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ブレンドコーヒー
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30分ほど歩いて、小さな喫茶店に入った。ここは静かに過ごしたい大人たちが入るような、昔ながらのサイフォン式コーヒーを出してくれるお店だ。デザインも多少古いけど、マスター手作りのサイドメニューはとても美味しい。
「マスター、こんにちは。私ブレンドお願いします。ちょっと込み入った話になるから奥でいいですか?」
「いいですよ。そちらの彼氏は初めてですよね? どうぞ席でメニュー表をご覧ください」
「あ、彼女と同じのでいいです」
マスターが現地まで直接行って仕入れたコーヒー豆を、苦みが少なく一般的に飲みやすいようにブレンドされたコーヒーを頼んだ。カチャカチャとガラスや手回しのコーヒー豆ミルの音が静かな音と、コーヒーの香りが心を落ち着かせる。
コーヒーを数口飲みながら少し会話をしたあと、本題を切り出した。
「二週間前、駅近くのコンビニ前の歩道で、先輩の目の前で小柄な女性が立ち止まったのを覚えていますか?」
「何の話?」
唐突に、そんな事を言われた彼は、わけがわからないという表情でそう言った。全く心当たりはないようだ。
ですよねーって想像通りの返答にため息が零れそうになるのをコーヒーを飲んで誤魔化す。
「基本は車との対面を歩くのがマナーだとはいえ、正面から来ていた女性を、進路を邪魔されたからいきなり怒鳴りつけたでしょう? 見ていた人がいるんです」
「一体、何の事を……」
「忘れているんですね。とにかく、相手が、小柄なクソババアの老害で、絶対に勝てる相手になら、普段からそうしているって事ですかね? それとも、大柄でいかにも怖そうな相手にも同じようにされますか?」
「……それは……そんな事、普段はしないよ」
一向にわけがわからないと首をかしげていた人も、私がここまで言うと思い出したのか、それとも、今まではしらばっくれていたのかわからないけれど、口と眉をしかめて黙り込んだ。
「あの時は、サークル活動で疲れていたし、ちょっと色々あってイライラしていて。だから、その……それに、なかなか退かない、仕事もしていないのに年金を貰っているような人が、なぜかすごく鬱陶しく思えたんだ……いつも、そんな風に怒鳴ったりなんかしていない。なんであんなことをしたのか……悪いことをしたって思ってる」
本当だ、信じてくれと言われても、私の心には響かなかった。一目見てわかる足の悪い人に対してなら、彼はその人に道を譲っているのかもしれないし、一時的な感情の爆発があったのかもしれない。
彼という人を良く知らないけれど、例え相手がマナー違反で進路妨害をされていてムカっとしても、私なら相手を避ける。私には健康な足があるし、相手はすぐに動けないほどの目に見えない何かを抱えている人だっているのだから。
「……先輩の気持ちは理解できなくもないです。イライラして自分でもありえない行動をする事だってあるでしょうから。でも、まだ30歳の姉を、クソババアの老害呼ばわりして消えてしまえとか、いきなり八つ当たり気味に暴言を吐いた人とはお付き合い出来ません。普段から年齢を重ねた方々をそんな風に思ってるってことですよね?」
「え? 姉……? まだ30歳? だって、あの時のおばさんは、年寄りしか使わないような黒いサンバイザーで顔を隠していたし、よれよれの服を着ていて、ゆっくり歩いていたから……とても、若い人には思えなかったんだ」
はぁ……やっぱりかー。人ってわからないものねと、飲んでいるコーヒーを見る。
因みに、姉から聞いた彼の言葉はこうだ。
『さっさとどけよ、クソババア! 邪魔すんなっての。老害はさっさと消えてしまえ! 迷惑なんだよ!』
彼にしてみても、まさかたまたま怒鳴っただけの出来事の相手が私の姉で、私の知人が見ていたなんて思ってもなかっただろう。
彼の告白さえなかったら、関わりたくないから黙っているつもりだった。
「……私が両親を亡くしている事は隠していないし、ボランティア活動の人たちは知っているから、先輩もおそらく知っていますよね? 姉は、親代わりに私を大学に通わせるために、贅沢はしていないんです。自分の事よりも私を一番に考えてくれています。毎日、想像も出来ないほどヘルパーとして立派にヘトヘトになるまで働いて、人手がないから夜勤明けでお昼過ぎまで残業をしているんです。あの日は、目眩がするから車から離れた安全な方を歩いていただけです」
「……ごめん。知らなかったんだ。知っていたら……」
「私の姉とか、目眩がするとかを知っていたら怒鳴らなかったですか? たぶん噂で聞いている通りの先輩ならそうだと思います。でも、私は誰も見ていなくても、相手が誰であれ、常に思いやりがあって快く譲り合える、そんな人がいいです。姉をお年寄りだと思っていたのなら、尚更避けて道を譲ってあげる優しさを持った人のほうがいいです」
一気にそう言ったあと、コーヒーを口に運ぶ。喉が痛いのはずっと喋っているからだけではない。心がざわめいて居心地が悪くなった。
「もう二度としないから。あの時は本当にどうかしてて。いつもはそんな事しない。お姉さんにも本当にごめん」
「先輩なら、初対面の身内を怒鳴った相手とお付き合いできるかもしれません。私は、そこまで心が広くないんです。大切な姉を傷つけられて、それでもお付き合いしたいとは思えないんです。あの後、姉はまた同じように怒鳴られるのが怖くて車道側を歩きだしました。そして、目眩がして車道側に倒れたんです……。その時、ロードバイクと事故を起こしました。先輩は直接事故とは関係ありませんが、姉が車道側を歩かなかったら起こらなかった事故だと思うんです」
「…………」
ここまで言うつもりはなかった。言わないと諦めてくれなさそうだったからって言い過ぎた。ちょっと気の毒だったかなと思った。
先輩の話は本当だろうし、反省してくれているみたい。それに、姉の事で、罪悪感を抱えちゃうかもって思うと、私まで心が重くなった。
「ああ、姉は軽傷なんで元気ですからそこは安心してくださいね。今までの聞いていた先輩の噂でも、悪く言う人はいなかったし、今もきちんと対応していくれていて……。私みたいに地味な女の子に、告白してくれる人なんてこれから先もいないだろうから、先輩の告白はびっくりしましたけれど嬉しかったです。姉の事がなかったら、周囲の女の子たちがちょっと怖いですけれど、先輩のお話を受けていたと思います」
「だったら、……僕にチャンスをくれないか?」
とりあえず、これで諦めてくれるだろうと思いきや、先輩は更に食い下がった。いやいや、もっと可愛くて明るくて、先輩を本気で好きな女の子なんていっぱいいるから、こんな女さっさとやめてそっち行って欲しい。
こういう場合、どうしたらいいですかね?
産まれてから男の人に告白なんてされた事のない私は、ほとほと困り果てて、温くなり始めたコーヒーを飲みほしたのである。
「マスター、こんにちは。私ブレンドお願いします。ちょっと込み入った話になるから奥でいいですか?」
「いいですよ。そちらの彼氏は初めてですよね? どうぞ席でメニュー表をご覧ください」
「あ、彼女と同じのでいいです」
マスターが現地まで直接行って仕入れたコーヒー豆を、苦みが少なく一般的に飲みやすいようにブレンドされたコーヒーを頼んだ。カチャカチャとガラスや手回しのコーヒー豆ミルの音が静かな音と、コーヒーの香りが心を落ち着かせる。
コーヒーを数口飲みながら少し会話をしたあと、本題を切り出した。
「二週間前、駅近くのコンビニ前の歩道で、先輩の目の前で小柄な女性が立ち止まったのを覚えていますか?」
「何の話?」
唐突に、そんな事を言われた彼は、わけがわからないという表情でそう言った。全く心当たりはないようだ。
ですよねーって想像通りの返答にため息が零れそうになるのをコーヒーを飲んで誤魔化す。
「基本は車との対面を歩くのがマナーだとはいえ、正面から来ていた女性を、進路を邪魔されたからいきなり怒鳴りつけたでしょう? 見ていた人がいるんです」
「一体、何の事を……」
「忘れているんですね。とにかく、相手が、小柄なクソババアの老害で、絶対に勝てる相手になら、普段からそうしているって事ですかね? それとも、大柄でいかにも怖そうな相手にも同じようにされますか?」
「……それは……そんな事、普段はしないよ」
一向にわけがわからないと首をかしげていた人も、私がここまで言うと思い出したのか、それとも、今まではしらばっくれていたのかわからないけれど、口と眉をしかめて黙り込んだ。
「あの時は、サークル活動で疲れていたし、ちょっと色々あってイライラしていて。だから、その……それに、なかなか退かない、仕事もしていないのに年金を貰っているような人が、なぜかすごく鬱陶しく思えたんだ……いつも、そんな風に怒鳴ったりなんかしていない。なんであんなことをしたのか……悪いことをしたって思ってる」
本当だ、信じてくれと言われても、私の心には響かなかった。一目見てわかる足の悪い人に対してなら、彼はその人に道を譲っているのかもしれないし、一時的な感情の爆発があったのかもしれない。
彼という人を良く知らないけれど、例え相手がマナー違反で進路妨害をされていてムカっとしても、私なら相手を避ける。私には健康な足があるし、相手はすぐに動けないほどの目に見えない何かを抱えている人だっているのだから。
「……先輩の気持ちは理解できなくもないです。イライラして自分でもありえない行動をする事だってあるでしょうから。でも、まだ30歳の姉を、クソババアの老害呼ばわりして消えてしまえとか、いきなり八つ当たり気味に暴言を吐いた人とはお付き合い出来ません。普段から年齢を重ねた方々をそんな風に思ってるってことですよね?」
「え? 姉……? まだ30歳? だって、あの時のおばさんは、年寄りしか使わないような黒いサンバイザーで顔を隠していたし、よれよれの服を着ていて、ゆっくり歩いていたから……とても、若い人には思えなかったんだ」
はぁ……やっぱりかー。人ってわからないものねと、飲んでいるコーヒーを見る。
因みに、姉から聞いた彼の言葉はこうだ。
『さっさとどけよ、クソババア! 邪魔すんなっての。老害はさっさと消えてしまえ! 迷惑なんだよ!』
彼にしてみても、まさかたまたま怒鳴っただけの出来事の相手が私の姉で、私の知人が見ていたなんて思ってもなかっただろう。
彼の告白さえなかったら、関わりたくないから黙っているつもりだった。
「……私が両親を亡くしている事は隠していないし、ボランティア活動の人たちは知っているから、先輩もおそらく知っていますよね? 姉は、親代わりに私を大学に通わせるために、贅沢はしていないんです。自分の事よりも私を一番に考えてくれています。毎日、想像も出来ないほどヘルパーとして立派にヘトヘトになるまで働いて、人手がないから夜勤明けでお昼過ぎまで残業をしているんです。あの日は、目眩がするから車から離れた安全な方を歩いていただけです」
「……ごめん。知らなかったんだ。知っていたら……」
「私の姉とか、目眩がするとかを知っていたら怒鳴らなかったですか? たぶん噂で聞いている通りの先輩ならそうだと思います。でも、私は誰も見ていなくても、相手が誰であれ、常に思いやりがあって快く譲り合える、そんな人がいいです。姉をお年寄りだと思っていたのなら、尚更避けて道を譲ってあげる優しさを持った人のほうがいいです」
一気にそう言ったあと、コーヒーを口に運ぶ。喉が痛いのはずっと喋っているからだけではない。心がざわめいて居心地が悪くなった。
「もう二度としないから。あの時は本当にどうかしてて。いつもはそんな事しない。お姉さんにも本当にごめん」
「先輩なら、初対面の身内を怒鳴った相手とお付き合いできるかもしれません。私は、そこまで心が広くないんです。大切な姉を傷つけられて、それでもお付き合いしたいとは思えないんです。あの後、姉はまた同じように怒鳴られるのが怖くて車道側を歩きだしました。そして、目眩がして車道側に倒れたんです……。その時、ロードバイクと事故を起こしました。先輩は直接事故とは関係ありませんが、姉が車道側を歩かなかったら起こらなかった事故だと思うんです」
「…………」
ここまで言うつもりはなかった。言わないと諦めてくれなさそうだったからって言い過ぎた。ちょっと気の毒だったかなと思った。
先輩の話は本当だろうし、反省してくれているみたい。それに、姉の事で、罪悪感を抱えちゃうかもって思うと、私まで心が重くなった。
「ああ、姉は軽傷なんで元気ですからそこは安心してくださいね。今までの聞いていた先輩の噂でも、悪く言う人はいなかったし、今もきちんと対応していくれていて……。私みたいに地味な女の子に、告白してくれる人なんてこれから先もいないだろうから、先輩の告白はびっくりしましたけれど嬉しかったです。姉の事がなかったら、周囲の女の子たちがちょっと怖いですけれど、先輩のお話を受けていたと思います」
「だったら、……僕にチャンスをくれないか?」
とりあえず、これで諦めてくれるだろうと思いきや、先輩は更に食い下がった。いやいや、もっと可愛くて明るくて、先輩を本気で好きな女の子なんていっぱいいるから、こんな女さっさとやめてそっち行って欲しい。
こういう場合、どうしたらいいですかね?
産まれてから男の人に告白なんてされた事のない私は、ほとほと困り果てて、温くなり始めたコーヒーを飲みほしたのである。
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