なんで俺、フェリックスに迷惑ばっかり掛けちゃうんだろう、本当にごめん…』

 ガブリエルは勘違いをしている。いや、こうなっているのは俺が余り多くを語らないせいでもある。もう少し俺はきちんとガブリエルに言葉にして伝えなければいけない事があるだろう。しかし兎に角今はガブリエルに泣き止んで欲しい。
 そして思う。どうして俺はこんな所に居るんだ。早く帰って抱き締めてやりたい。そんな自分自身を最早無視出来なくなっていた。本当はこうなった最初から気付いていたのだ、今までの俺ではないと。言葉も行動も明確にはしないでいたがそれは俺達の為だった。しかしもしそれでガブリエル本人を傷付けるのならば、俺は信念も曲げ約束も破ろう。

「…ガブリエル」
『な、なに』
「俺はガブリエルの事を迷惑だと思った事は一度も無い」
『うそだ…』
「嘘じゃない。今だって連絡を貰い有難いと思っている。一人で泣くくらいなら俺に頼れ」
『…ぅ…っ』
「泣き止むまで通信は繋げよう。朝までただ話していても良い」
『フェリックス…』

 ありがとう、とごく小さな声が聞こえた。ああ、とだけ俺は言い、その晩はガブリエルが寝落ちするまで数時間通信を繋げたまま、雑談をして過ごした。




 そうしてその日から二日経ち、俺は漸く仕事を終え自宅に帰って来る事が出来た。最終日にやたらと問題が起き帰宅は夜遅い時間になってしまったが、明かりの点いた窓辺を見てまだガブリエルが起きている事を確認する。
 玄関のドアを開けると、即座にリビングのドアが開きガブリエルが廊下を歩いて来た。

「ただいま」
「……お、かえり…」

 何故か困った様な顔をしている妻に、俺は腕を軽く広げて見せた。そうしたいのだろうと思ったがどうやら間違い無い様だ。おずおずとガブリエルが近付いて来て俺の腕の中に収まった。自分も腕を回す。
 漸く帰って来たなと実感した。これでガブリエルを一人にしなくて済むのだと思ったら安心してしまう。ぎゅっと抱き締めると、ガブリエルは俺の肩辺りに頭を預けた。

 もう、以前の俺達には到底戻り様が無いのだと改めて思った。必要最低限の会話しか無く、殆ど家で顔すら合わせない仮面夫婦。それが今やこうして数日間の別れを惜しみ抱き合っているのだから、人間何があるか分からない。
 しかし本当に…俺の今頭に過ぎる考えや答えを口にして良い物なのかと不安は尽きない。ガブリエルにとって、最善は何なのだろう。

 ガブリエルが安堵した様に溜め息を俺の胸元に漏らした。俺の腕の中で安心してくれるなら何よりだ。俺は回す腕に力を込めた。

「……出張中、通信飛ばしてごめん」
「まだ言ってるのか。何も謝る事は無い」
「でもさ…」
「ガブリエル、先日も言ったが俺はお前を迷惑だとか思った事は無いからな」
「…本当に?俺絶対迷惑じゃん。フェリックスは人と関わり合いたくない筈なのに…」
「お前は別だ」
「え?」
「お前だけは、特別だ」

 ガブリエルが顔を上げた。驚きと戸惑いの混じる複雑な表情だった。しかしその潤んだ瞳を見詰めていたら…。
 俺は徐々にガブリエルの方に顔を寄せた。俺が何をしようとしているのか察したらしいガブリエルが、一瞬腕の中で硬直する。しかし顔を背け俺から逃げ出す事はしなかった。
 
 目の前の長いまつ毛に縁取らた瞳が段々と閉じられていくのを見詰めながら、俺とガブリエルの唇が重なった。
 柔らかく薄い唇だった。何度か触れるだけを繰り返し、薄目を開けて妻を確認した。嫌そうな顔をしていたら止めようと思ったのだ。しかしぎゅっと目を閉じたままのガブリエルは頬が紅潮し耳までほんのりと色付いていた。
 俺は何か込み上げるものがあり、角度を変えてもう一度、二度とその唇に唇を重ねた。
 しがみつく様に俺の胸元を握りしめるガブリエルの細い手を感じながら、これはもしかして結婚してから五年、初めてのキスかもしれないと思い至るのだった。
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