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「俺の連れに何か用ですか?」
「いや、後ろの女の子と話がしたくて。あの、そこを退いて貰えませんか?」

 省吾さんの手に力がこもる。資さんと省吾さんは一度会った事があるけれど、覚えていないみたいだ。薄暗い風景の街並みに灯がともる。閉演時間近いとはいえ、周囲には沢山の人たち行き交っていた。

「断る」
「なぜですか? あなたには関係ないでしょう」
「関係ならある。彼女は、俺の……大切な人だ。覚えてないようだが、あの時に、彼女に二度と近づくなと言ったはずだ」
「一体、何を言って……あ! お前、あの時の!」

 資さんが省吾さんに一歩近づいて、私を覗き込もうとしてくる。だけど、省吾さんがそれを体全体で阻止して、あの時の事を話した。すると、やっと省吾さんの事を思い出したようだ。

「お前と彼女はもう関係がないはずだ。名前も気安く呼ぶな」
「お前こそ、彼女とどういう関係なんだよ。彩音、もしかしてあの頃からこいつと二股かけてたのか?」
「なぜ、そういう下世話な事しか考えられない。自分がそうだからといって、彼女も同類だと思うな」
「じゃあ、なんだっていうんだよ。ま、そんな事はどうでもいい。とにかく、今は関係ないやつはひっこんでろよ」

 ふたりの声がだんだん大きくなった。周囲にいる人たちがじろじろ見てきているのにおかまいなしで、特に資さんが省吾さんに、掴みかかろうとする勢いで興奮している。

 このままでは、拉致があかない。あの時に捕まれた肩が、今は痛くないはずなのに手が震えて、とても怖いけれど、今は省吾さんがいる。
 目を閉じて深呼吸をした後、私を守ってくれている大きな背中から顔を出した。

「関係ならあるわ!」
「彩音ちゃん?」

 省吾さんが、私を見て戸惑っているのがわかる。もう一度、私を隠すために体を動かしてくれたけれど、首を振った。
 じっと省吾さんを見つめると、私が絶対に引かない事を悟った彼が小さくため息を吐いた。その後、ゆっくり私の隣に立つ。彼の手は私の手を握りしめたままだから、資さんが目ざとく手を見て厳しい視線を投げかけてきた。そんな彼を、省吾さんが牽制するように睨みつけている。

 あのままふたりの言い争いを止めなかったら、殴り合いのけんかになっていたかもしれない。視線を、省吾さんから資さんに移動させた。緊張でどうにかなりそうだ。何を言われるか怖くて身構える。

 すると、資さんは視線が合うや否や、いきなり頭を下げた。

「二度と近づくなって言われてたけど、さっき見かけたら声をかけるなら今しかないって思ったんだ。ごめん。あんな事、もうしないから、少しでいいから話を聞いてくれないか?」
「……少し、なら。だけど、それ以上近づかないでください」

 思っていたのと全く違う態度だったから、とてもびっくりした。省吾さんも驚いて彼をマジマジ見ている。すると、資さんは頭をあげて、一歩下がった。

「これ以上、一歩も近づかない。だから、そのまま聞いて欲しい。俺さ、あの時の事を謝りたくて、どうにかして連絡しようとしたんだ。だけど、お前のお兄さんから近づいたら容赦しないって言われて。お前、いいところのお嬢さんだったんだな。とんでもない相手に目をつけられたから、もう俺の人生は終わったって思ったよ……」
「……私が、いいところのお嬢さんだったから、謝って許してもらいたいの?」

 神妙に話す彼の表情は、申し訳なさと戸惑い、辛さが浮かんでいる。私に会えた懐かしさや、憎しみなどは一切ないように思えた。最後まで彼の話を聞こうとしたけれど、聞き捨てならない言葉があって遮ってしまった。

「違う、そうじゃなくて。言いたい事はそういうものじゃなくて……。最初はさ、お前の事を恨んだ。ちょっとした冗談だったのに、なんで俺がこんな目に合うんだって。就職先で、本来なら本社勤めだったはずが、小さな支社に変更されてるし、俺が参加していた金持ちのグループからも完全に追い出されたから。あの場所にいなきゃ、俺の価値が下がると思っていたし、実際、追い出されてからは落ちていく一方だった」
「……」

 私の言葉の意味を正確にとらえたのか、彼が慌てて言葉を紡ぐ。気持ちをどんなふうに言えばいいのか、悩みながら話している姿は、付き合っていた頃のスマートな彼からは想像つかなかった。

「でもさ、いやいや仕事に行っているだけの俺に、妹が言ったんだ。自分の治療費のために、難しい大学を卒業して、立派な会社に勤めて頑張ってくれてありがとうって。本来なら、俺はもっと高みにいて、妹にもっとたくさんの物を買ってやったり、高度な医療を受けさせてやれたはずなのに。でも、そんな風に言われて喜ばれたら、仕事をやめるなんて事は出来なかった」

 彼の妹さんは難病を抱えている。産まれた時から入退院を繰り返していて、生命保険にも掛けられなくて大変だと言っていた。助成金があるとはいえ、毎月大学生の彼が、家に仕送りをしなければならないほどお金がかかっていると打ち明けてくれた時の事を思い出して、胸が苦しくなった。
 私もこの数か月色んな事があった。同じように、彼にもたくさんの事があったのだろう。

「このまま、社会の片隅に埋もれてしまうのかと不貞腐れていたら、会社の人たちにも煙たがれ初めてさ……。今日一緒に来ている同僚が、そんな俺に声をかけてくれたんだ。その子と一緒に頑張っているうちに、今の俺が頑張る場所はここなんだって思えた。大学にいた頃の俺は、なんだってあんな風に馬鹿やってたんだろうって、反省したし後悔した。特に彩音には、酷い事をしたってやっとわかったんだ……。本当に、ごめん……」
「私、あの時の事は本当に辛かった。周りにいる人たちの支えが無かったら、あのまま大学をやめて実家に戻ってたと思う。だから、私の事をセフレって言って乱暴したあなたには、二度と会いたくなかった……。ひとつ、聞いていいかな?」

 肩を落として、頭を下げながら謝り続ける彼に、私の気持ちと疑問をぶつけた。すると、地面に落としていた顔をあげてじっと見つめてきた。

「なんだ?」
「……去年さ、私と一緒にいた時間は、あれも、全部嘘だったの?」
「今更だから信じてもらえないだろうけど、俺なりに彩音を大切にしていたし、好きだと真剣に思っていた」

 今年の冬、傷ついて彼の事が信じられなくなって、ひとり涙を流しながら聞きたかった言葉をようやく聞けた。でも、心に小さな風が吹くくらいで、気持ちが揺れる事はないのが不思議だと思う。

「なら、あの時のセリフは、言葉のあやだって言った言葉を信じる。だけど、次からは私を見かけても声をかけてこないで欲しい」
「こうして聞いてくれただけでも十分だ。彩音には、いや、天川さんには幸せになって欲しいと思う」
「言われなくても」

 私は、隣にいる省吾さんの手をくいっと引いた。そして、握っていた手をほどいて腕をきゅっと掴む。

「ずっと私を守ってくれたこの人と一緒に、幸せになります。も、司法試験頑張ってください。一日も早く、妹さんが良くなるように祈ってます」
「……ありがとう」

 織幡さんが、もう一度深く頭を下げた後、一緒に来ていた女の子の所に戻る。とても仲が良さそうだと思ったけれど、今の私には関係ない。

 宙ぶらりんだった、彼とのが、ようやく終わりを告げたのだと、雑踏の中に消えていく彼らを静かに見送る事ができたのであった。
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