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あの後、マリーベル嬢は一時間近く部屋から出てこなかったらしい。しかし部屋の主が帰らないと分かると、ひっそりと出てきて自宅に帰ったようだ。その日からマリーベル嬢は姿を見せなくなった。もしや俺たちのラブラブに心折れてくれたか?と期待したが、相変わらずアレク宛にはラブレターが届くみたいなので、そうでもないらしい。
あの日、そそくさとその場を後にしたアレクだが、次の日には何事も無かったかのような態度だった。少しは俺の事を意識してドギマギしてくれたら面白いのになあ、と思ったが、当てが外れた。
変わらず毎日の送り迎えをしながら二ヶ月と少しが経った頃、アレクが約束してくれた俺の研究室が完成した。一旦王宮内の魔術研究室に作ってもらったそれは最新の設備と広々空間で超最高だった……現在俺の自宅脇にも専用のものを作ってくれているので、期待大だ。本当にこれだけでも偽装恋人を買って出た価値がある。ただそれ以上に、アレクと過ごす日々がなんだかんだ楽しい。すっかり慣れてキスのフリやら抱き合ったりはお互いお手の物だが、たまにどうでもいい近況の話なんかもしながら、手を繋いで帰る事もある。そうした日々にたまに無性に胸がキュンとしたり、ふわふわと嬉しい気持ちになったりもして、これって、なあ……と感じたりしなくもない。まあ元々俺はあまり悩まない人間なので、どうするかはこの偽装恋人が終わった時にでも考えればいいか、と思っている。
俺は羞恥心も無ければ、どうとでもなるだろ、精神なのだ。母譲りの。
さて、一旦約束の三ヶ月を間近に控えた頃、いつもの帰り道でアレクに話しかけられた。
「来週に兄上主催の仮面舞踏会がある。良ければ私と参加してくれないか」
「いいけど、俺いい感じの服とか仮面とか持ってない」
「そのあたりは、私の方で用意するよ」
「うん。でもなんでいきなり仮面舞踏会?」
「元より兄上からは招待を受けてはいたんだが……例の彼女も、参加者となっているみたいだ。一緒に参加して欲しいと昨日手紙が届いた」
「ああ、なるほどね」
そりゃ俺の出番か。しかし仮面舞踏会なあ……俺は子爵家の人間とはいえ私生児だし、社交界にも顔を出した事は無い。一通りの作法とかは学んできたものの、ダンスみたいなものは習った事が無いな。そう考えていたら、俺の腰に回っているアレクの手に力が籠った。……ちなみに、こうしてアレクが俺の腰を抱いて歩くのはもはや定番となっているのだ。最近では王宮の誰も気にしてくれない。
「それで、だ。仮面舞踏会までの期間、私の別邸で暮らさないか」
「は?」
「……少し心配しているんだ。仮面舞踏会の誘いを断られた彼女が、マクシムに危害を加えるんじゃないかと」
うーん。ぶっちゃけ、それはあまり無いと俺はにらんでいる。と言うのも、現段階ではまだ俺に接触してきていないのもあるし、あの日のクローゼット事件でも最中に飛び出してくるようなことも無かった。そして何より多分マリーベル嬢は超面食いだ。元々アレクに一方的な求婚を始めたのも、アレクのその王子様的な見た目に一目惚れしたからだと思う。
そして俺はこの通りの顔面だ。もしかしたら何か言ってくる可能性はあるが、傷付けるまではしてこない気がする。……というか多分だが、目の前にマリーベル嬢が現れたら俺に鞍替えさせる自信すらある。何しろ俺って、そういう人を翻弄する言動得意だから。
ただそれはそれで面倒だし、第三者を使って攻撃させる可能性もゼロでは無い。俺は頷いてみせた。
「分かった。ていうか、今アレクも別邸に住んでるんだっけ」
「ああ、別邸の方が警備を配置しやすいからな」
「ふうん。じゃあ一週間同棲するんだ。楽しみだな?」
「……」
楽しみだ、とは返してもらえなかった。ただ、アレクの耳がほんのり赤くなっているのが見て取れて、俺は心がギュッとした。
ああ可愛い!こんなに背も高くてしなやかとはいえ筋肉質な美形の男で、身分も高い正真正銘の王子なのに。俺なんかにそんなかわいい態度見せていいのか?
俺はこれからのつかの間の暮らしも仮面舞踏会も、楽しみになってきてしまうのだった。
アレクの別邸は王宮のほど近くにあった。大きな屋敷だが、ぐるりと門で囲まれていて、確かに警備の配置はしやすそうである。こういうのを見ると本当に身分が高い人なんだよなあと実感する。
俺に宛てがわれたのは、別邸内部の客間の中でも一際上等な部屋だった。貴賓室と言ってもいいくらい。俺の自宅よりも広そうな部屋で、中に一通りの水周り等の設備もある。食事もわざわざ料理人が作ってくれたものが届けられるし、俺付きの使用人すら一人付けてくれた程だ。
至れり尽くせり。まさにこの言葉に尽きる。
しかし当の本人、この屋敷の主とはあまり会えないでいた。俺をこの家に送った後、仕事が残っているようで執務室に行ってしまうからだ。まあ学校卒業したてで、色々とこれから政務にも携わっていく身だ。やらなきゃいけない事が山積みなんだろう。
でも、せっかくの同棲期間なのにこれは寂しいだろ。俺は送ってもらい、いつものように執務室に行こうとするアレクの服の裾を掴んだ。
「なあ、今日は何時くらいまで仕事するつもりだ?」
「……分からないが、日付は変わらないと思う」
「じゃあさ。仕事終わったら俺の部屋来てよ。一緒に飯でも晩酌でもしよう」
「……」
「ずっと放置されて俺は寂しい。たまにはいいだろ?」
「まあ、構わないが……」
うろうろと視線をさ迷わせるアレクだが、嫌がっている素振りでは無かった。俺はにこりと笑って「じゃあ待ってるから」と言い、踵を返した。
この屋敷の中で、俺とアレクが偽装恋人なのを知っている人間はほとんど居ない。アレクの側仕え数人だけで、基本的に使用人たちは俺とアレクが本当に付き合っていると思っている。どこから話が漏れてバレるか分からないからな。
お陰様で、「俺の部屋に来てよ」なんてやり取りを屋敷の玄関先でしたものだから、使用人が気を使ってくれたようだ。俺の部屋には上質なバスローブといい匂いのする香油、高級な酒とつまみが用意されていた。……アレだな、そういうことを今日はやるんだと思われてるよなこれは。
ちょっと笑いそうになりながらも、俺は用意された酒とつまみを手にカウチの方に移動した。さすがにバスローブ姿で出迎える訳にもいかない。
しばらく一人で晩酌をしていると、コンコンとドアがノックされる。
「はい」
「私だ」
「開いてるよ、どうぞ」
鍵をかけないなんて不用心だな、と言いながら、アレクが部屋に入ってきた。まだ全然夜中とも言えない時間だから、もしかしたら俺のために少し早めに仕事を切り上げてくれたのかもしれない。優しいなあとほっこりしつつ、アレクに向かいに座るよう視線で促した。
アレクはラフなシャツ姿だった。いつも王宮でしか見かけないから、かっちりとした正装しか見た事が無かった。やっぱりそういう服装だと、優男な雰囲気のアレクも意外と筋肉質なのが分かるなあ。この国の王族の男たちは、学生の時に騎士団の演習にも参加するという。だからこんな体格がいいのかな。
なんて勝手に思いつつ、アレクの前にグラスを置いた。
「あれ、年齢的にアレクって酒飲めるっけ」
「我が国は十八歳以上と義務付けられているから、飲めるは飲めるんだが……王族は飲酒に関しても訓練を受けてからじゃないと飲めない事になっているから、まだ私は飲めない」
「訓練?」
「社交の場に出る事も多いから、酒には強くならないといけなくてね」
「はあ、大変だな」
王族って、息苦しそうだ。とりあえず俺は他に用意されていたいくつかの酒の中に、ノンアルコールのボトルもあった事を確認した。それを開栓して、アレクのグラスに注いでやる。
「じゃ、お疲れ。乾杯」
「乾杯」
グイッと半分飲み干す俺と比べて、アレクは上品にグラスを傾けて一口飲むだけだった。それだけなのにサマになりすぎるのは、やはり王族だからテーブルマナーとかも染み付いてるんだろうな。俺みたいな私生児とは違う。
なんとなく寂しい気持ちになりながらも、まあそもそも偽装恋人の件が無かったら知り合いもしなかった俺たちだもんな、と改めて思った。
そこからしばらく俺たちは会話を楽しんだ。あまりこうして座ってきちんと喋った事はなかったと思う。周りに見せつけるためにわざと送り迎えの時間を一緒に過ごしたので、多少のたわいも無い会話はあったものの、ここまでじっくりと言葉を交わすことはなかった。
初めてアレクの仕事とか、やりたいことなんかも聞いた。代わりに俺の魔術研究の話もしたが、アレクは魔術の適性が無かったみたいでかなり興味津々で可愛かった。
しばらくそんな話をしながら、俺は改めて口を開く。
「まあそれにしても、意図的とはいえこんなに周りにラブラブなところ見せつけまくってさ、大丈夫なの?」
「何が」
「いや、本命とかできたら面倒だろ。あのマクシミリアンと付き合ってたんですよね!てなったりさ。あと偽装恋人を解消して別れたあとも周りがうるさそうだし」
「それは確かにそうだな。マクシムと付き合う事がここまで話題になるとは思わなかった。兄上たちは恋人ができても、そこまで誰も騒がないのに」
俺だって、過去に誰かと付き合っててもここまで周りがうるさくなったことはない。多分、誰もが期待する大人気の第三王子と、魔性の男の俺、ていう取り合わせが面白おかしくて、ゴシップにはぴったりなんだろうな。
俺は苦笑した。
「まあアレクがいいならいいけど」
「私は別に困ってない。マクシムが良いなら良いよ」
「俺は別に。前から色んな噂もされるし、評判なんて酷いもんだからな。本当に、よく俺に頼んだよなこんな事」
俺が笑うと、アレクは少し考える素振りを見せた。
「マクシムが適任だと思ったんだ。貴方は人気がある上に、人の扱いがうまい。そしてその実不真面目でないのは、素行から分かっていた。もので釣るような真似をして……こんな事に巻き込んでしまって申し訳無いと思う」
「今更?」
「……彼女の言動は度を超えていて、心が疲弊しきっていたからこそこんな事を頼んでしまった。でも何よりも……最近は、マクシムと会えれば心強くて、癒されて……いや、少しばかり貴方の言動には驚かされるけれども。でも彼女への恐怖心は無くなった」
癒されて……?俺と過ごすことで?
俺の容姿だけでなく、忌憚ない態度や翻弄する言動を買ってくれているのは分かる。でも一緒に過ごす事で心強くなって癒されるなんて、言われると思わなかった。
むしろ、今までどんな人間にもそんな風に言われたことは無い。恋人にも、誰だって。
心臓が痛い。いや……ちょっと待ってくれ。こういうのはきちんと考えたくない。そもそも俺は平民の母を持つ私生児だぞ。こんな正真正銘の王子様と本当にどうこうなれる訳でもない。落ち着け。
でもとりあえず今は。
「キスしたいな」
「……は……」
無性にキスしたい。だって、そんな可愛いこと言われたらそりゃもうしたいだろ。先日実際にしちゃった事だし、一回すれば二回も三回も変わらない。
突然そんな事を言い出した俺に、アレクは驚いた様子で固まってしまった。そしてしばらくして、はあ、とため息をついた。
「マクシムって本当に、羞恥心をどこかに置いてきてしまったんだろうか」
「俺だって恥ずかしいことは恥ずかしいよ。ただ今はアレクとキスしたいなって思っちゃっただけで。で、していい?」
俺が立ち上がりアレクの隣に腰掛けると、アレクはあからさまに動揺した。
「何故?ここは誰も見ていないし、見せつける必要もないのに」
「理由が無いとキスしちゃいけないわけ?」
「……そうだ、だって私たちはあくまで偽りの……」
「だからってさ、しちゃいけない訳でもないだろ?したいからする、本能だよ」
屁理屈を言わないでくれ、と言うアレクの肩に手を置いた。明らかにビクッと身体を揺らすので、あまりにも可愛くて笑いそうだった。
こんなに格好良くてキラキラした王子様なのに、実は可愛くて心根は優しいなんてさ。そんなの俺みたいなのが寄ってくるから駄目だよな。
俺はそっと顔を近付けた。別に嫌なら振り払われるだろうと思ったが、アレクはそうしなかった。俺の方を見ながら困惑して固まっている。しかし俺を拒む様子は無かった。そう、そのまま受け入れて、俺を。
ちゅ、と唇が触れた。本当に触れるだけで、別に貪るようなキスなんてしてない。さすがにそれは付き合ってもないのに駄目だよなあ、と思って唇を離した。
目の前にいるアレクは、未だ困惑の最中にいるようだ。でもその目元がほんのり色づいてるの、この距離だとバレてるぞ。
ああ……なんて可愛いんだろう。俺は満足して、アレクの手を取り絡ませて握った。そしてアレクの肩に頭をこてんと預ければ、その肩がぴくりと反応するから笑ってしまった。
一日の終わりとしては、最高に気分がいい。このままこんな時間が続けばいいのになあなんて思いつつ、これは期間限定だった事を嫌でも思い出してしまう。ただ……今だけはそんな事も忘れて、浸っていたい。
俺は目を閉じて、酒が残っていたグラスを傾けるのだった。
───────
仮面舞踏会とはどんなものなのか。普通の舞踏会にも参加した事がない俺は分からなかったが、要は仮面を付けて身分を隠し、無礼講のような雰囲気で進むパーティーのようだった。ただ、昔は本当に顔を覆い隠す仮面をつけて身分をひた隠しにした時代もあったようだが、今の主流は目元だけを隠すので、ほとんど知り合いであれば身分なんてバレバレらしい。
結局は身分関係なくはしゃぐための大義名分、という訳だ。しかも今回は主催が王家の人間なので、仮面を付けたら楽しいよねくらいの普通の舞踏会らしい。俺はマナーくらいなら習っているが、社交の場でのダンスなんて全く教わった事も無かった。しかしアレクが俺は踊らなくていい、というので、結局練習はしていない。そもそも舞踏会は、男女で踊るものらしい。アレクは俺と参列することで誰とも踊らずに回避したい、という算段のようだ。
礼服はアレクがどこかの店に頼んで、超特急で俺用のものを作らせていた。当日出来上がったそれを見て驚いた。人生の中でも一番と言っていいくらい、豪華な衣装だったからだ。全体的には厳かな雰囲気だが、要所要所に施された金色の刺繍が美しい。濃紺のそれはまるでアレクと対になる伴侶のために作られたような出来栄えで、これを俺が着ていいのか?とすら思った。
早速それを着て、特注の仮面もつける。俺付きの使用人が髪の毛も綺麗に整えてくれたおかげで、俺はとんでもなくミステリアスな男の仕上がりになっていた。
これ、いい感じじゃないか?マリーベル嬢に打ち勝つには、これくらい怪しげな美しい男の方が良いだろう……自分で言うのも難だけど。
「マクシム、用意はできたか?」
「できたよ」
部屋に入ってくるなり、アレクは息を飲んだ。分かる、いつもの俺より数倍怪しいもんな。アレクの方も、灰色を基調とした礼服に身を包んでいた。本当は俺と対になるために黒色にしたかったようだが、黒は元々社交場では向かない色らしい。仕方なく灰色に落ち着いたとの事だ。
しかしデザインは俺たちが揃って一つになるような装いになっていて、俺はとても気に入った。ただまあ、こんなのを着て社交界に赴くなんて……また噂されるだろうなと思わなくもないけど。
用意された馬車に乗り、俺たちは王宮のホールの方に向かった。馬車の中で向かいに座るマクシムを盗み見る。今日はいつもより髪型もかっちりしていて、後ろに流していた。流れるような金髪が綺麗で、本当にいい男だよなあとしみじみする。
程なくして、馬車がホールの入口に到着した。さて、ここからは戦場だ。貴族たちの相手はマクシムがするだろうが、参列者であるマリーベル嬢がどう出てくるか。何事も無ければそれでいい。ただ、最近アレクと接触出来ない腹いせに何かを仕掛けてくる可能性は大いにある。何しろ、アレクの自室に忍び込むような女だからな。もしかしたら俺にも接触してくるんじゃないか?と思っているけど、果たして。
意を決して、俺たちはホールへと足を踏み入れるのだった。
中はさすがの王宮、王家の人間主催の舞踏会という感じだ。豪華絢爛なのはもちろんの事、参列者たちも気合いの入った装いだ。軽食は用意されているが、中央では手を取りあった男女が演奏に合わせて踊っていた。
なるほど、こりゃあ俺には無理だ。一朝一夕でこんなダンスが出来るようになるわけが無い。
ホールの中を回る係からシャンパングラスを受けとり一口飲んだところで、隣にいたアレクがひっそりと口を開いた。
「あまり一人にならないように注意してくれ。基本的に私の傍を離れないようにして欲しいんだが、兄上に挨拶に行く時はマクシムを置いていくことになる。もしかしたら彼女が接触してくるかもしれないから、気をつけて欲しい」
「分かってるよ。俺、上手くやれる自信しかないから」
「……あまり大事は控えて欲しいけれど。それともちろんマクシムには分からない距離から数人の護衛を付けているから、そこは安心してくれ」
「ありがとう、ダーリン。むしろアレクもひとりにならないよう注意してくれよ」
そう言ってアレクの腕に手を絡めて、頬にキスをした。アレクははあ、とため息をつくだけで、照れてくれなかった。
あの部屋飲みの日以降、ちまちまとこうして頬にキスをしたり、なんなら唇にまでキスをする事も何度かあった。一度したら何度だって同じだろ精神の俺は、タガが外れたのだ。そして勝手にキスしてくる俺に、アレクは慣れたのかあまり照れてくれなくなった。寂しい。
ただあえて翻弄したくて唇を舐めたりすると、と途端に耳を赤くしたりしてくれるのだが。さすがにこの場所でできるわけもないので、止めておこう。
俺とアレクは歓談しながら、会場の端の方で中央を眺めていた。時折アレクに話しかけに来る貴族をアレクが対応しつつ、俺たちはべったりとして離れなかった。そのおかげか、ちらちらと視線を感じる。そもそも仮面をしていたって、どう見ても第三王子殿下と魔性の男なのはバレている。たまにヒソヒソと遠くから噂されるのは良い気もしなかったけど、仕方ない事だ。
しばらくして、遅れてやってきた参加者達がいた。その中に……いた、マリーベル嬢だ。レディらしい清楚な装いで可憐な雰囲気である。本人自体は可愛い女性なので、見知らぬ男たちが秋波を送っているのを見かけた。
彼女はちらりともこちらを見なかったが、多分俺たちが揃って来ている事は把握してるだろう。さて、何かをしかけてくるんだろうか。何事も無ければいいけど。
「じゃあ、兄上に挨拶をしてくる。くれぐれも気をつけて欲しい」
「うん。まあ、大丈夫だろ」
心配そうなアレクだったが、渋々といった感じで俺から離れていった。こういう時多分俺が貴族で当主とかだったら、王族の方への挨拶も行けたんだと思う。そもそももしそうだったらダンスも踊れたし、社交界デビューだつて出来てただろうな。なんて考えたら少ししょんぼりしてしまった。
とりあえず嫌な事は忘れよう、と俺はシャンパンを煽った。
一人となった俺は無数の不躾な視線を浴びせられていた。ほとんどが俺を揶揄するような視線だったが、中にはなんとなく湿った空気の視線も感じた。多分俺が魔性の男で、こんな見た目なので興味を引かれているんだろう。しかもあの第三王子と付き合っている、とされている男だ。そういう具合が気になる輩もいるかもな。
ああ、気色悪い。アレク、はやく帰ってきてくれと思いながら、俺はシャンパンのグラスをあおっていた、その時だった。
「あの」
「……」
後ろから声をかけられた。鈴が転がるような美しい女性の声だ。やっぱり来たか……。
俺は振り返った。
案の定、そこに居たのはマリーベル・レノワ本人だった。間近で見る彼女は仮面をしていてもとても可愛いし、清廉な雰囲気もある。とてもじゃないがアレクに付きまとって婚姻を迫ったり、部屋に忍び込んで色仕掛けをしようと目論む人間には見えないから恐ろしい。
俺は平静を装い、にこりと笑った。
「はい、何でしょう」
「少しお話したいの。来て下さる?」
ちらり、と指さしたのは、いくつか設けられている休憩室のうちの一つだった。うーん、嫌だな。あんな密室だと他人の目が無くて、何されるか分からないし。その手には乗らないぞ、と俺は再び取り繕って笑顔を浮かべた。
「未婚のレディと休憩室には行けませんよ。ここでは話せない事でしょうか?」
「ええ。じゃあ、開けた場所でいいわ。あそこ」
今度指を差したのは、会場の隅の方の出窓のあたりだった。休憩出来るように垂れ幕がかかっているのだが、完全に隔離はされていない。人目は遮ってしまうものの、入口には使用人通路がある。
まあ、あそこならいいか。変な事を企てたとしても、俺には護衛が付いてるって言ってたし。とりあえず賭けに出るか、と俺は了承した。
マリーベル嬢と俺はその休憩エリアに移動し、向かい合って立っていた。使用人たちも数名見えるし、ここならいいだろう。さて、話とはなんなのか。
俺が切り出す前に、彼女が口火を切った。
「単刀直入に申し上げると、アレクセイ殿下から離れて欲しいの」
ああ、やっぱりそう来るか。怠いな。俺は引き攣りそうになる口元を抑えるのに必死だった。
「アレクセイ殿下は私の運命の人なのよ。あんなに美しくて完璧で格好良くて、私に相応しい方は他に居ないの。貴方も綺麗な顔をして殿下を誑かすのはやめてちょうだい」
「……誑かしてないよ。俺たち愛し合ってるから」
俺がそう言うと、マリーベル嬢は怒り心頭という雰囲気で怒り始めた。
「ふざけないで!あなたが現れてから何もうまくいかない。私があの方の隣にいるべきなのに、あなたがずっと張り付いているから!」
「だって付き合ってるんだから当たり前でしょ」
俺は敬語も忘れて、マリーベル嬢に歯向かう。あれ、俺ってこんなだっけ。もう少しのらりくらりとかわせると思ったんだけど……アレクのことを言われると、どうにも頭に血が登りそうになる。
落ち着け、と思いつつ、とりあえずアレクが帰ってくるまでの時間稼ぎをしなくてはならない。ついでに、俺への戦意を無くしてアレクへの興味も無くしてもらえないだろうか。色々と考えて、俺は一つのシナリオを思いついた。ただ、これって結構アレクの尊厳を奪いそうなんだけど。どこまでアレクが空気を読んで協力してくれるかは分からないが、今はその方向でいくのが一番いいと思えた。
とりあえず俺は、気だるげな雰囲気で怪しく笑って見せた。俺の容姿と今日の服装がどういうものか、俺はきちんと理解している。
案の定、マリーベル嬢は一瞬だじろいだ。
「あのさ、俺っていい男でしょ?」
「……き、急に何を言い出すの」
「俺ってめっちゃ綺麗だし、人を翻弄するのが大好きなんだよね」
それは嘘だけど。いや、アレクに関しては本当かも。
「さっきアレクは完璧な男だって言ったけど、そうかな?俺の前ではいつも従順で、俺にぞっこんなんだよ。あなたはアレクに完璧な王子様を求めてるみたいだけど、本当のアレクの姿はそうじゃない。俺に翻弄されたくて、従いたくて仕方がないんだ。俺がいないと駄目なんだよ」
「……そんなはず……」
「いつも女性をエスコートして笑顔を振りまいて、そんな完璧な男を隣に置きたいだけなんだろ?だったらアレクは無理だ。あなたを満足させてやれないし、そもそもアレクは俺じゃないと満足できない」
アレク、ごめん。アレクを俺に依存している男みたいな言い方をしてしまった。
マリーベル嬢の瞳が僅かに揺れる。やっぱりな。マリーベル嬢は、ただ理想の王子様が欲しいだけなのだ。アレクセイという一人の人間を愛している訳じゃない。理想じゃない人間なら、マリーベル嬢は要らないはずだ。
その時、早歩きでこちらに向かってくる足音が聞こえた。垂れ幕をくぐり抜けて現れたのは、やはりアレク本人だった。大方俺がマリーベル嬢に連れていかれたのを侍従から報告され、慌てて戻ってきてくれたに違いない。本当に優しいよなあ。
「マクシム!」
「アレク、おかえり」
俺の方に近付いてきたアレクは、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。マリーベル嬢には一目もくれなかったので、俺の少しくさくさとしていた心もすっと晴れていく。件のマリーベル嬢は、愛しのアレクセイが来た事でほんの少し頬を赤らめていた。普通に可愛いんだから、正攻法でおとせばよかったのにな。そしたら俺の出番は無かったはずだ。今後もアレクとは知り合いもせず、暮らしていただろう。
……さて、お願いだから協力してくれよ、アレク。そもそもこんなのに巻き込んだのはお前だしな。
俺はアレクの頬に手を添えて、するりと撫でた。
アレクははっとして、俺を見遣る。偽装恋人の事を思い出したようだ。何しろマリーベル嬢の目の前という格好の舞台である。偽装恋人としての演技を今やらなくていつやるのか。
いつものように、アレクは俺の腰に腕を回そうとした。しかし俺はそれを静止する。
アレク、屈辱かもしれないがどうか耐えてくれ……。俺は手を出して、すっと下の地面を指さした。
地面を指さされたアレクは、何をすべきか一瞬で理解したようだった。しかし戸惑った様子で立ち尽くしてしまう。
俺は目配せして、再度地面を指さした。アレク付きの侍従が慌てて垂れ幕を引き、そこは密室空間となった。アレクといいアレクの部下といい、みんな頭の回転が早くて助かる。
マリーベル嬢すら驚愕に飲まれて無言の中、アレクは俺の方を見て固まっている。その瞳が「本気か?」と俺に問いかけているのは重々承知だったが、俺は折れない。微笑んでアレクに促した。アレクがそれを回避する策があるならそうしたら良い。もしそれが無くて、俺に従う事を厭わないなら、さあ……見せてくれ。
アレクと目が合う。困惑の表情はやがて穏やかに変化し、俺をじっと見つめてきた。そしてここに居るマリーベル嬢や侍従が息を飲む中……とうとうアレクは膝を折った。その場で俺に跪いたのだ。
王族は地面に足の裏以外を付けてはいけないという。それは降伏を意味し、王族にとっては何よりも屈辱的な行為だからだ。それをアレクにやらせた。分かっていて。
ああ!なんて快感なんだろう!
申し訳無いという気持ちの中に、俺に従うアレクへの愛が溢れて止まらなくなった。もちろんこれは俺が思い描いたマリーベル嬢回避のシナリオでしかない。アレクは乗ってくれているだけなのは分かっているが、まるで心の底から俺を愛してくれているように感じてしまった。
俺は跪くアレクに近付いた。いつもは見上げる顔が、今は俺の胸元より下にある。俺を少し不安げに見上げているその顔が、たまらなく愛おしい。
そのままアレクの胸元のタイを掴み、ぐいっと引っ張って上を向かせる。俺が何をしようとしているのか、多分その場の誰もが理解していたと思う。
ゆっくりと屈んで……俺はアレクに口付けた。唇を啄んでは離し、もう一度口付ける。顔を離してアレクの様子を伺った。
アレクは、ぼんやりと俺を見上げていた。先程までの困惑や不安は消え去り、ほんの少しだけ恍惚を感じているとすら思える表情で、真っ直ぐ俺を捉えている。
ああ、好きだ。可愛い俺のアレクセイ。
身分なんて今はどうでもいい。俺のために跪いてくれた目の前の人が愛おしくて堪らない。俺はもう一度アレクの唇に食らいつき、遠慮なく舌をアレクの口内に侵入させた。舌を絡めれば、まるで嫌がる素振りもなくアレクも俺の舌を受け入れる。それどころか、俺の舌と絡めあってくれた。むしろ勝手に俺の上顎をなぞるものだから、俺の方が変な声が出そうになる。
まるでお互いしか見えていない。そんな長いキスを終えて唇を離す頃には、すっかり息も絶え絶えで口の周りも濡れていた。すり、と俺が頬を撫でていると、マリーベル嬢の発狂したような声が聞こえた。あ、やべ。すぐそこに居たんだった……忘れてた。
「イヤよ、何それ!気色悪い。あなた達、なんなの?」
「なんなのって、これが俺たちだよ。分かった?」
「こんなの違うわ、私はアレクセイ殿下こそ勇ましくて優しくて、優秀な王子だと思っただけなのに。私に相応しい方がやっと現れたと思ったのに、こんな……穢らわしい!」
王族の尊厳を忘れ、俺みたいなやつに跪いて舌を絡めてキスをしていたアレクに、幻滅したかのような発言をしてマリーベル嬢は立ち去って行った。
残された俺たちだが……。俺は、盛大な気まずさに打ちひしがれている。いや、アレクに異様なまでに固執していたマリーベル嬢には、アレクから興味をなくしてもらうためにもこうするしかないと俺は思っただけだ。アレクが乗ってくれるかだけが問題ではあったが、結果的に俺の指示通りに動いてくれた。他にもしかしたらやり方があったかもしれない。ただ俺には咄嗟に思い付かなかっただけで。
でもさあ、ヤバいよな。王族を跪かせるってさ、俺不敬罪で処刑されたりしない……よな?
今更ながら焦る。確かに最高に優越感を感じ、何ならアレクからの愛すら感じてしまって暴走したんだけど。でもそんなわけが無いのは理解している。
何故か俯いてしまったアレクの肩を掴み、俺は彼を立たせた。
「ああ、マジで悪かった。とりあえず移動しよう」
「……」
俯き、何も言わないアレクが怖い。しかしこんな場所に長居してもおかしいので、とりあえずアレクの腕を引いて会場を後にした。休憩室に寄ってから帰るか、と思ったが、アレクが馬車の方に歩いていくので俺もそれに従う。
お互い無言のまま、同じ馬車に乗り込み帰路に着いた。あまりにもアレクが下を向いたまま言葉を発さないので、俺は冷や汗が止まらない。
色々やりすぎたか?だよなあ。魔性の男とかいって今までも色々アレクにやらせてたし、特に今回のはまずかったよな。いくら何でも王族を跪かせるなんて……。
しばらく馬車に揺られた後、俺たちは無事アレクの別邸に帰ってくることが出来た。どうするかと考える暇もなく、アレクは今度は俺の腕を掴むと、スタスタと自室の方に歩いていった。
俺が解放されるわけないか。いったいどんな処罰を受けるのやら……。
あの日、そそくさとその場を後にしたアレクだが、次の日には何事も無かったかのような態度だった。少しは俺の事を意識してドギマギしてくれたら面白いのになあ、と思ったが、当てが外れた。
変わらず毎日の送り迎えをしながら二ヶ月と少しが経った頃、アレクが約束してくれた俺の研究室が完成した。一旦王宮内の魔術研究室に作ってもらったそれは最新の設備と広々空間で超最高だった……現在俺の自宅脇にも専用のものを作ってくれているので、期待大だ。本当にこれだけでも偽装恋人を買って出た価値がある。ただそれ以上に、アレクと過ごす日々がなんだかんだ楽しい。すっかり慣れてキスのフリやら抱き合ったりはお互いお手の物だが、たまにどうでもいい近況の話なんかもしながら、手を繋いで帰る事もある。そうした日々にたまに無性に胸がキュンとしたり、ふわふわと嬉しい気持ちになったりもして、これって、なあ……と感じたりしなくもない。まあ元々俺はあまり悩まない人間なので、どうするかはこの偽装恋人が終わった時にでも考えればいいか、と思っている。
俺は羞恥心も無ければ、どうとでもなるだろ、精神なのだ。母譲りの。
さて、一旦約束の三ヶ月を間近に控えた頃、いつもの帰り道でアレクに話しかけられた。
「来週に兄上主催の仮面舞踏会がある。良ければ私と参加してくれないか」
「いいけど、俺いい感じの服とか仮面とか持ってない」
「そのあたりは、私の方で用意するよ」
「うん。でもなんでいきなり仮面舞踏会?」
「元より兄上からは招待を受けてはいたんだが……例の彼女も、参加者となっているみたいだ。一緒に参加して欲しいと昨日手紙が届いた」
「ああ、なるほどね」
そりゃ俺の出番か。しかし仮面舞踏会なあ……俺は子爵家の人間とはいえ私生児だし、社交界にも顔を出した事は無い。一通りの作法とかは学んできたものの、ダンスみたいなものは習った事が無いな。そう考えていたら、俺の腰に回っているアレクの手に力が籠った。……ちなみに、こうしてアレクが俺の腰を抱いて歩くのはもはや定番となっているのだ。最近では王宮の誰も気にしてくれない。
「それで、だ。仮面舞踏会までの期間、私の別邸で暮らさないか」
「は?」
「……少し心配しているんだ。仮面舞踏会の誘いを断られた彼女が、マクシムに危害を加えるんじゃないかと」
うーん。ぶっちゃけ、それはあまり無いと俺はにらんでいる。と言うのも、現段階ではまだ俺に接触してきていないのもあるし、あの日のクローゼット事件でも最中に飛び出してくるようなことも無かった。そして何より多分マリーベル嬢は超面食いだ。元々アレクに一方的な求婚を始めたのも、アレクのその王子様的な見た目に一目惚れしたからだと思う。
そして俺はこの通りの顔面だ。もしかしたら何か言ってくる可能性はあるが、傷付けるまではしてこない気がする。……というか多分だが、目の前にマリーベル嬢が現れたら俺に鞍替えさせる自信すらある。何しろ俺って、そういう人を翻弄する言動得意だから。
ただそれはそれで面倒だし、第三者を使って攻撃させる可能性もゼロでは無い。俺は頷いてみせた。
「分かった。ていうか、今アレクも別邸に住んでるんだっけ」
「ああ、別邸の方が警備を配置しやすいからな」
「ふうん。じゃあ一週間同棲するんだ。楽しみだな?」
「……」
楽しみだ、とは返してもらえなかった。ただ、アレクの耳がほんのり赤くなっているのが見て取れて、俺は心がギュッとした。
ああ可愛い!こんなに背も高くてしなやかとはいえ筋肉質な美形の男で、身分も高い正真正銘の王子なのに。俺なんかにそんなかわいい態度見せていいのか?
俺はこれからのつかの間の暮らしも仮面舞踏会も、楽しみになってきてしまうのだった。
アレクの別邸は王宮のほど近くにあった。大きな屋敷だが、ぐるりと門で囲まれていて、確かに警備の配置はしやすそうである。こういうのを見ると本当に身分が高い人なんだよなあと実感する。
俺に宛てがわれたのは、別邸内部の客間の中でも一際上等な部屋だった。貴賓室と言ってもいいくらい。俺の自宅よりも広そうな部屋で、中に一通りの水周り等の設備もある。食事もわざわざ料理人が作ってくれたものが届けられるし、俺付きの使用人すら一人付けてくれた程だ。
至れり尽くせり。まさにこの言葉に尽きる。
しかし当の本人、この屋敷の主とはあまり会えないでいた。俺をこの家に送った後、仕事が残っているようで執務室に行ってしまうからだ。まあ学校卒業したてで、色々とこれから政務にも携わっていく身だ。やらなきゃいけない事が山積みなんだろう。
でも、せっかくの同棲期間なのにこれは寂しいだろ。俺は送ってもらい、いつものように執務室に行こうとするアレクの服の裾を掴んだ。
「なあ、今日は何時くらいまで仕事するつもりだ?」
「……分からないが、日付は変わらないと思う」
「じゃあさ。仕事終わったら俺の部屋来てよ。一緒に飯でも晩酌でもしよう」
「……」
「ずっと放置されて俺は寂しい。たまにはいいだろ?」
「まあ、構わないが……」
うろうろと視線をさ迷わせるアレクだが、嫌がっている素振りでは無かった。俺はにこりと笑って「じゃあ待ってるから」と言い、踵を返した。
この屋敷の中で、俺とアレクが偽装恋人なのを知っている人間はほとんど居ない。アレクの側仕え数人だけで、基本的に使用人たちは俺とアレクが本当に付き合っていると思っている。どこから話が漏れてバレるか分からないからな。
お陰様で、「俺の部屋に来てよ」なんてやり取りを屋敷の玄関先でしたものだから、使用人が気を使ってくれたようだ。俺の部屋には上質なバスローブといい匂いのする香油、高級な酒とつまみが用意されていた。……アレだな、そういうことを今日はやるんだと思われてるよなこれは。
ちょっと笑いそうになりながらも、俺は用意された酒とつまみを手にカウチの方に移動した。さすがにバスローブ姿で出迎える訳にもいかない。
しばらく一人で晩酌をしていると、コンコンとドアがノックされる。
「はい」
「私だ」
「開いてるよ、どうぞ」
鍵をかけないなんて不用心だな、と言いながら、アレクが部屋に入ってきた。まだ全然夜中とも言えない時間だから、もしかしたら俺のために少し早めに仕事を切り上げてくれたのかもしれない。優しいなあとほっこりしつつ、アレクに向かいに座るよう視線で促した。
アレクはラフなシャツ姿だった。いつも王宮でしか見かけないから、かっちりとした正装しか見た事が無かった。やっぱりそういう服装だと、優男な雰囲気のアレクも意外と筋肉質なのが分かるなあ。この国の王族の男たちは、学生の時に騎士団の演習にも参加するという。だからこんな体格がいいのかな。
なんて勝手に思いつつ、アレクの前にグラスを置いた。
「あれ、年齢的にアレクって酒飲めるっけ」
「我が国は十八歳以上と義務付けられているから、飲めるは飲めるんだが……王族は飲酒に関しても訓練を受けてからじゃないと飲めない事になっているから、まだ私は飲めない」
「訓練?」
「社交の場に出る事も多いから、酒には強くならないといけなくてね」
「はあ、大変だな」
王族って、息苦しそうだ。とりあえず俺は他に用意されていたいくつかの酒の中に、ノンアルコールのボトルもあった事を確認した。それを開栓して、アレクのグラスに注いでやる。
「じゃ、お疲れ。乾杯」
「乾杯」
グイッと半分飲み干す俺と比べて、アレクは上品にグラスを傾けて一口飲むだけだった。それだけなのにサマになりすぎるのは、やはり王族だからテーブルマナーとかも染み付いてるんだろうな。俺みたいな私生児とは違う。
なんとなく寂しい気持ちになりながらも、まあそもそも偽装恋人の件が無かったら知り合いもしなかった俺たちだもんな、と改めて思った。
そこからしばらく俺たちは会話を楽しんだ。あまりこうして座ってきちんと喋った事はなかったと思う。周りに見せつけるためにわざと送り迎えの時間を一緒に過ごしたので、多少のたわいも無い会話はあったものの、ここまでじっくりと言葉を交わすことはなかった。
初めてアレクの仕事とか、やりたいことなんかも聞いた。代わりに俺の魔術研究の話もしたが、アレクは魔術の適性が無かったみたいでかなり興味津々で可愛かった。
しばらくそんな話をしながら、俺は改めて口を開く。
「まあそれにしても、意図的とはいえこんなに周りにラブラブなところ見せつけまくってさ、大丈夫なの?」
「何が」
「いや、本命とかできたら面倒だろ。あのマクシミリアンと付き合ってたんですよね!てなったりさ。あと偽装恋人を解消して別れたあとも周りがうるさそうだし」
「それは確かにそうだな。マクシムと付き合う事がここまで話題になるとは思わなかった。兄上たちは恋人ができても、そこまで誰も騒がないのに」
俺だって、過去に誰かと付き合っててもここまで周りがうるさくなったことはない。多分、誰もが期待する大人気の第三王子と、魔性の男の俺、ていう取り合わせが面白おかしくて、ゴシップにはぴったりなんだろうな。
俺は苦笑した。
「まあアレクがいいならいいけど」
「私は別に困ってない。マクシムが良いなら良いよ」
「俺は別に。前から色んな噂もされるし、評判なんて酷いもんだからな。本当に、よく俺に頼んだよなこんな事」
俺が笑うと、アレクは少し考える素振りを見せた。
「マクシムが適任だと思ったんだ。貴方は人気がある上に、人の扱いがうまい。そしてその実不真面目でないのは、素行から分かっていた。もので釣るような真似をして……こんな事に巻き込んでしまって申し訳無いと思う」
「今更?」
「……彼女の言動は度を超えていて、心が疲弊しきっていたからこそこんな事を頼んでしまった。でも何よりも……最近は、マクシムと会えれば心強くて、癒されて……いや、少しばかり貴方の言動には驚かされるけれども。でも彼女への恐怖心は無くなった」
癒されて……?俺と過ごすことで?
俺の容姿だけでなく、忌憚ない態度や翻弄する言動を買ってくれているのは分かる。でも一緒に過ごす事で心強くなって癒されるなんて、言われると思わなかった。
むしろ、今までどんな人間にもそんな風に言われたことは無い。恋人にも、誰だって。
心臓が痛い。いや……ちょっと待ってくれ。こういうのはきちんと考えたくない。そもそも俺は平民の母を持つ私生児だぞ。こんな正真正銘の王子様と本当にどうこうなれる訳でもない。落ち着け。
でもとりあえず今は。
「キスしたいな」
「……は……」
無性にキスしたい。だって、そんな可愛いこと言われたらそりゃもうしたいだろ。先日実際にしちゃった事だし、一回すれば二回も三回も変わらない。
突然そんな事を言い出した俺に、アレクは驚いた様子で固まってしまった。そしてしばらくして、はあ、とため息をついた。
「マクシムって本当に、羞恥心をどこかに置いてきてしまったんだろうか」
「俺だって恥ずかしいことは恥ずかしいよ。ただ今はアレクとキスしたいなって思っちゃっただけで。で、していい?」
俺が立ち上がりアレクの隣に腰掛けると、アレクはあからさまに動揺した。
「何故?ここは誰も見ていないし、見せつける必要もないのに」
「理由が無いとキスしちゃいけないわけ?」
「……そうだ、だって私たちはあくまで偽りの……」
「だからってさ、しちゃいけない訳でもないだろ?したいからする、本能だよ」
屁理屈を言わないでくれ、と言うアレクの肩に手を置いた。明らかにビクッと身体を揺らすので、あまりにも可愛くて笑いそうだった。
こんなに格好良くてキラキラした王子様なのに、実は可愛くて心根は優しいなんてさ。そんなの俺みたいなのが寄ってくるから駄目だよな。
俺はそっと顔を近付けた。別に嫌なら振り払われるだろうと思ったが、アレクはそうしなかった。俺の方を見ながら困惑して固まっている。しかし俺を拒む様子は無かった。そう、そのまま受け入れて、俺を。
ちゅ、と唇が触れた。本当に触れるだけで、別に貪るようなキスなんてしてない。さすがにそれは付き合ってもないのに駄目だよなあ、と思って唇を離した。
目の前にいるアレクは、未だ困惑の最中にいるようだ。でもその目元がほんのり色づいてるの、この距離だとバレてるぞ。
ああ……なんて可愛いんだろう。俺は満足して、アレクの手を取り絡ませて握った。そしてアレクの肩に頭をこてんと預ければ、その肩がぴくりと反応するから笑ってしまった。
一日の終わりとしては、最高に気分がいい。このままこんな時間が続けばいいのになあなんて思いつつ、これは期間限定だった事を嫌でも思い出してしまう。ただ……今だけはそんな事も忘れて、浸っていたい。
俺は目を閉じて、酒が残っていたグラスを傾けるのだった。
───────
仮面舞踏会とはどんなものなのか。普通の舞踏会にも参加した事がない俺は分からなかったが、要は仮面を付けて身分を隠し、無礼講のような雰囲気で進むパーティーのようだった。ただ、昔は本当に顔を覆い隠す仮面をつけて身分をひた隠しにした時代もあったようだが、今の主流は目元だけを隠すので、ほとんど知り合いであれば身分なんてバレバレらしい。
結局は身分関係なくはしゃぐための大義名分、という訳だ。しかも今回は主催が王家の人間なので、仮面を付けたら楽しいよねくらいの普通の舞踏会らしい。俺はマナーくらいなら習っているが、社交の場でのダンスなんて全く教わった事も無かった。しかしアレクが俺は踊らなくていい、というので、結局練習はしていない。そもそも舞踏会は、男女で踊るものらしい。アレクは俺と参列することで誰とも踊らずに回避したい、という算段のようだ。
礼服はアレクがどこかの店に頼んで、超特急で俺用のものを作らせていた。当日出来上がったそれを見て驚いた。人生の中でも一番と言っていいくらい、豪華な衣装だったからだ。全体的には厳かな雰囲気だが、要所要所に施された金色の刺繍が美しい。濃紺のそれはまるでアレクと対になる伴侶のために作られたような出来栄えで、これを俺が着ていいのか?とすら思った。
早速それを着て、特注の仮面もつける。俺付きの使用人が髪の毛も綺麗に整えてくれたおかげで、俺はとんでもなくミステリアスな男の仕上がりになっていた。
これ、いい感じじゃないか?マリーベル嬢に打ち勝つには、これくらい怪しげな美しい男の方が良いだろう……自分で言うのも難だけど。
「マクシム、用意はできたか?」
「できたよ」
部屋に入ってくるなり、アレクは息を飲んだ。分かる、いつもの俺より数倍怪しいもんな。アレクの方も、灰色を基調とした礼服に身を包んでいた。本当は俺と対になるために黒色にしたかったようだが、黒は元々社交場では向かない色らしい。仕方なく灰色に落ち着いたとの事だ。
しかしデザインは俺たちが揃って一つになるような装いになっていて、俺はとても気に入った。ただまあ、こんなのを着て社交界に赴くなんて……また噂されるだろうなと思わなくもないけど。
用意された馬車に乗り、俺たちは王宮のホールの方に向かった。馬車の中で向かいに座るマクシムを盗み見る。今日はいつもより髪型もかっちりしていて、後ろに流していた。流れるような金髪が綺麗で、本当にいい男だよなあとしみじみする。
程なくして、馬車がホールの入口に到着した。さて、ここからは戦場だ。貴族たちの相手はマクシムがするだろうが、参列者であるマリーベル嬢がどう出てくるか。何事も無ければそれでいい。ただ、最近アレクと接触出来ない腹いせに何かを仕掛けてくる可能性は大いにある。何しろ、アレクの自室に忍び込むような女だからな。もしかしたら俺にも接触してくるんじゃないか?と思っているけど、果たして。
意を決して、俺たちはホールへと足を踏み入れるのだった。
中はさすがの王宮、王家の人間主催の舞踏会という感じだ。豪華絢爛なのはもちろんの事、参列者たちも気合いの入った装いだ。軽食は用意されているが、中央では手を取りあった男女が演奏に合わせて踊っていた。
なるほど、こりゃあ俺には無理だ。一朝一夕でこんなダンスが出来るようになるわけが無い。
ホールの中を回る係からシャンパングラスを受けとり一口飲んだところで、隣にいたアレクがひっそりと口を開いた。
「あまり一人にならないように注意してくれ。基本的に私の傍を離れないようにして欲しいんだが、兄上に挨拶に行く時はマクシムを置いていくことになる。もしかしたら彼女が接触してくるかもしれないから、気をつけて欲しい」
「分かってるよ。俺、上手くやれる自信しかないから」
「……あまり大事は控えて欲しいけれど。それともちろんマクシムには分からない距離から数人の護衛を付けているから、そこは安心してくれ」
「ありがとう、ダーリン。むしろアレクもひとりにならないよう注意してくれよ」
そう言ってアレクの腕に手を絡めて、頬にキスをした。アレクははあ、とため息をつくだけで、照れてくれなかった。
あの部屋飲みの日以降、ちまちまとこうして頬にキスをしたり、なんなら唇にまでキスをする事も何度かあった。一度したら何度だって同じだろ精神の俺は、タガが外れたのだ。そして勝手にキスしてくる俺に、アレクは慣れたのかあまり照れてくれなくなった。寂しい。
ただあえて翻弄したくて唇を舐めたりすると、と途端に耳を赤くしたりしてくれるのだが。さすがにこの場所でできるわけもないので、止めておこう。
俺とアレクは歓談しながら、会場の端の方で中央を眺めていた。時折アレクに話しかけに来る貴族をアレクが対応しつつ、俺たちはべったりとして離れなかった。そのおかげか、ちらちらと視線を感じる。そもそも仮面をしていたって、どう見ても第三王子殿下と魔性の男なのはバレている。たまにヒソヒソと遠くから噂されるのは良い気もしなかったけど、仕方ない事だ。
しばらくして、遅れてやってきた参加者達がいた。その中に……いた、マリーベル嬢だ。レディらしい清楚な装いで可憐な雰囲気である。本人自体は可愛い女性なので、見知らぬ男たちが秋波を送っているのを見かけた。
彼女はちらりともこちらを見なかったが、多分俺たちが揃って来ている事は把握してるだろう。さて、何かをしかけてくるんだろうか。何事も無ければいいけど。
「じゃあ、兄上に挨拶をしてくる。くれぐれも気をつけて欲しい」
「うん。まあ、大丈夫だろ」
心配そうなアレクだったが、渋々といった感じで俺から離れていった。こういう時多分俺が貴族で当主とかだったら、王族の方への挨拶も行けたんだと思う。そもそももしそうだったらダンスも踊れたし、社交界デビューだつて出来てただろうな。なんて考えたら少ししょんぼりしてしまった。
とりあえず嫌な事は忘れよう、と俺はシャンパンを煽った。
一人となった俺は無数の不躾な視線を浴びせられていた。ほとんどが俺を揶揄するような視線だったが、中にはなんとなく湿った空気の視線も感じた。多分俺が魔性の男で、こんな見た目なので興味を引かれているんだろう。しかもあの第三王子と付き合っている、とされている男だ。そういう具合が気になる輩もいるかもな。
ああ、気色悪い。アレク、はやく帰ってきてくれと思いながら、俺はシャンパンのグラスをあおっていた、その時だった。
「あの」
「……」
後ろから声をかけられた。鈴が転がるような美しい女性の声だ。やっぱり来たか……。
俺は振り返った。
案の定、そこに居たのはマリーベル・レノワ本人だった。間近で見る彼女は仮面をしていてもとても可愛いし、清廉な雰囲気もある。とてもじゃないがアレクに付きまとって婚姻を迫ったり、部屋に忍び込んで色仕掛けをしようと目論む人間には見えないから恐ろしい。
俺は平静を装い、にこりと笑った。
「はい、何でしょう」
「少しお話したいの。来て下さる?」
ちらり、と指さしたのは、いくつか設けられている休憩室のうちの一つだった。うーん、嫌だな。あんな密室だと他人の目が無くて、何されるか分からないし。その手には乗らないぞ、と俺は再び取り繕って笑顔を浮かべた。
「未婚のレディと休憩室には行けませんよ。ここでは話せない事でしょうか?」
「ええ。じゃあ、開けた場所でいいわ。あそこ」
今度指を差したのは、会場の隅の方の出窓のあたりだった。休憩出来るように垂れ幕がかかっているのだが、完全に隔離はされていない。人目は遮ってしまうものの、入口には使用人通路がある。
まあ、あそこならいいか。変な事を企てたとしても、俺には護衛が付いてるって言ってたし。とりあえず賭けに出るか、と俺は了承した。
マリーベル嬢と俺はその休憩エリアに移動し、向かい合って立っていた。使用人たちも数名見えるし、ここならいいだろう。さて、話とはなんなのか。
俺が切り出す前に、彼女が口火を切った。
「単刀直入に申し上げると、アレクセイ殿下から離れて欲しいの」
ああ、やっぱりそう来るか。怠いな。俺は引き攣りそうになる口元を抑えるのに必死だった。
「アレクセイ殿下は私の運命の人なのよ。あんなに美しくて完璧で格好良くて、私に相応しい方は他に居ないの。貴方も綺麗な顔をして殿下を誑かすのはやめてちょうだい」
「……誑かしてないよ。俺たち愛し合ってるから」
俺がそう言うと、マリーベル嬢は怒り心頭という雰囲気で怒り始めた。
「ふざけないで!あなたが現れてから何もうまくいかない。私があの方の隣にいるべきなのに、あなたがずっと張り付いているから!」
「だって付き合ってるんだから当たり前でしょ」
俺は敬語も忘れて、マリーベル嬢に歯向かう。あれ、俺ってこんなだっけ。もう少しのらりくらりとかわせると思ったんだけど……アレクのことを言われると、どうにも頭に血が登りそうになる。
落ち着け、と思いつつ、とりあえずアレクが帰ってくるまでの時間稼ぎをしなくてはならない。ついでに、俺への戦意を無くしてアレクへの興味も無くしてもらえないだろうか。色々と考えて、俺は一つのシナリオを思いついた。ただ、これって結構アレクの尊厳を奪いそうなんだけど。どこまでアレクが空気を読んで協力してくれるかは分からないが、今はその方向でいくのが一番いいと思えた。
とりあえず俺は、気だるげな雰囲気で怪しく笑って見せた。俺の容姿と今日の服装がどういうものか、俺はきちんと理解している。
案の定、マリーベル嬢は一瞬だじろいだ。
「あのさ、俺っていい男でしょ?」
「……き、急に何を言い出すの」
「俺ってめっちゃ綺麗だし、人を翻弄するのが大好きなんだよね」
それは嘘だけど。いや、アレクに関しては本当かも。
「さっきアレクは完璧な男だって言ったけど、そうかな?俺の前ではいつも従順で、俺にぞっこんなんだよ。あなたはアレクに完璧な王子様を求めてるみたいだけど、本当のアレクの姿はそうじゃない。俺に翻弄されたくて、従いたくて仕方がないんだ。俺がいないと駄目なんだよ」
「……そんなはず……」
「いつも女性をエスコートして笑顔を振りまいて、そんな完璧な男を隣に置きたいだけなんだろ?だったらアレクは無理だ。あなたを満足させてやれないし、そもそもアレクは俺じゃないと満足できない」
アレク、ごめん。アレクを俺に依存している男みたいな言い方をしてしまった。
マリーベル嬢の瞳が僅かに揺れる。やっぱりな。マリーベル嬢は、ただ理想の王子様が欲しいだけなのだ。アレクセイという一人の人間を愛している訳じゃない。理想じゃない人間なら、マリーベル嬢は要らないはずだ。
その時、早歩きでこちらに向かってくる足音が聞こえた。垂れ幕をくぐり抜けて現れたのは、やはりアレク本人だった。大方俺がマリーベル嬢に連れていかれたのを侍従から報告され、慌てて戻ってきてくれたに違いない。本当に優しいよなあ。
「マクシム!」
「アレク、おかえり」
俺の方に近付いてきたアレクは、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。マリーベル嬢には一目もくれなかったので、俺の少しくさくさとしていた心もすっと晴れていく。件のマリーベル嬢は、愛しのアレクセイが来た事でほんの少し頬を赤らめていた。普通に可愛いんだから、正攻法でおとせばよかったのにな。そしたら俺の出番は無かったはずだ。今後もアレクとは知り合いもせず、暮らしていただろう。
……さて、お願いだから協力してくれよ、アレク。そもそもこんなのに巻き込んだのはお前だしな。
俺はアレクの頬に手を添えて、するりと撫でた。
アレクははっとして、俺を見遣る。偽装恋人の事を思い出したようだ。何しろマリーベル嬢の目の前という格好の舞台である。偽装恋人としての演技を今やらなくていつやるのか。
いつものように、アレクは俺の腰に腕を回そうとした。しかし俺はそれを静止する。
アレク、屈辱かもしれないがどうか耐えてくれ……。俺は手を出して、すっと下の地面を指さした。
地面を指さされたアレクは、何をすべきか一瞬で理解したようだった。しかし戸惑った様子で立ち尽くしてしまう。
俺は目配せして、再度地面を指さした。アレク付きの侍従が慌てて垂れ幕を引き、そこは密室空間となった。アレクといいアレクの部下といい、みんな頭の回転が早くて助かる。
マリーベル嬢すら驚愕に飲まれて無言の中、アレクは俺の方を見て固まっている。その瞳が「本気か?」と俺に問いかけているのは重々承知だったが、俺は折れない。微笑んでアレクに促した。アレクがそれを回避する策があるならそうしたら良い。もしそれが無くて、俺に従う事を厭わないなら、さあ……見せてくれ。
アレクと目が合う。困惑の表情はやがて穏やかに変化し、俺をじっと見つめてきた。そしてここに居るマリーベル嬢や侍従が息を飲む中……とうとうアレクは膝を折った。その場で俺に跪いたのだ。
王族は地面に足の裏以外を付けてはいけないという。それは降伏を意味し、王族にとっては何よりも屈辱的な行為だからだ。それをアレクにやらせた。分かっていて。
ああ!なんて快感なんだろう!
申し訳無いという気持ちの中に、俺に従うアレクへの愛が溢れて止まらなくなった。もちろんこれは俺が思い描いたマリーベル嬢回避のシナリオでしかない。アレクは乗ってくれているだけなのは分かっているが、まるで心の底から俺を愛してくれているように感じてしまった。
俺は跪くアレクに近付いた。いつもは見上げる顔が、今は俺の胸元より下にある。俺を少し不安げに見上げているその顔が、たまらなく愛おしい。
そのままアレクの胸元のタイを掴み、ぐいっと引っ張って上を向かせる。俺が何をしようとしているのか、多分その場の誰もが理解していたと思う。
ゆっくりと屈んで……俺はアレクに口付けた。唇を啄んでは離し、もう一度口付ける。顔を離してアレクの様子を伺った。
アレクは、ぼんやりと俺を見上げていた。先程までの困惑や不安は消え去り、ほんの少しだけ恍惚を感じているとすら思える表情で、真っ直ぐ俺を捉えている。
ああ、好きだ。可愛い俺のアレクセイ。
身分なんて今はどうでもいい。俺のために跪いてくれた目の前の人が愛おしくて堪らない。俺はもう一度アレクの唇に食らいつき、遠慮なく舌をアレクの口内に侵入させた。舌を絡めれば、まるで嫌がる素振りもなくアレクも俺の舌を受け入れる。それどころか、俺の舌と絡めあってくれた。むしろ勝手に俺の上顎をなぞるものだから、俺の方が変な声が出そうになる。
まるでお互いしか見えていない。そんな長いキスを終えて唇を離す頃には、すっかり息も絶え絶えで口の周りも濡れていた。すり、と俺が頬を撫でていると、マリーベル嬢の発狂したような声が聞こえた。あ、やべ。すぐそこに居たんだった……忘れてた。
「イヤよ、何それ!気色悪い。あなた達、なんなの?」
「なんなのって、これが俺たちだよ。分かった?」
「こんなの違うわ、私はアレクセイ殿下こそ勇ましくて優しくて、優秀な王子だと思っただけなのに。私に相応しい方がやっと現れたと思ったのに、こんな……穢らわしい!」
王族の尊厳を忘れ、俺みたいなやつに跪いて舌を絡めてキスをしていたアレクに、幻滅したかのような発言をしてマリーベル嬢は立ち去って行った。
残された俺たちだが……。俺は、盛大な気まずさに打ちひしがれている。いや、アレクに異様なまでに固執していたマリーベル嬢には、アレクから興味をなくしてもらうためにもこうするしかないと俺は思っただけだ。アレクが乗ってくれるかだけが問題ではあったが、結果的に俺の指示通りに動いてくれた。他にもしかしたらやり方があったかもしれない。ただ俺には咄嗟に思い付かなかっただけで。
でもさあ、ヤバいよな。王族を跪かせるってさ、俺不敬罪で処刑されたりしない……よな?
今更ながら焦る。確かに最高に優越感を感じ、何ならアレクからの愛すら感じてしまって暴走したんだけど。でもそんなわけが無いのは理解している。
何故か俯いてしまったアレクの肩を掴み、俺は彼を立たせた。
「ああ、マジで悪かった。とりあえず移動しよう」
「……」
俯き、何も言わないアレクが怖い。しかしこんな場所に長居してもおかしいので、とりあえずアレクの腕を引いて会場を後にした。休憩室に寄ってから帰るか、と思ったが、アレクが馬車の方に歩いていくので俺もそれに従う。
お互い無言のまま、同じ馬車に乗り込み帰路に着いた。あまりにもアレクが下を向いたまま言葉を発さないので、俺は冷や汗が止まらない。
色々やりすぎたか?だよなあ。魔性の男とかいって今までも色々アレクにやらせてたし、特に今回のはまずかったよな。いくら何でも王族を跪かせるなんて……。
しばらく馬車に揺られた後、俺たちは無事アレクの別邸に帰ってくることが出来た。どうするかと考える暇もなく、アレクは今度は俺の腕を掴むと、スタスタと自室の方に歩いていった。
俺が解放されるわけないか。いったいどんな処罰を受けるのやら……。
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