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あんなにも願っていたのに、今一番会いたくなかった人がアパートの前にいた。省吾先生たちのおかげで温められた心がたちまち凍り付く。
だけど、とても寒い中、一晩中私を心配していてくれたのかと思うと、ぽっと小さなひかりが灯ったような、もぞもぞした感覚になった。昨日あれほど傷ついた言葉を友達と面白おかしく話をしていたのは夢だったのかもしれないとも思える。
私の俯いた瞼からは、静かにぽたぽた涙が落ちる。これは、昨日の事を思い出した悲しさからなのか、今からの事を考えた不安と恐怖からなのか、それともこの期に及んでまでも、3か月もの優しさで包んでいてくれた彼が変わらずに優しい人だったからという悦びから来るものなのかわからない。
「彩音、まだどこか辛いのか? 今すぐ部屋に入って横になろう。ほら、彩音の好きなゼリーやスポドリとか買って来たよ。俺が来たからもう大丈夫」
二度と関わりたくないと思っていた。なのに、そんな気持ちは、彼を前にすると、白熱球の上に落ちた泡雪のようにあっという間に溶けていく。
(しっかりして。彼は恋人なんかじゃない、私の事をセフレだって言ってたじゃない)
そう自分に言い聞かせても、昨日まで大好きだった彼の事をすぐに切り替えられるわけでもなく。肩を掴んで私の事だけを心配して覗き込んでくる彼に縋り付いて抱きしめて欲しいと思うなんてつくづくどうしようもない。
今まで涙を止めるのはどうしていたのか。そもそも、涙なんて流した事なんてほとんどない。いつから私はこんなにも泣き虫になったのだろう。
「彩音? そんなに泣いて……。一体どうした? 何があったんだ?」
いつまでも突っ立って泣いている私に、何度も名前を呼呼んでくれる彼をそっと見上げた。
彼に応えようと口を開くけれど、気持ちがうまく言葉にならない。彼に会ったらどうしても聞きたい事がたくさんあったはずなのに、そのどれもがとるに足らない些細な事に思えてきた。
このまま、昨日の事を無かった事にして彼に抱きしめて貰えば、これからも私は幸せになれる、そんな気がした。
(私さえ、昨日の彼の放った言葉を飲み込んでいれば、そうすれば誰も傷つかずにすむ……。聞けば彼は気分が悪くなるだろうし。そうよ、こんなにも優しい人があんな酷い事を考えているはずがない。単なる悪ふざけで、つい言ってしまった事なのかもしれない。だから、彼の本心を聞けば、きっと謝ってくれるし、二度とあんな風に言わないって約束してくれるに決まってる)
「たすく、さん……。私、資さんの恋人、だよね?」
「は? 何当たり前の事を言ってるんだ? 誰か、俺を知っている奴に何か言われたのか?」
いつものように優しい彼は、本気で心配してくれているように見える。そう思うと、胸がいっぱいになって気持ちが言葉よりも溢れ出てきて涙を拭きもせずに横に首を振った。
指でそっと涙を拭いてくれる、やっぱり、こんな風に私の事を大切にしてくれるのは彼しかいないと思った。
「……セフレ、とかじゃないんだよ、ね?」
「え、……は? ……いや、なんでそんな事を聞くんだ? 彩音は大事な恋人に決まっているだろ?」
彼が恋人であって、絶対にセフレなんかじゃないって真っ直ぐに私を見つめて否定してくれると思った。だからこそ聞けた言葉に、彼は視線を右上にさせて狼狽え始める。
「くそ、どこのどいつだ。彩音に余計な事を言ったのは……。この間の、しつこかったあいつか?」
恐らくは無意識に出てしまったのだろうその呟きは、近くを走る電車のガタンゴトンという五月蝿い音よりも鮮明に耳に飛び込んできた。何よりも、舌打ちをして顔をゆがめている彼の表情は、私への申し訳なさといった後悔の色ではなく、嘘がバレて困りどうやって誤魔化そうかと考えている子供のように見えた。
裏切られて、信じようとした矢先の彼の言葉に、昨日傷ついていた心がたちまち悲鳴をあげる。キリキリとした痛みが私を襲い、胸が苦しくなった。
「誰にも、誰にも何も言われてないよ……。昨日……、朝に、ね。資さんたちが話しているのを偶然聞いたの」
ざりざりと、ささくれ立った歪な心を、自分自身の発した言葉が更に削り取る。胸の内から、もうやめてくれと叫んでいる声がするのに、自分を傷つける言葉は止まることなく、粉々に砕けたかと思っていた心を踏みつぶした。
「あ! あの時の……あれは、あれは違うんだ!」
資さんが、私に何を言われたのかわけがわからないと呆けた次の瞬間、驚愕して目を見開き顔を歪ませた。焦りからか耳が真っ赤になって、しどろもどろに私の肩を掴んだまま言い募ってくる。
「あ、あれは、あいつらのノリに合わせて言っただけで。冗談、そう冗談だったんだ! ただのノリだぜ? ああ、だからスネてんのか? はぁ、田舎育ちだからって、あんなの真に受けずにそれくらい察しろよ。そういうところが可愛いんだけどさ。彩音がセフレなわけないだろ?」
今目の前にいるのは、いつだってスマートで優しくて素敵だと思っていた、彼の面影が何一つなかった。今の彼からは、どれほど違うと否定されても全てが嘘に聞こえて仕方がない。
「……ノリや冗談でも、言ってはいけない言葉はあると思うし、聞かれてなければ何を言ってもいいとか、私には考えられない……。ましてや、あんな人通りの多い交差点で大きな会話をしているなんて、信じられなかった」
「は? だから、あれは……。なぁ、いい加減機嫌直せよ。ほら、体調が悪くて疲れてるんだよ。もう一日休めば……」
「私はっ!」
更に言い訳を重ねる彼が滑稽に見えた。それ以上何も聞きたくないと思い言葉を遮る。突然大声を出した私に、資さんがびくっと体を震わせた。
「わ、私は、嬉しくて。資さんの恋人になれて、幸せで。とても幸せだった。なのに、あなたは、友達に私をセ……、セ、セフレって紹介するんだね……」
「あ、彩音? なぁ、ほんの冗談だろ? 機嫌直せよ。な? 二度と言わないから。な?」
彼が肩に置いた手を移動させ、私の濡れた頬を撫でる。一昨日までは、彼に触れられるとじんわりとした温もりにうっとりしていた。なのに、今はぞっとして気持ちが悪い。顔を背けようとする間もなく、キスをしようと顔を近づけてきた。
「いやっ!」
ドンっと胸を押してしまい、私がそんな事をするとは思っていなかっただろう彼が目を丸くして止まる。自分でも考えられない、完全に拒否した行動にお互いに見つめ合っていると、資さんの表情がみるみる激高していったのであった。
だけど、とても寒い中、一晩中私を心配していてくれたのかと思うと、ぽっと小さなひかりが灯ったような、もぞもぞした感覚になった。昨日あれほど傷ついた言葉を友達と面白おかしく話をしていたのは夢だったのかもしれないとも思える。
私の俯いた瞼からは、静かにぽたぽた涙が落ちる。これは、昨日の事を思い出した悲しさからなのか、今からの事を考えた不安と恐怖からなのか、それともこの期に及んでまでも、3か月もの優しさで包んでいてくれた彼が変わらずに優しい人だったからという悦びから来るものなのかわからない。
「彩音、まだどこか辛いのか? 今すぐ部屋に入って横になろう。ほら、彩音の好きなゼリーやスポドリとか買って来たよ。俺が来たからもう大丈夫」
二度と関わりたくないと思っていた。なのに、そんな気持ちは、彼を前にすると、白熱球の上に落ちた泡雪のようにあっという間に溶けていく。
(しっかりして。彼は恋人なんかじゃない、私の事をセフレだって言ってたじゃない)
そう自分に言い聞かせても、昨日まで大好きだった彼の事をすぐに切り替えられるわけでもなく。肩を掴んで私の事だけを心配して覗き込んでくる彼に縋り付いて抱きしめて欲しいと思うなんてつくづくどうしようもない。
今まで涙を止めるのはどうしていたのか。そもそも、涙なんて流した事なんてほとんどない。いつから私はこんなにも泣き虫になったのだろう。
「彩音? そんなに泣いて……。一体どうした? 何があったんだ?」
いつまでも突っ立って泣いている私に、何度も名前を呼呼んでくれる彼をそっと見上げた。
彼に応えようと口を開くけれど、気持ちがうまく言葉にならない。彼に会ったらどうしても聞きたい事がたくさんあったはずなのに、そのどれもがとるに足らない些細な事に思えてきた。
このまま、昨日の事を無かった事にして彼に抱きしめて貰えば、これからも私は幸せになれる、そんな気がした。
(私さえ、昨日の彼の放った言葉を飲み込んでいれば、そうすれば誰も傷つかずにすむ……。聞けば彼は気分が悪くなるだろうし。そうよ、こんなにも優しい人があんな酷い事を考えているはずがない。単なる悪ふざけで、つい言ってしまった事なのかもしれない。だから、彼の本心を聞けば、きっと謝ってくれるし、二度とあんな風に言わないって約束してくれるに決まってる)
「たすく、さん……。私、資さんの恋人、だよね?」
「は? 何当たり前の事を言ってるんだ? 誰か、俺を知っている奴に何か言われたのか?」
いつものように優しい彼は、本気で心配してくれているように見える。そう思うと、胸がいっぱいになって気持ちが言葉よりも溢れ出てきて涙を拭きもせずに横に首を振った。
指でそっと涙を拭いてくれる、やっぱり、こんな風に私の事を大切にしてくれるのは彼しかいないと思った。
「……セフレ、とかじゃないんだよ、ね?」
「え、……は? ……いや、なんでそんな事を聞くんだ? 彩音は大事な恋人に決まっているだろ?」
彼が恋人であって、絶対にセフレなんかじゃないって真っ直ぐに私を見つめて否定してくれると思った。だからこそ聞けた言葉に、彼は視線を右上にさせて狼狽え始める。
「くそ、どこのどいつだ。彩音に余計な事を言ったのは……。この間の、しつこかったあいつか?」
恐らくは無意識に出てしまったのだろうその呟きは、近くを走る電車のガタンゴトンという五月蝿い音よりも鮮明に耳に飛び込んできた。何よりも、舌打ちをして顔をゆがめている彼の表情は、私への申し訳なさといった後悔の色ではなく、嘘がバレて困りどうやって誤魔化そうかと考えている子供のように見えた。
裏切られて、信じようとした矢先の彼の言葉に、昨日傷ついていた心がたちまち悲鳴をあげる。キリキリとした痛みが私を襲い、胸が苦しくなった。
「誰にも、誰にも何も言われてないよ……。昨日……、朝に、ね。資さんたちが話しているのを偶然聞いたの」
ざりざりと、ささくれ立った歪な心を、自分自身の発した言葉が更に削り取る。胸の内から、もうやめてくれと叫んでいる声がするのに、自分を傷つける言葉は止まることなく、粉々に砕けたかと思っていた心を踏みつぶした。
「あ! あの時の……あれは、あれは違うんだ!」
資さんが、私に何を言われたのかわけがわからないと呆けた次の瞬間、驚愕して目を見開き顔を歪ませた。焦りからか耳が真っ赤になって、しどろもどろに私の肩を掴んだまま言い募ってくる。
「あ、あれは、あいつらのノリに合わせて言っただけで。冗談、そう冗談だったんだ! ただのノリだぜ? ああ、だからスネてんのか? はぁ、田舎育ちだからって、あんなの真に受けずにそれくらい察しろよ。そういうところが可愛いんだけどさ。彩音がセフレなわけないだろ?」
今目の前にいるのは、いつだってスマートで優しくて素敵だと思っていた、彼の面影が何一つなかった。今の彼からは、どれほど違うと否定されても全てが嘘に聞こえて仕方がない。
「……ノリや冗談でも、言ってはいけない言葉はあると思うし、聞かれてなければ何を言ってもいいとか、私には考えられない……。ましてや、あんな人通りの多い交差点で大きな会話をしているなんて、信じられなかった」
「は? だから、あれは……。なぁ、いい加減機嫌直せよ。ほら、体調が悪くて疲れてるんだよ。もう一日休めば……」
「私はっ!」
更に言い訳を重ねる彼が滑稽に見えた。それ以上何も聞きたくないと思い言葉を遮る。突然大声を出した私に、資さんがびくっと体を震わせた。
「わ、私は、嬉しくて。資さんの恋人になれて、幸せで。とても幸せだった。なのに、あなたは、友達に私をセ……、セ、セフレって紹介するんだね……」
「あ、彩音? なぁ、ほんの冗談だろ? 機嫌直せよ。な? 二度と言わないから。な?」
彼が肩に置いた手を移動させ、私の濡れた頬を撫でる。一昨日までは、彼に触れられるとじんわりとした温もりにうっとりしていた。なのに、今はぞっとして気持ちが悪い。顔を背けようとする間もなく、キスをしようと顔を近づけてきた。
「いやっ!」
ドンっと胸を押してしまい、私がそんな事をするとは思っていなかっただろう彼が目を丸くして止まる。自分でも考えられない、完全に拒否した行動にお互いに見つめ合っていると、資さんの表情がみるみる激高していったのであった。
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