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私を見下ろして来る、気難しそうな顔をした省吾先生と無言で見つめ合う。この沈黙をどう切り抜けたらいいのかわからなくて途方に暮れていたところ、吉田さんが私の手を握った。
「天川さん、私はここから離れてしまうけれど、大丈夫? 一応、その男の人もお医者さんだから安心していいわ。え、っとね。男の人じゃなくて、女の人がいたほうがいいかしら?」
心配でたまらないといった表情で聞かれた。ひょっとして、私が男性に何かされたのかと思っているのかもしれない。
「あ、いえ。全然大丈夫です。あの、ありがとうございました」
「そう? 何かあったら呼んでね。すぐ隣の部屋にいるし、近くには看護師や人がいっぱいいるから」
慌てて否定しても、それが本当かどうか、心の中までも見透かされそうなほど見つめられた。彼女の気遣いと暖かい手が嬉しくて、不安で強張っていただろう顔の表情が和らいでいくのが自分でもわかった。ぽんぽん手を優しく叩かれたあと、吉田さんが立ち上がる。
「吉田さん、俺をなんだと思ってるんですか……」
「省吾先生ったら、そういう意味じゃなくって。こんな状況になるほどの事が起こったんですから、今はデリケートだっていう事ですよ。考えられる要因は全て排除してあげないと。じゃあ、仕事に戻りますから、この子の事お願いしましたよ?」
「あー……なるほど。……気を付けます」
優しそうで温かそうな微笑みで安心させてくれる吉田さんがいなくなるのは、少しどころかかなり心細いけれど、仕事の邪魔をしてはいけない。足早に隣の部屋の扉を開いて姿が消えた彼女のほうをじっと見ていると、視線を感じた。
「あと少し目を覚まさなければ救急車を呼ぶところだったんですよ。体温も上がったし血圧なども落ち着いていますが、一晩は様子を見たほうがいいです。家には家族かどなたかいますか?」
低い声は、びりびり響いてどことなく怖い感じがした。霙混じりの雨に長い間打たれるなんて正気の沙汰じゃない。私だって、そんな命を顧みない無謀な人を見たら呆れたり、場合によったらとても怒ると思う。彼が、敢えて説教せず、かといって不機嫌そうに見えるのは、きっとそんな考えだからだろう。
「あの、先生……。ご迷惑とご心配をおかけてすみませんでした。もう落ち着いたんで帰ります」
大きなソファから体を起こそうとした。けれど、柔らかいソファに体がめり込んでいるかのように動けない。体の機能がどうこうじゃなく、動こうとすればするほどソファに沈み込んでいった。
「ああ、ほら。身動きできないじゃないか。迎えの人を呼ぶからここで休んでて」
「いえ、ソファに埋もれただけで、その、体は動きます。あの、ひとり暮らしなので誰も来ませんからタクシーを呼んでいただければ」
「ひとり暮らしか……。誰か一緒にいてくれる人は?」
ぱっと頭に浮かんだのは、今朝まで恋人だと思っていた人だった。でも、彼にとっては恋人なんかじゃなかった。
胸がずきりと痛むけれど、今はそんな事を考えている場合じゃない。友達のしおんに話せば一緒にいてくれるだろう。だけど、あの子はバイトで大学の費用を稼いでいるから、バイトを休ませるわけにもいかない。
省吾先生の顔を見上げながら、首を横に振る。
すると、腕を組んだ彼が、点滴本体の残りと、ポタポタ雫が落ちる滴下筒を睨みつけて考えごとをして始めた。
「さっき色々訊ねてはみたんだが、近隣の病院は全て満床なんだ。人手がないのに、一晩外来で、来た患者だけでなく様子観察の患者を診ている病院もある。そこに、恐らくは入院するほどの症状ではない君を依頼するのも難しくて、だな。あー、どうするかなー」
私にどう伝えようか考えすぎて、おそらく無意識に敬語が抜けているのだろう。ぶつくさ独り言を言い続ける彼に、大丈夫だから帰るとも言いづらくて聞いていた。
どことなく、敬語を話す彼の姿がちぐはぐに思えたのは、普段の彼はこんな喋り方だからなのだろう。そういえば、ぼんやり聞いていた声も、こんな感じだったなと思った。
吉田さんが消えたドアから、彼に似た男性が出て来た。私の様子を伺いながら、省吾先生に先ほどの事を聞くと、にっこり笑ってこう言った。
「なんだ、そんな事か。うちに泊るといい。ひとりで一晩過ごすよりも、その方が安心だ。君だけでなく、我々もね」
「え? でも、そんな。悪いです!」
「このクリニックは入院するベッドがないけど、医者はたくさんいるからね。裏の敷地に家があるから、母に君の事を頼んでおくよ。どっちにしろ、着る服もまだ乾いていないし、女の子がいたほうが母も喜ぶ」
朝から色んな事が立て続けに起こり、体も心も疲れ切っていた私は、省吾先生の父と名乗る先生の厚意を受けとる事にした。ずぶ濡れになっただろう服やカバンは、もうその家に運ばれていて乾かしてもらっているそうだ。
点滴が終わってから、省吾先生に案内されて裏の家に向かう。たった20メートルほどしか移動していないのに、検査の服一枚の上に、彼がかけてくれたダブダブのダウンジャケットだけでは、寒くて凍えそうになった。
「天川さん、私はここから離れてしまうけれど、大丈夫? 一応、その男の人もお医者さんだから安心していいわ。え、っとね。男の人じゃなくて、女の人がいたほうがいいかしら?」
心配でたまらないといった表情で聞かれた。ひょっとして、私が男性に何かされたのかと思っているのかもしれない。
「あ、いえ。全然大丈夫です。あの、ありがとうございました」
「そう? 何かあったら呼んでね。すぐ隣の部屋にいるし、近くには看護師や人がいっぱいいるから」
慌てて否定しても、それが本当かどうか、心の中までも見透かされそうなほど見つめられた。彼女の気遣いと暖かい手が嬉しくて、不安で強張っていただろう顔の表情が和らいでいくのが自分でもわかった。ぽんぽん手を優しく叩かれたあと、吉田さんが立ち上がる。
「吉田さん、俺をなんだと思ってるんですか……」
「省吾先生ったら、そういう意味じゃなくって。こんな状況になるほどの事が起こったんですから、今はデリケートだっていう事ですよ。考えられる要因は全て排除してあげないと。じゃあ、仕事に戻りますから、この子の事お願いしましたよ?」
「あー……なるほど。……気を付けます」
優しそうで温かそうな微笑みで安心させてくれる吉田さんがいなくなるのは、少しどころかかなり心細いけれど、仕事の邪魔をしてはいけない。足早に隣の部屋の扉を開いて姿が消えた彼女のほうをじっと見ていると、視線を感じた。
「あと少し目を覚まさなければ救急車を呼ぶところだったんですよ。体温も上がったし血圧なども落ち着いていますが、一晩は様子を見たほうがいいです。家には家族かどなたかいますか?」
低い声は、びりびり響いてどことなく怖い感じがした。霙混じりの雨に長い間打たれるなんて正気の沙汰じゃない。私だって、そんな命を顧みない無謀な人を見たら呆れたり、場合によったらとても怒ると思う。彼が、敢えて説教せず、かといって不機嫌そうに見えるのは、きっとそんな考えだからだろう。
「あの、先生……。ご迷惑とご心配をおかけてすみませんでした。もう落ち着いたんで帰ります」
大きなソファから体を起こそうとした。けれど、柔らかいソファに体がめり込んでいるかのように動けない。体の機能がどうこうじゃなく、動こうとすればするほどソファに沈み込んでいった。
「ああ、ほら。身動きできないじゃないか。迎えの人を呼ぶからここで休んでて」
「いえ、ソファに埋もれただけで、その、体は動きます。あの、ひとり暮らしなので誰も来ませんからタクシーを呼んでいただければ」
「ひとり暮らしか……。誰か一緒にいてくれる人は?」
ぱっと頭に浮かんだのは、今朝まで恋人だと思っていた人だった。でも、彼にとっては恋人なんかじゃなかった。
胸がずきりと痛むけれど、今はそんな事を考えている場合じゃない。友達のしおんに話せば一緒にいてくれるだろう。だけど、あの子はバイトで大学の費用を稼いでいるから、バイトを休ませるわけにもいかない。
省吾先生の顔を見上げながら、首を横に振る。
すると、腕を組んだ彼が、点滴本体の残りと、ポタポタ雫が落ちる滴下筒を睨みつけて考えごとをして始めた。
「さっき色々訊ねてはみたんだが、近隣の病院は全て満床なんだ。人手がないのに、一晩外来で、来た患者だけでなく様子観察の患者を診ている病院もある。そこに、恐らくは入院するほどの症状ではない君を依頼するのも難しくて、だな。あー、どうするかなー」
私にどう伝えようか考えすぎて、おそらく無意識に敬語が抜けているのだろう。ぶつくさ独り言を言い続ける彼に、大丈夫だから帰るとも言いづらくて聞いていた。
どことなく、敬語を話す彼の姿がちぐはぐに思えたのは、普段の彼はこんな喋り方だからなのだろう。そういえば、ぼんやり聞いていた声も、こんな感じだったなと思った。
吉田さんが消えたドアから、彼に似た男性が出て来た。私の様子を伺いながら、省吾先生に先ほどの事を聞くと、にっこり笑ってこう言った。
「なんだ、そんな事か。うちに泊るといい。ひとりで一晩過ごすよりも、その方が安心だ。君だけでなく、我々もね」
「え? でも、そんな。悪いです!」
「このクリニックは入院するベッドがないけど、医者はたくさんいるからね。裏の敷地に家があるから、母に君の事を頼んでおくよ。どっちにしろ、着る服もまだ乾いていないし、女の子がいたほうが母も喜ぶ」
朝から色んな事が立て続けに起こり、体も心も疲れ切っていた私は、省吾先生の父と名乗る先生の厚意を受けとる事にした。ずぶ濡れになっただろう服やカバンは、もうその家に運ばれていて乾かしてもらっているそうだ。
点滴が終わってから、省吾先生に案内されて裏の家に向かう。たった20メートルほどしか移動していないのに、検査の服一枚の上に、彼がかけてくれたダブダブのダウンジャケットだけでは、寒くて凍えそうになった。
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